日独文化協定公布

1938年11月

日独両国間の文化的協力に関する協定が十一月二十五日東京で調印され同二十六日附官報を以て公布された。協定は左の四条よりなる。 第一条 締約国ハ其ノ文化関係ヲ堅実ナル基礎ノ上ニ樹立スル為努力スベク相互ニ右ニ付最モ緊密ナル協力ヲ為スベシ 第二条 締約国ハ前条ノ目的ヲ達成スル為学術、美術、音楽、文学、映画、無線放送、青少年運動、運動競技等ノ方面ニ於テ両国ノ文化関係ヲ組織的ニ増進スベシ 第三条 前条ノ規定ノ実施ニ必要ナル細目ハ締約国ノ権限アル官憲間ニ於テ協議決定セラルベシ 第四条 本協定ハ署名ノ日ヨリ之ヲ実施スベク締約国ノ一方ハ十二月前ノ予告ヲ以テ本協定ヲ廃棄スルコトヲ得  尚調印と同時に発表された外務省声明によれば、本協定に即応し両国の権限ある官憲に於てとりあへず協議方考慮せらるべき事項は左の通りである。  一、日独文化聯絡協議会設置、二、文化施設の維持、拡充、三、学校教員の任命、四、政府派遣留学生に対する便宜供与、五、教授学生交換、六、青少年団による交驩、七、独逸における日本の学校及日本に於ける独逸の学校に対する好意的措置、八、図書雑誌交換l、九、芸術文化交換、一〇、映画交換、一一、交換放送、一二、運動競技等による交驩

「南京入城式の図」献納

1938年11月

京都十三日倶楽部及び世界経済研究会により花岡万舟筆油絵「南京入城式の図」が十一月十六日第十六師団に献納された。

日洪文化協定と日本文化賞

1938年11月

十一月十五日ハンガリアと我が国との間に日洪文化協定の仮調印が行はれたが、之を機会として多年両国文化親善に貢献して来た日洪文化協会長三井高陽男の肝煎りで同協会の名によつて日本文化賞を制定、ハンガリア人の手になる日本研究の優れたものに対して贈ることとなつた。

新「晨鳥社」結成

1938年11月

西村五雲門下の晨鳥社は五雲急逝の為同画塾解散のやむなきに至つたが、同人協議の結果その精神を体して新に晨鳥社を興し、山口華楊、前田萩邨及び西村卓三の三名を総務とし常務員その他の役員を選任して画壇に活動することになり、十一月九日挨拶状を発した。

第三部会員脱退

1938年11月

同会員開発芳光は十月脱会したが、上田直次は十一月二日同じく脱退、関係方面に声明書を発した。

ニユーヨークの新画廊に日本画出陳

1938年10月

ニユーヨークのインターナシヨナル・ビジネス・コーポレーシヨン社長ワツトソンは同社内に画廊を新設し各国の特色ある絵画を陳列することとなり、日本画家の作品出陳を希望して来たので、国際文化振興会では池上秀畝八木岡春山に製作を依嘱製作中であつたが、秀畝は彩色画「黎明」、春山は水墨画「暮靄」を完成し、十月二十五日発送される運びとなつた。

石井柏亭帰朝

1938年10月

海軍省嘱託として、約一ヶ月上海にあつた石井柏亭は十月二十二日長崎入港帰朝した。海軍館を飾る壁画として「支那方面艦隊」並に「海軍陸戦隊の奮戦」の二作に従事下図を完成した。いづれも百号位のもので完成は来年になる予定。

台湾美術展改組

1938年10月

台湾美術展は昭和二年以来台湾教育会の主催として開催して来たが、総督府では新に之を官設展として経営することになり、台湾総督府美術審査委員会規程及び同展覧会規程を設け、その第一回展を十月二十二日から十月三日まで開催した。

工芸美術批評家協会結成

1938年10月

大山広光、大島隆一及び柴崎風岬の三名は「厳正なる工芸美術批評確立のため」十月十九日工芸美術批評家協会を結成した。

傷痍軍人感謝絵はがき

1938年10月

傷兵保護院では石川寅治吉村忠夫及び広川松五郎の三名に委嘱して傷痍軍人感謝絵はがき三種を作製し、先般同院が全国小学生から募集した傷痍軍人感謝標語当選者並に各道府県市町村及び及教化団体へ十月十八日配布した。

図案関係技術官会議

1938年10月

商工省主催第三回図案関係技術官会議は、十月十二日より四日間丸の内帝国鉄道協会で開催、本省その他の関係官十余名、全国技術官百余名出席、新興代用品の工芸的利用と戦時下の工芸品輸出振興方策を中心として協議を重ねた。

文展審査員招待会

1938年10月

文部大臣の文展審査員招待会は十月七日午後六時から上野精養軒で開催、荒木文相初め内ヶ崎、伊東両次官以下関係官、細川侯爵等美術顧問及各部審査員等出席、文相は文展開催に関する抱負を述べ、藤島審査員の挨拶があつた。

能の海外紹介

1938年10月

「能を中心としたる日本文化史」を講ずる為、外務省文化事業部の斡旋で野上豊一郎が渡英することとなり、能面十五面、装束十枚を持参、十月二日靖国丸で神戸を出発した。面及び装束は金剛家及び細川侯爵家等の蔵品中から選ばれたものである。

銅像建設一部許可

1938年09月

銅使用制限令の為銅像は建設中のものも製作困難に陥つてゐたが、九月三十日東京府ではこの制限を緩和し、建設中のものの中余儀なしと認むるものを認可した。

ヒトラーユーゲント招待

1938年09月

来朝して各方面見学中のヒトラー・ユーゲント一行を招待して朝日新聞社主催の午餐会が九月二十七日上野精養軒で行はれ、同社幹部の外日本美術院から横山大観堅山南風斎藤隆三等出席、大観は「日本画の真髄」と題する講演をなし、南風は揮毫によつて日本画の実技を紹介した。

日支合同油絵展覧会

1938年09月

北支方面に従軍した石井柏亭等の主唱で、主として従軍の洋画家等と支那の洋画家とが合同し日支双方五十点宛の作品を出品、九月十九日から二十五日迄北京中央公園で、第一回中日美術家合同油絵展覧会が開かれた。

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