富田幸次郎

没年月日:1976/04/10
分野:, (学)

ボストン美術館アジア部名誉部長富田幸次郎は4月10日、老衰に肺炎を併発し、入院中のベス・イスラエル病院で死去した。享年86。明治23(1890)年3月7日京都市で生れた。父富田幸七、母ランで、父幸七は好室と号し漆芸家で、京都市立美術工芸学校教諭の職にあった。富田幸次郎は、明治39(1906)年京都市立美術工芸学校を卒業し、同校専攻科において漆芸研究中、農商務省海外実業練習生に選ばれ、同時に京都市嘱託として渡米し、ボストンに留学した。父幸七と、漆芸家六角紫水とは親交あり、六角紫水は岡倉天心の知遇を得て当時ボストン美術館に在任中であった。このような経緯から幸次郎の渡米が成ったともいわれる。ボストンに到着後、ボストン美術館日本部々長であった岡倉天心に迎えられ、農商務省海外実業練習生及び京都市嘱託のまま、ボストン美術館日本部嘱託員をなった。以後、支那日本部助手、同管理員、同副部長を歴任、昭和6(1931)年支那日本部を改称したアジア部部長に就任した。昭和38年73歳をもって、勤続56年にわたるボストン美術館を後進に道を譲るために引退した。この間専ら東洋美術の収集、整理と紹介につとめた。ボストン美術館日本部は、フエノロサ及び岡倉天心らの多大な尽力によって創設されたもので、特に東洋美術品の収蔵は約10万点も数え、その80%は日本美術といわれる。その資料的価値は世界第一であり、同美術館が世界的に有名なのも上記理由によるが、これらは創設者についで富田幸次郎の50有余年にわたる、不断の努力精進に負うものであることは、内外の関係者が等しく認めるところである。また美術を通じて米国人の間に多くの知己を有し、中でもハーバード大学付属フォグ美術館東洋美術部主任の地位にあった故ウォーナー博士とは多年に亙る深い親交を結んでいた。第二次大戦において、京都及び奈良が爆撃の被害を免かれたのは、もとより故ウォーナー博士の努力に負うところが大であったが、そのかげに富田幸次郎の尽力があったことは掩うべからざる事実である。美術館活動における功績のほか、このように米国人との交流、さらに識見、円満な人格が多くの尊敬を集め、大戦中も米国当局は抑留せず、アジア部長の職をも奪わないという異例の措置をとった。また在任中行った講演、著作など数多い。(本文及略歴は、茨城大学五浦美術文化研究所所報6号「富田幸次郎先生を偲んで」緒方広之執筆を参照した。)
略歴
明治23年(1890) 3月7日、京都市に生る。父富田幸七、漆芸家、京都市立美術工芸学校教諭。号好室。
明治40年(1907) ボストン美術館支那・日本部部長岡倉天心の知遇をうけ、農商務省海外実業練習生及京都市嘱託のまま、ボストン美術館支那日本部嘱託員となる。
昭和41年(1908) ボストン美術館支那・日本部助手となる。ニューヨーク、メトロポリタン美術館の臨時嘱託員として1年間勤務。
明治42年(1909) 帝室博物館依嘱により、ボストン市在住蒐集家よりの寄贈受入のための選択の任に当る。ハーバード大学夏期講習を受講。農商務省実業練習生期間満了。京都市嘱託継続。
明治43年(1910) 日英博覧会日本出品協会事務取扱を嘱託され、英国に滞在する。フランス、ベルギーを視察。
明治44年(1911) 日本国内博物館視察の用務をおび出張。(第1回帰国)
大正2年(1913) ボストン美術館支那・日本部の管理員となる。(この年岡倉天心没)
大正5年(1916) ボストン美術館支那・日本部の副部長に就任。
大正8年(1919) 美術調査の用務をおび帰国。(第2回帰国)
大正12年(1923) Miss Hariet E. Dickinsonと結婚。
大正13年(1924) 美術調査の用務をおび帰国。(第3回帰国)この間茨城県五浦を訪問、天心未亡人と会合し、天心の墓参をする。
昭和6年(1931) ボストン美術館アジア部部長に就任。
昭和10年(1935) ハーバード大学創立三百年記念事業である「日本古美術展」をボストン美術館で開催するため、借用要請の用務をおび帰国する。(第4回帰国)帰途印度、欧州を経由。
昭和11年(1936) 前年要請の「日本古美術展」出品作品借用の用務にて、エジウェル館長とともに帰国。(第5回帰国)
昭和14年(1939) ボストン美術館アジア部長とともに、セーラム市のピーポディ博物館日本部名誉部長に就任する。
昭和16~20年(1941~1945) 日米開戦により、在留邦人は抑留されたが、何等制約を受けず、職も在任のまま継続された。さらに「戦争地域における、芸術的、歴史的記念物を保護救済することを目的とする委員会」の一員として、日本部主任ラングドン・ウォーナー博士を助け、日本の文化財保護のため尽力した。
昭和28年(1953) 米国に帰化する。
昭和33年(1958) ボストン美術館在勤50年を機に、東洋美術の調査を兼ね、世界周遊旅行の途次来日した。(第6回帰国)政府は多年米国に在って、東洋並びに日本美術の蒐集、整備、紹介等における活動に対し、また第二次大戦中の日本文化財保護の努力、その他一般文化面での功績に対し、勲三等瑞宝章を贈った。なおこの折、横浜市の「岡倉天心生誕之地記念碑」除幕式に出席し、又法隆寺に建立されたラングドン・ウォーナー博士の供養塔除幕式にも出席した。
昭和34年(1959) 長年東洋美術研究に寄与した広汎な活躍に対し、ボストン大学から表彰される。
昭和36年(1961) アメリカ美術科学会員に推される。
昭和38年(1963) 後進に道を開くため、73歳を機にボストン美術館を退職する。9月、夫妻で日本訪問旅行する。(第7回帰国)秋、茨城大学五浦美術文化研究所に建立された岡倉天心記念館の開館式に出席する。
昭和51年(1976) 4月10日逝去。
著作目録
○ ボストン美術館所蔵支那名画目録(漢―宋時代)
第2版 1938年の編纂及解説
○ ボストン美術館所蔵支那名画目録(元明清時代)
初版 1960年の編纂及解説
○ Encyclopaedia Britanicaの中Art, Screenの項執筆。
○ 農商務省彙報、京都美術への報告、寄稿。
○ Bulletin Of The Museum Of Fine Arts, Bostonへの東洋美術品の解説及紹介等。

出 典:『日本美術年鑑』昭和52年版(276-278頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「富田幸次郎」『日本美術年鑑』昭和52年版(276-278頁)
例)「富田幸次郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9758.html(閲覧日 2024-04-21)

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