建築美術協会結成

1939年04月

建築家と美術家とが合体して壁画の活用などによる建築美の創造を目ざし、建築美術協会が結成された。今和次郎、国師嘉彦、内田厳、福田豊四郎本郷新、野口道方らが加はつてゐる。

創工社解散

1939年04月

大阪における工芸団体創工社は三月二十五日総会を開いて解散を決議し、四月七日左の声明を発した。 「創立以来五星霜を重ね、この間数回のパンフレツトと三回の展覧会を開催し、一意研究に邁進し来つた吾が創工社も、今や大乗の見地と小乗の実功とに鑑み、茲に再出発を必要とし、一旦その結成を解くこととした。右声明す。    昭和十四年四月七日 創工社」

緑巷会結成

1939年04月

新構造社を脱退した神津港人は、新に洋画団体緑巷会を組織した。五月第一回公募展を開く予定。

福沢一郎独立展脱退

1939年04月

独立美術協会にあつて前衛派の代表的作家と見られてゐた福沢一郎は四月五日左の声明書を発表して同会を脱退した。同会では協議の結果彼を除名処分にし、又同志に告ぐとの声明を発してその立場を明かにした。 「画壇は今日戦争といふ大きな現実体験や苦悩の間に、そして後に生ずるであらう我々の熾烈な絵画精神の誕生に対して、余りにも無関心であります。我々がこれに対する認識や熱情を持ち、そしてその為に真に在野性を主張出来る展覧会を遂行する事は、絶対に必要であります。これにはまた綜合的な芸術各部門の協力が望ましく、それによつて一層輝しい成果を収める事が出来るでせう。不幸にして小生は、現在の環境に在つて、以上の目的に適ふ何事も為し能はぬことを痛感するに至りました。そこで今回第九回展を最後として独立美術協会を脱会し、更に適切な組織の下に、明日の絵画を目指して倍旧の努力をしたいと思ひます。脱会に際して一言声明します  四月五日 福沢一郎

陶磁器試験所創立二十周年記念式

1939年04月

陶磁器試験所が創立されてから二十周年に当るので四月四日その記念式をあげ創立以来の勤続者瀬戸試験場長赤塚幹也、図案技手田川基一、絵付技手井本半次郎の表彰を行つた。

東京市記念事業計画

1939年03月

東京市では紀元二千六百年記念事業として左の三大計画をたて、三月三十一日その要綱を発表した。その一は宮城外苑整備で、御親臨台の設置、十万人を容れる広場の造営、肇国記念物の設置、和田倉門、渡櫓及び和田倉橋の復原、記念角櫓設置、造園及び道路の改良、記念噴水の設置などを含み予算二百五十万円。整地労働は市民の勤労奉仕による計画である。その二は新東亜建設大展覧会並に東京大会で、明年九月一日から十二月十日まで上野不忍池畔及び竹の台を会場とし、肇国館、文化館、産業館、交通館、防共館、都市館、陸軍館、海軍館、美術館その他を設け、又日満支の諸団体代表一千名参加の新東亜建設東京大会を開く等である。その三は東京市民体力強化で、予算千五百万円を以て綜合大競技場、中央体育館、綜合厚生運動場、市民厚生道場、市民厚生体育研究道場、近隣厚生運動場、厚生運動公園の建設を五カ年計画によつて完成せんとするものである。

日本工芸品海外展示会

1939年03月

日本輸出工芸連合会の主催による第六回海外展示会は、アルゼンチン首府ブエノスアイレスで三月三十一日から二週間開かれた、展示品は漆器、陶器、木工、金工等約八百点で、南米における展示会は今回が最初である。

東陶会解散

1939年03月

東京在住の陶芸家によつて組織されてゐた同会は、創立満十五年を機に三月三十一日次の宣言を発表して解散した。 「本会は創立以来茲に十有五年を閲したり。この間多大の努力を重ねたるの故を以て漸く所期の目的を達成したり。然れども本会員各位の成熟と多面的なる努力とは今後愈々華かなる発展を約するものたるや必せり、本会は茲に一段の発展を望まんがために会を解き以て諸賢の躍進に備へんとす。敢へて解散を宣言する所以なり。」

日伊文化協定公布

1939年03月

日伊両国間の文化的協力に関する協定が、三月二十三日東京で有田外相とアウリチ伊国大使とにより調印され、同二十八日附官報を以て公布された。協定は左の四条よりなる。 第一条 締約国ハ其ノ文化関係ヲ堅実ナル基礎ノ上ニ樹立スル為努力スベク且之ニ付最モ緊密ナル協力ヲ為スベシ 第二条 締約国ハ前条ノ目的ヲ達成スル為学術、美術、音楽、文学、演劇、映画、写真、無線放送、青少年運動、運動競技等ヲ通ジ両国間ノ文化関係ヲ常ニ増進スベシ 第三条 前条ノ規定ノ実施ニ必要ナル細目ハ締約国ノ権限アル官憲間ノ合意ヲ以テ決定セラルベシ 第四条 本協定ハ署名ノ日ヨリ之ヲ実施スベク締約国ノ一方ハ十二月ノ予告ヲ以テ本協定ヲ廃棄スルコトヲ得 なほ調印と同時に発表された外務省声明によれば、本協定に即応し両国の権限ある官憲は取あへず左の諸事項を協議決定することになつてゐる。 一、両締約国の一により提案せらるべき文化協力に関する発議考究の為の委員会の設置、二、両国の文化的接近に資すべき新なる文化施設の設置及既存の此の種文化施設の維持並拡充、三、本協定の指導精神に遒由し且追て協定せらるべき範囲に於て行はるべき両国学校教科書の補正、四、政府派遣留学生に対する便宜供与、五、教授並に学生交換の増進、六、両国の一に於て文化的活動に従事する者に対する相互推薦、七、青少年団による交驩の増進、八、図書、雑誌の交換、九、両国の文化的接近に資すべき一般並専門的文献翻訳の相互奨励、一〇、芸術文化交換、一一、映画交換、一二、交換放送、一三、運動競技並に厚生運動による交驩、一四、観光事業による交驩

ローマ万国博に参加

1939年03月

昭和十七年四月に開かれる予定のファシスト施政二十周年記念ローマ万国博覧会に参加招請をうけた政府では、旧臘来関係当局間で協議中であつたが、三月二十七日予算約五百万円を以て正式参加することに決定した。

「八鉱之基柱」建設の計画

1939年03月

宮崎県では紀元二千六百年記念事業として、皇祖発祥の聖地を記念する高塔「八鉱之基柱」(あめつちのもとはしら)を建設する計画をたて、日名子実三に設計を委嘱中であつたが三月二十三日その模型が完成した。方十五間の基壇の上に高さ百二十尺の塔が建てられるものである。

美術記者連盟結成

1939年03月

美術雑誌の代表者十余名は三月二十一日東京府美術館食堂に会合、協議の結果美術記者連盟を結成し左の声明書を発表した。 「皇国の芸術文化興隆発展のため適切なる連絡と協力を目的とし美術記者連盟を結成し新日本文化創造運動に寄与せんことを期す」

戦没勇士の胸像製作

1939年03月

満州事変及び今事変に抜群の武勲をたて護国の華とちつた勇士達の胸像を刻んで後世に伝へようと、東京美術学校出身の石原昂等七名の彫刻家により昨年末報国芸術会が結成されたが、北村西望の指導、遊就館長渡辺少将その他の後援を得て製作に着手、倉永辰治少将、加納治雄少々、南郷茂章少佐、梅林孝次大尉、西住小次郎大尉、大山勇夫大尉、荒木克業大尉の七名の胸像原型を完成し、三月十九日遺族らの内覧に供した上最後の仕上げをなし遊就館に献納することになつた。

ブルーノタウト追悼会

1939年03月

わが国の建築及び工芸界に多くの貢献をのこし、旧臘イスタンブールで逝去したドイツ建築家ブルーノ・タウトを追悼するため、有志の発起により三月十六日一つ橋学士会館で晩餐会が開かれ五十余名の出席があつた。

レオナルドダヴインチ賞

1939年03月

昨年イタリア中亜極東協会が設定し、その取扱ひを日伊学会に委嘱して募集した第一回レオナルド・ダ・ヴィンチ賞の懸賞論文は、年末の締切までに美術に関するもの三篇、その他合計十篇が集り、爾来審査中であつたが、三月六日最終の審査員会で美術研究所嘱託隈元謙次郎の「明治初期に来朝せるイタリア美術家とその功績」に授賞することを決定し、同十五日イタリア大使館で授賞式が行はれた。

橋本関雪渡支

1939年03月

皇軍の姿を日本画に描かうとして橋本関雪は三月十三日神戸発中支に向つて旅立つた。

イタリア陸軍に油絵贈呈

1939年03月

三月十日の陸軍記念日を期してわが陸軍から、事変当初以来よせられたイタリア陸軍の好意を感謝する意味で、向井潤吉作の油絵「突撃」(十二号)を贈ることとなり、三月九日参謀本部で樋口少将からイタリア大使官附武官に贈呈された。

朝鮮総督府美術館竣工

1939年03月

総督府では始政二十五周年記念事業として綜合博物館建設を計画中の所、時局のため工事中止のやむなきに至つたが、その中着工中であつた美術館のみは引続き工を進め、この程竣工した。鉄筋コンクリート造、六五〇坪、工費十四万円で、本年から鮮展その他展覧会場として使用されることとなつた。

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