吉田博
洋風画壇の長老であり、太平洋画会々長吉田博は4月5日新宿区の自宅で老衰のため逝去した。享年73。明治9年福岡県久留米市に生れ、福岡の修献館に学び、洋風画家吉田嘉三郎の養子となつた。同26年京都に出でて田村宗立に師事し、翌27年東京に移り、不同舎に入つて小山正太郎の指導を受けた。明治美術会に入り、同31年の同会10周年記念展に「雪叡深秋」「雲」などを発表して漸くその名を知られた。同32年自作の水彩画を携行し、中川八郎と共にアメリカに赴いて展覧会を開き、次で、英、仏、独、伊等を巡歴、同34年帰国した。同33年のパリ万国博に「高山流水」を出品、褒状を受けた。帰国の年、同志と共に太平洋画会を創立し、その逝去に至るまで同会の為につくした。同35年同会第1回展に「榛名湖」等油絵13点、同36年の第2回展に「昨夜の雨」等21点を出品した。この年再び欧米旅行に出発、米国、欧洲諸国及びモロツコ、エジプトを巡歴し、同39年帰国した。この間、同37年米国聖路易万国博に「昨夜の雨」を出品して銅牌を受け、太平洋画会に滞欧作を送つた。同40年東京府勧業博に「ニユーヨークの夕暮」を出品して2等賞を受けた。この年の第1回文展に「ピラミツドの月夜」「新月」(水彩)を出品、後者に2等賞が授けられた。その後の第2回文展に発表した「雨後の夕」(水彩)、第3回文展の「千古の雪」にそれぞれ2等賞が与えられた。同43年文展審査員となり、大正2年に及んだ。その後は、無鑑査として毎年文展に出品した。大正8年帝国美術院創立後もその展覧会に作品を発表、「雨後」(第1回)「マウント・シヤスター」(第5回)「精進湖」(第7回)「白馬鎗」(第9回)等があり大正13年以来数回にわたり帝展委員或は審査員となつた。此の間三度欧洲に遊んだ。その後も官展及び太平洋画会展に作品を送り、晩年太平洋画会々長となつた。彼は風景画家として知られたが、木版による多くの作品をも遺した。
出 典:『日本美術年鑑』昭和22~26年版(142-143頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「吉田博」『日本美術年鑑』昭和22~26年版(142-143頁)
例)「吉田博 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8879.html(閲覧日 2025-04-26)
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- 1939年02月 版画を米国へ
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- 1926(大正15) 増補古今書画名家一覧_807116
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