古沢岩美

没年月日:2000/04/15
分野:, (洋)
読み:ふるさわいわみ

 洋画家古沢岩美は、4月15日午後10時28分、肺気しゅのため東京都板橋区の板橋医師会病院で死去した。享年88。古沢は、1912(明治45)年2月5日、佐賀県三養基郡旭村に生まれる。1927(昭和2)年、久留米商業学校を退学し、親類をたよって朝鮮大邱に渡るが、28年に上京して、岡田三郎助宅に寄宿する。その間、光風会展、春台美術展に出品した。34年、岡田宅を出て、東京豊島区長崎町にあった「長崎アトリエ村」に移り、ここで画家たちとの交友をひろげるとともに、前衛美術を志向するようになった。38年3月、第8回独立美術協会展に、シュルレアリスムに学んだ「蒼暮」、「地表の生理」を出品、一躍注目されるようになった。同年4月、寺田政明小牧源太郎北脇昇糸園和三郎吉井忠ら19名と創紀美術協会を創立した。しかし、同年10月に第1回展を東京で開催した後、解散。同会のメンバーの一部とともに、39年5月には美術文化協会結成に参加し、翌年第1回展から出品をつづけた。また、同年、東京朝日新聞が創立50周年記念に挿画コンクールをおこない、これに応募して当選した。に43年応召、久留米の部隊に配属され、中国大陸に送られる。終戦後、1年間捕虜生活を送り、46年復員した。47年、日本アヴァンギャルド美術家クラブ発会に参加。戦後の作品として、48年の第1回モダン・アートクラブ展に出品の「憑曲」、52年の第1回日本国際美術展に出品の「餓鬼」、56年の第2回現代日本美術展に出品の「斃卒」など、戦時中の体験と、戦後社会の混乱を告発する作品として注目された。55年に美術文化協会を退会。66年、『千夜一夜物語』(大場正史訳、河出書房、全8巻)、翌年、『カザノヴァ回想録』(窪田般彌訳、河出書房、全6巻)の挿絵をそれぞれ描いた。75年5月、山梨県西八代郡上九一色村に古沢岩美美術館が開館。82年、板橋区立美術館において「古沢岩美展」が開催され、初期から近作まで約130点によって回顧された。同展図録に、古沢自身が、「上から見れば「世間は虚仮」であろう。しかし虚仮の世間の中に不易の真実を発見してこそ芸術は存在価値があると思う。私が社会問題を取上げるのは時代の証言を残すためであり、エロチシズムを主題に選ぶのは不易への挑戦である。」という言葉を寄せている。これは、戦後から一貫した古沢芸術のテーマと姿勢をものがたるものといえる。1994(平成6)年には、郷里である佐賀県鳥栖市から、市民栄誉賞を受けた。

出 典:『日本美術年鑑』平成13年版(233頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「古沢岩美」『日本美術年鑑』平成13年版(233頁)
例)「古沢岩美 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28182.html(閲覧日 2024-04-25)

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