石川県美術協会創立

1939年10月

石川県美術工芸界の健全なる発逹を計る指導助成機関として石川県美術協会が創立され、十月十六日県庁内で関係者約三百名出席の下に盛大な発会式が行はれた。総裁に前田利為候、会長に成田知事を推し、来賓正木直彦、島田佳矣らの祝辞があつた。

日本建築模型海外へ寄贈

1939年10月

国際文化振興会では、印度パチアラ候国マハラジヤ・ヤダピンダー・ジン殿下へ日本風宮殿及び庭園二百分の一模型を贈進、又スエーデン首都ストツクホルム王立民族博物館へ日本風現代住宅及庭園二十分の一模型を寄贈することとなり、製作中の所完成したので発送に先ち十月十三日丸の内明治生命館内同会で展示会を開いた。

戦地で絵画展開催

1939年10月

〇〇部隊報道班及び大毎社主催で十月十一日から二十日まで安慶〇〇兵站部で野戦絵画展覧会が開かれた。出品者三十名、出品二百余点専門家をも交えた将兵が陣中の余暇に描いたスケッチで好評を博した。

図案関係技術官会議

1939年10月

第四回全国図案関係技術官会議は十月十一日より四日間、麹町区三年町の特許局で開催され、全国各地方関係技術官百余名並に商工省その他の関係官二十余名出席、左の協議事項につき熱心な討議が行はれた。 一、輸出振興上地方特殊工芸技術の改善指導に関する件 二、海外市場別による工芸品の意匠図案等の調査に関する件 三、東洋意匠に関する件

菱田春草記念公園計画

1939年10月

菱田春草の生地飯田市では、その誕生の屋敷跡に記念公園を建設する為春草生誕地保存会を作り、その計画を決定した。

岡田三郎助胸像建設

1939年10月

十月二日渋谷区伊達町の岡田家で故人の十日祭が知友門下等百五十余名列席の下に執行されたが、この日故人の青銅胸像が庭前に建設された。この像は一昨年文化勲章拝受の栄を祝して門下生一同から贈つたもので同じ門下の吉田久継の作である。

池上秀畝入選

1939年09月

ニユーヨーク万国博覧会の美術館に出陳された池上秀畝作の「黎明」が、二十九ヶ国から出品された七十余点の中四等に入選し、賞金三百ドルを贈られることとなつた旨、九月二十八日通知があつた。この作品は昨秋国際文化振興会の斡旋でニユーヨークの国際商工会議所会頭T・J・ワツトソンの画廊に納めるため、八木岡春山の「暮靄」と共に送られたものである。

児童画の慰問えはがき

1939年09月

恩賜財団軍人援護会東京支部では、市内各小学校、中等学校生徒の絵の中から、小学生作品二十点、女学生作品十一点、中学生作品一点計三十二点を選び、これをオフセット刷のゑはがきとして四十万枚を作製、十月三日からの銃後後援強化週間に際し児童生徒などから前線への慰問文に使用させることになつた。

平福百穂記念碑建立

1939年09月

平福百穂の七周忌を迎へ、故人と親交のあつた鏑木清方結城素明川端竜子川合玉堂田口掬汀の五名の発起で、故人の生地秋田県角館町に記念碑が建設され、九月九日遺族、関係者ら参集、除幕式を行つた。碑は黒の水成岩で幅四尺、高さ十一尺、表面に田口省吾の描いた肖像素描と、川端竜子筆「百穂先生之碑」の文字を刻み裏面に略歴その他を刻んだものである。

造型芸術発刊

1939年09月

先般アトリエ社を退いた藤本韶三により新に美術雑誌造形芸術が九月号を以て発刊された。

吉住部隊戦争記念画

1939年08月

武漢三鎮の攻略戦に赫々たる武勲をたて帰還した吉住良輔部隊長は、七月五日参内して軍状奏上の際畏くも拝受した御下賜金を最も有効ならしむるため、部下諸部隊の戦功を永久に記念すべく中支戦線における戦闘の場面十二を選び、陸軍美術協会に委嘱して清水登之向井潤吉鶴田吾郎瀬野覚蔵、長坂春雄、高光一也の六画家の人選を決定、三十号の油絵各二点の製作を依頼し、完成の上は各部隊に配布して永く保存することとなつた。

貿易局工芸品輸出振興展開設

1939年08月

商工省では昭和二年制定の工芸展覧会規定、及び昭和八年制定の貿易局輸出工芸展覧会規定を廃止し、新に貿易局工芸品輸出振興展覧会を開設することとなり、八月二十五日附官報でその規定を告示した。

忠霊塔設計図案募集

1939年08月

支那事変二周年記念日の七月七日発会式をあげて創立された財団法人大日本忠霊顕彰会では、その事業として今次聖戦に護国の華と散つた将士の分骨を安置して忠霊の顕彰と国民の感謝を表徴するため、内国各地の市町村及び満支両国の戦跡に忠霊塔を建設することとなり、その設計図案を広く一般から募集することとして八月二十四日その懸賞募集規程を発表した。 設計は、第一種主要会戦地に建設するもの、第二種内地大都市に建設するもの、第三種内地市町村に建設するものの三種に分ち、第一種は敷地約五万平方米、塔建設費用約五十万円、第二種は塔建設費約百万円、第三種は概ね同一様式の大型中型、小型の三とし、大型は敷地約六千平方米、建設費約五万円、中型約三千平方米、約二万円、小形約一千平方米、約五千円のものとする。応募図案の締切は昭和十四年十一月三十日。賞金は全額朝日新聞社の提供により、三種を通じて各一等(各一名)総理大臣賞(賞牌)並に賞金一千円、各二等(各二名)総理大臣賞(賞牌)並に賞金七百円、各三等(各三名)総理大臣賞(賞牌)並に賞金五百円、他に佳作約十名賞金各二百円と定めた。なほ審査員は左の通り発表された。 工学博士伊東忠太、同内田祥三、同岸田日出刀、同小林政一、同佐藤功一、同佐野利器正木直彦、陸軍技師柳井平八、海軍省建築局長吉田直、陸軍省兵務局長中村明人少将、海軍省人事局長伊藤整一少将、内務省警保局長安藤狂四郎

松方コレクシヨン海外で売立

1939年08月

松方幸次郎蒐集の欧州絵画は千数百点の大蒐集を成し、大正十一年その中の千余点を将来、一部を公開して以来わが国における西洋画の貴重な蒐集として注目されたが、昭和二年金融恐慌のため十五銀行に担保物件として蔵されて来た。その間前後七回に亙つて売立られ、右の中約二百三十万円は散迭してゐるが、なほ約二百七十万円のものが残されてをり、その外ロンドンの某銀行倉庫に数百万円のものがあるといはれる。十五銀行ではこれらを外貨獲得のため一括して近く国外で売立てることになつた。

観光ポスター募集

1939年08月

国際観光局ではさきに海外宣伝用のポスター図案と日本風景絵はがき用写真とを募集、七月末締切つたが、応募作品ポスター二八〇点、絵はがき七〇組につき審査の結果八月十六日入選者を決定した。ポスター入選者は一等大阪朏泰蔵、二等一席名古屋坪井正男、二席福岡西本茂、三等一席福岡堀田光雄である。

満州国美術展

1939年08月

第二回満洲国美術展覧会は八月一日新京西広場小学校(第二部西洋画、第三部美術工芸及彫刻)、八島小学校(第一部東洋画、第四部法書)を会場として開会された。審査の結果第一部大臣賞一、特選四、佳作九、第二部大臣賞一、特選四、佳作一二、第三部大臣賞一、特選四、佳作六、第四部大臣賞一、特選四、佳作九点が選ばれた。なほ本年度わが国から審査を依嘱されて渡満したのは野田九浦梅原竜三郎の両名で、大臣賞受賞者は左の通りである。 第一部「作業」(新京)栗山博 第二部「祭の女」(新京)白崎海紀 第三部「銅製香炉」(奉天)山田甲子雄 第四部「隷書」(新京)王光烈

ドイツへ現代日本画寄贈

1939年08月

今秋ドイツのナチ党大会に出席のため渡独する藤原銀次郎は、現代日本画の代表的作家の作品六十一点を携行、同国に寄贈することとなり、八月五日の出発に先ち同一日東京美術倶楽部で展観した。これらの作品はかねて岡部長景子爵の主宰する尺貫法存続聯盟に、同運動援助のため各作家から寄贈されたものである。なほその他に川端竜子原作「潮騒」を高島屋がつづれ織りに複製した壁かけをヒトラー総統に贈ることとなつた。

工芸指導所関西支所設置

1939年08月

工芸指導所では大阪の出張員事務室を閉鎖し、八月一日より大阪市西区江の子島に関西支所を設置して輸出雑貨の積極的改善並に指導に当らしむることとなつた。

長流画塾慰問画献納

1939年07月

川合玉堂の長流画塾では病床にある将兵慰問のため、玉堂初め各人一点づつ作品を製作、合計八十八点が完成したので、七月二十九日陸軍省に献納した。

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