丸山晩霞
水彩画家山岳画家として著名な大平洋画会員日本水彩画会理事丸山晩霞は、郷里長野県小県郡羽衣荘で静養中のところ3月4日死去した。享年76。本名は健作、18歳の時上京して神田の勤画学舎に学び、一旦帰郷の後彰技堂に入塾、洋画を修業した。吉田博、三宅克己と親交を結び、明治32年満谷、河合、鹿子木等と共に渡米、欧州を廻つて34年帰朝、翌35年には大平洋画会設立に尽力した。40年大下藤次郎等と日本水彩画研究所を設立、44年より再渡欧してアルプスを尋ね、大正3年大正博覧会には「白馬の神苑」を発表し好評であつた。爾後晩年まで製作を続け、各地風景画を描いて次第に南画的傾向も帯びたが、芸術上の活動は衰へた感がある。昭和15年には三笠宮殿下に末松中将を経て南洋風景画を献上し奉つた。
略年譜
慶応3年 5月3日長野県小県郡丸山平助次男として生る、名健作
明治16年 一時児玉果亭に師事
明治17年 上京して神田錦町勤画学舎に洋画を学ぶ
明治18年 帰郷
明治21年 上京、彰技堂入塾
明治24年 自活に窮し帰郷
明治29年 吉田博と飛騨へ写生旅行
明治30年 定津院嘉部祖導師に参禅、居士号「晩霞天秀」をうく
明治31年 明治美術会創立10周年記念展に「冬の日中」等十六点出品
明治32年 明治美術会展「花野の朝」外水彩画多数出品、三宅克己と親交を結ぶ、10月渡米
明治34年 帰朝
明治35年 1月大平洋画会1回展に「初冬の朝」「森のもれ日」「野末の流れ」等出品、画室を作り、三宅克己の後任として小諸義塾に図画を教ふ
明治36年 大平洋画会2回展「湯尻」其他出品
明治37年 藤村の小説「水彩画家」新小説出づ
明治38年 上京、駒込に仮寓
明治39年 木下藤次郎と水彩画講習所開設
明治40年 3月東京勧業博覧会「麦焼く夕」「夏の光」、5月住宅新築、十月木下藤次郎、河合新蔵、真野紀太郎等と日本水彩画会研究所設立、この年日本橋松声堂より絵葉書集刊行
明治41年 1月小笠原島に写生旅行す、太平洋画展「薄日の妙義山」、文展第2回「真夏の夕」
明治42年 太平洋画展「崖の上から」「初夏」
明治43年 太平洋画展「森」
明治44年 3月第2次外遊出立
明治45年 7月帰朝、帝国ホテルに滞欧作品展開催(出品258点)
大正2年 4月日本水彩画会改組
大正3年 大正博覧会「白馬の神苑」
大正12年 本籍を本郷に移す、平井武雄と共に日本水彩画会員作品を携へ中支、印度各地に巡回展開催
大正14年 水彩画会展に中支、印度における作品を特陳
昭和7年 日本水彩画会有志と共に国産水絵用材研究会結成
昭和11年 羽衣荘落成
昭和15年 10月23日三笠宮殿下に南洋風景画献上
昭和17年 3月4日没
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「丸山晩霞」『日本美術年鑑』昭和18年版(75-76頁)
例)「丸山晩霞 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8647.html(閲覧日 2024-12-05)
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- ■明治大正期書画家番付データベース
- 1908(明治41) 日本書画名覧_807166
- 1911(明治44) 増補古今書画名家一覧_807111
- 1926(大正15) 増補古今書画名家一覧_807116
- 1937(昭和12) 改訂古今書画名家一覧表 附古今書画名家印鑑譜_807016
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