新海竹蔵

没年月日:1968/06/13
分野:, (彫)

彫刻家、国画会会員の新海竹蔵は、6月13日午前10時、心筋梗塞のため東京都北区の自宅で死去した。享年71歳。告別式が16日東京青山葬儀場で行なわれた。明治30年6月12日山形市の仏師の家に長子として生まれた。明治45年3月郷里の高等小学校を卒業し、10月上京、伯父の新海竹太郎のもとで彫塑を修業した。大正4年第9回文展に「母子」が初入選、以後文展、帝展に出品したが、大正13年第11回院展に木彫「姉妹」を初出品し、若手作家として嘱望され、昭和2年には日本美術院同人の推挙された。以来院展彫刻部の主要メンバーとして活躍、「出羽ケ岳等身像」(昭8)、「婦人像」(昭12)、「砧」(昭14)など、殊に木彫による秀作を発表、昭和17年には茨城県五浦に岡倉天心記念碑として天心像レリーフ(ブロンズ)の優品を作った。円熟期に入った戦後の製作活動は多くの識者の間で評価が高まり、わが伝統素材である乾漆の手法を工夫するなど、堅確質実な作風の多くの佳作を生んだ。「在田翁試作」(昭23)、「少年トルソー」(昭28)などその代表的なものであり、29年第1回現代美術展出品作「少年」が芸術選奨文部大臣賞の授賞となった。36年2月日本美術院彫塑部が解散となり、9月院展当時の同志や有望な後進と共に、彫刻家集団(S・A・S)を結成、11月銀座松屋にてS・A・S第1回展を開催した。出品作「三味線試作」「二つのトルソー」はまた好評を博した。38年10月国画会彫刻部新設に際し、S・A・Sの主要メンバーがそのまま迎えられ、国画会会員として参加した。同会彫刻部が漸く軌道にのりはじめた時、新海の急逝は誠に惜しまれる。
年譜
明治30年(1987) 6月12日山形市、父新海義蔵、母新海たけの長男に生まれる。新海家は竹蔵の曽祖父母の頃より仏師と称せられる業に従事したものである。
明治37年 山形市立第二尋常小学校に入学
明治45年 3月山形市立高等小学校を卒業。10月上京して本郷区彫刻家伯父新海竹太郎の家に寄居す。
大正4年 第9回文展に「母子」を出品して初入選。
大正6年 徴兵適齢となり甲種合格。第5回国民美術協会展に「凝視」を出品二等賞。第11回文展に「日向に立つ土工」を出品入選。12月東京中野通信隊に入隊。
大正9年 ハルピン戦時逓信所に配属、その夏陸軍上等兵となる。12月内地に帰還。
大正10年 正月中野通信隊除隊、再び新海竹太郎の下に寄居し彫刻に従う。第3回帝展に「木の実持つ女」出品入選。
大正11年 7月9日竹太郎の助手として千駄木観潮楼にて森鴎外のデスマスクをとる。第4回帝展に「二人裸女」出品。
大正12年 鶴見総持寺、大観音製作の助手をする。
大正13年 第11回院展に木彫「姉妹」出品し入選(院展初出品)。
大正14年 2月院展試作展に「二人裸女」鋳銅小品作品して試作賞。3月前年の大震災によって破損せる鎌倉長谷大仏の修理が始まり、伯父竹太郎に従ってこれに従事す。第12回院展に「S・Hの首」ブロンズを出品し、院友推挙。10月東京府北豊島郡に家を作り独立。
大正15年 2月院試作展に「宮本重良氏像」を出品、試作賞。第1回聖徳太子奉讃展に「浴女」を出品。9月第13回院展に「浴女」2人群像を出品。
昭和2年 第14回院展に「花」群像を出品。日本美術院同人推挙。
昭和3年 3月院試作展に「大尉S」出品。第15回院展に「春」「秋」「若き母」出品(春秋は東大図書館装飾のもの)10月17日武井トミ次女幸野(明治40年3月23日生)と結婚す。
昭和4年 3月院試作展に「父と子」出品。第16回院展に「春秋」「若き母」出品。
昭和5年 3月府下に転居
3月第2回聖徳太子奉讃会「道化役者」木彫出品。第17回院展に「菅原教造像」木彫と「羊」「松」出品。11月14日同年春より製作中の伯父、竹太郎の胸像を完成。
昭和6年 3月院試作展に斎藤氏小銀像を完成。9月第18回院展に「排便」セメント作出品。
昭和7年 3月試作展に「たらいと少女」木彫出品。
昭和8年 2月馬越恭平氏立像を作る。3月東大図書館壁の装飾原形を作る。4月靖国神社に献納の狛犬(石彫)を作り13日、献納式。5月東大医学部附属外来患者診療所入口上の装飾レリーフを作り9月に完成。第20回院展に「出羽ケ嶽等身像」木彫出品。
昭和9年 文部省美術研究所より依頼され、竹太郎伝記の資料蒐集に旅すること多し。
昭和10年 3月院試作展に「S翁の首」出品。4月山形県護国神社社頭の狛犬成り24日献納式。東京府美術館10周年記念展に(昭和5年作)「道化役者」を出品する。9月樺太護国神社に建立の狛犬を製作する。
昭和11年 4月改組帝展第1回に「結髪」木彫出品。9月第23回院展に「試作」泥漆を出品。
昭和12年 第24回院展に「婦人像」三味線を持つ木彫出品。9月国立公衆衛生院に「羊」「芦鷺」レリーフ製作。
昭和13年 第25回院展に「葦鷺」出品。
昭和14年 第26回院展に「朝鮮にて、砧、老人」を出品。
昭和16年 第28回院展に「兵士」セメント像出品。
昭和17年 10月五浦にて岡倉天心記念碑を彫る。11月8日除幕式。
昭和18年 第30回院展に「若鷺頭部」木彫出品。9月8日第6回満州国展開催につき彫刻部審査員を依嘱され渡満す。
昭和22年 第32回院展に木彫乾漆「M・H翁頭部」を出品。
昭和23年 3月第3回小品展に「控へ力士」出品。第33回院展に「在田翁試作」木彫乾漆を出品。
昭和24年 第4回院小品展に「吉田氏頭部」出品。昭和24年度文部省主催日本現代美術展に「在田翁試作」を再度出品。第34回院展に「少年のトルソー」横臥木彫乾漆を出品。日本美術家連盟を結成のため創立委員となる。
昭和25年 3月1949年度第1回選抜秀作美術展覧会(朝日新聞社主催)に昨年の「少年トルソー」を出陳。10月新潟県美術展に審査を依嘱される。12月美術出版社より「彫刻の技法」を出版、その中で木彫の部を執筆する。
昭和26年 第36回院展に「少年トルソー」立像、木彫乾漆を出品。10月ブラジル・サンパウロ第1回国際ビエンナーレに「在田翁試作」を出品。10月山形県展審査を依嘱され山形に行く。
昭和27年 1月第3回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「少年のトルソー」出品。7月白樹会に「少女」木心乾漆出品。第37回院展に「半迦像試作」出品。10月東京教育大学教育学部彫塑専攻科非常勤講師を依嘱される。
昭和28年 6月国立近代美術館にて近代彫塑展-日本と西洋-に「少年トルソー」出品。1月第4回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「半迦像試作」出品。教育大学内芸術学会誌スクール・アートに「木彫の基本」を執筆。
昭和29年 5月白樹会に「トルソー」テラコッタを出品。5月第1回日本現代美術展(毎日新聞社主催)に「少年」を出品する。
昭和30年 1月第6回選抜秀作美術展(朝日新聞社主催)に「少年」出品。4月昭和29年度の作品「少年」に対し、芸術選奨(文部大臣賞)を受賞。8月山形県展審査のため山形に行く。第40回院展に「少女のトルソー」出品。11月9日山形市の有志の努力により、以前供出されたる新海竹太郎胸像の再建なる。
昭和31年 第41回院展に「少年の首」木心乾漆を出品。国立近代美術館、日本の彫刻(上代と現代)展に「砧」出品。
昭和32年 5月第8回選抜秀作美術展(朝日新聞社主催)に「少年の首」出品。7月現代美術10年の傑作展(毎日新聞社主催)に「少年」を招待出品。第42回院展に「K氏の顔」出品。9月文部省主催地方巡回10周年記念明治、大正、昭和名作展に「少年トルソー」出陳。
昭和33年 1月第9回選抜秀作展(朝日新聞社主催)に「K翁の首」出品。5月第3回現代美術展(毎日新聞社主催)に「肩衣のトルソー」出品。8月山形市制70年記念日に際し、美術の指導と啓蒙の功により表彰と銀盃を受く。
昭和34年 1月近代美術館戦後秀作展に「少年」出品。2月日本美術院監事に選ばれる。5月「砧」国立近代美術館の収蔵となる。第44回院展に「U・S博士」出品。9月文部省主催、明治、大正、昭和美術回顧展(日本芸術院会員と受賞作家の秀作展)に「少年の首」出品。
昭和35年 5月第5回現代美術展(毎日新聞社主催)に「トルソー」を出品。5月玉川百科辞典造型の部木彫を執筆。7月文部省、明治、大正、昭和名作巡回展に「U・S博士」を出品。
昭和36年 2月日本美術院彫塑部解散。5月現代美術展(毎日新聞社主催)に「半迦の女」を出品。9月文部省主催明治、大正、昭和名作展に「半迦の女」木彫出品。9月「S・A・S」彫刻家集団を結成し発会式。11月銀座松坂屋にてS・A・S第1回展「三味線試作」「二つのトルソー」出品。
昭和37年 1月第13回選抜秀作美術展(朝日新聞社主催)に「三味線試作」を出品。2月文部省主催第1回全国県選抜展の賞選考委員を依頼さる。2月「三味線試作」文部省36年度優秀美術品買上げ。5月現代美術展に「D・H翁」出品。12月5日S・A・S第2回展を大丸に開く。「扇を持つ女」プラスチック出品。
昭和38年 5月S・A・S春季展に「海人」レリーフ出品。5月国際美術展(毎日新聞社主催)に「海女」を出品。白樹会第10回展(白木屋)に「少年」「扇を持つ女」「メヂィチのヴィナス」出品。10月国画会とS・A・Sの合同宣言。国画会会員となる。10月文部省主催、明治、大正、昭和名作巡回展に「扇を持つ女」出品。
昭和39年 1月第15回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「少年のトルソー」を出陳。(山形の美術博物館建設と、伯父竹太郎の傑作である、大山元師像再建に努力する)。9月文部省主催、明治、大正、昭和名作美術展に「D・H翁頭部」を出品。
昭和40年 39回国画会展に「海女」出品。5月国際美術展(毎日新聞社主催)に「三味線」出品。9月文部省主催、明治、大正、昭和名作巡回展に「M嬢」を出品。12月近代美術館に「砧」を寄贈せる件による紺綬褒章をうける。
昭和41年 第40回国展に「少女」出品。5月阪大初代総長、長岡半太郎博士胸像完成。文部省主催、明治、大正、昭和名作展に「海女」小品鋳銅を出品。
昭和43年(1968) 1月東京教育大学講師を辞任。42回国画展に「K・Sの首」出品。5月第8回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「海女」出品。5月山形美術博物館に伯父新海竹太郎遺作陳列室完成、陳列指導のため山形に行く。6月13日午前10時急激な心筋梗塞のため死去す。満71歳。勲4等瑞宝章授与される。9月山形美術博物館において代表作品37点による新海竹蔵遺作展が開催される。開催中平櫛田中翁「新海竹蔵の人と芸術」と題して講演。
新海竹蔵作品集」(44年4月、国画会彫刻部刊)年譜参照。

出 典:『日本美術年鑑』昭和44年版(65-67頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「新海竹蔵」『日本美術年鑑』昭和44年版(65-67頁)
例)「新海竹蔵 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9047.html(閲覧日 2024-10-05)

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