上村松園賞決定
1954年02月第四回上村松園賞は日本美術院同人小倉遊亀に決定し二〇日発表された。第三八回院展出品の「O夫人座像」及び今日迄の業績に対し授与されたものである。副賞五万円。選考委員は福田平八郎、小野竹喬、山口蓬春、山本丘人、上村松篁の五名。授賞式は三月八日東京毎日新聞社貴賓室で行われた。
第四回上村松園賞は日本美術院同人小倉遊亀に決定し二〇日発表された。第三八回院展出品の「O夫人座像」及び今日迄の業績に対し授与されたものである。副賞五万円。選考委員は福田平八郎、小野竹喬、山口蓬春、山本丘人、上村松篁の五名。授賞式は三月八日東京毎日新聞社貴賓室で行われた。
世界的コレクシヨンとして知られている、大原美術館の傑作七二点が初めて東京銀座の松屋で、大原美術館、読売新聞社主催、文部省後援の下に一九日から三月一四日迄展観された。戦後蒐集の作品をも加えた充実した展覧会であった。
一月二九日逝去した洋画家清水良雄の遺言状により、大田区田園調布の自宅は東京芸術大学美術部に寄附することになった。又文・帝展特選の大作を初め、主な遺作、画稿等も同大学に保存されることになった。
嘗つては二科会の在外特別会員として同展に作品を出品したこともあるオシップ・ザッキンの絵画、彫刻展が二月一六日から京橋ブリジストン美術館で開かれた。出品はパリから送られた素描グワッシュ三〇点、彫刻二〇点で、海外彫刻家の作品で、これだけ纏つた個展は始めてであった。
この二月で古稀を迎えた辻永の画業五〇年記念展が一六日から日本橋高島屋で開かれた。美校時代の旧作から最近作迄、一五〇余点が陳列された。
奈良薬師寺の月光菩薩の首の修理が一六日無事終つた。一年六ケ月ぶりの復原を祝つて四月二日開眼供養が行われた。
京都嵯峨清凉寺の本尊釈迦如来の胎内から雍熈二年八月一八日の年記のある造像寄進者名簿と共に延暦二三年の写経、承平八年の仮名書紙片、宋版仏画、染織断片、五臓六腑の摸型などが発見され、同寺住職塚本善隆を中心に、京博、京大の専門家が調査を進めている。
長谷川路可はイタリーローマ郊外チヴィタヴェッキァのフランシスコ修道院で、昭和二六年以来、壁画「日本二六聖人」の制作に従事していたが、二月上旬完成した。
前年春以来改修工事を行つていた浅草寺東側の二天門の修理が終つた。もと随身門として作られ、両脇に神像があつたが明治初年神仏混淆を禁じられてから多聞天持国天が安置されていた。戦前修理の予定で二天を他に移し罹災したが、この門は災害を免れたもので、重要文化財に指定されている。
二日から一四日まで、朝日新聞社の主催により、日本橋高島屋で開催、秘仏黄不動の初公開をはじめ、同じく秘仏智証大師座像、五部心観等の国宝その他約一〇〇点が出品された。
昭和二八年度朝日賞贈呈式が一六日朝日新聞社で行われた。朝日賞は京都大学文学部教授田村実造及同講師小林行雄共著「慶陵」に対し、同文化賞は辻善之助著「日本仏教史」その他に対し贈られた。
前年秋日米行政協定による道路の改修工事中、東院跡と推定される附近から掘立柱跡や溝跡のようなものが発見されたことにもとづき、文化財保護委員会では新年早々に「平城宮遺跡発掘調査会」を設け、十二日から二週間、特別史跡に指定されている同宮跡の発掘を行つた。その結果、朝堂院跡の北方で、東西桁行一八〇米、南北梁間八米程の廻廊のような建物跡が確認され、予備調査としての成果をおさめた。
第五回毎日美術賞は左の如く坂本繁二郎、山本豊市と決定一一日発表された。毎日美術賞の選考は特定の審査委員会を設けず、日本画、油絵、彫刻三部門別に、作家、評論家文化人からのアンケートによる優秀作品を基に、更に作家、評論家の専門的意見を聴取した結果、本社の東京、大阪合同委員会で討議決定する方法をとつている。 油絵 坂本繁二郎 「水より上る馬」(第二回日本国際美術展出品) 彫刻 山本豊市 「頭像」(第三八回日本美術院展出品)及び「エチュード」(第七回新樹会展出品) (以上賞金各一〇万円) 特別賞 荻須高徳 欧洲画壇に於ける活躍と日本美術界への貢献 (賞金五万円)
戦後、在外資産としてフランス政府の管理下におかれていた松方コレクションは日仏文化協定の成立を機に、フランス側の好意で近く日本に返還されることが明らかになつた。然し条件として、同コレクションはすでに個人のものではなく、仏政府管理のものであるからフランス文化を日本に紹介するものとして一般に公開し、日本政府の責任で保存、展観に必要な美術館を新たに設置することが日本政府に要望されている。それで文部省では来年度予算に一五、〇〇〇万円を計上して美術館の新設を計画、三日の次官会議で「フランス美術館設置準備協議会」(仮称)を設けることを決定、四日の閣議にはかつた上フランス政府に正式回答することになつた。
東京国立博物館が「上代彫刻」「桃山美術」につづいて二八年度の作品として製作中であつた「鎌倉美術」が完成した。
飛鳥時代伽藍配置究明のため、東京国立博物館の石田茂作ら一行は、一三日より奈良県高市郡高市村の橘寺及び定琳寺の塔跡の発掘調査を行つた。両寺の心礎の発掘に成功、多大の収穫をあげた。
一三日芸術院会員の補充選挙で第二部会員に高村光太郎が選ばれたが、二二日正式に辞退を表明した。辞退理由としては芸術院の組織、人的構成などに対する不満、また彫刻家であり乍ら、詩作に対し第二部門の会員に選ばれたことは不本意だとも述べている。
ユネスコ本部では、かねて国際造型美術家の連盟設立を斡旋していたが、ユネスコ国際委員会の努力で、一一日、日本芸術院、日本美術家連盟、日本工芸家協会三団体関係者が文部省に集り、同連盟の日本国内委員会を結成した。委員長には伊原宇三郎が推された。
一〇月以来、式場隆三郎が中心になつて計画されていた「ヴアン・ゴッホ友の会」は一二日、日本橋丸善会議室で第一回会合を開き、会組織、運営、役員選定など協議を行つた。研究会の設立、研究者との交流などを企画している。
本郷新制作の「きけわだつみの声」は京都の立命館大学の校庭に建てられることになり、八日、戦没学生追悼会の日に除幕式が行われた。