高村光太郎

没年月日:1956/04/02
分野:, (彫)

詩人、彫刻家高村光太郎は、4月2日肺結核のため、中野区の故中西利雄のアトリエで逝去した。享年73歳。明治16年3月13日彫刻家高村光雲の長男として東京に生れた。明治30年東京美術学校予科に入学、35年本科彫刻科を卒業し、しばらく研究科に在籍していた。この間、与謝野鉄幹の新詩社に入り、「明星」に短歌を発表しはじめた。また、ロダンに傾倒し、岩村透のすすめで39年に渡米、ニューヨーク、ロンドン、パリに学び、42年帰国、荻原守衛と共に、日本に初めて近代彫刻を導入した。油絵にも筆をとり、雑誌「スバル」誌上にマチスの画論を紹介し、又当時としては画期的なエッセイ“緑の太陽”を発表するなど、文筆によつても積極的に近代造型運動の先鞭をつけた。大正元年には、我国最初の印象派、フォーヴの集団「フュウザン会」を興し、また北原白秋、木下杢太郎等と交友し、「パンの会」の会員でもあつた。大正3年詩集「道程」を出版、長沼千恵子と結婚した。この頃から詩作や翻訳出版は多くなるが、彼の造型にたいするきびしさは次第に彫刻の制作を少くしていつた。昭和13年夫人智恵子を失い、翌年詩集「智恵子抄」を出版、自らもまた胸を患つた。第二次大戦中アトリエの罹災を機に、岩手県花巻市に疎開、農耕自炊の生活に入つた。昭和27年青森県の委嘱による十和田国立公園功労者顕彰記念碑の彫像を決意して上京、故中西利雄のアトリエに起居し裸婦像の制作にかかつた。28年10月完成したが、著しく健康を害し、この像が最後の制作となつた。なお詩集「道程」は第1回芸術院賞をうけ、昭和22年及び28年と再度にわたつて芸術院会員(第二部、詩の部門として)に推されたが、固辞した。
略年譜
明治16年 3月13日木彫家高村光雲の長男として東京下谷に生れた。
明治30年 東京美術学校予科に入学。
明治31年 東京美術学校本科彫刻科に進む。
明治33年 鴎村、砕雨等の名で短歌、俳句をつくり「新詩社」「明星」に関係する。
明治35年 東京美術学校卒業、研究科にのこる。卒業制作「獅子吼」(石膏)のほか、「薄名児」「五代目菊五郎像」など制作。
明治39年 2月岩村透のすすめで渡米、ニューヨークでアートスチューデント・リーグの夜学生となる。
明治40年 6月、ロンドンに渡る。バーナード・リーチ、荻原守衛と親交。
明治41年 6月、パリに移る。
明治42年 6月、帰国。「パンの会」に入り、また雑誌「スバル」に評論、翻訳を発表する。
明治43年 東京神田に画廊「琅★堂」をひらく。
明治44年 次々に詩作を発表。5月、北海道移住を志し渡道したが、まもなく帰京。長沼智恵子を知る。「父の首」(ブロンズ)制作。
明治45年 6月、東京駒込にアトリエ完成。油絵の制作多く、11月、岸田劉生等とフューザン会を結成する。「松方正義の首」(ブロンズ)。
大正2年 岸田劉生等と生活社展を興す。
大正3年 詩集「道程」出版。12月長沼智恵子と結婚。
大正4年 「印象主義の思想と芸術」出版。又、「ロダンの言葉」(翻訳)を雑誌に発表しはじめる。この頃か
ら彫刻に専心する。
大正5年 「ロダンの言葉」(翻訳)出版。
大正6年 米国における彫刻展を計画して、彫刻頒布会をつくるも不成功に終る。
大正7年 「手」「腕」「ピアノを弾く手」(ブロンズ)など此の頃の作。
大正9年 「続ロダンの言葉」(翻訳)出版。
大正10年 「老人の首」(ブロンズ)この頃の作。「回想のゴッホ」、ヴェルハアラン「明るい時」など翻訳出版するほか、11月復刊の雑誌「明星」に、「雨にうたるるカテドラル」などの長詩、或は散文を発表。
大正13年 「蝉」「魴★」(木彫)制作。«木彫小品を頒つ会»をつくる。ロマン・ロラン「リリユリ」(翻訳)出版。
大正14年 「鯰」「白文鳥」「蓮根」(木彫)この頃の作ヴェルハアラン「天上の炎」(翻訳)出版。
大正15年 「老人の首」(ブロンズ)「鯰」(木彫)を聖徳太子奉讃展に出品。他に「大倉喜八郎の首」(テラコッタ)など。武者小路実篤とロマン・ロラン友の会を興す。
昭和2年 「中野秀人の首」(石膏)、「住友君の首」(ブロンズ)など大調和展に出品。「桃」(木彫)もこの頃。評伝「ロダン」出版。
昭和7年 「黒田清輝胸像」(ブロンズ)。
昭和8年 「成瀬仁蔵胸像」(ブロンズ)。
昭和9年 夫人智恵子は、昭和6年精神分裂症の徴候を示して以来病状次第に悪化のため、九十九里浜に転地する。10月、父光雲没す。この頃、彫刻、詩の制作は殆どみられない。
昭和10年 「高村光雲胸像」(石膏)。
昭和13年 10月、智恵子、粟粒性結核で没す。
昭和16年 随筆集「美について」、詩集「智恵子抄」出版。
昭和17年 評論集「造型美論」、詩集「大いなる日に」出版。
昭和18年 随筆集「某月某日」、詩集「おぢさんの詩」出版。
昭和19年 詩集「記録」出版。
昭和20年 4月、アトリエ戦災にあい、多くの作品も焼失。5月、岩手県花巻市宮沢清六方に疎開、ここも8月に戦災をうけ、10月、稗貫郡に移り、小屋で農耕自炊の生活に入る。
昭和22年 連詩「暗愚小伝」を雑誌「展望」に発表。
昭和25年 詩集「典型」、「智恵子抄その後」出版。
昭和27年 10月、十和田湖畔に建てる裸婦像制作のため上京、中野区の故中西利雄のアトリエに起居し、自炊生活をしつつ制作にかかる。11月、丸ビル内中央公論社画廊で高村光太郎小品展開催。
昭和28年 右の裸婦像完成。10月十和田湖畔休屋御前浜に建立、除幕。
昭和29年 ブリヂストン美術館制作の映画「高村光太郎」完成。随想「アトリエにて」を雑誌「新潮」に連載発表。
昭和31年 かねてからの胸部疾患悪化し、4月2日、肺結核のため逝去した。享年73歳。

出 典:『日本美術年鑑』昭和32年版(175-176頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「高村光太郎」『日本美術年鑑』昭和32年版(175-176頁)
例)「高村光太郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8816.html(閲覧日 2024-12-03)

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