秋山庄太郎

没年月日:2003/01/16
分野:, (写)
読み:あきやましょうたろう、 Akiyama, Shotaro*

 写真家の秋山庄太郎は、1月16日心筋梗塞のため、東京都中央区の病院で死去した。享年82。1920(大正9)年6月8日、東京市神田区に生まれる。東京府立第八中学、第一早稲田高等学院を経て、1943(昭和18)年早稲田大学商学部卒業。中学時代にカメラを手に入れたことを機に、写真に熱心にとりくむようになり、大学でも写真部に所属、大学卒業の年、卒業後の応召を見据え「青春の墓標」として写真集『翳』を自費出版する。東京田辺製薬に入社後、陸軍に応召し中国戦線に赴き、45年内地に転属となり終戦を迎えた。復員後の46年、写真を職業とすることを決意、東京・銀座に秋山写真工房を設立するが、資金難のため47年解散、工房時代に知己を得た林忠彦の推薦で近代映画社に入社し、女優のポートレイトに才能を発揮する。同年林忠彦らが結成した銀龍社に参加、53年にはそのメンバーを中心に二科会に新設された写真部の創立会員となる。51年近代映画社を退社、フリーランスとなり、『週刊文春』、『週刊サンケイ』など数誌の週刊誌の表紙写真やグラビア連載を並行して担当するなど、女性写真を中心に活動を展開。71年第1回日本広告写真家協会展・東京ADC賞受賞、74年には『週刊現代』表紙連載および『週刊小説』の「作家の風貌」連載により第5回講談社出版文化賞を受賞した。雑誌の表紙写真の女性ポートレイトにはタブーとされていた黒い背景を最初に採り入れるなど、新鮮で明解な表現により大衆的な人気を博したが、人物の撮影においても過度な技巧や演出に走ることなく、上品な抒情性のうちに対象の美を発見しようとするその作風は、モティーフの如何を問わず、初期より晩年まで一貫していた。写真家としての評価を確立した女性写真に加え、『作家の風貌―159人』(美術出版社、78年)、『画家の風貌と素描』(サン・アート、80年)などにまとめられた男性の肖像にも優れた仕事を残し、四十代半ばからとりくみはじめた花の写真は、ライフワークとして晩年まで続けられ、新たな代表作群となった。日本写真家協会(50年設立)、日本広告写真家協会(58年設立)の創設に参加、日本写真家協会副会長(63―64年)、日本広告写真家協会会長(71―79年)などを歴任した他、日本写真協会やアマチュア写真家の団体である全日本写真連盟などでも要職を務め、写真界の発展・普及に尽力した。また日本写真芸術専門学校の校長を長く務めるなど写真教育にも携わった。86年紫綬褒章、93年勲四等旭日小綬章を受章。1991(平成3)年には横浜市民ギャラリーで「往時茫々:秋山庄太郎写真展」、98年には徳山市美術博物館で「秋山庄太郎展:美しい記憶」、2002年には東京都写真美術館で「遊写三昧:秋山庄太郎の写真美学」展など、その業績を回顧する展覧会が開催されたほか、99年に開館した町田市フォトサロンには「秋山庄太郎常設展示室」が設けられている。

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出 典:『日本美術年鑑』平成16年版(295頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2019年06月06日 (更新履歴)
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