加山又造

没年月日:2004/04/06
分野:, (日)
読み:かやままたぞう

 日本画家の加山又造は4月6日午後10時25分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年76。1927(昭和2)年9月24日、京都市上京区相国寺東門前町に、西陣織の衣装図案家の父加山勝也、母千恵の長男として生まれる。祖父は京狩野派の画師。44年京都市立美術工芸学校絵画科を修了後、東京美術学校日本画科に入学。45年学徒動員で学業を中断するが、翌年再開し、49年同校を卒業、山本丘人に師事する。丘人らが結成した創造美術の第2回展に「風神雷神」を出品するも落選。50年早々より創造美術の研究会に出席、その年の春季創造美術展に「自画像」「動物園」が初入選し、研究会賞を受賞する。51年創造美術が新制作派協会に合流、新制作協会日本画部となって以後、同年第15回新制作展で『ライフ』誌でみたラスコー洞窟の壁画に触発されて制作した「原始時代」が新作家賞を受賞、同会会友となる。次いで53年第17回展「月と犀」等四点、54年第18回展「悲しき鹿」「迷える鹿」、55年第19回展「駈ける」が連続して新作家賞を受賞、56年同会会員となる。この時期、動物をモティーフにシュルレアリスムや未来派等、ヨーロッパの造形手法を果敢に取り入れた作風を展開、戦後日本画の革新的傾向を代表するものとして大きな注目を浴びた。58年第2回グッゲンハイム賞国際美術展に「飛翔」を出品、川端実山口長男らとともに団体賞を受賞した。57年にはその後親交を結んだ横山操を知り、58年ごろから縣治朗に切金の技術を学ぶ。59年には村越画廊の主催により横山操石本正と轟会を結成。この頃より61年第25回新制作展「火の島」等、大画面を中心とした装飾的な画風へ移行。65年には大阪・金剛寺所蔵の「日月山水図屏風」に想を得た第29回新制作展「夏冬山水」および翌年の第30回展「春秋波濤」、さらに67年第9回日本国際美術展「雪月花」、70年第34回新制作展「千羽鶴」など、大和絵や琳派の技法を鋭い現代的感性のもとに展開した作品を発表、73年日本芸術大賞を受賞、74年創画会発足とともに会員となった。78年東京国立近代美術館の吹き抜けを飾る壁画として「雪・月・花」を八年越しで完成。“現代の琳派”と称され、幅広い人気を集める一方で、70年代には「黒い薔薇の裸婦」「白い薔薇の裸婦」等、繊細な線描による裸婦像で女性美を追求。また70年代末からは水墨表現に本格的に取り組み、身延山久遠寺本堂天井画「墨龍」(84年)などを発表。技術的には染色手法からエアガン、バイブレーター噴霧器まであらゆる技法を駆使しつつ、北宋山水に私淑し90年前後より倣作を行った。その他にも陶板壁画や緞帳、ジャンボ機や客船の内装デザイン、BMW社から依頼されたアートカーのデザインなど、工芸的な仕事に幅広く挑戦している。66~73年、77~88年に多摩美術大学教授、88~95年に東京芸術大学教授をつとめ、80年、前年の第6回創画会出品作「月光波濤」により芸術選奨文部大臣賞、82年第1回美術文化振興協会賞を受賞。1995(平成7)年東京芸術大学名誉教授、97年文化功労者となる。同年天龍寺法堂の天井画「雲龍」が完成。98年には東京国立近代美術館で回顧展が開催された。2003年文化勲章受章。

出 典:『日本美術年鑑』平成17年版(346-347頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「加山又造」『日本美術年鑑』平成17年版(346-347頁)
例)「加山又造 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28294.html(閲覧日 2024-04-26)

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