童林社壁画献納
1939年07月童林社同人の共同製作になる「城信義追悼聖戦壁画」は陸軍へ献納され、七月二十六日東京美術学校講堂で献納式が行はれた。
童林社同人の共同製作になる「城信義追悼聖戦壁画」は陸軍へ献納され、七月二十六日東京美術学校講堂で献納式が行はれた。
商工省では輸出工芸の振興に関する重要事項を調査審議する為、新に輸出工芸振興委員会を設置することとなり、七月二十日の官報を以てその官制が公布され、又同日附で委員及び幹事が任命された。商工大臣を会長とし、松島外務省通商局長、村瀬商工次官、永田商工省化学局長、寺尾貿易局長官、堀貿易局第一部長、国井工芸指導所長、片岡国際観光局長らの外、永井松三、岸田日出刀その他計二十名を委員とする。尚右に伴ひ従来の工芸審査委員会官制は廃止された。
中村不折は過般開催した大平洋画会展に回顧特別陳列した自作の中から「廓然無聖」「小雨の渡し」「始制文字」「桂樹の井」「盧生の夢」「焼芋和尚」等十六点を文部省に寄贈した。
国画会彫刻部同人全員及び出品者有志計八名は、絵画部と芸術上見解の相違を理由とし七月四日左の声明を発して同会を脱退、その中清水多嘉示を除く全部は新制作派協会に参加した。その為国画会は彫刻部を解消し、又新制作派協会は新に彫刻部を加へたこととなつた。 「我国に於ける造型芸術の本格樹立のため、一致協力して参りました国展彫刻部の我々はその芸術行動を更に鮮明にし、新しきジエネレエシヨンの確立に邁進すべき段階に到逹いたしました。この彫刻部の芸術意慾は国展絵画部の趣味的芸術の没時代性と、既に相容れざるところであります。組織に於けるこの矛盾を清算すべく、茲に十三年の友誼を切つて彫刻部同人及び出品者有志一致して脱会する事になりました。右声明いたします。」 なほ新制作派協会が同日発した声明は左の通りである。 「新制作派協会は今日まで、新正なる純粋芸術の樹立と芸術行動の一元化に向つて一意邁進して来ましたが、更に明確なる意識を以て芸術の本質たる新しき空間に於けるモニユマンタル芸術の確立を期すべき段階に到逹してゐると信じます。偶々国展の彫刻家有志とその芸術意慾を同じくし、協力一致せば其の成果の甚大なることを共に確信し、ここに統合体となる事を声明する次第であります。」
今秋十一月ベルギーの首都ブルユクセルで国際人形展が開かれることとなつたので、国際文化振興会ではわが国の古代から現代に及ぶ人形を代表すべき出品物を選定出陳することとして準備に着手した。この出品は八月二十三日から五日間展示されたが、後欧州の急変せる事態によつて発送を中止した。
開会中のサンフランシスコ万国博覧会美術館現代世界の部で六月二十八日審査の結果、アメリカの部では二科会員国吉康雄の「ソフア上の風見その他」が絵画彫刻を通じて第一位を獲得、賞金千ドルを授与された。
川端竜子は大陸策連作の画材を得るため、海軍嘱託画家として五月半以来中支各地を巡歴、六月二十七日帰着した。
パリ在住の日本美術家によつて巴里日本美術家協会が設立され、旧臘日本大使及び仏国文部大臣後援の下にベルネーム・ジユーヌに於て第一回展を開いて多くの反響を得たが、その第二回展が六月二十七日から三週間ギヤルリー・シヤルパンテイエで開催され、絵画、彫刻、工芸に亙り五十二名の出品があつた。
絵筆をとる医学博士二十七名によつて六月十八日日本医家美術協会が結成された。八月第一回展を開く予定。
東京美術学校卒業の青年作家らによつて、六月十八日前衛派の団体新浪漫派協会が結成された。絵画(日本画・油画)、立体、写真の諸部門を含み、福沢一郎、滝口修造を顧問とする。
昨秋締結された日独文化協定に基づき、東京及びベルリンに日独文化連絡協議会が設置され六月十七日両国政府は東京協議会委員長として日本側外務省文化事業部長三谷隆信、ドイツ側日独文化協会主事ワルタードーナート博士以下合計十名の常任委員を任命、外務次官官舎で同協議会発会式をあげた。
事変二周年記念日の七月七日に際し陸軍省では各方面に配付すべく記念絵はがきを作製した。向井潤吉作「上海戦の想出」、吉田傅作「武漢空爆行」、福田豊四郎作「銃後の田園」の三枚一組である。
東京美術学校の同窓会の組織ができたため、同趣旨の東台邦画会はその名義を解消し同窓会日本画分科会を設立することになつた。
山元春挙の七回忌に当り、生前主基風俗御屏風揮毫拝命の記念として設けられた茶席穂露に於て、六月十、十一日遺墨並に遺愛の余技品を展列、同時に山元清秀により第一席大津市盧花浅水荘、第二席山口家別邸、第三席土橋家別邸に於て追福茶会が催された。
美術記者連盟は六月五日例会を開き協議の結果左の声明書を発表した。 「東京府美術館常議員及び常議員会は今日の美術界の諸情勢に鑑み不適任と認む、よつて我々は常議員の改選及常議員会機構の改革を要望す」
文部省では諸学振興委員会内に芸術学部を設け六月一日附を以て左記十一名を昭和十四年度芸術学部臨時委員に任命又は嘱託した。尚十月十八日から四日間第一回芸術学会を開き諸種の研究発表を行ふこととなつた。 文部書記官本田弘人、東京帝大教授斎藤勇、同藤懸静也、同大西克礼、京都帝大教授成瀬清、東北帝大教授阿部次郎、九州帝大教授矢崎美盛、東京美術学校長芝田徹心、東京音楽学校長乗松嘉寿、美術研究所員矢代幸雄、?谷温、西脇順三郎
イタリア政府主催により、今秋十月ローマで園部香峰の作品四十点を展観することになつた。
さきに独立美術協会を脱退した福沢一郎は、同志三十九名と共に美術文化協会を結成し、五月十七日発会式をあげた。
小堀鞆音の供養塔が門下の革丙会によつて府下北多摩郡神代村の深大寺に建立された。塔は台石から高さ六尺の五輪塔で、中に門下生の写経及び故人愛用の印章筆墨などを納め、五月十日嗣子小堀安雄、門下安田靫彦、小山栄逹ら十二名が列席埋経式を営み、同十五日関係者参集盛大な追善供養を営んだ。
二科会員鍋井克之は満州及び北支の絵画教育調査を主な目的とし、約二ヶ月の予定を以て五月七日出発した。