藤田嗣治(レオナール・フジタ)

没年月日:1968/01/29
分野:, (洋)

元二科会会員、芸術院会員であった藤田嗣治は、1月29日午後1時14分、スイス・チューリッヒのカンスピタル州立病院で前立腺腫ようのために死去した。享年81歳。臨終には、君代夫人、海老原喜之助田淵安一、元パリ市会議員ジョルジュ・ブラジェが附きそっていた。藤田嗣治は、明治19年(1886)に東京に生まれ、東京美術学校卒業後、大正2年に渡仏し、第1次大戦下にはパリにとどまって辛苦の生活を送り、モジリアーニ、スーチンらと親しく交友し、大正8年(1919)ころから「すばらしい白地」(grand fond blanc)と賞讃された独自の乳白色の下地に、繊細な描線で描いた作風を展開させて国際的な評価を獲得した。その後、エコール・ド・パリの著名なひとりとして国際画壇のなかで活躍し、大正13年には第5回展帝展に作品を送り、昭和4年に17年振りに帰国して個展を開催した。その後、南米・中米旅行などをへて、昭和15年(1940)第2次大戦下のパリを脱出して帰国し、戦争中は、戦争記録画の第一人者として活躍した。戦後に至って、日本画壇のなかでの中傷など煩瑣さをいとって昭和24年(1949)日本を離れてアメリカ経由でフランスにわたり、昭和30年(1955)フランス国籍を取得し、同34年(1959)には、ランス大聖堂でカトリックの洗礼を受けた。昭和41年(1966)、ランスにノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の設計から装飾までを完成させ、同年12月入院・手術し、一度退院、再度入院して切開手術を行なった。藤田の作品は、大正15年(1926)ルクサンブール美術館に収蔵されて以来、ルーヴル美術館、ニューヨーク近代美術館、パリ国立近代美術館など各国の美術館に所蔵されている。
年譜
明治19年・1886
11月27日、東京市牛込区に生まれる。父嗣章は千葉県安房郡の出身で、当時陸軍一等軍医。嗣治は次男で、四人姉弟の末子。嗣章は領有後間もない台湾、朝鮮の衛生行政に尽力し、大正元年、陸軍軍医総監に栄進した。
明治24年・1891(5歳)
8月、父の任地熊本で母まさを失う。幼い嗣治は長姉きくの許にあずけれらて養育される。きくの夫蘆原信之は嗣章の副官。
明治26年・1893(7)
4月、東京高等師範学校附属小学校に入学。
明治33年・1900(14)
4月、東京高等師範学校附属中学校に入学。
明治38年・1905(19)
3月、東京高等師範学校附属中学校を卒業。
4月、東京美術学校予備科に入学。
9月、東京美術学校西洋画科に入学。
明治40年・1907(21)
7月、精勤賞を受ける。
明治43年・1910(24)
3月、東京美術学校西洋画科本科を卒業。卒業制作は「自画像」「女」「網すき」。5月、白馬会第13回絵画展覧会に「山より」「女」が入選。美術学校卒業後、和田英作教授の助手として、帝国劇場の壁画や背景の制作を手伝う。このころから3年続けて当時の文展に出品したが、3回とも落選。
明治44年・1911(25)
3月、東京勧業展覧会に「青梅」「山家」「上野原」「駅」を出品。
明治45年・1912(26)
3月、第2回東京勧業博覧会に「午後の日」「宿裏」を出品。6月、光風会第1回絵画展覧会に「清水港」「帝国劇場」「南国」が入選。
大正2年・1913(27)
6月、門司から日本郵船三島丸で渡仏。この年の末モジリアニ、スーチンと知り合う。
大正3年・1914(28)
しきりに立体派風の制作を試みる。
大正6年・1917(31)
6月、シェロン画廊で初の個展を開く。ピカソの友人である批評家アンドレ・サルモンが目録に序文を書く。
大正7年・1918(32)
11月、シェロン画廊で2回目の個展。このころからフジタの名がひろまる。
大正8年・1919(33)
はじめてサロン・ドートンヌに出品。出品した6点が全部入選して、その年に会員に推挙され、パリ画壇における地位の確立に第一歩を踏み出した。
大正9年・1920(34)
渡仏以来の研究の結晶である裸体を秋のサロンに出品。苦心のすえ独創した乳白のマティエールは批評家を魅了し、grand fond blanc(すばらしい深い白地)と称賛された。
大正10年・1921(35)
サロン・ドートンヌの審査員に挙げられ、いよいよ黄金時代が展開する。画商も蒐集家も藤田の作品を奪い合った。
大正11年・1922(36)
10月、第4回帝展に「我が画室」(1921)を出品。
大正12年・1923(37)
11月、サロン・ドートンヌ第16回展に「五人の裸婦」を出品。サロン・デ・チュイルリーの会員となる。
大正13年・1924(38)
5月、第5回帝展委員。10月、第5回帝展に「静物」(1922)を出品。このころからフェルナンド・バレと別れてユキと暮す。
大正14年・1925(39)
レジオン・ドヌール五等勲章を贈られる。
8月、第6回帝展審査員。12月、日仏芸術社主催第二次フランス現代美術展に「坐せる女」など油絵3点のほか版画を出品。
大正15年・1926(40)
1月、「アミティエ(友情)」フランス政府買上げとなり、リュクサンブール美術館に収められる。5月、サロン・ナショナル・デ・ボザールの審査員。第5回フランス現代美術展に「モデル」「パリジェンヌの顔」ほかエッチング2点、サロン・ドートンヌに「横綱栃木山の像」出品。
昭和2年・1927(41)
11月、銅版画1点ルーブル美術館に収められる。
昭和4年・1929(43)
9月、ユキを伴って17年ぶりに帰国。10月、東京朝日新聞社屋で個展を開き、対策「構図」(1928)ほか鉛筆デッサン50余点、版画20点を出品。ひきつづき2回目の個展を日本橋三越で開催。「舞踏会の前」(1925)ほかデッサン、版画等数十点を出品。10月、第10回帝展に「自画像」(1929)を出品。
昭和5年・1930(44)
1月、日本郵船の大洋丸で横浜を出帆、北米を経由してパリに帰る。9月、ニューヨークに渡って個展を開き、またグリニッチ・ビレッジにアトリエを借りて3カ月間制作を行ない、さらにシカゴに1カ月滞在する。
昭和6年・1931(45)
1月、パリに引揚げる。10月、ユキに別離の手紙を残し、マドレーヌを伴ってブラジルに旅立つ。
昭和7年・1932(46)
3月、アルゼンチンに入り、さらにボリビア、ペルー、キューバなどを回る。11月、メキシコに着き7カ月滞在する。
昭和8年・1933(47)
ニューメキシコ、アリゾナからカリフォルニアに渡って4カ月を過し、11月17日横浜入港の秩父丸でマドレーヌと帰国。ひとまず高田馬場(淀橋区戸塚町)の中村緑郎邸(次姉やすの嫁ぎ先)に寄宿。
昭和9年・1934(48)
2月、日動画廊で個展。3月、二科会会員に推挙される。5月、大礼記念京都美術館開館記念京都市美術展に「メキシコ」を出品。9月第21回二科美術展覧会に「メキシコのマドレーヌ」「町芸人」「カーニバルの後」など27点を特別陳列。9~10月、銀座聖書館内ブラジル珈琲陳列所に壁画を制作。11~12月、北京に遊ぶ。この年、中村家の庭先にメキシコ風のアトリエを建てて移る。
昭和10年・1935(49)
2月、第2回油絵展(日動画廊)に「支那人」「和船」「好々爺」などを出品。3月、東京府美術館開館十周年記念現代総合美術展覧会に「自画像」(1929)を出品。6月、近作洋画小品展(新宿、紀伊国屋)に「大連支那人飯店」「眠れる女」など51点を出品。9月、第22回二科展に「北平の力士(大道芸人)」「五人女」「Y夫人の肖像」を出品。10月、日本壁画家協会結成され、顧問に推される。大阪の十合百貨店特別食堂に壁画を制作。11月、銀座の喫茶店コロンバンに天井画を制作。
昭和11年・1936(50)
2月、第1回春季二科美術展覧会(日本橋、高島屋)に「私のアトリエ」「太海風景」ほか1点を、第3回小品展(日動画廊)に「北米ニューメキシコ」「南仏」「房州太海」「猫」「日本娘」など油絵、どろ絵、水彩画等の小品24点を出品。4月、第3回現代十大家洋画展(求龍堂主催、銀座資生堂)に「秋田風景」を出品。5月に開館した京都市の関西日仏開館貴賓室にカンバス張付油絵壁画を制作。6月、マドレーヌ自宅で急死。27歳だった。9月、第23回二科展に「自画像」「コドモの喧嘩」を出品。9月、京都市の丸物百貨店中二階喫茶室にカンバス張付の装飾壁画を制作。12月、堀内君代と結婚する。
昭和12年・1937(51)
2~3月、秋田市の平野政吉邸でカンバス張りの大壁画「秋田年中行事太平山三吉神社祭礼の図」を制作。6月、第4回近作展(日動画廊)に「佐渡小木港の雨」「夏の漁村房州太海」「紅花」「甲州の富士」など油絵26点を出品。9月、第24回二科展に1900年」「千人針」を出品。4~8月、横光利一原作「旅愁」の挿絵を東京日日新聞に連載。7月、麹町に京風の純日本式住宅を新築。この年、「自画像」(1928)パリの国立近代美術館に収められる。
昭和13年・1938(52)
5月、二科会濤友会のメンバーと沖縄に遊ぶ。6月、日本画展(大阪、関西画廊)に近作18点を、琉球作品発表展(日動画廊)に「海辺の墓」「琉球の女」など20余点を出品。9月、第25回二科展に「竈の前(那覇)」「客人(糸満)」「孫(那覇)」「島の訣別(那覇)」を出品。10月、海軍省嘱託として中支に派遣され、漢口攻略戦に従軍する。
昭和14年・1939(53)4月、横浜出帆の日本郵船鎌倉丸で渡米。5月、パリに着く。6月、海軍省の依頼で制作した「南昌飛行場焼打ちの図」海軍館に陳列される。
昭和15年・1940(54)
5月、第二次大戦の戦火迫るパリを脱出し、7月、神戸入港の伏見丸で帰国。8月、第27回二科展に「人魚」「最後の平和」「ドルドーニュの家」「争闘(猫)」「ねまきの子供」など15点を特別陳列。10月、紀元二千六百年奉祝美術展覧会に「サーカスの犬」を出品。9月、陸軍省嘱託として、ノモンハンの戦闘を主題とする作品を制作するため新京に向い、10月、帰国する。12月、石井柏亭小杉放庵津田青楓中川一政らと新団体「邦画一如会」を結成。
昭和16年・1941(55)
1月、よき理解者であった父嗣章死去する。3月、邦画一如会第1回展に「港」(二曲一双)を出品。5月、二科会会員を辞退し、7月帝国芸術院会員となる。第5回大日本海洋美術展(東京府美術館)に「南昌飛行場焼打ちの図」「武漢進撃」を出品。6月、日本橋三越で個展を開き、「蚤市の床屋」「戦時下の巴里」「雨のモンマルトル」「巴里の屋根と鳩」「召集令と野の花」など油絵21点、素描、水彩を出品。7月、第2回聖戦美術展(上野、日本美術協会)に「哈爾哈河畔之戦闘」「古北口総攻撃(満州事変)」を出品。10月、帝国芸術院、国際文化振興会から文化使節として仏印に派遣される。
昭和17年・1942(56)
2月、「テンガー飛行場夜間爆撃」を陸軍航空本部に、「アリゾナ型撃沈の図」を海軍省にそれぞれ献納。3月、戦争記録画制作のため陸軍省から、5月、おなじく海軍省から南方に派遣される。7月、大東亜戦争従軍画展(高島屋)に「パーシバル」を出品。10月、満州建国十周年慶祝帝国芸術院会員絵画展覧会(帝室博物館)に「仏印順化承天府外苑」を出品。12月、大東亜戦争美術展覧会(東京府美術館)に「十二月八日の真珠湾」「シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)」「二月十一日(ブキ・テマ高地)」を出品。
昭和18年・1943(57)
1月、「シンガポール最後の日」その他に対し、昭和17年度朝日文化賞を贈られる。9月、国民総力決戦美術展(東京都美術館)に「アッツ島玉砕」を出品。10月、第6回新文展に「嵐」を出品。12月、第2回大東亜戦争美術展覧会(東京都美術館)に「天皇陛下伊勢の神宮に御親拝」「ソロモン海戦ニ於ケル敵ノ末路」「○○部隊の死闘-ニューギニヤ戦線-」を出品。
昭和19年・1944(58)
2月、戦艦献納帝国芸術院会員美術展(帝室博物館表慶館)に「キャンボチャ風景」を出品。3月、陸軍美術展(東京都美術館)に「血戦ガダルカナル」「神兵救出に到る」を出品。10月、文部省戦時特別美術展覧会に「ブキテマの夜戦」「大柿部隊の奮戦」を出品。
昭和20年・1945(59)
8月、疎開先の神奈川県津久井郡小淵村藤野で敗戦を迎える。
昭和22年・1947(61)
5月、新憲法実施ならびに東京都美術館開館二十周年記念現代美術展覧会に「私の夢」を出品。7月、高島屋で藤田嗣治堂本印象二人画展。9月、ニューヨークのケネディ画廊で近作の展覧会が開催され、好評を博する。10月、第3回日展第2科審査員となる。
昭和23年・1948(62)
10月、近代日本美術総合展(東京国立博物館)に「わが画室」(1936)を出品。10月、第4回日展第2科審査員。11月、資生堂で個展。
昭和24年・1949(63)
3月、羽田から空路渡米。フランス入国の許可も受けた。「日本画壇も国際的水準に達することを祈る」というのが故国に残す言葉であった。ニューヨーク滞在中、51番街の画廊で近作展を開催する。
昭和25年・1950(64)
2月、英国を経てル・アーブルに着く。3月、ポール・ペトリデス画廊で戦後第1回の個展を開催し、50点の作品がたちまち売り切れた。4月、大阪・松坂屋で藤田嗣治回顧展(毎日新聞社主催)開催。
昭和26年・1951(65)
11月、マドリッドでスペイン美術協会主催の個展が開催され、同地を訪れる。出品約50点。この年、秘蔵の労作「我が室内」(1921)「アコーデオンのある静物」(1922)「カフェにて」(1949)「花の河岸(ノートルダム)」(1950)をパリの国立近代美術館に寄贈。なお、この年「時代の証人・画家」第1回展に指名招待され、第2回以後も招かれて出品を続ける。
昭和27年・1952(66)
6月、ペトリデス画廊で個展を開き、油絵42点、水彩10点、ほかに版画を出品。
昭和28年・1953(67)
5月、第2回日本国際美術展に「浜辺の女」(1952)を出品。
昭和29年・1954(68)
7月、ペトリデス画廊で個展を開き「料理人の子」「朝」「母子」など41点を出品。
昭和30年・1955(69)
2月、フランス国籍を取得。フジタは第二の故郷パリの市民となった。3月、ブリヂストン美術館で藤田嗣治作品特別陳列が行なわれ、油絵、水彩、版画など約50点が出品された。3月「時代の証人・画家」第4回展に「宝物」を出品。5月、日本芸術院会員を辞任。10月、渋谷・東横で平野コレクション展が開催された。
昭和31年・1956(70)
3月、「時代の証人・画家」第5回展に「ジャン・ロスタンの肖像」(1955)を出品。夏、ペトリデス画廊で個展を開き、40点を出品。
昭和33年・1958(72)3月、「時代の証人・画家」第7回展に「酒場」を出品。6月、ペトリデス画廊で個展。9月、第30回J.A.N.展(銀座、松屋)に「誕生日」を出品。
昭和34年・1959(73)
1月、大阪・梅田画廊で藤田嗣治作品展。10月、ランス大寺院で夫妻ともどもカトリックの洗礼を受ける。洗礼名レオナルド。レオナルド・フジタの第一作「聖母子像」を同寺院に寄贈する。11月、フランス社会進歩協会から銀メダルを贈られる。
昭和35年・1960(74)
3月、「時代の証人・画家」第9回展に「トロワ・グラース」を出品。6月、ペトリデス画廊で個展を開き、50点を出品。9月、新宿・伊勢丹で藤田嗣治展(毎日新聞社主催)開催され、平野政吉コレクション74点を中心に近作29点その他10余点出品。
昭和36年・1961(75)
10月、第1回トリエステ宗教美術展で金賞。11月、パリ郊外セーヌ県に農家を買って改造し、パリの住まいをそのままにして新しいアトリエに移る。
昭和37年・1962(76)
10月、国際形象展(高島屋)に「夏草」を招待出品。11月、大正期の洋画展(神奈川県立近代美術館)に「インキ壺の静物」「雪児童」「横臥裸婦デッサン」出品される。
昭和38年・1963(77)
4月、フジタ展(日動画廊)に油絵7点、水彩5点、素描4点など出品される。10月、第2回国際形象展(三越)に「二人」(1959)「母と子」「ネグリジェの少女」を招待出品。
昭和39年・1964(78)
6月、ペトリデス画廊で近作展を開催。9月、第3回国際形象展(三越)に「静物」(1963)「少女」「少女と果物」(1963)を招待出品。
昭和40年・1965(79)
2月、レオナルド・藤田版画展(日本橋画廊)に「五人の裸婦」(1923)「裸婦」(1927)「リラの花」(1940)「親子猫」(1943)などが出品された。5月、「近代日本の裸体画」展(国立近代美術館)に「五人の裸婦」(1923)「裸婦」(1931)「二人の裸婦」(1932)出品される。6月、二科会五十周年記念回顧展(新宿ステーションビル)に「秋田の娘」(1937)など出品される。9月、大阪・フジカワ画廊で藤田嗣治近作版画展。10月、世界の巨匠水彩素描展(日動画廊)に「メキシコの女」(水彩・1932)「猫と少女」(水彩・1965)など出品される。
昭和41年・1966(80)
4月、第2回近代日本洋画名作展(奈良・大和文華館)に「裸体」(1926)「マドレーヌ」(1934)「インキ壺の静物」(1926)「パリ風景」(1958)出品される。6月、近代日本洋画の150年展(神奈川県立近代美術館)に「海岸風景」(1912)「婦人像」(1912ごろ)「五人の裸婦」(1923)「カーニバルの婦人」(1932)出品される。10月、第5回国際形象展(三越)に「孫娘と祖母」(1949)「母子像」(水彩・1951)ほか素描3点を招待出品。10月、ランスにノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂が完成。設計からステンド・グラス、フレスコ壁画の制作に精力をそそいだ。12月、ぼうこう炎のため入院、手術を受ける。
昭和42年・1967(81)
1月、退院してニースでしばらく静養。7月、レオナルド・フジタ近作展(銀座・彩壺堂)。10月、エコール・ド・パリ展(大阪・大丸)に「裸婦」(1937)「猫」(1947)「祖母と孫娘」(1949)「水汲みの女」(1950)出品される。10月、幻の戦争名画展(月光荘ギャラリー)に「肉迫」(1943)「重爆」「雲上の空中戦」出品される。10月、チューリッヒの州立病院に入院。12月、エコール・ド・パリを中心としたフランス近代絵画展(渋谷・東急百貨店本店)に「横たわる裸婦と猫」(1921)「鏡を見る裸婦」(1926)「モンパルナスの売春宿のサロン」(1928)「バラ色のシュミーズを着たユキ」(1923)出品される。
昭和43年・1968
1月29日、81歳で死去。2月3日、ランスのカトリック大寺院で葬儀。4月、勲一等瑞宝章を追贈される。9月から11月にかけて藤田嗣治追悼展(朝日新聞社主催)が東京セントラル美術館と京都市美術館で開催される。遺体はノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に埋葬される。9月19日~10月4日、東京日動画廊において「パリのフジタ」展(日動画廊主催)開催される。
(年譜作成・土屋悦郎)

出 典:『日本美術年鑑』昭和44年版(56-59頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「藤田嗣治(レオナール・フジタ)」『日本美術年鑑』昭和44年版(56-59頁)
例)「藤田嗣治(レオナール・フジタ) 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9190.html(閲覧日 2024-12-05)

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