宮内庁表西の間の装飾を大観、玉堂、靭彦に依頼
1954年04月宮内庁では、同庁三階にある儀式室「表西ノ間」を横山大観、川合玉堂、安田靭彦の新作で飾ることになつた。作品は横五尺以上の大作で、富士を題材とした大観の作品は既に完成し、靭彦は「木花咲耶姫」、玉堂は山水を題材に制作の予定。
宮内庁では、同庁三階にある儀式室「表西ノ間」を横山大観、川合玉堂、安田靭彦の新作で飾ることになつた。作品は横五尺以上の大作で、富士を題材とした大観の作品は既に完成し、靭彦は「木花咲耶姫」、玉堂は山水を題材に制作の予定。
国画会では新に会員として里見勝蔵(元独立美術協会々員)小泉清(元新樹会々員)を推薦した。両氏は国画会第二八回展から出品する。
武力紛争時における文化財保護条約に関する国際会議はユネスコ及びオランダ政府の共催により二一日から五月一二日までハーグの平和宮で開催され、代表顧問として京都国立博物館長神田喜一郎、文化財保護委員会事務局次長岡田孝平が出席した。参加四八ケ国の熱心な討議の結果、人類の貴重な遺産を戦禍から護る国際条約がはじめて実を結んだ。
東京国立博物館では同館並びに朝日新聞社主催のもとに四月一六日からゴヤのエッチング展を催した。作品はすべて、スペイン政府の提供によるもので、エッチング一一七点を展観した。
三月国宝に指定された際全巻東京に持参されたのを機に、東京国立博物館では一三日から二五日まで巌島神社蔵平家納経の特別展観を行つた。全巻揃つて展示したのは昭和十五年四月の奈良博物館以来であつた。
京都国立博物館では春の特別展として一〇日から五月末日まで中国古陶展を開催した。中国歴代の名陶約一七〇点を時代別に体系づけて、中国陶瓷史を一望におさめうるように展示したものである。
奈良国立博物館では春季特別展として四月から五月一八日まで平安初期展を開催した。奈良文化が平安遷都を契機としていかに変化し発展したかを明らかにしようとしたもので特に彫刻の陳列には苦心のあとがみられ、反響も大きかつた。
東京国立博物館では五月パリのチエルヌスキ東洋美術館で開かれるルネ・グルッセ追悼展に動物戯画断簡、北野天神縁起残欠、単庵智伝筆芦鷺図の三点を出品することになつた。尚浅野同館長は家蔵の雪舟筆彷李唐牧牛図を出品する。また七月オランダでロツテルダム市主催のもとに開催されるエラスムス展覧会には栃木県竜江院蔵のエラスムス像が出品され、三ケ月間公開される。
ニューヨーク近代美術館中庭に工事中の、吉村順三設計の書院造建築は略々完成に近づいたが、その内部を飾る襖絵その他も、東山魁夷の手で、この程出来上つた。壁貼付、杉戸、襖の三種に亘つて制作、装飾金具は芸術大学助教授内藤四郎の手になつた。
奈良東大寺の執金剛神の右手第三指第四指は明治三二年の国宝指定の時既に行方不明になつていたが、最近東京の某氏から寺に返還された。調査の結果長さ、幅とも適合し土質も本像と同質と確認されたので、一九日の文化財専門審議会で現状変更を決定、復旧することになつた。
文化財保護委員会では一九日、国宝第六次、六二件、重要文化財第五次、一二三件、史迹名勝天然記念物一八件、無形文化財一〇件の新指定を発表した。新国宝には園城寺黄不動、厳島神社平家納経等がある。
昭和二八年度(第一〇回)恩賜賞、並びに日本芸術院賞が決定し一五日、日本芸術院から発表された。 恩賜賞 沼田一雅 陶彫界に尽した功績による。 日本芸術院賞 第一部、美術 日本画 金島桂華 第九回日展出品作「冬田」に対し。 洋画 小糸源太郎 第二回国際美術展出品作「春雪」その他諸作に対し。 彫塑 清水多嘉示 第九回日展出品作「青年像」に対し。 工芸 山崎覚太郎 第九回日展出品作「三曲衝立」に対し。 楠部弥一 第九回日展出品作花瓶「慶華」に対し。 他部門略 授賞式は五月二〇日日本学士院で天皇陛下御出席の下に行われた。
アメリカ・アブストラクト美術家協会と日本アブストラクト・アートクラブ合同の日米抽象美術展が三月七日、ニューヨークのリバーサイド・ミュージアムで開かれた。アメリカ側五〇名五〇余点、日本側九名三〇余点を陳列、日本側出品者は山口長男、山口正城、村井正誠、川口軌外、恩地孝四郎、西田信一、末松正樹、植木茂、長谷川三郎であつた。
映画、文学、美術など、昨年度に於てすぐれた業績をあげたものを文部大臣が顕彰する、芸能選奨の昭和二八年度授賞者が決定、五日発表された。 日本画 岩橋英遠 (第三八回日本美術院展出品作「庭石」に対し) 洋画 中村琢二 (第一五回一水会展出品作「扇をもつ女」に対し) 工芸 各務鉱三 (第九回日展出品作「クリスタル花器」に対し) 建築 山田守 (昨年完成の「厚生年金病院」の建築に対し) 他部門略 授賞式は二五日文部大臣室で行われた。
前年米国五都市で展観され、幾多の反響を呼んだ古美術品が、四日朝横浜入港のG・マックレー号で無事帰着した。国立博物館ではこれを各所蔵家に返還する前に、一二日から二一日まで、全作品九一点の特別展観を行つた。
産業経済新聞社主催の速水御舟遺作展は三月五日から東京銀座松坂屋で開かれた。出品作品は会期中二回の掛替を行い総数二〇〇余点に及び会期も延長、二一日迄展観され、多大の感銘を与えた。
敦煌千仏洞の膨大な資料の大半は欧州各国の秘蔵するところとなって容易に展閲の機のないことは極めて遺憾とされていたが、東洋文庫ではその写しを集める計画を進め、まず英国大英博物館の蔵品をマイクロフィルムに収める交渉がこの程纏った。引続きパリ国立図書館蔵品の写しをとる交渉をしている。
日本と仏国間に考古学資料の交流が計画されていたが、全仏国美術館総長ジヨルジュ・サールが来日して最後的打合せを終え、発送の運びとなった。日本から埴輪、銅鉾鏡、釧、玉、土器等三五点が、仏国から中央アジアの仏頭一〇個、敦煌の仏画等二二点が送られる。
第二七回ビエンナーレ国際展への出品作は、二三日国際文化振興会で選考委員会を開いた結果、坂本繁二郎、岡本太郎の作品各々一〇点と決定した。発送に先立ち、三月一二日から一六日迄国立近代美術館で展示会を行った。
昭和二八年五月ニューヨークの自宅で急逝した国吉康雄の最初の遺作展が国立近代美術館で開かれた。毎日新聞社との共催で、会期は二月二〇日から三月二五日迄、油絵、デッサン、リトグラフ七八点を陳列した。