国際美術教育会議

1958年08月

スイス、バーゼルに於ける第10回国際美術教育会議は、日独伊仏等はじめ欧州各国参加して児童作品展示と併せ7日から12日迄行われた。日本からは松田義之手塚又四郎、霜田静志、倉田三郎等が出席、各国と共にそれぞれ「日本版画教育」「日本美術教育の今日の問題」「美術教育の国際主義と民族主義」「美術教育の立場からみた日本美術」等の意見を発表した。 

シエル美術賞(2回)

1958年07月

日本美術批評家連盟と神奈川県立近代美術館運営委員会は、シエル石油会社の委嘱によつて、第2回シエル美術賞を次の通り選定し、26日から8月10日まで神奈川県立近代美術館でシエル美術賞展が開かれた。 1等 田畔司郎 2等 宮城音蔵 3等 今野史輔 佐藤一  鈴木博 江見絹子 

大報恩寺観音像の修理成る

1958年06月

六道観音が一堂に揃つている京都大報恩寺では観音菩薩像六体の修理が完成して7ケ月ぶりに公開された。修理中に六体の胎内から8巻の経文と造立の経緯を物語る奥書が発見され、作者は「定慶」貞応3年4月藤原以久の娘が施主となつて造立されたことを明らかにした。 

韓国への返還文化財について追求(衆議院予算委員会)

1958年07月

政府は16日在日韓国代表部を通じ、同国政府に106点の文化財を引渡したが、これについて社会党今澄勇代議員は、24日の衆議院予算委員会での引渡しについての法的根拠と基本態度とを追求し、また106点のリストを要求した。外務省では、4日そのリストを資料として提出したが、それによると、これらは大正7年朝鮮の古墳から出土したもので、朝鮮総督府博物館に保管されていたものを昭和13年帝室博物館に寄贈され、その後東京国立博物館に移管されたものである。内容は金製耳飾2箇、鉄製刀子残欠5箇、鉄器残欠一括、銀製鐶2箇ほか計106点となつている。なお韓国側ではこのほかの文化財についても引続き要求しているが、日本側では日韓会談の進展とにらみ合せて解決したい意向をもつている。 

秋田市美術館開館

1958年06月

秋田市上中城町に、鉄筋コンクリート平屋建、約90坪の美術館が誕生した。郷土の文化的伝統の認識と、市民の美の教室として運営される。 

グツゲンハイム賞(2回)参加作品決定

1958年06月

第2回グツゲンハイム賞への参加は、同賞国内連絡委員会により参加作品選考中のところ6日次の通り国内賞(1千ドル)及び国際賞応募のため出品する4点の作品名が発表された。 国内賞 山口薫 林と動物(第3回現代日本美術展出品) その他の参加作品 川端実 リズム(同展出品) 山口長男 作品・黄(同展出品) 佐野繁次郎 生物(1957年第11回第二紀会展出品) 加山又造 飛翔(1957年個展出品) 

日ソ国交回復記念日本工芸美術展

1958年05月

1昨年日本アジア連帯委員会文化芸術使節団の訪ソを発端とする、日ソ文化交流の一端をなすソ連での「日本工芸美術展」は、昨年来同政府と日本側同展実行委員会との間に交渉がすすめられていたが、16日在日ソ連大使館で両国の間に正式調印をみた。同展の作品は、全国工芸作家に呼びかけられたもので工芸美術品357点、民芸品2組、図録一万部で、総額7000余万円に達した。これらの品は、30日横浜港でソ連船に積込まれ、ナホトカに向け出港した。なおソ連に於ける展覧会は8月12日からのモスクワをはじめとするモルダヴィアの首都及びオデッサ等諸都市を巡回の後、ソ連各地の博物館に保存されることになつた。 

新聞配達少年像除幕式

1958年05月

新聞配達の少年保護育成の会が、少年達に誇りをもたせるため、朝倉響子に依頼した新聞配達の少年像が完成し、31日港区麻布の有栖川記念公園で除幕式が行われた。 

ペルシヤ美術展余聞

1958年05月

ペルシヤ美術展開催に際して来日したイラン考古局総裁セイド・モハマダ・タリモスタファビ氏は正倉院の蔵品中8点をペルシヤ美術の優品として確認した。白瑠璃瓶をはじめ、碧地狩猟文錦など織物4点、金銅八曲長坏など金工品3点であるが、出土品でなく伝存したペルシヤ美術品の例は非常に稀であるという。 

岡倉天心生誕記念碑建立

1958年05月

岡倉天心の人と業績を偲ぶ岡倉天心生誕碑建設委員会は、横浜開港100年祭を機会に縁りの地本町一丁目横浜開港記念会館敷地内に記念碑を建設した。5月16日ジャー印度大使、富田幸次郎斎藤隆三ら内外関係者多数列席のもとに除幕式が挙行された。記念碑は新海竹蔵作のブロンズのプロフィルがはめこまれ、安田靭彦執筆の題字が刻まれている。 

富田ボストン美術館東洋美術部長来日

1958年05月

富田米国ボストン美術館東洋美術部長は、長年米国に在つて日本美術文化の紹介と、日米両国民の友好増進に尽した功労により、19日勲三等瑞宝章を贈られた。なお同氏は、故ウォーナー博士の供養塔が奈良法隆寺境内に建てられ、6月9日除幕式が行われたのを機会に来日したもので、7月4日帰国した。 

「原爆の子の像」除幕式

1958年05月

原爆症で死んだ友の霊をなぐさめようと、海外を含めた児童の募金による「原爆の子の像」が完成、5日広島市内平和記念公園で除幕式が行われた。像は菊池一雄東京芸大教授の製作で、高さ6米のコンクリート製台座の上に、3米大のブロンズの少女が金色の折鶴を差上げて立つて居り、鼎状の台座には「平和の鐘」がつるされて、「千羽鶴」「地に空に平和」と湯川博士が書いている。 

高村光太郎詩碑建立

1958年05月

高村光太郎記念会では、故人が戦後7年間独居した花巻市太田山口の山小屋に、套屋及び詩碑を建設し、15日その落成及び除幕式が行われた。15日は故人が疎開すべく東京を立つた日に因んだもので、詩碑及套屋の設計は谷口吉郎により、詩碑製作には実弟高村豊周があたつた。 

碌山美術館開館

1958年04月

荻原守衛(碌山)の遺作を保存する碌山美術館が、故郷の長野県穂高町に建てられ、22日開館式が行われた。同館は今井兼次早大教授の設計になり、119平方米の北欧風建物で、工費7百万円が投じられた。ここには「労働者」など15点の鋳銅彫刻をはじめ、絵画、蔵書などが収蔵陳列されている。 

日本芸術院会館開館

1958年04月

上野公園桜ケ丘に建設中であつた日本芸術院会館が完成し、30日同館で関係者多数出席のもとに開館式及び新築落成祝宴が開かれた。同会館は32年3月着工し、工費5千万円余のうち2千万円が政府予算で、残りは会員の年金寄附、展示会の収益等でまかなわれた。敷地千坪余の内に約4百坪の建物が、鉄筋コンクリート平屋建の平安朝様式で建てられ、設計には同院会員の吉田五十八が当つた。内部はクラブ、講堂、事務室に分れ、展示室には近年の院賞受賞作品が常時展示される。 

「ソビエト婦人」詩賞の受賞

1958年04月

ソ連婦人雑誌「ソビエト婦人」社では、毎年3月8日の国際婦人デーに、1ケ年を通じて雑誌に発表された記事、その他で、優秀作品に賞金をおくることになつているが、ことしは丸木俊子が紀行文「アムステルダム」で、4人の受賞者の1人に選ばれた。 

国立西洋美術館設置法成立

1958年04月

国立西洋美術館は原案によると国立近代美術館の分館として建てることになつていたが、国内及びフランス側の意見もあるので、衆議院の委員会で原案を修正し、独立美術館として設置法に明記することに24日の参議院で決定した。なお付則で34年3月11日まで経過措置として国立近代美術館分館として扱うことになつている。 

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