栗原信

没年月日:1966/07/04
分野:, (洋)

二紀会委員の洋画家栗原信(本名信賢)は、7月4日午後9時56分、東京都中野区の小原病院で脳血栓のため死亡した。享年72才。栗原信は、戦前二科会会員となり、戦争中は陸軍報道班員として従軍、戦後は二紀会創立に参画し、また新潟大学教授として後進を指導、日本美術家連盟理事としても活躍した。著書に「六人の報道小隊」(昭和18年)がある。
年譜
明治27年(1894) 3月24日、茨城県東茨城郡に生れる。
大正元年 茨城師範学校を卒業。
大正5年 二科展に「木」初入選。
大正6年 二科展に「竹藪」「夕暮」入選。
大正7年 東京・本郷区・小学校の図画専科訓導となる。二科展に落選し、小説家を志して井伏鱒二、和田伝らと同人雑誌「世紀」を発刊。
昭和元年 再び画業に入り、二科展に「伊豆の山」「夏の庭」入選。
昭和2年 太平洋画会展に「曇り日」「夏」を出品、二科展に「佐渡の浦路」「小木浜の岩」入選。
昭和3年 5月、小学校訓導を辞し、フランスへ留学、アカデミー・グランショミェールに籍をおく。
昭和6年 6月帰国、二科展に「トレド遠望」「冬のノートルダム寺院」など10点を特別出品し、昭和洋画奨励賞を受賞。
昭和7年 二科展に「春日野の新緑」他2点を出品、会友に推される。
昭和8年 二科展に「四月の妙高山」他1点出品、台湾に旅行。
昭和9年 満州に旅行。このあと、昭和20年敗戦にいたるまでに20回におよぶ満州・中国に取材旅行を行なう。
昭和10年 二科展に「夏の喇嘛塔」他2点を出品。
昭和11年 二科展に「居庸関」他2点を出品、会員に推挙される。
昭和12年 二科展「北平」「妙高の春」出品。
昭和13年 中支・徐州戦に従軍、二科展に「小休止15分(徐州西方追撃戦)」を出品。
昭和14年 陸軍美術協会に参加、二科展に「大陸(黄色い瓦)」「大陸(城外)」を出品。
昭和15年 二科展に「蒙古の旅」他2点を出品。
昭和16年 二科展に「酪農部落(北満)」他1点を出品、陸軍報道班員としてマレー半島作戦に従軍。
昭和17年 二科展に「マレー娘」他11点を出品。
昭和18年 二科展に「永豊鎮」を出品。ビルマ作戦に従軍。
昭和19年 南支・長沙作戦に従軍。二科会解散。
昭和20年 満州・新京において敗戦をむかえる。
昭和22年 5月旧二科会会員の正宗得三郎宮本三郎らと第二紀会を創設、9月第1回展を都美術館において開催し、「夏」「野ばら」を出品。
第23年 二紀展に「平野早春」他2点出品。
昭和24年 二紀展に「白馬高原」他1点出品。
昭和25年 二紀展に「河原の部落」「原始林」を出品。新潟大学芸能学科洋画科教授に就任。
昭和26年 二紀展に「雪の日の白樺林」「都会の午後」を出品。
昭和27年 二紀展「釣船」他2点出品。
昭和28年 二紀展「山の晩秋」他2点出品。
昭和29年 二紀展「常盤橋風景」他2点出品。
昭和30年 二紀展「北越海岸」「秋(東大構内)」。
昭和31年 二紀展「山上湖」「大阪」。
昭和32年 二紀展「山門」出品。サンパウロ・ビエンナーレ展に日本委員として参加。
昭和33年 中南米諸国を写生旅行する。
昭和34年 二紀展に「コーヒー園(ブラジル)」他2点を出品。
昭和36~37年 ヨーロッパに写生旅行。
昭和38年 二紀展に「ラパンアジール酒場」他2点を出品。
昭和39年 ヨーロッパ、中近東に写生旅行。二紀展に「ソレント」「マロニエ林」出品。
昭和40年 インド旅行。二紀展に「箱根」他1点出品。12月ギリシャ、アフリカ、東ヨーロッパ旅行。
昭和41年 5月帰国。6月24日より新宿・ギャラリー・アルカンシェルで水彩画による個展を開催、同月29日個展会場において脳血栓のためたおれる。7月4日死去。6日、二紀会葬として東京中野の宝仙寺で葬儀が営まれた。

出 典:『日本美術年鑑』昭和42年版(145-146頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「栗原信」『日本美術年鑑』昭和42年版(145-146頁)
例)「栗原信 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9176.html(閲覧日 2024-03-28)

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