造形美術学会創立

1940年01月

批評家横川毅一郎は美術文化の諸研究発表のため、造形美術学会を設立した。

越後工芸美術界結成

1940年01月

旧来の越佐工芸美術会を解消し、新に新潟県出身の工芸美術家に依り越後工芸美術会が結成された。

大光会設立

1940年01月

東光会の大阪支部として大光会が設立され、斎藤与里の指導のもとに洋画の研究発表を行ふこととなつた。

日本刺繍院創立

1940年01月

刺繍工芸の芸術探究と、基礎建設を目的として京都に日本刺繍院が創立された。

日伊文化連絡協議会第一回打合会開催

1940年01月

日伊文化協定に基き予て準備中であつた同協議会第一回打合会を一月二十七日外務次官官舎に於て開催し、協定の精神に則つて学術、文学、美術、映画、ラヂオ其他による文化交換の具体化に邁進することとなつた。

長流画塾慰問画献納

1940年01月

川合玉堂の長流画塾に於ては一昨年五月、昨年七月に続き、玉堂をはじめ門生百四十余名が陸海軍の傷痍軍人慰問の為陸軍省へ百十三点、海軍省へ二十九点を夫々献納した。一月二十七日献納に先立ち神田如水会館に於て内見を行つた。主なるものに玉堂の「渓林春浅」「山家春靄」、希望の「水邨初夏」「叭々鳥」等があつた。

岡田賞新設

1940年01月

岡田三郎助の遺志に依り、一月二十七日同遺族は吾が洋風画の奨励の為遺産の一部一万円を割いて岡田賞を設定、文展、二科、独立美術、新制作派、一水会、春台美術、光風会の各団体の出品作より選び、賞金百円宛を贈ることとなつた。

朝日文化賞贈呈式挙行

1940年01月

昭和十四年度朝日文化賞は、同社内特設の委員会に於て審議の結果十七氏が推挙され、一月二十日受賞者諸氏を招待贈呈式及び記念講演会を挙行した。美術部門に於ては橋本関雪の「軍馬二題」小磯良平の「南京中華門戦闘図」が推挙された。

忠霊塔図案懸賞当選決定

1940年01月

大日本忠霊顕彰会に於て予て懸賞募集中の忠霊塔図案は、一月六日軍部及び建築、工業、美術各方面の審査委員会に於て審査を行ひ、第一種(支那大陸に建設するもの)第二種(内地大都市に建設するもの)第三種(内地市町村に建設するもの)の三種につき各一等一名、二等二名、三等三名及び他に佳作三十一名合計四十九名の入賞を決定した。各一等当選者は、第一種椋原正則、第二種竹崎文二、第三種星野昌一であつた。

塊人社復活

1939年12月

今春絵画部を解消して彫刻のみの団体となつた主線美術協会は、旧称に戻つて塊人社を復活させた。 

宮城外苑整備事業奉賛会設立

1939年12月

東京市の紀元二千六百年記念事業として実施中の宮城外苑整備事業完成のため、市民各層の代表者を網羅し頼母木市長を会長とする宮城外苑整備事業奉賛会が結成された。

朝日新聞挿絵コンクール

1939年12月

朝日新聞社では同紙創刊五十周年を記念して、現代小説当選作の挿絵担当を約束する挿絵コンクールを募つたが、去る九月末の締切で応募千二百七十八点に達し、爾来審査中の所第一次予選(通過七十一点)及び第二次予選の結果関東側三名、関西側四名を得たので、十二月三日この七名を東朝社に招き、席上試作、街頭スケッチ等に最後の審査を行つた。

浅井忠三十三回忌

1939年12月

浅井忠の三十三回忌が、門人達による黙語記念会の主催で、十二月十六日故人の画室の現存する下谷区上根岸町三八河合勝夫宅で行はれた。遺族を囲んで旧友門下等四十余名参集し盛会であつた。

伊勢神宮模型ヴアチカンに寄贈

1939年12月

三井高陽男の寄附により国際文化振興会の斡旋で、伊勢神宮の白木造りの模型をローマのヴアチカン宮に贈ることになり、十二月初旬ほぼ完成、来春一月ローマ教皇使節館を通じて発送されることになつた。

関雪聖戦記念画献納

1939年11月

橋本関雪は聖戦記念画八点を製作したが、いづれも適当な所へ献納又は寄贈することとなり、「恵日東臨」六曲一双は宮内省へ、「戦塵」「残照」は靖国神社へ、「軍馬二題」六曲一双は帝室博物館へ夫々献納と決定、「焼土春かへる」外の草稿七点は大礼記念京都美術館へ寄贈、「江上雨来る」「河霧」は未定、未完成の「両面愛染明王」は引続き執筆中で、これらの作品は「聖戦余塵」と題して出版された。

現代日本画贈呈式

1939年11月

藤原銀次郎によつて齎されたヒトラー総統に贈る綴れ錦壁掛並にドイツ政府に贈る六十一点の現代日本画の贈呈式が、十一月二十七日ドイツ国立博物館で行はれた。

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