林忠彦
坂口安吾、織田作之助、太宰治ら無頼派作家の肖像写真で広く知られた写真家林忠彦は、12月18日午前零時27分、肝臓がんのため東京都港区の東京済生会中央病院で死去した。享年72。大正7(1918)年3月5日、山口県徳山市に生まれる。家業は祖父の代から続く営業写真館で、幼少の頃から写真に親しみ、徳山尋常小学校を経て、昭和10(1935)年に徳山商業学校を卒業すると、長男として家業を継ぐべく大阪の「中山正一写真館」に修業に出される。翌年、過労から肺結核を病み帰省。翌12年、上京して田村栄の主宰するオリエンタル写真学校に入学する。同13年同校を卒業して帰郷し家業を手伝うが、翌14年再び上京して加藤恭平が主宰する東京光芸社に入社する。内閣情報部の宣伝誌「写真週報」にルポルタージュを発表するなど報道写真家として活動を始め、「アサヒカメラ」などでも活躍。同17年大竹省二らと華北広報写真協会を結成して北京に渡り、戦時下の人々をとらえる。同21年、東京に引きあげ、カストリ雑誌ブームに乗って活躍。同22年秋山庄太郎らと写真グループ「銀竜社」を結成する。同23年、「小説新潮」に連載した文士シリーズの坂口安吾等で人気を博し、寵児となった。同28年、二科会写真部の設立に参加。後進の指導にも尽力した。同36年日本写真家協会副会長に就任。同46年写真集『日本の作家』を刊行し、同書で日本写真協会年度賞受賞。同47年「織田広喜」を二科展に出品して、同展総理大臣賞を受けた。同53年『日本の画家108人』を刊行し、翌54年、同書で毎日芸術賞及び日本写真協会年度賞を受賞。同55年には『カストリ時代』を刊行した。同56年日本写真家協会副会長を辞任し、同会名誉会員となる。同55年日本写真学園校長に就任。同63年、日本写真協会功労賞を受ける。『日本の画家』『日本の経営者』『日本の家元』など、文士シリーズに続く肖像写真と、『カストリ時代』等社会に鋭い目を注いだ写真が林の仕事の中心となし、対象の歴史性や周囲の環境を撮影された一瞬間に含みこんだ物語性のある作風を特色とした。晩年は風景写真に向かい東海道を撮影し続け、平成2(1990)年『林忠彦写真集 東海道』を刊行している。
出 典:『日本美術年鑑』平成3年版(328頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「林忠彦」『日本美術年鑑』平成3年版(328頁)
例)「林忠彦 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10290.html(閲覧日 2024-10-11)
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- ■美術界年史(彙報)
- 1953年09月 二科会新設の写真部最初の展観を行う
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