防空ポスター献納

1938年09月

全日本商業美術聯盟では、防空に関するポスター原画百四点を製作し、九月八日東部防衛司令部に献納した。同司令部では之を利用して同十二日からの防空演習期間中市と聯盟の共同主催で、日本橋白木屋で展覧会を開いた。

代用品発明懸賞募集

1938年09月

大阪朝日新聞社では商工省及府市後援の下に代用品奨励の為その発明考案の懸賞募集を発表、十一月展覧会を開くこととした。服装用品、事務用品及運動具、家庭用品、容器及包装用品、飲食用品、機械工具及部分品、建築材料、再生回収及廃物利用、代用資源の九部に分ち、各部夫々一等千円の賞金を提供、別に最優秀作品に野村奨学会奨励金五千円を贈る。

文展第二部審査員

1938年09月

文展第二部審査員のみ決定が遅れてゐたが、旅行中の石井柏亭が九月五日帰京、安井曽太郎と共に辞退したので、その他の人選を決定同七日発表した。尚第三部では平櫛田中が辞退したので、同部のみは十四名で審査に当ることになつた。

建築部分品代用品協議

1938年09月

金属の建築資材部分品はすべて代用品におかるべきであるといふ趣旨から、商工省が肝煎りで九月二日鉄道協会に関係官庁、建築関係諸団体の代用品製造業者の各代表等を集めて第一回建築資材部分品金属代用品協議会を開催、その普及徹底を図ることとなつた。

東亜研究所設立

1938年09月

東亜新建設の国策遂行に当り、その基礎的調査機関として東亜文化の一大綜合研究所設置の必要が認められ、企画院に於て外務、陸、海軍、大蔵当局等各方面と連絡して具体案作製中であつたが、愈々成案を得、官民協力の財団法人組織として東亜文化研究所を設置することとなり、九月一日首相官邸に於て開所式があげられた。

東亜文化協議会創立

1938年08月

我が政府と中華民国臨時政府との協力により、日支文化の聯絡機関として東亜文化協議会が設立され、我が国からは学界の権威三十名を代表として派遣、支那側では行政委員長王克敏、教育部総長湯爾和、議政委員会委員長周作人を初め北京大学教授等が代表として出席し、八日三十日北京懐仁堂で盛大な発会式があげられた。引続き九月二日迄人文科学、自然科学の両部門にわけて会議を開き事業の方策に関する協議が行はれた。

一水会文展不参加

1938年08月

一水会会員は依然文展に参加せぬことになり八月二十九日左の声明書を発した。 「去二十八日都下諸新聞に一水会も文展に合流するが如き発表有之候へ共事実は本月初旬文部省より其の交渉を受けたるに付慎重協議の結果本会は依然中立持続に態度一決、之を去る十五日共の筋へ通達を了せり、従つて今回の記事は一般並に出品者諸君に多大の御迷惑を相掛け候次第に付右誤解なき様御含み被下度候 八月二十九日 一水会」

彫塑家銅使用陳情

1938年08月

銅の使用制限に関し、滝野川彫塑研究所小倉右一郎が発起人となつて八月二十七日丸の内マーブルに朝倉塾、構造社、院展彫塑部等十三団体代表が参集、銅の使用許可について協議を行つた結果、商工省、府工務課等に陳情することとなつた。

文展開催要項発表

1938年08月

文部省では今秋開催の文展に関し、出品点数寸法等を改めた要項を七月三十日官報で発表した。

文展審査員内定

1938年08月

文部省では今秋の文展審査員を銓衡中の所八月二十七日第二部を除く人選の内定を了し発表した。

金使用規則改正

1938年08月

金の消費を制限する為大蔵省では昨年十二月金使用規則を制定したが、その制限を一層強化する必要から、八月二十日省令を以て同規則を改正し即日之を施行した。改正の結果は従来九金以下のもの、金鍍金のものは制限されず、又金箔、金粉、金糸等は一定の用途に限り使用が禁示され、織物、漆器等には刷限が及ばなかつたものを、すべて制限の範囲に含め、医療用として必要やむを得ざるもの又は大蔵大臣の許可を得たるもの以外は、一切金の使用を禁じた。

銅使用制限規則改正

1938年08月

商工省では銅の制限を一層強化する為四月制定した銅使用制限規則を八月一日省令を以て改正同十五日から施行することとなり、同時に製造禁止品目二百五十七を指定告示した。此等の中には置物、花器等一般工芸品から銅像まで含まれてゐるが、規則中に除外例を設けて左の各号の一に該当する場合は制限を適用せぬこととした。 一 法令ニ依リ製造ヲ要スルモノノ製造ニ使用スルトキ 二 学術研究、試験又ハ標本ノ用ニ供スルモノノ製造ニ使用スルトキ 三 美術展覧会ノ出品物ノ製造ニ使用スルトキ 四 鍍金用又ハ箔、紙、糸、粉若ハ液トシテ使用スルトキ

従軍画家招待

1938年07月

陸軍省新聞班では七月二十五日夕大日本陸軍従軍画家協会員一同を平河町宝亭に招待し、陸軍の感謝を伝へ更に彩管の協力を求むる会を開いた。出席者は新聞班長佐藤大佐、恤兵部浅野中佐、藤島武二石井柏亭川端竜子その他画家三十余名。

パテイアラ派遣両技師帰朝

1938年07月

印度パテイアラ王国に日本風庭園及宮殿造営の為本年一月派遣された谷一東及西川浩の両名は、滞在中マハラジヤーの訃に際会その遺志をついだ新王の註文によつて二万七千坪の庭園に四百坪の建物と六千坪の庭園に三百坪の建物との二つの設計を完了したが、新王の服喪の為一先づ帰朝することとなり七月二十四日帰京した。

四天王寺釣鐘献納

1938年07月

大阪四天王寺では鳴らぬ釣鐘として有名な巨鐘「聖徳太子頌徳鐘」を国家に献納することを決議し、七月二十二日府社寺兵事課に報告した。同鐘は明治三十六年発願、多数の喜捨を蒐めて鋳造されたもので、重量四万二千貫、地金の時価約百万円と見積られてゐる。

傷痍軍人慰問絵画寄贈

1938年07月

全国の陸海軍病院等にある皇軍将兵慰問の為、文部省の斡旋で全画壇より作品の寄贈を募る計画が成立し、陸海軍、厚生省その他と聯絡、五月十九日文相官舎に在京各美術団体代表者を招いて懇談会が開かれた。関西方面では文部省山川専門学務局長、本田学芸課長、軍、市当局者等及び京都画壇代表作家等が同三十一日参集協議を重ねた。その結果各美術団体が参加して文部省内に傷痍軍人慰問美術家聯盟を設け汎く作家に呼びかけて寄贈勧誘の実行運動を行つた所、美術界の熱心な賛同が集まり予想外の好成績を得て、七月二十二日締切つた結果総数日本画一八四七点洋画一六七〇点が集められたので、東京府美術館に陳列、関係者内覧の上陸海軍の手によつて夫々各病院に分配されることになつた。

文展開催決定

1938年07月

今秋の文展は時局に鑑みて中止すべしとの意見も行はれたが七月十九日顧問会議の結果、開催の可否は文相に一任することとなり、荒木文相は開催を決定、文部省では本年度文展要綱を同二十日発表した。

オリンピツク東京大会中止

1938年07月

昭和十五年開催の予定で準備を進めてゐたオリンピツク東京大会は、万国博覧会の延期と共に中止することとなり、七月十五日閣議の決定に基き、組織委員会では同大会返上の手続をとつた。

日本万国博覧会延期

1938年07月

紀元二千六百年記念日本万国博覧会は、昭和十五年開催の予定で着々準備中であつたが、時局の為遂に事変終了後に延期することとなり、七月十五日の閣議で正式に決定した。

鉛、亜鉛、錫等使用制限

1938年07月

商工省では輸出入品臨時措置法に基き、鉛、亜鉛、錫等使用制限規則を制定、七月九日省令として公布、七月十五日より施行することとなつた。同規則によれば鉛、亜鉛、錫、アンチモン若はニツケル又は之等の合金は、輸出品を除き、又地方長官の許可を受けた場合の外は、飲食用器具、厨房用器具、家具什器、建築用附属金具、美術装飾品、喫煙用器具、化粧又ハ身廻用品、装身具又ハ被服附属金具、文房具 玩具等の製造に使用することを禁ずるものである。

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