都美術館に「友の会」

1951年07月

都教育庁ではこのほど都民の美術愛好家のため“美術館友の会”をつくり、作品の鑑賞、製作、講演会などを行い、都民への美術普及と便宜をはかることになつた。

五百羅漢寺の復興運動

1951年07月

江戸時代の名刹で、もと本所五ッ目にあつた目黒の羅漢寺は最近すつかり荒れ果て、このまゝ放置すれば元禄年間巨匠松雲元慶作の五百羅漢も鉄牛和尚の銘のある鐘(重要美術)も散滅してしまうだろうと、このほど作家長谷川伸や料理研究家本山荻舟らが復興運動をはじめた。

輸出向け手工芸の技術保護

1951年07月

輸出向け手工芸品は外国人の間で珍重されているに拘らず、都内技術者は恵まれずこのまま放置すれば衰微するばかりなので東京都では技術保存のため輸出向工芸育成費九五万円を次の都議会に上程保護育成に乗り出すことになつた。

ピカソ作品展開催を発表

1951年07月

読売新聞社では四日附朝刊紙で春のマチス展につずき近く「ピカソ作品展」を開く旨発表した。

近代美術館設立委員決る

1951年07月

文部省では去る臨時国会に於て予算一億円の通過をみた国立近代美術館の設立準備委員として一〇日岡安彦三郎(東京都副知事)岸田日出刀(東大教授)高橋誠一郎(日本芸術院長)団伊能(参議院議員)安田靭彦、山下新太郎(芸術院会員)ら二三名を委嘱、一八日文部省で初会合を開くことになつた。 五百羅漢寺の復興運動 江戸時代の名刹で、もと本所五ッ目にあつた目黒の羅漢寺は最近すつかり荒れ果て、このまゝ放置すれば元禄年間巨匠松雲元慶作の五百羅漢も鉄牛和尚の銘のある鐘(重要美術)も散滅してしまうだろうと、このほど作家長谷川伸や料理研究家本山荻舟らが復興運動をはじめた。

国際建築会議へ二代表

1951年06月

七月七日から一四日まで英国ロンドンの郊外で世界一五ヶ国の建築家を集めて開かれる第八回国際近代建築会議に日本からの代表二名が二二年振りに招かれ、一九二九年度の会議にオブザーバとして出席したことのある前川国男と広島ピースセンターの設計者東大工学部助教授丹下健三が今月末空路渡欧することになつた。

目黒不動の鐘楼焼く

1951年07月

江戸時代の民衆的寺社建築の傑作といわれていた目黒区下目黒の目黒不動尊滝泉寺の鐘楼(国宝指定を申請中)から一日午前五時一五分ごろ出火、同建物一むね九坪を全焼した。

「開国百年記念文化事業会」創立

1951年06月

来年は明治天皇御生誕百年、明後年はペルリ提督来日百年に当るので、文部省ではかねて「明治文化史」「日米交渉史」の編集を計画していたが、一四日夜工業倶楽部に学界代表、財界代表数氏を招き文部省側天野文相、日高次官らと協議した結果、今年度助成金一千万円を基金にした財団法人「開国百年記念文化事業会」を創立、史料の収集と日英両文による前記両史の編集を主な事業として発足することに決定、八月から事業を開始することになつた。

第七回日展審査員決定

1951年06月

第七回日展審査員は八日日展理事会で決定、一二日日展運営会から発表された。新人審査員は五科総計二一名だつたが第四科(工芸)では初の女性審査員として人形作家の堀柳女が加わつている。

中尊寺金色堂内陣床に割れ目

1951年06月

さる七日第一次国宝指定を受けた岩手県平泉の中尊寺金色堂の内陣の床に、数日前突然原因不明の大きな割れ目が出来、驚いた中尊寺当局では一一日県に報告、原因の究明と対策について申請した。

都下で初の“木炭棺”

1951年06月

国学院大学考古学教室では一〇日から北多摩郡狛江村の古墳の発掘を開始したが、古墳時代前期に行われた埋葬法に使用されていたという木炭棺が一〇日和泉亀塚で発見された。都下ではじめてのものだという。

第一次国宝指定発表さる

1951年06月

文化財保護委員会では四日から新しい国宝の審査を行つていたが、七日の専門審議会で第一次の国宝として一八一件を決定発表した。内訳は建造物三七件、絵画二六件、彫刻二四件、書跡五三件、工芸三九件、考古民俗資料二件。

スタジオ飾るキリスト像

1951年06月

一一月頃第一声をあげる予定の日本文化放送協会ではこのほどローマ法皇から贈られたキリスト像と祭壇が着いたので新宿区若葉町の第一スタジオに取付けることになつた。像の製作者はイタリヤの著名な彫刻家A・ビニヨリーで一九五〇年完成のもの。像高五尺、一二貫のブロンズ製。祭壇は大理石製。

第三回装幀賞決る

1951年05月

九日から日本橋三越で開催の装幀相談所主催第三回装幀美術展では五日間の大衆投票を参考に一五日の審査委員会で今年度装幀賞を次の通り決定。▽一般教養書一位「思ひ川」(鍋井克之装幀)二位(二点)「親友ピカソ」(美術出版社装幀)「パリ」(渡辺一夫装幀)▽専門書一位「新都市の形態」(亀倉雄策装幀)二位「日本の時計」(館公明装幀)▽児童書一位「小川未明童話全集」全五巻(初山滋装幀)二位(該当者なし)

米高校生から名画コピーの贈物

1951年05月

マチス、ボナールなどの名画のコピー六点が二四日紐育のデビス・ハイスクールの生徒たちから目黒区の駒場高校へ飛行便で送られてきた。昨年一〇月同ハイスクールの生徒たちがパリのユネスコ本部を通じ文部省に、日本の高校生に贈物がしたいと申出てきたことから美術科を持つ都内ただ一つの高校の駒場高校がこのプレゼントを受けることになつたもの。二四日同高校に飾りつけた。

二科会に漫画部

1951年05月

“マンガも芸術である”というので二科会に漫画部が設けられ清水崑、近藤日出造らが会員に推挙された、(横山隆一にも交渉中)。今秋の二科展から発足、漫画部会員の推薦による招待出品の他ひろく公募も行うことになつた。

トーテムポールが東京都へ

1951年05月

インデアンの礼拝物であるトーテム・ポールが日米親善の永久記念物としてシヤトル市民と同市商工会議所から東京都へ送られ一四日日比谷公園で岡安都副知事等関係者に渡された。一七日から七月三日までシヤトル市で開催される日本貿易博覧会にちなみ同市から都におくつて来たもの。都ではこれを井の頭公園に月末建てた。

舞台美術作品オスローへ

1951年05月

国際演劇協会のオスロー大会と同時に開かれる舞台美術展へ作品を送ることになり、同協会日本センター創立準備委員会で協議の結果次記の模型舞台が決定、一七、八日ごろ航空便で積出すことになつた。伊藤熹朔「ミカド」、吉田謙吉「ロメオとジユリエツト」、古賀宏一「祇王村」(春陽会に出品したもの)、歌舞伎模型舞台、他に歌舞伎の絵看板、デザイン等。

天皇陛下に書画集を献上

1951年05月

現在の日本文化を代表する文学者画家三六人の手による書と画を陛下に献上、戦前戦後のご苦労をおなぐさめするという計画が生成会(代表安倍能成)の手で進められ、四日上下二冊が完成、近く献上されることになつた。三六歌仙にならつて約一年半がかりで集めたもの。

法隆寺出火事件に判決

1951年05月

法隆寺金堂出火事件の最終公判は一〇日午前一〇時半から奈良地裁玉置裁判長係りで開かれたが、元法隆寺国宝保存工事事務所長、現国立博物館国宝保存修理課長大岡実は無罪、他三名は罰金一千円の判決言渡しがあつた。

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