鶴岡政男

没年月日:1979/09/27
分野:, (洋)

自由美術協会会員の洋画家鶴岡政男は、9月27日午前7時5分、肺ガンのため東京都台東区の下谷病院で死去した。享年72。鶴岡は、1907(明治40)年群馬県高崎市に生まれ、少年時代から東京で生活し、大正末期から昭和初期にかけて太平洋画会研究所で学び、靉光井上長三郎らと交友、洪原会、ノバ美術協会などのグループに属して作品を発表、また左翼活動にも参加した。1937年、日中戦争に応召され、騎兵として中支に赴いたが、1940年兵役解除となり帰国、1943~44年、松本竣介麻生三郎靉光らと新人画会を結成して三回展覧会を開催したが、終戦の直前に再度応召され、国内で敗戦をむかえた。戦後は、新人画会のメンバーらとともに自由美術協会に所属し、自由美術展、日本国際美術展らに出品、1953年には第2回サンパウロ・ビエンナーレ展にも出品した。戦前派さまざまな職業に従事しながら「髯の連作」(デッサン)のような諷刺的作品を発表、また新人画会はファシズム、戦時下の暗黒の時代に抵抗した例として評価されているが、戦前の作品はほとんど焼失した。戦後は、「夜の群像」「重い手」などの作品が、敗戦後の現実に対する鋭い批判と諷刺をもち、さらに「人間気化」「落下する人体」と混迷する社会と人間の姿を形象化した作品を描きつづけて注目された。その後、「青いカーテン」「視点B」など、ユーモアを秘めた現実諷刺の作品がつづいている。鶴岡は、終始、ヒューマニズムに立ち、さめた眼で現実を把えて鋭く造形化した作品を発表して、戦後の現代絵画の中で重要な地位を占めていた。 
略年譜
1907年(明治40年) 2月16日、高崎市に、建築金物製造業、木ノ内峯吉・はつの長男(ひとり子)として生まれる。
1913年 6歳 4月、高崎市立南小学校入学。
1914年 7歳 母は、鶴岡勇吉と再婚。母に連れられ、兵庫県東尻池村に約1年間住み、浜山小学校に通う。(2年生)
1915年 8歳 一家で上京し、台東区池の端七軒町に住む。政夫は下谷忍ヶ岡小学校に入る。(3年生)1年後、高崎に引き取られ、南小学校に通ったが、さらに1年後上京。父が、文京区駒込神明町に鉄工所を始めたため、ここから再び忍ヶ岡小学校に通う。(5、6年生)
1918年 11歳 鶴岡勇吉の養女として君子(2歳)が入籍。
1921年 14歳 3月、文京区本郷高等小学校卒業。
このころ読んだゲーテの叙事詩「ヘルマンとドロテア」に感銘を受ける。これが内なるものと芸術との最初の出合いとなり、絵の道に入る契機となる。その後、8、9年の間、絵画制作のかたわら、鏡花、犀星、朔太郎、足穂に傾倒、自らも詩作する。
1922年 15歳 太平洋画会研究所に入る。ここにやがて井上長三郎靉光が入り、交友が始まる。
1924年 17歳 大阪新興美術院に油彩画「静物」を出品。
1928年 21歳 第3回1930年協会展に入選。
井上長三郎ら約20名とともに、保守的な研究所当局に反発し、除名処分となる。翌年これらの者が洪原会(こうげんかい)をつくる。
1929年 22歳 2月、洪原会第1回会合(神田・大同洋行)。会員は鶴岡のほか、大竹久一、関川譲、岩倉具方ら19名。
7月、第1回洪原展開催。「裸婦A」~「裸婦F」、「自動車練習場」の計7点を出品。
1930年 23歳 7月、第2回洪原展に「女A」~「女D」の4点を出品。
11月、NOVA(ノバ)美術協会発会式(神田、カフェーブラジル)。洪原展会員岩倉具方のフランス遊学を機に同会は解散。同会中心メンバーにより、ノバ美術協会が設立される。会員は鶴岡のほかに井沢秋雄、山田直一郎、岩倉具方、大竹久一、関川譲など10名。
1931年 24歳 1月、第1回ノバ美術協会展(東京府美術館)に「カジノフォリー」、「海」、「楽屋裏」を出品。
7月、雑誌「モダン日本」に漫画執筆。この頃から父の仕事がうまくいかなくなり、応召までの7年間、様々な仕事に手を染める。すなわち、機械工具店勤め、図案社(印刷の版下)、鏡野面取工、漫画、焼鳥屋、メリヤス会社の意匠など。
1932年 25歳 1月、第2回ノバ展に「布良」、「風景B」、「風景C」、「風景D」、「水道橋」、「物置場」などを出品。
この頃左翼活動に参加。しかしやがてこの運動に失望し、離れていく。
1933年 26歳 1月、第3回ノバ展に「煙草を呑むO君」、「へうたん」、「ブドウと花とテーブル」、「夜の女」、「肉屋」、「踊り」、「紙と花」、「鏡の中の顔」の8点を出品。
1934年 27歳 1月、第4回ノバ展に「金の卵を持っている(彼は金の卵を生む鳥を持つ)」、「習作(直線による)」、「あなたをうつ」の3点を出品。
1935年 28歳 1月、第5回ノバ展に「移転」、「偶像」、「リズミカル・オルガニゼーション(リズム)」を出品。
5月、個展(団子坂・リリオム)
6月、個展(新宿・ノバ喫茶店二階)「髯の連作」(デッサン)を出品。
1936年 29歳 1月、第6回ノバ展に「西方の聖」、「髯の連作」など10点を出品。
4月、アバンギャルド芸術クラブに参加。
1937年 30歳 1月、第7回ノバ展に「母性」、「轟く砲音(広瀬中佐銅像)」その他旧作を出品。特高警察の干渉が強くなり、ノバ展はこの回で解散。
3月、工藤もとと結婚。
9月、応召して兵役に服す。支那事変により中支へ騎兵として出征したが、ヒューマニスティックなものと戦争との矛盾に絶えず悩まされ、暗澹たる日々を送る。絵をかくためにではなく、自分の拠りどころとして、水彩絵の具を常に身につけていた。
1938年 31歳 1月、長女ひろ子誕生
1940年 33歳 兵役解除、以後終戦まで徴用で工場に通い、警備召集にもつく。
1941年 34歳 4月、第2回美術文化協会展に「春風のドンキホーテ」、「りんご」を出品。
9月、第28回二科展に「窓より」を出品。
1943年 36歳 新人画会結成に参加。会員は靉光麻生三郎糸園和三郎井上長三郎大野五郎鶴岡政男寺田政明松本竣介の8名。
4月、第1回新人画会展(銀座・日本楽器画廊)に「中国人」、「盧山と果実」など5点出品。
11月、第2回新人画会展(銀座・日本楽器画廊)に出品。
1944年 37歳 4月、次女美直子誕生。
9月、第3回新人画会展(銀座・資生堂画廊)に出品。
1945年 38歳 3月、東京大空襲により、ほとんど全作品を焼失。
6月、再度応召。湘南より松代大本営に至る電話ケーブルを地下に敷設する作業に従事。群馬県の安中町で終戦を迎え、召集解除。
1947年 40歳 新人画会のメンバーは自由美術家協会に合流、会員となる。
6月、第1回美術団体連合展に、「顔(1)」、「顔(2)」、「友よ手をあげろ」を出品。
7月、第11回自由美術展に出品。
1948年 41歳 2月、自由美術新作展(銀座・三越)に「5つの像」を出品。
5月、第2回美術団体連合会展に「二人は唄う」、「若い男」、「咆える獣」、「おしゃべりな鳥」、「喰いつくもの」、「水底」を出品。
10月、第12回自由美術展に「死の静物」、「獲物」、「幼時と乳」を出品。
11月、第2回日本美術会アンデパンダン展に「馬」を出品。
1949年 42歳 1月、個展(日本橋・北荘画廊)、「風景」、「男と女」、「ガラス鉢の金魚」、「二人」、「窓による女」、「パイプの男」、「神々のアクロバット(アクロバット)」、「怒れる家畜」など油彩画20点、素描ほか32点を出品。
5月、第3回美術団体連合展に「涙と月」、「泣いている女」を出品。
6月、三女真知子誕生。
10月、第13回自由美術展に「夜の群像」、「青い裸婦」、彫刻「作品(1)」~「作品(5)」を出品。
1950年 43歳 3月、第1回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「夜の群像」が出品される。
5月、第4回美術団体連合展に「魚と玉網」を出品。
7月、個展(日本橋・北荘画廊)、「重い手」「物乞う人」など出品。
8月、自由美術家協会分裂、退会派はモダンアート協会を結成。
10月、第14回自由美術展に、「外国の女」、「街の女」などのデッサン、「芽」、「首」などの彫刻計11点を出品。
1951年 44歳 1月、第2回秀作美術展に「めばえ」(芽)が出品される。
5月、第5回美術団体連合展に彫刻「セラミック」などを出品。
8月、自由美術札幌講習会(札幌市西高校)に講師として参加。
10月、第15回自由美術展に「マリオネットのドンキホーテ(ドンキホーテ)」「凶兆」を出品。
12月、個展(高崎、珍竹林画廊)。
12月、アトリエを新宿余丁町林檎園に移す。
1952年 45歳 1月、第3回秀作美術展に「凶兆」を出品。
5月、第1回日本国際美術展に「黒い行列」を出品。
7月、個展(札幌・藤井大丸)。
10月、第16回自由美術展に、「はじまり」、「鳩」(彫刻)を出品。
11月、第3回群馬県美術展に「作品」を出品。
12月、東京国立近代美術館第1回展=日本における近代絵画の回顧と展望=に「黒い行列」(1952)を出品。
1953年 46歳 1月、第4回秀作美術展に「はじまり」が出品される。
5月、第2回インド国際現代美術展に「凶兆」(1951)などが出品される。(3月、同展国内展示)
5月、第2回日本国際美術展に「港町」、「夜」を出品。
7月、自由美術7月展に「白い港町」を出品。
10月、第17回自由美術展に「人間気化」を出品。
10月、鶴岡政男デッサン展(タケミヤ画廊)「男B」、「対話」、「生物」、「刺す」、
「街の聖」などのデッサン18点、ガラス絵数点出品。
12月、第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に「夜の群像」(1949)、「天使」(1951)、「重い手」(1950)が出品される。(7月、同展国内展示-銀座・松屋)
12月、抽象と幻想展-非写実絵画をどう理解するか-(東京国立近代美術館)に「重い手」(1950)、「芽」(彫刻、1951)が出品される。
1954年 47歳 2月、「事ではなく、物を描く」姿勢の表明をする(「美術批評」1954.2月号掲載)。
3月、具象と抽象展(養清堂画廊)に出品。
5月、第1回現代日本美術展に「落下する人体」(佳作賞受賞)、「死と雲と人」を出品。
8月、水彩と素描展(東京国立近代美術館)に「踊り」(1953)、「おかしな生理」(1948)が出品される。
6月、ZERO展(タケミヤ画廊)に「ジャンプ」を出品。
10月、第18回自由美術展に「雨」、「喰う」を出品。
1955年 48歳 1月、第6回秀作美術展に「落下する人体」が出品される。
2月、19人の作家=戦後の絵画・彫刻=(東京国立近代美術館)に「アクロバット」(1949)、「喰」(1954)、「馬」(1953)、「死と雲と人」(1954)、「落下する人体」(1954)が出品される。
3月、個展(なびす画廊)。デッサンを出品。
3月、個展(日本橋・白木屋)戦後作品の回顧。
4月、自由美術春季展に「ねむる人」を出品。
5月、第3回日本国際美術展に「形態A」、「形態B」を出品。
11月、第6回群馬県美術展「たたかい」を出品。
1956年 49歳 5月、第2回現代日本美術展に「死者を運ぶ」、「二人」を出品。
10月、第20回自由美術展に「釣舟と魚」を出品。
11月、第7回群馬県美術展に「眠る人」を出品。
11月、日本の風刺絵画展(東京国立近代美術館)に「雨」(1954)が出品される。
1957年 50歳 3月、転居(世田谷区)
5月、第4回日本国際美術展に「射的」を出品。
7月、現代美術10年の傑作展(渋谷・東横)に「落下する人体」(1954)が出品される。
10月、第21回自由美術展に「恐怖する人」を出品。
1958年 51歳 4月、転居(世田谷区太子堂)
5月、第3回現代日本美術展に「海のあやかし」を出品。
10月、第22回自由美術展に「銀座をゆく4人の画家」を出品。
1959年 52歳 1月、戦後の秀作展(東京国立近代美術館)に「落下する人体」(1954)が出品される。
2月、グルッペ・ナーベル展に「男と女」、「黒い天使」、「とんがり頭と丸頭」などの彫刻を出品。
5月、第5回日本国際美術展に「雨の夜」を出品。
10月、第23回自由美術展に「台風」を出品。
1960年 4月、超現実絵画の展開(東京国立近代美術館)に「天使」(1954)が出品される。
5月、第4回現代日本美術展に「物体」を出品。
10月、第24回自由美術展に「人(1)」、「人(2)」を出品。
1961年 54歳 1月、第12回秀作美術展に「人(1)」が出品される。
4月、鶴岡政男代表作品展(回顧展)(日本橋・白木屋)。「アクロバット」(1949)、「重い手」(1950)など28点出品。
5月、第6回日本国際美術展に「刺客」を出品。
7月、東京テレビ「美術サロン-心の深層を探る・幻想による美術実験」(構成・江原順、指導・島崎敏樹)に出演。LSDの注射を受け、わきあがる幻想を100号のカンバスいっぱいに黒、グレー、赤、青などで表現した。
10月、第25回自由美術展に「突(つく)」を出品。
1962年 55歳 5月、第5回現代日本美術展に「作品U1」「作品U2」を出品。
6月、近代日本の造形(東京国立近代美術館)に「落下する人体」(1954)が出品される。
9月、個展(東京・大丸)。テーマ<軌跡>(パステル展)。「紫の光線」、「香り」、「食卓の人」、「宇宙飛行士」などを出品。
10月、第26回自由美術展に「微笑」、「母子」を出品。
1963年 56歳 1月、第14回秀作美術展に「紫の光線」が出品される。
2月、個展(ロンドン・モントル画廊、飯田画廊主催)パステル画を出品。
5月、個展(飯田画廊)。ポコシリーズ、「忙しいポコ」、「ポコブルー」、「やけどしたポコ」、「妖精の棲むポコの巣」など出品。
5月、今日の画家たち展(フォルム画廊)に出品。
5月、第7回日本国際美術展に「夜の祭典」を出品し、優秀賞を受賞。
10月、第27回自由美術展に「妄執」を出品。
12月、昭和初期洋画展(神奈川県立近代美術館)に「母性」(1937・1962復元)が出品される。
1964年 57歳 1月、第15回秀作美術展に「獣と女」が出品される。
1月、個展(飯田画廊)パステル「鳥の帽子の女」、「花の表情」、「猫」、「ドンキホーテ」など出品。
4月、第6回現代日本美術展の審査委員をつとめる。
5月、第6回現代日本美術展に「仮面のおどり」、「水泳ターン」を出品。
7月、山下菊二、前田常作、田口武雄と恐山へ旅行。
9月、個展(飯田画廊)恐山シリーズ「光る湖」、「赤い家のある風景」、「深い眠り」、「祭の女」、「祭のオブジェ」、「湖のオブジェ」など20点出品。
10月、第28回自由美術展に「うそをつかないという人」を出品。
自由美術協会分裂、森芳雄ら38人が新たに主体美術協会をつくる。鶴岡政男井上長三郎らは残る。
1965年 58歳 1月、第16回秀作美術展に「仮面のおどり」が出品される。
5月、第8回日本国際美術展に「青いカーテン」を出品し、東京国立近代美術館賞を受賞。
5月、近代日本の裸体画(東京国立近代美術館)に「重い手」(1950)が出品される。
10月、第29回自由美術館に「出口はどこ」を出品。
1966年 59歳 1月、第17回秀作美術展に「青いカーテン」が出品される。
1月、個展(村松画廊)。油彩画「船をなめる幽霊」、「めがね」、「夜の運び屋」、「柄的人間」など大作10点を出品。
1月、個展(飯田画廊)。パステル画「微笑」、「夜の幻想」などを出品。
3月、アトリエ転居(目黒区上目黒)
5月、第7回現代日本美術展に「視点A」、「視点B」を出品し、神奈川県立近代美術館賞を受賞。
10月、東京国際美術展に「柄的人間」(1966)、「青いカーテン」(1965)を出品。
10月、第30回自由美術展に「ゴルフ」を出品。
1967年 60歳 4月、むさい展(ときわ画廊)に「ねじ」、「しめる」を出品。
5月、第9回日本国際美術展に「MEDO」を出品。
5月、個展(京都・あづまギャラリー)。油彩、パステル画を出品。
6月、個展(広島県福山市・バンカム)。パステル画「顕現」、「夜の散歩者」など出品。
7月、近代日本の水彩と素描画展(東京国立近代美術館)に「とうもろこしの人」(1951)が出品される。
10月、第31回自由美術展に「クラゲ」を出品。
11月、個展(大阪・南天子画廊)。パステル画を出品。
1968年 61歳 3月、転居(杉並区善福寺)。
3月、個展(日本橋・日本画廊)。副題<ラクガキ日本’68>「風景」、「標識と指」、「逆づり」、「引っ張る」、「ライフルマン金(ライフルマン)」など8点出品。
3月、個展(京橋・南天子画廊)。パステル小品展「二人の顔」、「石になった二人」、「青い人」、「求心」、「映像」、「黒いめがね」、「桃」、「ネオンバード」などを出品。
5月、第8回現代日本美術展に「涙する人」を出品。
7月、むさい展(ときわ画廊)に「ふたりは唄う」を出品。
10月、第33回自由美術展に「エジキ」を出品。
11月、個展(大阪・南天子画廊)。パステル画を出品。
1969年 62歳 個展(新宿・カドー画廊)。パステル画を出品。
4月、転居(大田区大森山王)
個展(盛岡)。パステル画を出品。
6月、個展(高崎・ファウンデーションギャラリー)。パステル画、油彩画を出品。
7月、アトリエ転居(葉山一色)。
8月、個展(京橋・南天子画廊)。パステル画を出品。
10月、第33回自由美術展に「エジキ」を出品。
1970年 63歳 4月、個展(渋谷・画廊代々木の森)。パステル画「ひとつ星」など36点を出品。
1971年 64歳 4月、戦後美術のクロニクル展(神奈川県立近代美術館)に「青いカーテン」(1965)が出品される。
5月、第10回現代日本美術展に「地表」を出品。
1972年 65歳 2月、戦後美術の展開・具象表現の変貌展(東京国立近代美術館)に「重い手」(1950)、「人間気化」(1953)、「青いカーテン」(1965)が出品される。
1973年 66歳 5月、現代日本美術展-現代美術20年の展望-に「射的」(1957)、「青いカーテン」(1965)、「涙」(1968)が出品される。
1975年 68歳 9月、パステル展(ドイツ・ミュンヘン、K.MORI GMBH主催)。
1976年 69歳 1月、4人展(鶴岡政男、藤沢匠、溝田コトエ、山口長男)(港区・愛宕山画廊)に「帰りみち」、「眠る人」、「春の野」、「街灯」、「夜のみち」を出品。
5月、戦前の前衛展(東京都美術館)に「リズム」(1935・1949復元)「髯」(1935)が出品される。
9月、個展(渋谷・キッドアイラック コレクシオン ギャルリ)に「夜あけ」などのほかデッサンを出品。
9月、腹膜炎手術で入院(35日間)。
1977年 70歳 3月、肺真菌症のため東大医科学研究所病院に入院。
5月、群馬秀作美術展(群馬県立近代美術館)に「夜の群像」(1949)など6点が出品される。
6月、現代美術のパイオニア展(東京セントラル美術館)に「リズム」(1935)、「髯」(1935)が出品される。
12月、戦後美術の出発展(東京都美術館)に「重い手」(1950)、「二人」(1949)、「夜の群像」(1949)、「化石」、「凶兆」(1951)、「ドンキホーテ」(1951)、「天使」(1951)、「はじまり」(1951)、「黒い行列」(1952)が出品される。
1978年 71歳 8月、パステル展(フマギャラリー)。1960年代のパステル画、約30点が出品される。
1979年 72歳 7月、パステル展(フマギャラリー)。
8月11日~9月24日、群馬県立近代美術館において、鶴岡政男の全貌展開催され、油彩、水彩、パステル、ガラス絵など172点、参考資料6点が出品展示された。
9月27日午前7時5分、肺ガンのため東京都台東区下谷病院において死去。

出 典:『日本美術年鑑』昭和55年版(291-296頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「鶴岡政男」『日本美術年鑑』昭和55年版(291-296頁)
例)「鶴岡政男 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9641.html(閲覧日 2024-03-28)

以下のデータベースにも「鶴岡政男」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top