山南会結成
1939年11月土田麦僊逝去後その山南塾は解散されたが、新に門下の有志十四名は山南会を結成した。
土田麦僊逝去後その山南塾は解散されたが、新に門下の有志十四名は山南会を結成した。
静岡県美術協会では、昨年物故した長尾建吉の県美術界に尽尽した功績に酬ゆるため記念美術会館設立を計画中であつたが、紀元二千六百年を期し国策に沿ふべく案を改め静岡特産指導会館を建設することになつた。静岡市内に二階建の建物を作り、展覧会場、集会場、美術工芸指導研究室等を設ける計画である。
眼病のため失明した彫刻家和田垣良雄は、イタリアの失明軍人フィリツプ・パウゾラから今春大日本傷痍軍人会に贈られた愛児を撫する盲人のブロンズ像に感激し、返礼の作品として群像「親睦」を製作、構造社に出品したが、斎藤素厳の援助を得てブロンズに仕上げイタリアの傷兵に贈ることとなつた。
今夏逝去したラグーザ玉の追憶碑が玉交会によつて麻布区宮村町長玄寺の故人の墓側に建設され、十一月十八日関係者参集除幕式が行はれた。
南洋興発株式会社が畏きあたりへ献上する南洋風景画製作の依嘱をうけた丸山晩霞は、十一月中旬南洋委任統治領へ出立した。
荒木季夫、岩佐新、大隈為三等批評家、美術記者十九名を発起人とし「我邦に於ける美術の正常なる発展に寄与する為、斯界に生起する諸問題を研究討議し、是に善処するを以て目的とす」る美術問題協議会が結成された。
蒔絵の名家植松包美の七周忌を迎へ、十一月十一日門下生参集四谷須賀町円通寺で法要を営み、翌十二月築地花月で遺作を展観した。
近衛師団の演習は大元帥陛下天覧の下に十一月八日富士裾野で行はれたが、同師団ではこの光栄を伝ふるため清水良雄に委嘱、その盛儀を謹写せしむることとなり、清水は従軍して写生を行つた。
大日本護王会では紀元二千六百年記念事業として和気清麿公銅像を宮城前、京都護王神社、宇佐八幡宮の三ケ所に建設する計画をたて、清麿公銅像建設期成会を組織して実現に努めてゐたが、製作者として北村西望、朝倉文夫、佐藤朝山の三名が推され何れとも決しかねて右三名に原型を委嘱、その一を選出することとなり、競作問題として美術界の注意をひいたが、十月末に至り朝倉は製作を辞退、北村、佐藤の原型高さ六尺の雛形ができたので十月二十九日帝国産金会社で関係者が内見した。細川護立候、正木直彦、清水澄、滝精一、矢代幸雄、児島喜久雄、関保之助らが審査を委嘱されたが、審査は穏当ならずとしてその形式をとらず参考意見を提出し、結局佐藤が宮城前、北村が護王神社の分を夫々担当することに決つた。然るにこの結果には公正な芸術的批判以外のものが伏在するといふ理由で、その後北村は製作を辞退し佐藤の製作のみが実現されることとなつた。
世界戦史に輝く上海陸戦隊を記念するため、上海広中路の戦跡に海軍上海戦表忠塔が建設されることになり、設計の委嘱を受けた日名子実三は現地を視察中の所十月三十一日帰国した。
ニユーヨーク万国博覧会は十月末を以て閉会、更に来春再開される予定であるが、ニユーヨーク市では同博覧会終了後その敷地に公園を建設する計画で、かねてより好評であつた日本館を庭園と共に同公園内に永久保存したき旨申出があつたが、わが当局では十月三十日右希望の通りこれらを同市に寄贈する旨正式に通告した。
サンフランシスコ金門万国博覧会は十月二十九日閉会したが、日本館は開場以来人気をあつめ最終日も入場者殺到の盛況を呈した。同日午後五時佐藤総領事初め多数在留民参列、厳粛な日本館閉鎖式を行つた。
市川市葛飾倶楽部では十月二十九日午後同市真間山弘法寺書院で、太田南岳、桐谷洗鱗、同天香、瀬川独活等の慰霊祭をかねて遺墨展を開催し、知人遺族らが集つて追憶談に先輩を偲んだ。
中華民国新民会中央指導部では、興亜精神に基き華北美術振興を目的として興亜美術展覧会を北京に開設することとなり、その第一回を十月二十八日から十一月三日まで、北京中央公園内新民堂、董事会、水?亭の三会場で開いた、わが国からは石井柏亭その他洋画家二十余名の賛助出品があつた。同展覧会は名誉会長に湯爾和臨時政府教育部総長、会長に繆斌新民会中央指導部長、賛助員に臨時政府、日本大使館関係者、北京、天津両市長等を推すもので、審査員は第一部中国国画学会長周肇祥、溥儒、斉白石、黄賓虹、第二部天津博物館院長厳智開、北京美術学校長服部亮英、第三部国立北京芸術専科学校長王石之、同教授鹿島英二らである。
東京美術研究所では、十月二十六日午後銀座松風陳列所階上で文展批評座談会を開いた。
華中鉄道会社では中支各地の風物を絵にして銃後国民に紹介するため、伊東深水、飛田周山、酒井三良、上村松篁、三輪晁勢、池田遥村の六画家を招聘することとなり、一行は十月二十五日神戸発、約一ヶ月の旅程で出発した。
第一回芸術学会開催を機とし、日本文化協会では十月二十日夜日比谷法曹会館で同学会委員を中心として芸術一般に亙る研究座談会を開いた。
ニユーヨーク万国博覧会に出陳された藤野舜正作塑像「銃後工場の護り」は、ニユーヨーク市の希望で永く同地に残し寄贈されることになつた。この作は昨秋の第二回文展で特選を得たものである。
文部省では十月十八日から四日間、日本諸学振興委員会第一回芸術学会を同省内で、又十月二十一日同公開講演会を日比谷公会堂で開いた。同学会の趣旨は「国体、日本精神の本義に基き芸術、芸術に関する諸学の内容、方位並に教授の実際を研究討議して之が創造発展に資せんとす」るにあり、研究発表主題は「我が国家と芸術」である。研究発表者は二十九名、毎研究発表毎に十分づつの質問討議を行つた。参加者は諸大学及び学校の芸術関係諸学科担任教職員、教育関係官、民間研究者等で、盛会であつた。なほこの機会に同学会参加者の為に、毛利公爵家、細川侯爵家及び岩崎男爵家で所蔵品の特別展観が行はれた。
わが国工芸品の輸出振興を計るため、日本輸出工芸聯合会では商工省から本年度補助金十四万円、来年度十八万円を交付されることになり、ニユーヨークのロツクフエラー・センターにあるインターナシヨナル・ハウスに輸出工芸品海外出張所を設置し、宣伝販売の常設機関とすることになつた。