矢代幸雄
もと文化財保護委員で文化功労者、矢代幸雄は、5月25日午前2時35分、心不全のため杏雲堂平塚病院で死去した。享年84歳であった。矢代幸雄は、明治23年(1890)11月5日、神奈川県横浜市に、父、もと讃岐高松藩士矢代宗勝、母、神戸出身の美佐の長男として生まれた。父は初め塗物屋を開業、のち商館番頭を職業としていた。横浜市に育ち、横浜商業学校に進んだが、算盤が苦手で神奈川県立第一中学校に転校し、明治41年に卒業、第一高等学校英法科に入学、明治44年(1911)6月同校を卒業した。明治44年9月東京帝国大学法科大学商業学科に入学したが、翌大正元年9月文科大学英文学科に転科した。一高時代から日本水彩画研究所に通って絵を学び、大学時代の大正2年(1913)第7回文展に水彩画「草原の赤い傘」を出品、入選となり、世論の話題となった。大学時代は実家があまり裕福ではなかったこともあって、水彩画を描いて売り学資の足しにしたり、また小島烏水のすすめでラスキン著『近世画家論』の一部を翻訳したりしたが、成績優秀で学資免除の特待生となっている。大正4年(1915)7月、卒業論文「感情主義の芸術論」(Emotional Principles of Art.)を提出して東京帝国大学文科大学を首席で卒業、下賜銀時計をうけた。大学院へすすんだが、同年9月東京美術学校講師となり、英語、西洋彫刻史、西洋美術史を担当、講義した。と同時に、西洋画科研究科の教室に出入りして黒田清輝に実枝の指導をうけたりしている。大正5年(1916)夏、インドの詩人タゴール(Rabindranath Tagore)が来日し、横浜の原富太郎(三渓)宅に滞在したとき、その通訳をつとめ、原家と親交した。大正6年3月、第一高等学校講師となり、翌7年12月東京美術学校教授、兼第一高等学校教授となった。
大正10年(1921)3月、西洋美術史研究のためにヨーロッパに留学、初めイギリスに滞在、秋にイタリアへ行きフィレンツエのベレンソン教授(Bernard Berenson)に師事、ルネッサンス美術、特にサンドロ・ボッティチェリーの研究に従事した。大正12年秋、関東大震災で父宗勝死亡の報をうけたが帰国を延ばして翌年(1924)2月から秋にかけて英文の論文『Sandro Botticelli』を執筆、完成させ、大正14年(1925)2月帰国し、東京美術学校に復帰、高等官6等、3月正七位に叙せられた。『Sandso Botticelli』3巻は同年、ロンドンのMedici Society から刊行された。同書は、昭和4年(1929)、1巻本として普及版が刊行され、その際にイギリスの批評家ロージャ・フライの批判的な書評に対して反論し、論争が交わされた。
昭和2年(1927)1月、黒田清輝遺産による事業遂行のための委員会委員となり、美術研究所(現・東京国立文化財研究所美術部)の設立に参画し、同年3月ヨーロッパ、アメリカ、カナダへ出張、昭和3年5月帰国した。美術研究所設立にあたっては、作品写真資料を主とした東洋美術研究のための基礎的な施設を提案し、実行に移された。第1回滞欧から帰国後は、しだいに日本・東洋美術に対して研究範囲をひろげ、国際的視野にたった観点から日本古美術の対外的紹介にも意を用い、昭和5年(1930)10月、再度ヨーロッパへ出張し、昭和6年(1931)には、帝国美術院、日独協会、ベルリン東西美術協会、プロシア芸術院共同主催によりドイツとハンガリーでの現代日本画展を実現させた。一方、昭和6年11月、正木直彦のあとをうけて、帝国美術院附属美術研究所主事(昭和10年5月まで)となり、昭和10年(1935)6月同美術研究所所長に就任し、現代の東京国立文化財研究所の基礎づくりに尽力した。昭和7~8年、カーネギー財団とハーヴァード大学に招かれて、「日本絵巻物論」を講義し、帰国後に財団法人啓明会主催の会合で「世界における日本美術の位置」を講義した。昭和10年5月から翌11年にかけて、派遣教授としてイギリスへ行き、コートールド・インスティテュート・オブ・アート(Courtauld Institute of Art)ほかイギリスの諸地方の大学で講演した。昭和17年(1942)春の宣戦の詔勅誤読事件をきっかとして6月28日に美術研究所所長を辞任し、また、昭和19年には東京美術学校教授を退官した。昭和17年以降は、日本交通公社文化担当常任参与となり、その便もあってしばしば中国に旅行した。その間に、華北交通総裁宇佐美完爾の紹介によって近鉄社長種田虎雄を識ったことがのちの大和文華館設立のきっかけとなった。美術学校退官以後は、いっさいの公職をはなれて神奈川県に籠居していたが、昭和20年敗戦のあとの11月、奈良・京都など日本古美術文化の遺蹟が空襲による破壊からまぬがれたのはラングトン・ウォーナーなどハーヴァード・グループの働きかけによって空襲目的地から除外されたことなどを朝日新聞紙上(11月10日)に発表して話題をよんだ。昭和24年(1949)1月、法隆寺金堂壁画の焼失をへて、昭和25年8月、文化財保護法が制定され、文化財保護委員に任命された。昭和26年(1951)11月インド経由でイギリス、フランス、イタリアを歴遊してアメリカへ渡り、日本古美術展開催について交渉、翌27年帰国、同年4月、文化財保護法一部改正に伴い美術研究所改組、東京国立文化財研究所組織規定が定められ同研究所所長に就任し、翌28年10月までその職にあった。昭和31年(1956)5月、日伊文化協定による文化使節としてローマ大学、イタリア中亜極東協会の招きで渡伊し、ヴェネチア・ビエンナーレ展日本館開館式に出席、またパリでフランス、オランダ、イタリア、イギリス巡回の日本古美術展開催準備会を4ヶ国代表を集めて開催、主宰し、その計画は、昭和33年(1958)実現された。これらの功績によって同33年10月、イタリア政府より勲章(メダリア・ドォーロ・ペール・イ・ベーネメリティ・ベラ・クルトゥーラ・イタリアーナ)を授与された。こうした対外的な活動と同時に、近鉄社長種田虎雄からついで佐伯勇社長へとひきがれた大和文華館設立とそのための作品蒐集に意をそそぎ、昭和35年(1960)10月、奈良市学園前に美術館大和文華館が創設され、初代館長に就任した。昭和40年(1965)9月、フリーア・ギャラリー・オブ・アートより、日本美術及び中国美術の理解を進めるうえに貢献した生涯の仕事に対して、第3回フリーア賞(Chadles Lang Freer Medal)を授けられ、その受賞式には出席した。また、同年秋に勲二等瑞宝章を叙勲した。翌41年1月第2版『日本美術の特質』によって朝日賞を授賞し、同年2月15日、文化財保護委員会委員を辞任した。その後、昭和45年(1970)11月文化功労者に選ばれ、同年30日には大和文華館館長を辞して隠退していた。その生涯の主要な著作目録はつぎのとおりである。
著作目録
大正5年(1916) 「奈良彫刻思慕」『人文』1巻11号、樗牛会事務所
大正10年(1921) 『西洋美術史講話 古代篇・古代篇図録』、岩波書店
大正14年(1925) 『太陽を慕ふ者』、改造社 ”Sandro Bootticelli.”3 Volumes , Medici Society , London ”A Botticelli Drawing in the British Museum.゛ Vasari Society Publications, London
”A newly Discoved Botticelli” Burlington Magazine , Vol . 46, London
昭和2年(1927) 『西洋名彫刻 古代篇』、福永書店 『受胎告知』(初版)、警醒社 ”A New Botticelli in Detroit.” Art in America, Vol. 15, No.5, New York
昭和3年(1928) 『日本の立場より見たる西洋美術』(講演集) 財団法人 啓明社
昭和4年(1929) ”Sandro Botticelli.” 1 Volume, Second popular edition, Medici Society, London
昭和5年(1930) “Die Japanische Malerei der Gegenwart.” (Introduction to the Catalogue of the Exhibition of Contemporary Japanese Painting Held in Berlin and Budapest, 1930-31) Wurfel Verlag, Berlin
昭和6年(1931) 「レオナルド・ダ・ヴィンチの『レダ』に就て」 大塚博士還暦記念論文集 『美学及芸術史研究』、岩波書店
昭和7年(1932) 「美術研究所の設立と『美術研究』の発刊」『美術研究』No.1 美術研究所
「模造及模写の蒐集に就て」『美術研究』No.2
昭和8年(1933) 「吉備大臣入唐絵詞」『美術研究』No.21
昭和9年(1934) 「世界に於ける日本美術の位置」(講演集)(初版)、財団法人啓明会
「宋搴周文矩宮中図」『美術研究』No.25
「天竜山浮彫飛天像其他」『美術研究』No.26
「唐代彫刻三種」『美術研究』No.29
「隋開皇十三年造阿弥陀銅像一具」『美術研究』No.31
「大和十三年造金銅釈迦多宝二仏並坐像」『美術研究』No.33
昭和10年(1935) ”Einfuhrung in die Japanische Malerei” Japanisch-Deutsches Kultur-Institut, Tokyo
「法華堂根本曼陀羅」『美術研究』No.37
「徽宗搴張萱搗練図」『美術研究』No.41
昭和11年(1936) ”Artists of Japan Speak to the Soul Through Symbols; Their Art Through the Ages is Presented in an Extraordinary Exhibition at Boston.” The New York Times Magazine , September 6
「細川候爵家蔵陶製唐立女像」『美術研究』No.54
「宋搴周文矩宮中図の断片」『美術研究』No.56
「ボストン美術館所蔵の銘記ある日本彫刻」『美術研究』No.57
「法華堂根本曼陀羅追記」『美術研究』No.58
昭和12年(1937) 「米国に於ける二大仏画」(上・下)『美術研究』Nos.61,63
「馬寛百雁図巻」『美術研究』No.64
「細川家蔵白玉弥勅半跏像」『美術研究』No.65
「推古仏如来立像一驅」『美術研究』No.66
「銅造菩薩立像一驅」『美術研究』No.68
「東洋美術総目録事業に就いて」『美術研究』No.70
「唐石彫不動明王像」『美術研究』No.71
昭和13年(1938) 「宗達筆松島屏風」『美術研究』No.73
「フリーア画廊の地蔵縁起」『美術研究』No.76
「支那鎚鍱像」『美術研究』No.78
「唐鎏金七仏像」『美術研究』No.81
「病草子の新残欠その他」『美術研究』No.82
昭和14年(1939) 「伯林東亜美術館所蔵光悦色紙帖」『美術研究』No.85
「朝鮮金銅二種」『美術研究』No.90
「慶長11年11月11日銘ある光悦色紙」『美術研究』No.93
昭和15年(1940) 「画巻芸術論」『国華』3月号―5月号、国華社
”The Passing of George Eumorfopoulos.” Bulletin of Eastern Art , May, No.5、 Tokyo “Laurence Binyon.” Bulletin of Eastern Art, July - August , Nos. 7 - 8,Tokyo
”Arthur Waley. ” Bulletin of Eastern Art, September , No.9, Tokyo
「宗達筆伊勢物語帖に就いて」『美術研究』No.98
「宗達下絵光悦短冊貼交屏風」『美術研究』No.102
昭和16年(1941) “The Present State of the Yunkang Caves.” Bulletin of Eastern Art , March, No.15, Tokyo
”Dr Otto Kummel ,” Bulletin of Eastern Art ,May, No.17, Tokyo
”On the ’Eight Scenic Views of Hsiao-Hsiang’ by Mu-ch’i.” Bulletin of Eastern Art, September, No.21, Tokyo
「劉宋元嘉年間の金銅仏」『美術研究』No.109
「山口市長谷観音堂十一面観音像」『美術研究』No.112
「揵駄羅式の金銅像」『美術研究』No.117
昭和17年(1942) 『東洋美術論考・欧米蒐儲の名品』(二巻)、座右宝刊行会 「宗達四季草花下絵光悦書歌巻」『美術研究』No.121
「唐三彩立女俑一驅」『美術研究』No.121
昭和18年(1943) 『日本美術の特質』(初版)、岩波書店
昭和19年(1944) 「燉煌出土塑造半肉仏像」『美術研究』No.135
「五星二十八宿神形図巻」『美術研究』No.139
昭和23年(1948) 『世界に於ける日本美術の位置』(講演集)(第二版)、 東京堂
『随筆 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(初版)、朝日新聞社
昭和24年(1949) 『随筆 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(再版)、朝日新聞社
昭和25年(1950) 『随筆ヴィナス』(初版)、朝日新聞社。
昭和26年(1951) 「創刊の辞に代へて」『大和文華』NO.1 大和文華館
「歎美抄 法隆寺天人繍・百済観音・乾山夕顔茶碗」『大和文華』No.1
「歎美抄 李迪筆雪中帰牧図・四天王寺金銅菩薩像・笠置曼茶羅」『大和文華』No.2
「歎美抄 一字蓮台法華経普 賢勧発品・仁清鴛鴦香合」『大和文華』No.3 「奈良日記思い出」
(初めての芸術巡礼)『大和文華』No.4 『太陽を慕ふ者』(改訂版)、角川書店
昭和27年(1952) 「再説宋搴周文矩宮中図」『美術研究』No.169
「奈良日記思い出」(奈良への空中訪問)
『大和文華』No.5 「歎美抄 万暦赤絵小壷」『大和文華』No.7
「歎美抄 宗達筆伊勢物語芥川図・光琳の団扇画」『大和文華』No.8
『受胎告知』(改訂版)、創元社 『世界に於ける日本美術の位置』(講演集)(第三版)、三笠文庫、三笠書店
『随筆ヴィナス』(縮 刷版・再版)、朝日新聞社
”The ’Oriental’ Character in Italian Tre-and Quattrocento Paintings.” East and West, Year III ,No. 2, Roma
昭和28年(1953) 「歎美抄 西域樹下人物図『大和文華』No.9 『安井・梅原・ルノアール・ゴッホ』、新潮社
「随筆 宗達」(1-3)『大和文華』No.12
「歎美抄 青磁雑感」『大和文華』No.12
昭和29年(1954) 「歎美抄 唐三彩立女俑」『大和文華』No.13
[忘れ得ぬ人 その一 大村西崖]『大和文華』No.14
「歎美抄 酒盃集」『大和文華』No.15
昭和30年(1955) 『近代画家群』、新潮社 「三渓先生の古美術手記」(その1-その4)『大和文華』Nos.17-20
昭和31年(1956) 「三渓先生の古美術手記」(その5)『大和文華』No.21
『世界に於ける日本美術の位置』(講演集)(第四版)、新潮社 『随筆ヴィナス』新潮文庫、新潮社
昭和32年(1957) 「法華堂根本曼陀羅の回想」『美術研究』 No.192
「歎美抄 柳絮飛ぶ・小林古径と鍍金鏡断片」『大和文華』No.24
昭和33年(1958) 『芸術のパトロン』、新潮社
”2000 Years of Japanese Art.” edited by Peter C .Swann , Thames and Hudson, London
”2000 Years of Japanese Art.” edited by peter C .Swann, H. N. Abrams, New York
”Japanische Kunst.” von Professor Yukio Yashiro und Peter C. Swann, Aus dem Englischen ubertragen von Dr. Roger Goepper, Droemersche Verlagsanstalt, Th. Knaur Nochf., Munchen-Zurich
”Deux Mille Ans d’Art Japonais.゛Teste francais de Judith Cotte, Editions du Pont-Royal , Paris
”Duemila Anni di Arte Giapponese.” Traduzione di Lucia Pigni, Garzanti, Milano
「歎美抄 海棠・牡丹・丁香・合歓花」『大和文華』No.25
「歎美抄 元末明初青磁いろいろ」『大和文華』No.28
「日本美術の再検討」『芸術新潮』1月号より12月号まで12回連載、新潮社
昭和35年(1960) ”Art Treasures of Japan .” As Editor in Chief, 2 Volumes and a supplement, Kokusai Bunka Shinko-Kai, Tokyo
「随筆 光琳」(その1-その2)『大和文華』Nos.33,36
昭和36年(1961) 『ルネッサンスのイタリア画家』(ベレンソン原著 日本語版監修)新潮社 『日本美術の恩人たち』、文芸春秋社
昭和37年(1962) 「歎美抄 金村出土の宝器と鷹を持つ胡人」『大和文華』No.37 「美術館としての実験」『IDE』10月号、民主教育協会 「児島喜久雄の思出」『図書』10月号、11月号、岩波書店
昭和38年(1963) 「鉄斎所感」『大和文華』No.40
昭和39年(1964) 『随筆ヴィナス』(第三版)、朝日新聞社
昭和40年(1965) 『日本美術の特質』(第二版)、岩波書店 「うるし随筆」『世界』7月号、岩波書店
昭和41年(1966) 「日本美術の紹介者チャールズ・L・フリーア」『世界』3月号、岩波書店
「東洋の美、西洋の美」(脇村義太郎との対談)『図書』3月号・4月号、岩波書店
「フリーア氏と日本の実業家・美術蒐集家」(Mr.Freerand the Japanese Businessmen-Collectors) フリーア・メダル受賞記念講演(日英対訳)『日本フォーラム』4月号、永晃社
「美のための美術館の構想」『世界』5月号、岩波書店
昭和42年(1967) 「ヨーロッパの日本美術」(Basil Grayとの対談)『朝日ジャーナル』、朝日新聞社
昭和44年(1969) 『水墨画』岩波新書、岩波書店
昭和45年(1970) 『歎美抄』、鹿島研究所出版会
昭和47年(1972) 『私の美術遍歴』、岩波書店
昭和48年(1973) 『受胎告知』、新潮社
昭和49年(1974) 『随筆ヴィナス』朝日選書、朝日新聞社
昭和51年(1976) 『サンドロ・ボッティチェルリ』岩波書店、(刊行予定)
(この著作目録は、日伊協会『日伊文化研究』14号より転載させていただきました。)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「矢代幸雄」『日本美術年鑑』昭和51年版(297-301頁)
例)「矢代幸雄 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9762.html(閲覧日 2024-12-05)
以下のデータベースにも「矢代幸雄」が含まれます。
- ■美術界年史(彙報)
- 1937年02月 日伊学会創立
- 1950年07月 文化財保護委員閣議で決る
- 1952年04月 東京文化財研究所設置
- 1952年04月 矢代幸雄帰国
- 1953年02月 日本古美術展に文化使節派遣
- 1953年11月 文化財保護委員会委員に高橋誠一郎、矢代幸雄再任
- 1956年05月 矢代文化財保護委員渡欧
- 1961年02月 文化財保護委員会委員長の後任決定
- 1961年11月 サントリー美術館開館
- 1963年02月 文化財保護委員会委員長に河原春作再任
- 1965年11月 第4回生存者叙勲の美術関係
- 1966年01月 朝日文化賞決定
- 1966年02月 文化財保護委員会に新委員長
- 1939年02月 日本文化大観編修会官制公布
- 1939年04月 日伊文化の夕
- 1939年06月 日本諸学振興委員会芸術学部委員
- 1939年11月 清麿公銅像競作
- 1940年02月 東洋美術国際研究会の設立
- 1940年09月 美術研究所長矢代幸雄渡支
- 1941年12月 野間美術賞の設定
- 1957年10月 イタリアから勲章授受
- 1958年12月 イタリア政府より授勲
- 1970年10月 文化勲章功労者決定
- 2011年01月 「関西中国書画コレクション展」開催
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