墨跡名宝展
1953年10月財団法人常盤山文庫の開館を記念して、毎日新聞社の主催により、六日から一一日まで日本橋三越で開催された。同文庫は菅原通済の収集品を寄贈して設立されたものである。
財団法人常盤山文庫の開館を記念して、毎日新聞社の主催により、六日から一一日まで日本橋三越で開催された。同文庫は菅原通済の収集品を寄贈して設立されたものである。
朝日新聞社の主催により三日から二〇日まで日本橋白木屋に開催。国宝夕顔棚図(守景筆)、風神雷神図屏風(光琳筆)等一〇〇点余の出品があつた。
一日から一一月一五日迄、東京国立博物館表慶館においてルオー展が開かれた。東京国立博物館、読売新聞社主催、フランス大使館協賛で油絵、グワッシュ、水彩、デッサン、版画一四八点が陳列された。
文化財保護委員会では無形文化財に選定されている伊勢の”型紙”や高松の”漆芸”の技術保存のため「型紙研究所」「漆芸研究所」の設立が計画されている。新設に対し県と市に三分の一国庫補助を行うため来年度に二四〇万円の予算を計上する予定である。
東京文化財研究所でアイソトープによる金銅仏の透過撮影が行われた。アメリカから輸入したコバルト60の放射能を利用して金銅仏の内部を撮影したもので、旧御物の四十八体仏をはじめ、その他の小金銅仏像の撮影に成功、二九日には奈良薬師寺講堂の月光菩薩像の透過撮影を行い、大金銅像に対する実験として注目を浴びた。
舞台照明を中心に舞台美術の実験研究所が大庭三郎によつて大田区雪ヶ谷七五六に建設され、一五日開所式を行つた。
流行色に外国の模倣だけでなく、日本独自のものを生みだそうという意図から、日本流行色協会が設立され四日発会式をあげた。発起人には稲村耕雄、剣持勇、猪熊弦一郎、花森安治等、色彩研究家、画家、洋裁家などが多数加つている。
一日から開催中の二科会展では新設の写真部が、会員早田雄二、林忠彦、大竹省三、秋山庄太郎の作品と公募作品一七六点を陳列した。
岐阜県関市の新長谷寺の解体工事は二五年一〇月以来すすめられていたが、八日竣工式をあげた。同堂は長禄四年の建造、七堂伽藍の整つた室町中期の密教建築である。
神宮司庁は第五九回式年遷宮を前に、二一日、造営工事の全く成つた伊勢神宮正殿を一般に公開し、写真撮影も許可した。
二九日開催の専門審議会第二分科会(建築)に於て、旧十輪院宝蔵、元箱根村五輪塔等二〇件の重要文化財の新指定を決定した。
デザイン問題研究会はデザイン学会として発足することに決定、その第一回例会を一五日開き、今後の運営などについて協議した。
毎日新聞社の主催により、一二日から三〇日まで日本橋三越で開催した。一〇月二日に皇大神宮、五日に豊受大神宮の遷宮が行われるのを記念して開かれたもので、伊勢神宮はじめ全国著名の神社四六社から宝物一二〇点が出陳された。
サンパウロ市のビエンナーレ展に出品招待をうけたにも拘わらず、関係機関の不用意から締切に間に合わず、参加不能となり波乱を呼んでいたが、この程主催者側の好意で重ねて出品の懇望をうけ、急遽出品者を決定した。岡部長景を委員長とする選考委員会で川口軌外、山口薫、牛島憲之、鶴岡政男、岡本太郎、水越松南の六名の出品者に現地から福沢一郎が参加出品する事に決定した。作品は今月末空路郵送する版画四六点に続き、八月二日船便で送られる予定。
ブリッヂストン美術映画の第一作「梅原竜三郎」(二巻)が完成、二五日ブリッヂストン美術館で一般公開した。
国際的関連をもつ新美術組織、国際アートクラブは、画家、彫刻家、建築家、美術評論家によつて構成され、各国現代美術の発展とその国際的交流のため、研究、其他諸事業を行うものでその国際中央本部はローマにある。現在アートクラブを結成している国は、イタリー、フランス、オランダ等十ケ国に及んでいる。今年中央本部委員会の決議で会長プランポリー氏から正式に我国へ参加依嘱があり、岡本太郎、小松義雄、村井正誠、末松正樹、恩地孝四郎、植村鷹千代等により設立準備が進められていたが二五日、アートクラブの発会式をあげた。
毎日新聞社の主催により一八日から八月九日まで日本橋三越で開催、鎌倉及びその附近の一社二〇寺秘蔵の宝物一三六点が出陳された。
近来関心の高まりつつある銅版画の研究団体、日本銅版画家協会が一二日、創立総会を催した。関野準一郎、浜口陽三、駒井哲郎、松田義之等が中心となり年一回展覧会を開く予定。
外務省では今春以来一流日本画家の作品約八〇点を買上げて在外公館に送つていたが、更に今回ワシントン駐米大使館、エジプト公使館、サンパウロ総領事館に、川端竜子、奥村土牛、小杉放庵、橋本明治等の作品が送られることになり一一日外務省内で展示会が開かれた。
来年一月からサンパウロ市で、サンパウロ四百年祭が行われるが、在留邦人も日本人協力会を結成これに協賛することとなつた。その一つとして建設費二、〇〇〇万円で日本庭園と家屋を贈り祭典会場を飾る計画がたてられ、その設計を依嘱された堀口捨巳はこれを二日完成、日本人協力会に渡した。家屋、庭園の材料は現地で組立てるばかりにして持つてゆく予定。