美術研究所長矢代幸雄渡支
1940年09月美術研究所長矢代幸雄は、同研究所員正木篤三助手豊岡益人と共に支那に於ける文化美術及工芸視察の為、九月十二日出発し、北、中、南支を歴遊調査を遂げ、十一月十三日帰国した。
美術研究所長矢代幸雄は、同研究所員正木篤三助手豊岡益人と共に支那に於ける文化美術及工芸視察の為、九月十二日出発し、北、中、南支を歴遊調査を遂げ、十一月十三日帰国した。
陸軍省嘱託としてノモンハンの戦闘を主題とする作品を描くこととなつた藤田嗣治は、九月十一日東京駅出発新京に向つた。
曩に発せられた奢侈品に対する七・七禁令に依り文展第三部第四部の彫塑、美術工芸は直接影響を受け、作家も苦慮してゐたが、今秋開かれる紀元二千六百年奉祝綜合展出品もあり商工省物価局と文部省に於て種々協議の結果、美術工芸品に対しては今後七・七禁令を免除する事に決し、金、銀、銅、錫等の材料の公平な配給を図ると共に販売も作家の自粛を重んじて許可さるる事となつた。
福岡県出身並に県在住の美術家等を以て福岡県美術協会が組織された。毎年福岡市に於て日本画、洋画、彫塑、工芸に亘る展覧会を開催する予定である。
鱸利彦を理事長、武藤夜舟、中井宗太郎を顧問とし、新体制の文化的一翼たらんとする主旨により新日本美術聯盟が創立され、八月三十一日軍人会館に於て発会式を挙げた。
七・七禁令その他価格統制令の埒外にある美術品に対する購売慾の急騰により、取引高の増加傾向あるにかんがみ、東京府精動部に於ては国債消化のため美術倶楽部に於ける売上金額の一割を以て強制的に国債又は貯蓄債劵を購入せしめることとし、八月二十九日同倶楽部に通牒を発した。
陸軍省より日支事変記録画の製作を依嘱された十二画家の中、川崎小虎、吉村忠夫の壮行会が、その渡支を前にして八月二十八日日比谷三信ビルに於て催された。
日本画家安田半圃は海軍従軍画家として長江沿岸警備の海軍将兵の慰問を行ひ、携行の十数幅の作品により個展を開催する為八月二十三日東京を出発した。
前に独逸より招聘されたシユレーマンの帰国に代つて、商工省貿易局の招聘に依り仏工芸家シヤルロツト・ペリアンが八月二十二日来朝した。ペリアンはコルビユジエの協働者として知られた女流室内設計家である。
予て渡支南京、北京、張家口、大同等各地に画材を求めてゐた光風会の朝井閑右衛門、鈴木栄次郎、山上猛彦、井手坊也、黒田頼綱、石川滋彦は八月十五日横浜入港の浅間丸で帰朝した。
京都美術工芸協会では各部門の団体を解消して、陶器、金工、染織、漆器、木竹等美術工芸界の作家六十五名を以て一丸とする京都美術工芸家聯盟を設立、八月十三日其の発会式を挙行した。
予て陸軍の委嘱を受け聖戦画製作の為北支旅行中の中村研一は八月九日下関著帰国した。
京都在住染織刺繍芸術を専門とする作家に依り、日本民族精神を根幹とし、健康なる新体制の理念に即して京都染織繍芸術協会が八月五日結成された。時宜に応じ展覧会を開催する。
昭和十二年創立の自由美術家協会は、美術創作家協会と改称し、従来の主旨を更に強固貫徹することとなつた。
故帝室技芸員柴田是真の五十年忌に際し、その末男梅沢隆真に依り七月十三日追善会と遺作展観が築地八百善に於て催され、日本画及び工芸遺作品が展観された。
大礼記念京都美術館は紀元二千六百年を期し、国民文化昂揚のため同館の一部を開放し、七月一日より現代美術品の常設陳列を開始した。
関西に於ける文展系洋風作家により華畝会が結成され第一回展を開催した。