本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





田中信太郎

没年月日:2019/08/23

読み:たなかしんたろう  彫刻家の田中信太郎は、胃癌のため日立市の病院で死去した。享年79。 1940(昭和15)年5月13日、東京都立川市に生まれる。日立に移住した実家は土建業を営んでおり、物を作る環境を肌で感じていた。58年茨城県立日立第一高校卒業。在学中は主に人物を油彩で描いていた。同年上京しフォルム洋画研究所に学ぶ。59年二紀展に入選、画面に廃品を用いたアッサンブラージュ作品だった。60年から読売アンデパンダン展に出品(1963年まで毎回)。また同年からネオ・ダダ・オルガナイザーズの活動に参加した。この頃はサウンド・オブジェに取り組む。65年椿近代画廊(新宿)で初個展、トランプ記号を拡大した切り抜きとキャンバスを組み合わせ、蛍光塗料も使用した。66年色彩と空間展(日本橋、南画廊)で「ハート・モビールNo.1」を発表。68年には蛍光塗料や蛍光灯を用いたライト・アートの作品「マイナーアートA.B.C」を発表、このシリーズは様々な賞を受賞する。68年の個展(銀座、東京画廊、以後個展は同画廊を主とする)では、ガラス、ハロゲン光、ピアノ線を使った本邦最初期のインスタレーション作品「点・線・面」をみせる。69年パリ青年ビエンナーレに2カ月間の船での移送中に自重で固まる土の作品「凝固:パリ」を出品。70年東京ビエンナーレに黒色のポリウレタンを床に引き詰めた「無題」を出品。71年サンパウロ・ビエンナーレに出品。同年から横浜のBゼミスクールで演習ゼミの講師を務める(1982年まで)。72年ヴェネチア・ビエンナーレでは日本館のピロティに12点によるインスタレーションを構成、会期初め壁面に立てかけたアクリル板の作品がずり落ち中に挟まれていた金色の鉄粉数十キロは宙に舞う。また、この頃までに細長い真鍮による柱状のシリーズが展開されている。76年第7回中原悌二郎賞優秀賞受賞、文化庁在外研修員としてニューヨーク、パリに滞在する。83年前後数年は病のため発表は控え目になる。85年第3回東京画廊「ヒューマンドキュメンツ’84/’85」に「風景は垂直にやってくる」を出品。これ以降ミニマルな幾何学的な構成よりも、流れるような色彩が施された木彫や大理石による、有機的な形態をもった舞台上の装置を思わせる作品を展開するようになる。88年ヒルサイドギャラリー(渋谷)で中原浩大と2人展。80年代後半から、風景をモティーフにしたときにはナイル河の三角州の形が参照され、精神的な普遍性を問うときには十字の形体が置かれ、ときに作品の先端に赤とんぼを設置するなど、自らの表現の着地点に多様な表情をもたせた。1990(平成2)年ギャルリー・ところ(銀座)で個展(1993年も)。2001年国立国際美術館(大阪)で個展。14年Bank ART1929(横浜)の岡崎乾二郎、中原浩大との「かたちの発語」展では田中は回顧展形式の展示を行った。また、60年代後半から多くのコミッションワークを手がけている。67年からのインテリア・デザイナーの倉俣史朗との交友は互いに多くの実りをもたらした。2020(令和2)年市原湖畔美術館(千葉県)で回顧展開催。

雨宮敬子

没年月日:2019/07/31

読み:あめのみやけいこ  彫刻家の雨宮敬子は、7月31日、心不全のため死去した。享年88。 裸婦像を主なモティーフとし、自然な造形美を生む優れた技量と、晴明な精神性によって評価された。注文制作である「杜に聴く」(仙台市西公園、1986年)、東京都庁都民広場の「天にきく」(1990年)等、屋外彫刻も各地に残る。 1931(昭和6)年2月3日、東京都文京区の村山病院で生まれる。幼少期より、東京美術学校出身で建畠大夢と北村西望に師事した彫刻家の父、雨宮治郎のアトリエで粘土に触れて育つ。都立桜町高等女学校2年で終戦を迎え、教文館でアルバイトをする。52年、日本大学芸術学部美術学科彫刻専攻入学。56年に同校卒業、第12回日展に「青年」初入選する。同年、文京区立湯島小学校図工専科教師として着任。また同年、日本舞踊(藤蔭流)の名取となり、藤間美治の名で弟子を教授する。57年、第5回日彫展出品作品「自刻像」が奨励賞受賞。日本彫塑会会員就任。58年、第1回日展に出品した「薫風に望む」で特選受賞。63年にも「新世代」で特選を受賞し、65年に同展審査員、66年に会員に就任。69年、三岸節子、片岡球子らの設立した女性作家による総合展覧会組織「潮展」に参加(1983年第15回まで)。72年、新樹展に参加(1976年第30回まで)。同年、大阪三越で初個展。78年、日展評議員に就任、日本赤十字社金色有功章受章。82年、前年の第13回日展出品「生動」で第10回長野市野外彫刻賞受賞。83年、第15回潮展出品「生成」が第14回中原悌二郎賞受賞。85年、第17回日展出品「道」が内閣総理大臣賞受賞。87年、前年の第18回日展出品「惜春『十六歳』」が第21回現代美術選抜展出品、文化庁買い上げとなる。1994(平成6)年、日本芸術院会員。95年、理事、参事を経て日展常務理事。96年、日本彫刻会理事長(1998年まで)。2005年、『雨宮敬子作品集』(講談社)出版。11年より日展顧問。13年、父・治郎の事績の記録を思い立った敬子の発案により、共に彫刻家であった父・治郎、弟・淳との親子3人の評伝、瀧悌三『澪標記』(生活の友社)が刊行。17年、旭日中綬章受章、文化功労者に選出。

豊福知徳

没年月日:2019/05/18

読み:とよふくとものり  彫刻家の豊福知徳は、5月18日、福岡市内の病院で死去した。享年94。長年にわたりイタリア、ミラノを拠点として活動し、厚みのある木に楕円形の穿孔を彫りめぐらせる特徴的な抽象彫刻によって知られた。 1925(大正14)年2月18日、福岡県三井郡山川村(現、久留米市)に生まれる。1942(昭和17)年、國學院大學に進学し国文学を志すが、44年に志願して陸軍特別操縦見習士官となる。敗戦を迎え故郷に戻り、手作りのパイプに彫り物をしているところが近所の住職の眼に止まり、46年、彫刻家の冨永朝堂に紹介され師事、木彫を学ぶ。47年に第2回西部美術展に「女のトルソ」、50年、第14回新制作派協会展に「男のトルソ」を出品(以降、第16回展を除き第25回展まで出品)。 50年に上京し三鷹市牟礼にアトリエを構える。56年、「黄駻」で第20回新制作協会賞受賞。同年、鹿和子と結婚、長女夏子が誕生。58年に新制作協会展に出品した「漂流’58」で、59年に第2回高村光太郎賞を受賞。60年、東京画廊で初個展を開催。同年、第30回ヴェネツィア・ビエンナーレの出品者に選出され「漂流」シリーズを3点出品。1点をペギー・グッゲンハイム美術館、1点をニューヨーク近代美術館が購入し、その売り上げを旅費としてヴェネツィアに渡る。ミラノのグラッタチェーロ画廊より、1年後の個展の開催と、それまでの滞在、制作費用負担の提案を受け、ミラノに移住。画廊との契約などに際して当時ミラノ在住であった画家の阿部展也の助けを借り、以後交友が始まる。ルーチョ・フォンタナ、エンリコ・カステッラーニといった同時代の作家を意識しながら抽象彫刻への飛躍を目指し模索する中で、板の表と裏から彫ったくぼみの重なりによる穴という、豊福の代名詞となる表現にたどり着く。同地で制作をつづけ、カステッラーニ、フォンタナ、ピエロ・マンゾーニらと親交を結ぶ。また日本から移住していた彫刻家の吾妻兼治郎、建築家の白井晟一、後に造形に転じるが当時は画家であった宮脇愛子らとも交友。64年からはヴェネツィアのナヴィーリオ画廊と契約を結んだ。61年、国際コンペティション「建築と美術」(コペンハーゲン)に建築家の河原一郎と応募し第3賞受賞。64年、カーネギー国際美術展(ピッツバーグ)でウィリアム・フリュー記念賞を受賞。同年、第32回ヴェネツィア・ビエンナーレ展に「火」、「風」、「水Ⅰ」、「空Ⅰ」、「識Ⅰ」等を出品。これ以降、国際展への出品多数。78年、公立美術館での初回顧展となる「豊福知徳展」(北九州市立美術館)開催。同展図録において美術批評家の河北倫明は豊福の彫刻を、木とノミによる手仕事としての師・冨永朝堂譲りの側面と、複雑な空間表現を探る抽象彫刻としての側面に着目し、現代彫刻の中に個性的通路を開いたと評した。同年、第10回日本芸術大賞受賞。83年、久留米市中央公園に石組みの噴水「石声庭」を設置。84年、同作で第9回吉田五十八賞受賞。1993(平成5)年、紫綬褒章受章。96年、博多港中央埠頭に鋼のモニュメント「那の津往還」を設置。2001年、旭日小綬章受章。05年、第13回福岡県文化賞受賞。18年、豊福知徳ギャラリーが福岡市内にオープンした。東西の骨董収集熱が高じ、『愉しき西洋骨董』(新潮社、1984年)を出版した。

藤戸竹喜

没年月日:2018/10/26

読み:ふじとたけき  アイヌ民族彫刻家の藤戸竹喜は10月26日多臓器不全のため死去した。享年84。 1934(昭和9)年8月22日、北海道美幌町に生まれる。父・竹夫は彫り師であった。幼い頃に旭川の近文コタンへ移り、12歳から父のもとで熊彫りをはじめたという。熊彫りは、北海道において土産物として人気を博していた民芸品であり、旭川はそのルーツのひとつといわれている。その旭川で修業をはじめた藤戸は、15、6歳の頃に、当時熊彫りが作られはじめた阿寒湖に父と訪れ、以後3年間、夏季に同地の土産物産、吉田屋で職人として仕事を受けもつようになった。 54年、札幌に移った父の片腕として仕事をするとともに、全国の観光地をめぐって熊彫りの武者修行を行う。60年には阿寒に戻り、再び吉田屋に入るが、64年に独立し、同地に民芸店「熊の家」を構えるようになった。この頃の作品に「怒り熊」などがあげられる他、熊彫りのレリーフなども制作した。65年には第1回木彫製品作成コンクールにて北海道知事賞を受賞するなど、その腕を上げ、67年には阿寒湖の環境保全や観光振興を担っていた前田一歩園に「群熊」を納めている。 69年、前田一歩園三代目園主の前田光子より、二代目園主である前田正次の十三回忌に供える「樹霊観音像」(正徳院蔵)の制作依頼を受ける。それまで藤戸は熊彫りの制作に専念していたが、この「樹霊観音像」をきっかけに、アイヌ風俗や文化を反映した作品を制作するようになる。翌年には、「カムイノミ まりも祭り 日川善次郎」や、「熊狩の像 菊池儀之助」などアイヌの伝統文化を守る身近な人物をモデルとした作品を制作。これらは販売を目的としない作品であった。以後、アイヌ文化の精神を彫刻作品に表すことを使命として制作活動を行った。 また、「樹霊観音像」完成後から肖像彫刻の依頼が増えたことも表現の広がりにつながったとみられる。71年には札幌ソビエト領事館の依頼により「レーニン胸像」を、翌年には東海大学の依頼により、「東海大学総長松前重義像」を制作。その後も、さまざまな肖像彫刻を手掛けた。 75年には自身のアトリエ兼住居の藤戸民芸館が完成し、78年には「藤戸竹喜彫刻展」(旭川 西武百貨店)、82年には「木彫小品展」(画廊丹青)、86年には、「カムイとエカシ 藤戸竹喜作品展」(優佳良織工芸館)を開催する。そして、1992(平成4)年には祖母をモデルとした「藤戸タケ像」を制作し、翌年に同作は国立民族学博物館へ収蔵された。また、94年から97年までは毎年個展を行うなど精力的な活動を展開した。 2000年代前後からは発表の場が北海道だけではなく本土、さらには海外の展覧会に出品される機会が増え、99年には「ANIU:Spirit of a Northern People」(スミソニアン国立自然史博物館)、2003年には「アイヌからのメッセージ」(徳島県立博物館他)、07年には「アイヌからのメッセージ2007」(一関市博物館他)において作品を発表している。 14年には釧路市文化賞、翌年には北海道文化賞を受賞。また、16年には地域文化功労者(芸術文化分野)として文部科学省大臣賞を受賞。そして、17年には大規模個展「現れよ。森羅の生命―木彫家藤戸竹喜の世界」(札幌芸術の森美術館、国立民族学博物館)が行われ、その制作活動が顕彰された。 藤戸は生涯、砂澤ビッキなどの一部を除き、彫刻家との交流も少なく、中央の美術界と直接接点を持つことはなかったようである。そのため、同時代の作家とは異なり、野外彫刻展や国際美術展等で評価されていた彫刻家とは異なる文脈で活動していた作家といえよう。 熊をはじめとする動物たちの姿を通し、豊かでありながらも険しい北海道の自然を表す一方で、アイヌの伝統や文化、精神を表現した作品や、先人に思いを馳せた美術作品を多く手がけた。商業的性格が強かった「熊彫り」を美術作品へ昇華させ、さらにはアイヌの伝統と文化を国内外に広めた功績は大きい。

最上壽之

没年月日:2018/10/02

読み:もがみひさゆき  彫刻家で武蔵野美術大学名誉教授の最上壽之は10月2日心不全のため死去した。享年82。 1936(昭和11)年3月3日、神奈川県横須賀市に生まれる。55年から光風会研究所にてデッサンを学ぶ。翌年に東京藝術大学彫刻科に入学し、石井鶴三に師事した。60年、同校を卒業。卒業制作の「カギ(鍵)」を同年の第10回モダンアート協会展に「イイイイ」と名付けて出品し、奨励賞を受賞した。翌年の第11回モダンアート協会展に「ダンダンダ」を出品。また、同年はじめての個展を村松画廊で開催する。62年の第12回モダンアート協会展で「ナムナムネ」を出品。同会会員となった。以後、69年まで同展に出品している(1970年に退会)。 63年の「コンタクト・セブン展」(椿近代画廊)では、山口勝弘に推薦され「テンテンテン」を出品。また、同年の「彫刻の新世代展」(東京国立近代美術館)に「ハハハハ」「ミロミロザマミロ」「テキテキテキテキ」を発表するなど、モダンアート協会展以外での活動も行うようになる。翌年、「現代美術の動向展」(国立近代美術館京都分館)にて「笑笑笑々」「安安安々」を発表。66年には第1回神奈川県美術展(神奈川県立近代美術館 以後、第5回まで出品)と第7回現代日本美術展に参加(第10回まで出品)。また、同年第6回フォルマ・ヴィヴァ国際彫刻家シンポジウムと「日本・イタリア作家展」で作品を発表。国内外での評価が高まった。67年には第9回日本国際美術展、71年には第4回現代日本彫刻展に作品を発表。そして、73年には第1回彫刻の森美術館大賞展と「戦後日本美術の展開」(東京国立近代美術館)に参加する。 74年には文化庁在外研修員として渡仏。パリを拠点にヨーロッパでさまざまな美術と触れる。翌年、「コテンパン」で第4回平櫛田中賞を受賞。また、同年に同賞の記念展を髙島屋で行う。同年11月にフランスから帰国。その後、数々の展覧会で賞を受賞している。76年には第5回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で「イキハヨイヨイ カエリハコワイ」を出品し兵庫県立近代美術館賞を受賞、翌年に第7回現代日本彫刻展で毎日新聞社賞を受賞する。79年、第8回同展で東京都美術館賞、80年には第7回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「コンナイイモノ ミタコトナイ」を出品し、朝日新聞社賞を受賞。翌年、「ドコマデイッテモ ボクガイル」で第12回中原悌二郎賞優秀賞を受賞した。83年には第10回現代日本彫刻展で第10回特別記念賞・土方定一記念賞、86年には、みなとみらい21彫刻展 ヨコハマ・ビエンナーレ´86でみなとみらい21賞を受賞。また、同年みなとみらいに屋外彫刻「タイヤヒラメノマイオドリ」が設置された。1990(平成2)年には第12回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で優秀賞を受賞。94年、第14回同展でも佳作賞を受賞している。また、2001年にはこれらの功績が認められ、紫綬褒章を受章した。 彫刻家として高く評価された一方で、教育者としての一面もあり、05年まで武蔵野美術大学彫刻学科教授として後進の教育に携わった。同年、同校にて退任記念展として「コドモ ドコマデモ コドモ」を開催。歿後、同校の教員やOBによって偲ぶ会が行われるなど、多くの彫刻家に慕われていたことが窺える。 先述の作品の他、「ル、ル、ル、ル」(1968年)「バッ ドラネコミャオー」(1979年)「テクテクテクテク」(1983年)など、リズミカルでユーモラスなタイトルが特徴的な作品を多く遺した。その他野外彫刻も手掛けており、新潟県の加茂駅前に「ウキウキ ワクワク ナニモカモ」(1991年)、神奈川県横須賀市の中央公園に「ヘイワ オーキク ナーレ」(1992年)、同県みなとみらい21に「モクモク ワクワク ヨコハマ ヨーヨー」(1994年)を設置している。カタカナのリズミカルなタイトルと、構造的でありながらも軽快な形を有する作品は、今も多くの人々に愛されている。

流政之

没年月日:2018/07/07

読み:ながれまさゆき  彫刻家の流政之は7月7日、老衰のため死去した。享年95。 1923(大正12)年2月14日、長崎県に生まれる。父の中川小十郎は立命館大学創設者として知られており、流も同校へ1941(昭和16)年に入学している。在学中は衣笠鍛錬所にて作刀研磨を学ぶ他、太平洋戦争末期にゼロ戦パイロットとして兵役を務める。しかし、出撃命令の前に終戦となったという。 46~51年頃、大学を中退するが、八木一夫や熊倉順吉らを知り、陶芸をはじめた。52年、創元社出版の戸塚文子著『やぶかんぞう』(1952年)、テネシー・ウィリアムズ著『ストーン夫人のローマの春』(1953年)の表紙デザインを手がけるなど、美術関係の仕事をはじめるようになる。 55年になると、彫刻作品の制作に打ち込むようになる。同年、美松画廊、村松画廊で個展を開催。58年、養清堂画廊で個展を開催し、ニューヨークシティバレー団のリンカーン・カースティンが個展を観覧した。また、建築家のイーロ・サーリネン夫婦が作品を購入したという。翌年には、フィリップ・ジョンソン、ミノル・ヤマサキ、マルセル・ブロイヤーなどが作品を購入。当初から海外の芸術家から高く評価され、60年に「受」がニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションとなった。61年にはピッツバーグ・インターナショナルに選出。62年には大分県庁の壁面に「恋矢車」を制作し、日本建築学会賞を受賞する。このように国内外から作品が評価され、同年渡米に至った。 64年、ニューヨーク世界博覧会日本館で「ストーン クレージー」を発表。66年、香川県庵治半島に自身のアトリエを建設した。また、67年には早くも香川県文化功労者に選ばれ、74年には日本芸術大賞と第2回長野野外彫刻賞を受賞。翌年、7年をかけて制作した「雲の砦」が完成し、世界貿易センタービル前の広場に設置された(2001年のアメリカ同時多発テロ事件の際に撤去)。78年には「かくれた恋」で第9回中原悌二郎賞を受賞、83年には吉田五十八賞を受賞している。1995(平成7)年には「波しぐれ三度笠」で鳥取県景観大賞を受賞。そのほか、海外や日本で個展を開催した。 流は、初期から香川県庵治半島で採掘される庵治石を使用し、62年には庵治の職人とともに「石匠塾」を立ち上げ、職人とともに作品制作を行った。また、翌年には、讃岐民具連を結成するなど、美術家だけではなく職人との交流を大切にしたようである。 また、「ワレハダ」という庵治石の特性を生かした技法を考案し、作品に用いたことで知られる。このように、職人からの協力と、独自の技法を駆使し、石による巨大彫刻を制作した。600トンの石を使用した先述の「ストーン クレージー」をはじめ、総社市「神が辻」(1985~92年)、香川県「浜栗林」(1991年)など1000トン~4000トンを使った作品を発表。一方で、東京文化会館の「のぼり屏風」(1961年)、同施設の「江戸きんきら」(1992年)などの建築装飾や、鳥取県米子市の皆生温泉東光園の庭園を手がけるなど、さまざまな分野で活躍した。いずれにしても、空間を最大限に活用した、スケールの大きな作品を発表した。 なお、2009年には高松市美術館で「流政之展」が開催され、これまでの活動が顕彰された。また、同年に『流政之作品論集』(美術出版社)が刊行され、森村泰昌や中ザワヒデキなどが文章を寄せている他、歿後の2019(令和元)年にはNAGARE STUDIO 流政之美術館が開館している。

長澤英俊

没年月日:2018/03/24

読み:ながさわひでとし  彫刻家の長澤英俊は3月24日、死去した。享年77。 1940(昭和15)年10月30日に旧満州東寧(現、黒竜江省牡丹江市東寧県)に生まれる。45年、母の実家のある埼玉県三保谷村(現、埼玉県比企郡川島町)に移り、埼玉県立川越高等学校を卒業。63年に多摩美術大学インテリアデザイン科を卒業する。 同校卒業後、東横百貨店家具設計室に就職するが、66年に東南アジア、中近東、ヨーロッパを自転車で横断する旅に出る。その中で訪れたイタリアのミラノで自転車の盗難に遭い、旅は中断。同地に滞在するようになった。以後、ミラノで制作活動を行い、海外で評価を受けることとなる。 67年には、ミラノ郊外のセスト・サン・ジョヴァンニのアトリエに移り、同地で「貧しい芸術」を意味する前衛美術運動「アルテ・ポーヴェラ」の一員とされていたルチアーノ・ファブロなどと交流を持つ。彼らとの交流の中でイタリア現代美術の動向について学ぶこととなった。翌年、アンフォ国際芸術祭にマルサ・メルツらと共に参加し、「落差」を発表する。この作品は、湖畔に浮かんだ、プラスチック製の筒の中の汽水域を表したものであった。このように、当初はコンセプチュアルな作品や、オブジェなどを手掛けていたという。また、70年にはヴィデオ・アートを制作する他、パフォーマンス作品「風」を発表するなど、前衛的な表現を用いた作品を発表していた。また、同年5月には初の個展も開催する。 71年、先述した「アルテ・ポーヴェラ」のメンバーとの議論に触発され、最初の彫刻作品、「オフィールの金」を制作した。この作品を機に、木、金属、石などの材料を駆使した詩的な彫刻作品を数多く手掛けるようになり、数々の国際美術展に出品を重ねた。72年の第36回ヴェネツィア・ビエンナーレ(同展には76年、82年、88年、93年にも出品)、73年の第8回パリ・ビエンナーレ、75年の第13回ミデルハイム・ビエンナーレ「日本の彫刻家20人」、77年の第10回ローマ・クワドリエンナーレ、1989(平成元)年の第20回ミデルハイム・ビエンナーレ 現代日本彫刻展、同年の第4回彫刻国際展、92年の第9回ドクメンタ、94年のミラノ・トリエンナーレ、98年の第9回カッラーラ彫刻ビエンナーレ(2006年にも出品)などで作品を発表した。 また、国際美術展への出品の一方で、イタリアをはじめとするヨーロッパでの個展やグループ展、そして日本での発表も積極的に行った。国内では、72年の「第5回現代の造形」(京都市美術館)や、「ヨーロッパの日本作家展」(東京国立近代美術館他)、79年の「近代イタリア美術と日本」(国立国際美術館)、84年の第4回平行芸術展(小原流会館)、同年の「現代美術の動向III」(東京都美術館)、87年の「現代のイコン」(埼玉県立近代美術館)、89年の「かめ座のしるし」(横浜市民ギャラリー)、91年の「現代日本美術の動勢」(富山県立近代美術館)など多数のグループ展に作品を出品した。そして93年の個展、「天使の影」(水戸芸術館現代美術センター)では、旧作と新作を含む17点を発表し、その多様な表現とスケール感が大きな話題となった。 その後も、95年の「日本の現代美術」(東京都現代美術館)、99年の「彫刻の理想郷」(神奈川県立近代美術館他)で作品を出品。そして、イタリアにおいても、2000年にブリジゲッラ市立美術館および市内各所で個展を開催し、インスタレーション作品を発表。05年の第21回現代日本彫刻展では、「メリッサの部屋」が大賞を受賞した。また、09年には川越市立美術館、埼玉県立近代美術館(同時開催)他3館を巡回した個展「長澤英俊―オーロラの向かう所」を開催し、翌年同展で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。 長澤は先述のように、イタリアを軸に国外で活動を展開したが、日本国内においても野外彫刻で作品をみることができる。つくばセンタービルの「樹」(1983年)、新宿アイランドの「Pleiades」(1995年)、東京ビッグサイトの「七つの泉」(1995年)、南長野運動公園の「稲妻」(2004年)、多摩美術大学の「TINDARI」(2007年)が現在でも設置されている。 2000年代からは教育者としても活動し、04年からミラノ国立ブレラ美術アカデミーと多摩美術大学において教鞭を執った。客員教授として後進を指導した多摩美術大学では、歿後、その功績を顕彰し、長澤の意思を次世代に継ぐことを目的とした追悼シンポジウム「NAGASAWA芸術の種子を語る」が八王子キャンパスで開催された。 長澤の圧倒的なスケールと哲学的な思想に支えられた詩的な雰囲気を持つ作品は、国際美術展を中心に評価され、国内外で後進に影響を与えた。

保田春彦

没年月日:2018/01/17

読み:やすだはるひこ  彫刻家で武蔵野美術大学名誉教授の保田春彦は1月20日老衰のため死去した。享年87。 1930(昭和5)年2月21日、和歌山県那賀郡龍門村大字荒見(現、紀の川市)に生まれる。父は、21年にパリへ留学し、グランド・ショミエール美術研究所でブールデルに師事した彫刻家・画家の保田龍門である。 47年に東京美術学校彫刻科予科に入学し、石井鶴三に師事した。48年、同校本科彫刻科に入学。52年に同校を卒業し、堺市立金岡中学校に図工教師として勤務をはじめる。同時に、大阪市立美術館付設美術研究所にも所属した。また、同年には第37回院展で「肖像」が奨励賞を受賞している。57年、第42回院展に「伝説」を出品し、奨励賞を再び受賞する。同作は、展覧会場でウエザーヒル出版社のメレディス・ウェザビーより購入の希望がされたことにより、大きな話題となった。同年には科学技術庁主催のSTAC留学試験に合格し、フランス政府保護留学生の資格を取得。58年、神戸港から出港し、パリへ渡った。 パリでは、龍門と同じくグランド・ショミエール美術研究所に入所し、オシップ・ザッキンに師事する。また、先に滞在していた水井康雄や、パリ在住の中村直人などとも交流があったとみられる。59年、クリティック・シュス賞で第一席を受賞。さらに、第1回パリ青年美術家ビエンナーレ展に選抜出品をはたす。同年11月には同校を修了し、イタリアに拠点を移した。その後、ローマ、ウィーン、シュトゥットガルト、ミラノなどで個展やグループ展を重ねる一方、65年に「在外日本作家展」(東京国立近代美術館)で日本でも活動が紹介される他、67年に「現代野外彫刻展」(レネアーノ野外彫刻美術館)に作品を出品し、評価を得ていった。 68年、帰国。翌年、武蔵野美術大学専任教員として赴任する。帰国後は、同年の第1回現代国際彫刻展、1970年の第2回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に出品している。同展では大賞を受賞した。さらに、71年には第10回現代日本美術展、第11回サンパウロ・ビエンナーレ、第4回現代日本彫刻展など国内外の展覧会に出品し、そのうちサンパウロ・ビエンナーレでは国際優秀賞、現代日本彫刻展では宇部興産賞を受賞している。また、同年に第21回芸術選奨文部大臣新人賞と第2回中原悌二郎賞彫刻の森美術館賞(現、中原悌二郎賞優秀賞)を「作品」で受賞するなど、国内外で高く評価された。 73年には第5回現代日本彫刻展で神奈川県立近代美術館賞を受賞。翌年には第2回長野市野外彫刻賞、第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で神奈川県立近代美術館賞を受賞。75年には第13回アントワープ国際野外彫刻展に出品。同年第6回現代日本彫刻展では、東京都美術館賞・群馬県立近代美術館賞を受賞している。また、77年には第3回彫刻の森美術館大賞展選賞を受賞した。1995(平成7)年には、大規模個展を神奈川県立近代美術館他で行う。同年に「聚落を囲う壁Ⅰ」で第26回中原悌二郎賞を受賞し、さらに和歌山県文化賞にも選ばれている。翌年には紫綬褒章を受章。99年には武蔵野美術大学教授退任記念として「保田春彦展」が同校で開催された。 2005年には神奈川文化賞、07年には第23回平櫛田中賞を受賞。10年には個展「「白い風景」シリーズとクロッキー」(神奈川県立近代美術館)を開催した。13年、自身と龍門の往復書簡集『保田龍門・保田春彦 往復書簡集 1958―1965』を刊行し、15年に和歌山県立近代美術館にて「保田龍門・保田春彦展」が開催され、親子二代にわたる活動が顕彰された。 展覧会への出品と受賞の他に特筆すべきは、70年代から80年代にかけて街中への野外彫刻の設置が流行したことを背景に、保田の彫刻の多くが野外へ設置されたことだろう。1973年には和歌山県の御坊市庁舎に「仰角のある立方体」「16等分された空」、翌年には神奈川県の大和市庁舎に「都市」を設置。81年には故郷の和歌山那賀総合庁舎に「十字の構造」を、慶應義塾大学に「都市―住居、文教、開発、通商」を制作。また、84年には静岡市立中央図書館に「古址の残像」、東京都のガーデンプラザ広尾に「T〔タウ〕の構造」、90年には東京体育館に「都市の構造」、91年には大阪市立大学に「聚落の単位―幕舎の場合」などが設置された。また、美術館にも多くの野外彫刻を納めており、札幌芸術の森野外美術館、世田谷美術館、平塚市美術館、和歌山県立近代美術館などにも作品が設置され、市井の人々の目に触れることとなった。 その作品の多くは、鉄、ステンレス、コールテン鋼を使用した構造的な抽象彫刻であったが、2000年代になると、これまでの作風とは異なる、木彫による「白い風景」シリーズを制作し話題となった。その一方で、2000年に武蔵野美術大学を退任するまで後進の育成に携わった他、数々のコンクールの審査員や委員を務め、制作活動の他にも彫刻界の発展に大きく貢献した。

森堯茂

没年月日:2017/11/12

読み:もりたかしげ  彫刻家の森堯茂は11月12日、間質性肺炎のため死去した。享年95。 1922(大正11)年4月14日、愛媛県宇摩郡金田村半田(現、四国中央市)に生まれる。1935(昭和10)年に愛媛県立三島中学校に入学。〓凡社の『世界美術全集』を見てロダンを知り、彫刻への興味を持ったという。 40年に東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻科塑像部へ入学、44年に同校を繰り上げ卒業する。卒業後はおもに自由美術家協会に参加し、51年に第16回自由美術家協会展に「男 習作」と「丘」を出品。翌年第17回同展では「立像」を出品する。また、同年に自由美術家協会員に推薦された。53年の自由美術家協会彫刻会員展にコンクリートや白色セメントで制作された抽象彫刻「夜 No.1」「夜 No.2」「鳥 No.1」を出品する。56年の第20回自由美術家協会展では、量感に空洞をとりこんだ「脱殻」「殻の発展」を発表し、瀧口修造から高い評価を受けた。そして、60年の池袋西武デパートにおける第1回集団現代彫刻展では、鉄線による作品「落茫の空間に No.1」を発表し、さらに量感から解放された彫刻を発表した。それまでの彫刻において支配的であった、塊や量感を感じさせない、軽やかでありながら存在感を十分に感じさせるこの作品は、同年の『美術手帖』11月号の表紙を飾り話題となった。そして、62年の神奈川県立近代美術館における現代日本彫刻展に「とりこ」を出品。なお、同作は同郷の美術評論家、洲之内徹が購入した。 自由美術家協会での活躍の一方、57年には、日比谷公園野外彫刻展に「聚存 No.1」を出品するなど、当時新しい取り組みであった野外彫刻展にも積極的に参加している。58年には、神奈川県立近代美術館における「集団58野外彫刻展」に彫刻作品とドローイングを数点出品。60年には、同館における「集団60野外彫刻展」に「野外のかたち」を出品する。これらの展覧会をきっかけに土方定一などと交流を持つようになる。また、翌年の第1回宇部市野外彫刻展に「脱殻」「鳥 No.4」を出品。62年の第2回同展では「巣 No.19」を発表している。 63年から翌年にかけて、アメリカ、メキシコ、ヨーロッパ、エジプトを遊学。帰国後、制作の場を東京から愛媛県の松山市に移し、68年に松山市民会館において個展を開催した。同展では、「ユカタンの月」など、アモレ効果を用いた正面性の強い作品を出品し、遊学の成果を示す。また、69年には、同じく愛媛県出身の坪内晃幸とともに松山市の堀之内公園にて第1回愛媛野外美術展、71年には、愛媛県立美術館において第1回愛媛造形作家協会展を開催し、地元での現代美術の活性化に努めた。1991(平成3)年、93年には、三越松山店において個展を開催。90年代はおもに、「弧の空間」や「岬」といった、鉄板を組み合わせた作品を制作した。 2007年には、愛媛県の町立久万美術館において「造形思考の軌跡―森堯茂 彫刻の70年」展が行われ、愛媛県を代表する彫刻家として顕彰された。

舟越直木

没年月日:2017/05/06

読み:ふなこしなおき  彫刻家の舟越直木は、5月6日に死去した。享年64。 1953(昭和28)年1月14日、東京都に舟越家の三男として生まれた。父の保武、兄の桂はともに彫刻家である。78年に東京造形大学絵画科を卒業。83年にみゆき画廊で初の個展を開催する。84年と85年のギャラリーQにおける個展では、油彩画を発表。80年代後半から抽象彫刻を制作するようになる。 87年からは、毎年続けてなびす画廊において個展とグループ展を開催している。以下は、すべて同画廊での開催展である。87年のグループ展「ぷろみしんぐ・なびす」において彫刻作品「WORK」と、それにともなうドローイングを発表。88年には、加茂博と中原浩大とともにデッサン展を開催し、「drawing」や「UNTITLED」などを出品する。1989(平成元)年の個展では、蜘蛛や脚を連想させる抽象彫刻「彫刻」「Serampore」とドローイングを発表。92年の個展では、「Chordeiles Minor」を出品した。この個展のカタログでは、同作や前年に発表した「Serampore」について峯村敏明が批評を執筆している。また、同展は『Japan Times weekly』で海外にも宣伝された。93年の個展では、「Chuckwill’s Widow」を発表。94年には、グループ展「金曜日のまれびとたち その3」を開催。同展には、笠原たけし、山崎豊三らも出品している。95年の個展では、「Bella coola」「MARONITA」「SASSETTA」「小さな夜鷹」といった小品を出品。96年のグループ展「匍匐は跳躍」では、石膏による「UGARIT」を発表。同展には、大森博之、黒川弘毅ら同世代を代表する彫刻家も参加している。97年の個展にはハート(心臓)から着想を得たと思われる石膏作品「the Queen of hearts」、ブロンズ作品「the Ace of hearts」「the nine of hearts」「the eight of hearts」「the Jack of hearts」を発表。また、それに伴うハートをモチーフにしたドローイングを出品した。99年の個展では、ドローイングと油絵のみ出品されたが、その表現は大きく広がりをみせた。昨年に引き続き「ピンクのハート」「3つのハート」など、ハートをモチーフにした絵画から、ひし形を表した「薄青いかたちのイメージ」、抽象的なかたちの「青のバックのなまけもの」や「drawing」などを発表。2001年の個展では、前回の個展で発表したドローイングを彫刻に発展させた作品「Al―Erg」「Erg Che Che」を多数出品。いくつもの球体が集合することで、ひとつの形を表す彫刻作品を制作した。03年のグループ展「新年のおくりもの」では、「Al―Erg」などの作品を構成していた球体ひとつひとつを解体したような作品「An Evacuees」を発表。05年「2月のおくりもの」では、石膏を赤い布で覆った「頭部」を出品し、新たな表現を獲得した。 なびす画廊における個展やグループ展のほかにも、91~1998年、06年の世田谷美術館における「世田谷美術展」に作品を出品。また、90年の神奈川県民ホールギャラリーにおける「現代彫刻の歩み1970年以降の表現」展、93年の小原流会館における「とは何か」展、96年の佐倉市立美術館における「体感する美術’96」展、98年の新潟県立近代美術館における「インサイド/アウトサイド」展など数々の展覧会に出品。美術館での展示において同世代の彫刻家とともに高い評価がなされた。そのほか、横浜市民ギャラリー、ギャラリーGAN、田中画廊、MORIOKA第一画廊などでもグループ展などが開催されている。また、96年度には、父・保武の出身地である岩手県において美術選奨を受賞した。 2000年代前後からは、その表現や活動範囲にさらなる広がりがみられる。97年には、新潟県立近代美術館に野外彫刻「夏の夜」を設置。同作は、舟越の作品の中で最も大型の作品である。04年、アートフロントギャラリーで行われた個展では、人体の胸像を思わせる作品を多数発表。06年のギャラリーせいほうで行われた個展では、「sleep」などの抽象彫刻を出品。同年のGALLERY TERASHITAにおける個展では、人間の頭部を思わせる作品「婦人像」を発表する。そして、08年のギャラリーせいほうにおける個展では、胸像を思わせる石膏作品「うつむく少年」などを出品。さらに、14年にはフランス、パリのatelier viscontiにおいて稲田美乃里との二人展も実現した。 死去後、追悼展が多くのギャラリーや美術館で開催された。18年には世田谷美術館、19年にギャラリーせいほうにて個展が開催され、同年、平塚市美術館において開催された「空間に線を引く 彫刻とデッサン展」でも彫刻とドローイングが数多く出品された。 生前、無所属で作品を発表し続け、副業として他の職業に就くことなく、その生涯を彫刻とドローイングを通して「かたち」の探求に費やした。その作品と生き方は、同世代、後進の彫刻家に大きな影響を与えた。素朴で純粋な仕事の数々は、今も多くの人を魅了する。

吾妻兼治郎

没年月日:2016/10/14

読み:あづまけんじろう  彫刻家の吾妻兼治郎は10月14日、イタリア、ミラノの自宅で死去した。享年90。 1926(大正15)年3月12日、山形県山形市銅町に生まれる。生家は代々青銅鋳造業を営んでいた。兼治郎は少年期から祖父や父の仕事をみながら粘土で動物などをつくっていた。1943(昭和18)年海軍予科練に入り、鹿児島県鹿屋海軍航空隊で訓練を受けていたが敗戦、45年9月故郷に戻る。47年山形東高等学校の定時制で学びながら、彫刻家をめざすようになる。当時、山形美術館学芸員の木村重道の指導があった。49年東京藝術大学美術学部彫刻家の第1期生として入学。木村の紹介で在学中は美術評論家の今泉篤男宅に書生として住み込む。53年第2回日本国際美術展で展示されたイタリア現代彫刻、特にマリノ・マリーニに魅了される。53年新制作展に「オランダの水夫」など3点が初入選する。54年東京藝大に新設された専攻科へ進み、56年同大副手となる。 吾妻は今泉の薦めもあり、マリーニに彫刻を学ぶことをめざす。そのためにはイタリア政府奨学金を獲得することが必要で、語学に励み、56年9月念願のミラノにわたる。国立ブレラ美術学校彫刻科マリノ・マリーニ教室には世界各国から学生17名が在籍していた。マリーニは助手を務める実力をもつ吾妻に「日本の優れた伝統」を大切にするよう説く。58年山形市の丸久百貨展で初個展。4年間マリーニ風の造形を手掛けていた吾妻は、師の影響から脱するべく苦闘し、60年冬、薪棚からくずれた木っ端の形から代表作となる「無(MU)」のシリーズが誕生する。61年4月ミラノのミニマ画廊で個展を開催(ブロンズ5点、石膏3点、油彩画8点)。個展は好評で、以後ローマやベルギー、スペイン、スイスなどの展覧会に招待され、吾妻のイタリアでの制作は活発になる。64年ドクメンタ3に出品。65年イタリアのビエラをはじめとして4カ所で個展を開催する。68年国際ジュエリー展(チェコスロバキア)で金賞受賞。69年第19回国際彫刻ビエンナーレ(フィレンツェ)で金賞受賞。71年サンタ・マルガレーテン国際彫刻シンポジウム(オーストリア)に参加。74年現代彫刻センター(東京)他で個展。同年毎日芸術賞受賞。83年個展(ドルドレヒト美術館、オランダ)、立体55点、リトグラフ8点などを展示。84年4月、山形市庁舎前に«MU1000»(高さ4m)を設置。以後、スランプに陥り、翌年「有(YU)」シリーズを手掛け始める。88年7月、吾妻兼治郎展が西武美術館(池袋)を皮切りに国内5館を巡回、彫刻85点をはじめ総165点が展示。1990(平成2)年ロレンツェリ・アート(ミラノ)で個展、42点を展示。95年紫綬褒章受章。 96年ミラノ市からアンブロジーノ文化功労銀賞授与。99年から東京藝大客員教授(2002年まで)。同年「YU847」で第30回中原悌二郎受賞。2010年吾妻兼治郎1948―2010展(マテーラ市、南イタリア)が市内の石窟や美術館で開催、彫刻102点、デッサン50点などからなる大回顧展となる。晩年はマリーニ夫人から譲られた師のアトリエで制作をした。イタリアでの活動については、村山鎮雄著『彫刻家吾妻兼治郎の歩み』(私家版、2017年)が詳しい。

朝倉響子

没年月日:2016/05/30

読み:あさくらきょうこ  彫刻家の朝倉響子(本名、朝倉矜子)は5月30日、腸閉塞で死去した。享年90。 1925(大正14)年12月9日、彫刻家・朝倉文夫の次女として東京に生まれる。姉は日本画家、舞台美術家として活躍した朝倉摂(本名、富沢摂)。父文夫の方針により学校へは通わず、義務教育の内容は家庭教師より教わった。はじめは姉摂とともに絵を描いていたが、彫刻を制作するようになり、1939(昭和14)年には9月に東京府美術館にて開催された第12回朝倉彫塑塾展覧会へ、「習作(第一)」「習作(第二)」「手習作」「手習作(イ)」「手習作(ロ)」の5点を出品している。42年10月第5回新文展に「望」で初入選を果たし、翌43年の第6回展には「あゆみ」を、46年3月の第1回日展には「慈」を出品。同年10月の第2回日展へ出品した「晨」にて特選を受賞した。以後も「萌」(第3回展、1947年)、「作品S」(第6回展、1950年)、「Mlle S.」(第7回展、1951年)で特選受賞。52年の第8回展、57年の第13回展では審査員を務めるも、以後同展への出品はしていない。新文展や日展への出品作はいずれも女性を題材にしたもので、多くは裸体の立像であった。また47年の第3回展までは、本名の矜子で出品していた。54年5月第1回現代日本美術展へ「首」を出品、以後も8回展(1968年)まで毎回出品をする。58年4月新聞を配る少年保護育成の会の依頼で約1年をかけて制作した新聞配達の少年像が完成、翌月麻布有栖川宮記念公園に設置された。この像がきっかけとなり、61年には神田錦町の製本業者からの依頼で製本工の像を制作している。59年5月第5回日本国際美術展へ「男の顔」を出品、以後9回展(1967年)まで毎回出品する。60年春、それまで父文夫のアトリエの一隅を仕切って制作を行っていたが、本郷千駄木町にアトリエを新設。61年10月文藝春秋画廊にて初の個展を開催する。この頃には形ではなく、対象の内奥と自身の精神とが混ざり合った「意味」を造形化しなくてはと考えていたという。65年1月朝日新聞社主催の第16回選抜秀作美術展に「ともえさん」(第6回現代日本美術展、1964年)が選抜出品、同作は翌月文部省買上となった。67年11月ギャラリー・キューブにて個展開催、石彫、ブロンズによる作品10余点を出品する。なかでも3点のトルソでは形態の単純化、抽象化が見られた。こうした傾向は70年4月の個展(ギャラリー・ユニバース)でも引き続き見られ、ブロンズによる具象的な人物像と石彫によるトルソという、彫塑と彫刻の両方が試みられた。また60年代後半頃よりブロンズによる女性像には着衣のものが多く見られるようになり、70年の個展では、「アヤ」「リサ」「ユミ」「マヤ」などの女性名をタイトルにした作品も発表された。71年7月第2回現代国際彫刻展に「女」を招待出品。73年9月にはギャラリー・ユニバースで個展を開催、椅子に腰掛け両足をまっすぐに伸ばした着衣の女性像である「WOMAN」をはじめとしたブロンズ作品18点を発表する。74年9月第2回現代彫刻20展に「WOMAN」「WOMAN」「FACE・S」を招待出品(第3回展、75年にも招待出品)。70年代後半頃より、それまでのデッサンにかわってモデルの写真を撮るようになり、その写真から対象のイメージを引き出し、造形化するという新しい方法での制作を行うようになる。78年10月の個展(ギャラリー・ユニバース)では、有名歌手やファッションモデルをモデルに制作した作品を発表。79年布施明をモデルにした「F(後に「憩う」と改題)」で第7回長野市野外彫刻賞を受賞する。80年1月写真家の奈良原一高が撮影を担当した写真集『光と波と 朝倉響子彫塑集』(PARCO出版)を刊行。82年、前年の個展で発表した「ニケ(NIKE)」で第13回中原悌二郎賞優秀賞を受賞する。85年9月には写真家安斎重男の撮影による写真集『KYOKO』(PARCO出版)の刊行を記念して、渋谷のパルコパート3内のスペースパート3にて個展を開催。会場には安斎の写真もともに展示された。同会場では88年9月、1993(平成5)年3月にも個展を開いている。2000年9月現代彫刻センターにて個展開催。同年11月には大分県の朝倉文夫記念文化ホールにて、70年代からの作品38点に野外設置作品の大型プリント9枚を加えた回顧展「愛の園生 朝倉文夫記念公園開園10周年記念 朝倉響子展」が開催された。03年12月北九州市立美術館にて回顧展「朝倉響子展―ときの中で―」開催。10年1月上野の森美術館ギャラリーにて個展を開催。歿後の16年9月には、初の父娘三人展である「朝倉文夫 摂 響子 三人展」が朝倉彫塑館にて開催された。 野外設置の作品も多く、主なものに「WOMAN」(町田駅北口)、「ふたり」(仙台市・西公園)、「約束の像」(小田急線新宿駅(後に小田急百貨店新宿店内に移設))、「フィオーナとアリアン」(東京・教育の森公園)、「マリとシェリー」(東京芸術劇場)などがある。

米坂ヒデノリ

没年月日:2016/04/01

読み:よねさかひでのり  思索的な彫刻を制作し続けた米坂ヒデノリは4月1日、肺炎のため死去した。享年82。 1934(昭和9)年釧路市の母の実家で生まれる。本名英範。北海道立釧路江南高等学校在学中の48年第5回全道展に油彩画「追憶」で入選。翌年の第6回同展に油彩画「思惟の軌跡」で入選。52年江南高等学校を卒業して上京し、蕨研究所を経て阿佐ケ谷美術研究所に学ぶ。53年4月東京藝術大学彫刻科に入学。菊池一雄研究室で学ぶ。56年第11回全道展に「トルス」(彫刻)で入選、また第20回自由美術展に「箝」で初入選。57年3月東京藝術大学彫刻科を卒業。卒業制作は等身大の「裸婦立像」であった。同年、母の死去により釧路市に戻り、北海道在住の彫刻家床ヌプリから木を贈られて木彫を手がけるようになる。全道展に「トルソ」「臥」、第21回自由美術展に「立」を出品。58年第13回全道展に東京藝術大学卒業制作「裸婦立像」を出品して北海道知事賞を受賞して北海道の若手作家として注目される。翌年全道美術協会会員に推挙され、81年に退会するまで同展に出品を続ける。61年第25回自由美術展に「開拓者」「呼ぶ」「妻」を出品して同会会員に推挙される。両手を口に当て、上半身をやや前かがみにした立像「呼ぶ」は峠三吉の詩「人間をかえせ」に触発された作品で、現代社会への批判が込められている。71年第35回自由美術展に一枚の板の上に横たわる抽象化された人体像を表した「北の柩」を出品して自由美術賞受賞。77年釧路短期大学教授となる。同年北海道文化奨励賞受賞。82年第5回北海道現代美術展に「海の詩」を出品して北海道立近代美術館賞を受賞。同年9月釧路市民文化会館で個展を開催し、12月には北海道生活文化・スポーツ海外交流事業により1ヶ月半ほどイタリアに学ぶ。86年北海道立旭川美術館で個展を開催。87年北海道空知管内栗山町に芸術文化推進員として移住し、アトリエ兼美術館「忘筌庵」を開設。晩年は釧路市に戻った。88年栗山町開基100年記念モニュメント「呼ぶ」を設置。1990(平成2)年4月札幌芸術の森美術館にて「米坂ヒデノリ 漂泊する魂の軌跡」展を開催。2005年10月には釧路市立美術館で「art spirit くしろの造形4 米坂ヒデノリ」展が開催され、同展図録に詳細な年譜が掲載されている。同年北海道文化賞受賞。09年道功労賞を受賞し、同年釧路芸術館で「米坂ヒデノリ オーケストラ展」が、14年釧路市民文化会館で個展が開催された。生涯を通じて殉難者や先住者への鎮魂が造形の背景にあり、1970年代前半までの作品には思索的主題を込めた人物全身像が多く、70年代後半からは抽象的な形体への模索がうかがえる。80年代には複数の個体を組み合わせた作品も造られるようになった。初期から野外彫刻も制作し、東京の最高裁判所大ホール「神の国への道」、釧路市民文化会館前の「凍原」、オーケストラの大作「ミュージアム(頌韻)」などで知られる。文章もよくし、新聞等にも連載をしており、著書『彫刻とエッセイ集―間道を行け』(北海道新聞社、1982年)も刊行されている。

加藤昭男

没年月日:2015/04/30

読み:かとうあきお  陶による立体造形を追及し続けた彫刻家加藤昭男は前立腺がんのため30日に死去した。享年87。 1927(昭和2)年6月16日愛知県瀬戸市朝日町に生まれる。父鶴一は陶土採掘・販売を本業とする一方、華仙と号して帝展・新文展に出品していた。また、画家北川民次は岳父に当たる。40年3月に瀬戸市立深川尋常小学校を卒業し、同年4月に愛知県立窯業学校(現、県立窯業高校)に入学。絵画を佃政道、彫刻を橋爪英夫に学ぶ。42年からアジア太平洋戦争の戦況悪化のため勤労動員され、農作業や工場へ勤務。45年陶芸家田沼起八郎に石膏デッサンの指導を受ける。同年3月愛知県立窯業学校を卒業。4月に京都工業専門学校(現:京都工芸繊維大学)に入学。48年3月京都工業専門学校を卒業。4月に上京して蕨画塾に入り、寺内萬治郎らに師事する。49年4月東京藝術大学に入学。戦前にパリでシャルル・デスピオに師事して帰国した菊池一雄教室に入る。当時、同校ではマイヨールに師事した山本豊市や菅原安男、伊藤傀らが教鞭を取っており、彼らにも学ぶところがあった。52年第16回新制作協会展に「立像」(石膏)で初入選。以後同展に出品を続ける。53年東京藝術大学彫刻科を卒業し、同学専攻科に入学。在学中に安宅賞を受賞。55年東京藝術大学彫刻専攻科を修了し、同学副手となる。同年第19回新制作協会展に「トルソ」(石膏)を出品して新作家賞を受賞。翌年第20回同展に「女」(石膏)を出品して再度新作家賞受賞。57年東京藝術大学副手を退任。この頃からテラコッタ制作を始める。58年第22回新制作協会展に「トルソA」(ブロンズ)、「トルソB」(ブロンズ)、「RONDE」(石膏)を出品し、同会会員に推挙される。62年第5回現代日本美術展に人体を簡略化したフォルムでとらえた「立像」を出品。50年代後半から欧米の抽象彫刻が日本に紹介され始める中で、制作の方向について模索が続いたが、60年代半ばから人間と自然との関わりを主題とし、陶土の粘性と量塊性を活かした具象彫刻に主軸を定める。また、セメントやポリエステルなどの新素材による制作や野外彫刻を試みるようになる。69年から74年まで東海大学芸術研究所の教授をつとめる。73年第1回彫刻の森美術館大賞展に「焔と土」(テラコッタ・木、72年第36回新制作協会展出品作)が入選。74年6月、「母と子」で第2回長野市野外彫刻賞受賞、また同年8月、鳥に導かれて浮遊する仰臥した女性像を表した「月に飛ぶ」(ブロンズ)で第5回中原悌二郎賞優秀賞を受賞。75年第2回彫刻の森美術館大賞展に「月に飛ぶ」(ブロンズ、第38回新制作協会展出品作)が入選。同年日本画家平山郁夫らと中国旅行。77年第3回彫刻の森大賞展に「五月の風」(第39回新制作展出品作)が入選。80年渡欧し、フランス、スイス、イタリア、ギリシャ等を巡る。82年第2回高村光太郎大賞展に両腕を大きく広げた人物の上半身とその手から飛び立つ一羽の鳩を表した「鳩を放つ」(ブロンズ)を招待出品し優秀賞を受賞。83年第1回東京野外現代彫刻展に「野原の休息」(ブロンズ)を出品して大衆賞を受賞。同年武蔵野美術大学教授となる。86年第2回東京野外現代彫刻展に「大地」(ブロンズ)を出品して大衆賞を受賞。87年フランスに渡り、ロマネスク美術を中心に研究した。1994(平成6)年、「何処へ」(ブロンズ)で第25回中原悌二郎賞を受賞。97年3月現代彫刻センターで「加藤昭男展」、同年9月、武蔵野美術大学美術資料図書館において「武蔵野美術大学教授退任記念 加藤昭男彫刻展」が開催された。翌年3月定年退職し、同名誉教授となった。年譜は退官記念展図録に詳しい。99年新宿パークタワーにて「加藤昭男個展」を開催、2000年には第5回倉吉・緑の彫刻賞受賞。01年に旭川市彫刻美術館で「加藤昭男個展」を開催。02年、江戸時代の仏師円空の生地である岐阜県が主催し、風土と国際性、自然との関わりなどを視点として選考する第2回円空大賞を受賞した。最初期に当たる50年代には量感のある人体像を制作し、その後一時期抽象表現を取り入れたが、60年代半ばから自然と人との関わりを陶土で表現することを追及し続け、大地から土の塊が盛り上がってかたちとなるような作品を多く残した。

田辺光彰

没年月日:2015/03/30

読み:たなべみつあき  彫刻家の田辺光彰は3月30日、肺炎のため死去した。享年76。 1939(昭和14)年2月15日神奈川県に生まれる。61年多摩美術大学彫刻科卒業。翌年アメリカの彫刻家イサム・ノグチの知遇を得て強烈な影響を受け、以後数年間は石膏による作品模型を数多く制作する。68年から75年にかけて断続的に世界50カ国を巡り、広く異文化に接する。その間69年より横浜市北部近郊に「山内によする」と題する野外作品の制作に取り組み、76年に完成。78年ギャラリー・オカベで初個展開催。79年第1回ヘンリー・ムーア大賞展で「混在(あ)」がジャコモ・マンズー特別優秀賞受賞。80年第7回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で「混在(内部・あ・外部)」が宇部市野外彫刻美術館賞受賞。81年には第2回ヘンリー・ムーア大賞展で「混在(内部・あ)」が優秀賞を受賞。81~83年に佐久市立近代美術館前庭に高さ40mの筒状の風導塔と、地下を通じて塔と連結する長さ20mの回廊、及びこの回廊を貫通する70mの遊歩道からなる「さく」を制作。86~87年にはソウルオリンピック関連事業として、韓国国立現代美術館より委嘱され「SEOUL・籾・熱伝導」を制作する。この頃より環境破壊への警鐘となるモティーフとして野生稲に注目、1992(平成4)年には農学者の佐藤洋一郎と野生稲自生地保全の運動をはじめ、稲籾をテーマとした制作やプロジェクトを国内外で行なう。99年に神奈川県民ホールで開かれた「田辺光彰展」では籾と共生するヘビやトカゲ、ムカデ等の動物のモティーフが登場。2006年にはオーストラリア、クイーンズランド州のマリーバ湿地帯にステンレス・スチール圧延板製の巨大なトカゲ像(長さ19m、重さ11t)である「KADIMAKARA(爬虫類・MOMI-2006)」を設置する。08年にはローマの国連食糧農業機関(FAO)本部、09年北極のスヴァールバル全地球種子庫にも作品を設置。彫刻が、単に展覧会の出品作として語られるのではなく、社会の精神的なモニュメントとしての存在であることを、制作を通して実証し続けた。11年に『田辺光彰』(野村太郎編著、八坂書房)が刊行。2014年に横浜市に開設した日吉の森庭園美術館に田辺光彰美術館がある。

宮脇愛子

没年月日:2014/08/20

読み:みやわきあいこ  彫刻家の宮脇愛子(本名、磯崎愛子)は8月20日、膵臓がんのため横浜市内の病院で死去した。享年84。 1929(昭和4)年9月20日に生まれる。幼い頃から身体が弱く、戦時中の勤労動員でも自宅療養することが多かったという。また、丈夫になるようにと幾度か名を変えており、幼稚園の頃には貴子、女学校時代までは幹子という名前だった。46年3月小田原高等女学校(現、神奈川県立小田原高等学校)卒業、52年3月日本女子大学文学部史学科卒業。卒業論文では桃山美術を扱った。学生時代には義理の姉であった画家の神谷信子を介して知り合った洋画家・阿部展也のもとへ通っていたというが、親戚に絵描きはひとりでたくさんだといわれていたことから、描いた作品を発表しようという考えはなかったという。53年には文化学院にて阿部に学び、一方で同じく義姉を通じて知り合った美術家の斎藤義重に作品を発表することの意義を諭され、作品は人に見せなければ駄目だと考えるようになる。57年、アメリカへ短期留学し、カルフォルニア大学ロサンゼルス校とサンタモニカ・シティ・カレッジにて絵を学ぶ。59年12月、東京の養清堂画廊にて初の個展を開催。個展には1点を除き同年に制作された作品19点が展観され、絵具にエナメルや大理石の粉末をまぜて作り上げた色面に描線を刻み込む表現は、レリーフや鎌倉彫のようだと評された。同年夏にはインドを経由してウィーンを訪れ世界美術家会議に参加、その後ミラノに滞在した。ミラノでは阿部の紹介でエンリコ・バイが保証人になったといい、フォンタナら若い芸術家グループと親交を持ったという。61年ミラノのミニマ画廊にて個展開催、翌62年1月には日本での2度目となる個展を東京画廊にて行った。絵具に大理石の粉を混ぜ、同じようなパターンをパレットナイフで画面に並べていくという方法で描かれた作品は、このとき来日していたフランスの画商、アンドレ・シュレールの目に留まり、宮脇はシュレールと契約、1年間パリに滞在して作品制作と個展を行った。パリではマン・レイらと交際し、63年、パリからの帰国に際して立ち寄ったニューヨークにそのまま滞在、66年帰国した。この間、64年にはニューヨークのベルタ・シェーファー画廊にて個展を開催、そのときのカタログにはマン・レイが序文を寄せている。66年11月には銀座・松屋で開かれた「空間から環境へ」展へ出品、このとき初めて磯崎新と知り合う。展覧会へは三角形を重ね合わせ、平面における遠近法を立体で表現したような作品を出品。また、同じ頃より真鍮のパイプを用いた作品の制作を開始、67年3月には東京画廊にて個展を行った。真鍮の角筒や円筒を組み合わせ、人工照明ないしは自然光による光の効果を演出した作品には、油彩により平面に光が分布する状態を捉えようとしていたという以前の作品からの立体への展開が見られるとされた。同年10月にはアメリカのグッゲンハイム美術館で開催されたグッゲンハイム国際彫刻展へ出品、真鍮の角筒を組み合わせた作品は美術館買い上げ賞に選ばれる。翌68年11月、第5回長岡現代美術館賞展へ音の出る作品「振動」を出品、70年5月には60年代の総決算となる個展をポーランドのウッジにて開催した。また、この頃宮脇は素材によってテーマを決めて制作をしていたといい、ガラスの透明感を損なわないため切るのではなく割るという方法を採った「MEGU」シリーズや、三角形の金属や石の板に展覧会をする国の言葉で「Listen to your portrait」と刻んだ「Listen to your portrait」シリーズを制作している。72年、建築家の磯崎新と結婚。同年、辻邦生『背教者ユリアヌス』で初めて装丁を手がけた。76年9月には東京のギャラリー・アキオにおいて個展を開催、翌77年には第7回現代日本彫刻展へ三角柱を三つに割り、距離をとって三角形に配置した「MEGU-1977」を出品、北九州市立美術館賞を受賞。またこの頃には、精神的な行き詰まりから写経をするような気持ちで描いていたという「スクロール・ペインティング」シリーズが制作されている。78年10月には磯崎新の指揮の下、パリのルーヴル宮殿内にある装飾美術館で開催された「日本の時空間―」へ参加、「うつろい」をテーマとした部屋で、後に「A Moment of Movement」と題された、真鍮の屏風のような作品を展示した。その後、ニューヨークのポート・オーソリティから彫刻のコンペティションに招待されたのを機に、虚空に線を描くかのようにのびのびとした自由な魂、中国語でいう「気」を表したいと実験的な制作を繰り返し、79年12月の東京画廊における小品展へその模型を出品、翌80年3月、愛知県一宮市の彦田児童公園に、後に宮脇の代名詞ともなる「うつろひ」シリーズの第1作目となった「UTSUROI」が設置された。このときの作品は2本のパイプを撓わせたもので、工場であらかじめつくったものを設置したという。5月には名古屋のギャラリーたかぎで「宮脇愛子1960-1980」が開催、新作として、ステンレスワイヤーで先の「UTSUROI」とほぼ同じ形の作品を展示する。このときには素材をワイヤーに変更したため、設置は会場において宮脇自身の手で行われた。81年7月、第2回ヘンリー・ムア大賞展へ12本のワイヤーからなる「うつろい」を出品、エミリオ・グレコ特別優秀賞受賞。82年には第8回神戸須磨離宮公園現代彫刻展にて「うつろい」で第1回土方定一賞を、86年には第2回東京都野外現代彫刻展にて「うつろひ」で東京都知事賞をそれぞれ受賞。85年にはパリのジュリアン・コルニック画廊で個展を開催する。この個展をきっかけに、ラ・デファンス地区のグランダルシュ(新凱旋門)そばの広場に「うつろひ」を設置することとなり、1989(平成元)年に完成。翌90年には、92年のバルセロナオリンピックへ向けて磯崎新の設計で建てられたサンジョルディ・スポーツ・パレス前の広場にも「うつろひ」が設置された。94年には磯崎新の設計による岡山県の奈義町現代美術館に、荒川修作、岡崎和郎とともに作品を設置。97年、突然病に倒れるが、翌98年に神奈川県立近代美術館で開催された個展には、「うつろひ」を新たに水墨で表現した連作を制作、出品する。2001年には奈義町現代美術館において「墨によるうつろひドローイング 宮脇愛子展」が開催された。12年にはギャラリーせいほう、ときの忘れものの二会場にて59年から70年代の作品に焦点を絞った個展を開催、14年3月にはカスヤの森現代美術館にて個展を開き、初期の作品から最新の絵画作品までが展観された。 絵画から彫刻へ、油彩から真鍮、ガラス、スチールワイヤーへとその技法や素材をさまざまに展開させた宮脇だが、「しつこいくらいに一生貫き通す自分の思想がなければ、アーティストとはいえないでしょうね。」と語っているように、一貫して同じコンセプト、宮脇のいう「あらぬもの」を見ようとする姿勢で制作を続けた。

市村緑郎

没年月日:2014/04/27

読み:いちむらろくろう  彫刻家で日本芸術院会員、埼玉大学名誉教授の市村緑郎は4月27日、間質性肺炎のため死去した。享年78。 1936(昭和11)年4月21日、茨城県下妻市に生まれる。62年東京教育大学(現、筑波大学)教育学部芸術学科彫塑専攻を卒業。在学中の61年に第4回日展へ「遠碧」を出品、初入選を果たす。62年第38回白日会展に「トルソーⅠ、Ⅱ」が初入選し白日賞を受賞。また同年より東京都立大泉高等学校で教鞭を取る。67年白日会会員に推挙。71年埼玉大学教育学部に助手として着任し、翌年に講師、83年に教授となり、2002(平成14)年に定年退官するまで彫刻実技、彫刻理論を中心に学生を指導、講座運営に尽力する。74年第4回日彫展、76年第6回日彫展で努力賞、77年第7回日彫展で日彫賞を受賞。77年文部省短期在外研究員として渡欧、イタリアを中心にヨーロッパの彫刻と美術教育について研究する。78年改組第10回日展で「腰掛けている人」、翌年第11回展で「腰掛けている女」で特選を受賞。82年第2回高村光太郎大賞展で「バランス」が佳作賞、84年第3回同大賞展で「融化A」が優秀賞を受賞。同賞の受賞をきっかけに屋外彫刻にも積極的に取り組み、86年には高村光太郎大賞の後を受けた第1回ロダン大賞展で「雲」が優秀賞、88年第2回同大賞展で「日は西に―明日へ」が彫刻の森美術館賞を受賞する。この間87年に日展会員に推挙。88年第64回白日会展で「明日に」が吉田賞を受賞、その後も同会の95年第71回展で「記憶」が長島美術館長賞、2002年第78回展で「こしかけているひとⅡ」が中澤賞と受賞を重ねる。89年第3回現代日本具象彫刻展で「森の詩」が大賞を受賞。94年第26回日展で「リラ」が日展会員賞を受賞。01年日展評議員に就任。02年に埼玉大学を定年退官し名誉教授となり、崇城大学芸術学部教授に就任。03年には「空遠く」で第35回日展内閣総理大臣賞を受ける。一貫して塑造による人体像を追究し、強い構築性をベースとした滑らかな肢体が生み出す無駄のない造形性による作品を発表した。また中央での精力的な活躍のみならず、地域への貢献という点でも埼玉県展の審査員や代表委員等の要職を歴任し、市民文化の向上に寄与した。06年、前年の第37回日展出品作である「間」で日本芸術院賞を受賞、08年日本芸術院会員となる。同年日展理事(09年に常務理事)、日本彫刻会理事(12年に理事長)に就任。没後の2016年に『市村緑郎彫刻作品集』(求龍堂)が刊行された。

多田美波

没年月日:2014/03/20

読み:ただみなみ  アクリルやアルミニウムなどの新しい素材を用い、環境や建築と調和する光あふれる造形を試み続けた多田美波は、3月20日、肺炎のため死去した。享年89。 1924(大正13)年7月11日、鉱山関係の役人であった父の職の関係で台湾の高雄市に生まれる。4歳の時、父の転任地である韓国に移り、京城師範付属小学校、京城第一高等女学校に学ぶ。同校での担任で女子美術専門学校出身者であった教師から個人的に油彩画の指導を受ける。1940(昭和15)年、第19回朝鮮美術展覧会西洋画の部に「朝鮮の古物」を、43年第22回同展西洋画部に「風景」「習作」を出品。41年女子美術専門学校西洋画科に入学、44年9月に同科を繰り上げ卒業する。同校在学中に、伊原宇三郎の個人指導を受ける。56年、第41回二科展に「変電所」(油彩)を初出品。57年、第9回読売アンデパンダン展に油彩画「変電所R」「変電所L」を出品。同年、東京炭労会館にレリーフ「炭鉱」を制作し、立体作品に移行し始める。58年第43回二科展彫刻部に「OPUS―0」を、第10回読売アンデパンダン展に油彩画「変電所」を出品。59年、第44回二科展彫刻部に「OPUS―1」を、60年、第45回同展に蝋型ブロンズによる「発祥」「虚」を、同年の第12回読売アンデパンダン展に油彩画「ある一つの邂逅」「作品X」を出品。61年、第46回二科展彫刻部に「作品1」「作品2」を、第13回読売アンデパンダン展彫刻部に「非」を出品。62年、多田美波研究所を設立。この頃から、建築装飾や照明器具などの製作も行うようになる。63年、第15回読売アンデパンダン展にアルミニウムを素材とする「周波数37303011MC」を「かけら」と題して出品し、以後、「周波数」シリーズが続く。64年頃からアクリル樹脂による立体造形を試みる。65年、第8回日本国際美術展に「周波数37306505MC」を出品して優秀賞を受賞。同年、第1回現代日本彫刻展(宇部市)に「周波数37306560MC」を、66年、第7回現代日本美術展に「周波数37306633MC」を、67年、第9回日本国際美術展に「周波数37306776MC」を出品。68年EXPO’70(大阪万博会場)に「Laptan No.1」を制作し、同年第8回現代日本美術展に「Laptan No.2」を出品して優秀賞を受賞する。また同年の第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「空」を出品。また、同年、皇居新宮殿「春秋の間」ほかに光造形、ペンダント、照明器具等を制作する。69年、第3回現代日本彫刻展に「Aufheben」を出品。同年の第9回現代日本美術展に「Phase Space 6943」を出品して神奈川県立近代美術館賞を受賞。70年の大阪万博に際しての万国博覧会美術展には「Epicycle No.2」を出品。同年の第2回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「Aufheben」「ルミナス・ボックス」「Epicycle」と神戸市美術愛好家協会賞を受賞した「地球の光、北緯34°39’東経135°7’15’’」を出品。71年、第4回現代日本彫刻展にアクリルと鉄を素材とし、正方形の表面を対角線上に湾曲させた「超空間」を出品して大賞受賞。72年、新潮社主催の第4回日本芸術大賞を受賞。同年第3回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「Space Eye」「Laptan No.2」「Epicycle No.2」を出品して「Space Eye」で朝日新聞社賞受賞。73年、第1回シドニー・ビエンナーレ展に「Pole」を出品。74年に湾曲した金属鏡面による銀座Leeビルのファサードデザインを、新宿住友ビルに三角形をモチーフとした天井と床の造形を制作する。75年、第6回「現代日本彫刻展―彫刻のモニュマン性」に透明なアクリル壁の上部を半円状にたわませた「天象」を出品して宇部興産賞受賞。76年、第5回「神戸須磨離宮公園現代彫刻展―都市公園への提案」に透明なアクリル板による円錐形で構成した「透明」を出品して大賞・神戸市長賞受賞。同年照明学会創立60周年記念功労者賞受賞。77年、第3回彫刻の森美術館大賞展に「透明」を出品して特別賞を受賞。同年第7回現代彫刻展に「双極子」を出品して宇部興産賞受賞。また、同年ワシントンに一ヶ月滞在し、在米日本国大使館公邸に光造形を制作した。78年、第6回「神戸須磨離宮公園現代彫刻展―都市彫刻への提案」に湾曲させた透明な強化ガラス板を複数林立させて構成した「旋光」を出品し、国立国際美術館賞受賞。同年6月ブラジル・ブラジリアの日本国大使公邸で光造形の制作を行い、その後、ペルーのナスカなどを旅する。79年、第1回ヘンリー・ムーア大賞展に「極」を出品して大賞受賞。同年の第8回現代日本彫刻展に「Chiaroscuro」を出品し、東京国立近代美術館賞受賞。80年、第21回毎日芸術賞受賞。同年の第7回「神戸須磨離宮公園現代彫刻展―都市景観の中の彫刻」に「時空」を出品し、神奈川県立近代美術館賞受賞。81年、第9回現代日本彫刻展に「時空No.2」を出品し特別賞・宇部市制施行60周年記念賞受賞。同年第6回吉田五十八賞受賞。82年4月、オーストラリア・ニューカッスル市美術館前庭に「時空No.2」を設置するために同地に滞在。同年、三重県立美術館に陶板によるレリーフ「曙」を制作する。83年、芸術選奨文部大臣賞受賞。同年、帝国ホテル光の間他に光造形を制作する。1989(平成元)年5月、東京・有楽町アートフォーラムで「多田美波展―超空間へ」、90年、愛知県碧南市文化会館で「多田美波展」、91年には三重県立美術館、東京都渋谷区立松濤美術館で「多田美波展」が開催された。年譜や文献目録は同展図録に詳しい。同年、新東京都庁舎都議会議事堂に「澪」を、93年、東京都江戸東京博物館に天井造形「翔彩」を制作。97年、長野オリンピック冬季大会競技会場エムウェーブ外庭に彫刻「Velocity」を設置。2001年から翌年には台湾の高雄市立美術館、台北市立美術館にて個展を開催し、02年に台湾総督府官邸に彫刻「時空’89」を、翌年には交流協会台北事務所に「周波数373004MC」を、雲林県古坑サービスエリアに彫刻「伸」を設置した。09年10月、彫刻の森美術館40周年記念「多田美波展―光を集める人」、10年2月には中国・上海月湖彫塑公園で個展を開催した。 戦後、工業技術の発達によって登場した新たな素材と技術を用い、表面を鏡のようにしたり、透明な素材を用いることにより、作品にその周囲、あるいは鑑賞者の動きを取り込み、量塊性を重視した古典的彫刻概念に変革を迫った。また、建築空間と調和し、デザイン性と造形性を併せ持つ作品を数多く制作した点も特筆される。90年に画集『多田美波』(平凡社)が刊行されている。逝去の年の5月30日に、多田が内部装飾を手がけた東京都千代田区の帝国ホテルにおいて多田美波研究所主催による「しのぶ会」が開かれた。

石黒鏘二

没年月日:2013/12/19

読み:いしぐろしょうじ  彫刻家で元名古屋造形芸術大学(現、名古屋造形大学)学長の石黒鏘二は12月19日午前7時16分、食道がんのため死去した。享年78。 1935(昭和10)年6月4日、愛知県名古屋市に生まれる。51年に愛知県立旭丘高校美術科へ入学、高校3年の時に行動美術展に彫塑の「裸婦」を出品し入選。54年東京藝術大学美術学部彫刻科へ入学し石井鶴三の教室に学ぶ。58年に卒業した後は名古屋に戻り、61年より豊橋のマネキン制作会社に勤務しながら制作を続けるが、そこでの業務を通じて様々な技術・技法を習得し、また多くの人々と交流した経験は、後に「マネキン会社大学卒業」を自称するほどに大きな糧となる。69年より身近な題材をモティーフとした鉄溶接による彫刻作品を発表、1970年代後半からはステンレススチールによる抽象的な野外彫刻を数多く手がけるようになる。79年第1回ヘンリー・ムーア大賞展佳作賞、83年同優秀賞、85年同彫刻の森美術館賞、第11回現代日本彫刻展宇部市野外彫刻美術館賞を受賞。また1989(平成元)年に愛知県芸術文化選奨文化賞を、2004年には文部科学省地域文化功労者賞を受賞。一方、名古屋造形芸術大学において67年の開学以来教鞭をとり、98年から2006年まで名古屋造形芸術大学学長を務めた。90年代には「記憶のマテリアル」、2000年代に入ると「記憶のモニュメント」と題するインスタレーションを発表。11年からは千種川歩のペンネームで小説の執筆にも取り組んだ。13年には碧南市藤井達吉現代美術館にて「記憶のモニュメント その軌跡の展開 石黒鏘二展」が開催されている。

村岡三郎

没年月日:2013/07/03

読み:むらおかさぶろう  彫刻家の村岡三郎は、7月3日肺炎のため滋賀県大津市の病院で死去した。享年85。 1928(昭和3)年6月25日、大阪市に生まれる。旧制大阪府立高津中学校(現在の大阪府立高津高等学校)に学ぶ。45年九州の航空隊に配属、「特攻」要員として終戦を迎える。47年に同中学校を卒業。50年、大阪市立美術研究所彫刻部を修了。同年3月、第1回関西総合美術展覧会に出品、同年9月、第36回二科展に初入選。二科展には、以後67年の第52回展まで出品を続けた。65年10月、第1回現代日本彫刻展(宇部市野外彫刻美術館)に「作品(冬眠中)」(材質:金属、ゴムその他)を出品、K氏賞受賞。69年10月、第3回同展(同会場)に「自重」(材質:ポリエステル)を出品、大賞を受賞。71年10月、第4回同展でも「ゲル化(硬化)」(材質:F.R.P.)によって再びK氏賞受賞。また69年8月に、信濃橋画廊(大阪市)にて「砂」と題した初個展を開催。以後、個展、ならびにコンクール形式の展覧会、または現代美術を紹介する各地の美術館の企画展に出品を重ねた。 77年5月、「ホヴァリング」(空中停止)と題して個展(信濃橋画廊)を開催、自らの落下中の姿を撮影した写真映像と、ドローイングや鉄を素材にした作品によるインスタレーションを試み、コンセプチュアルアートとして評価された。83年10月、「熔断1380°C×6000」を信濃橋画廊の個展で発表、溶断した鉄棒を展示して溶断する身体と時間を意識化さることを試みた。この溶断、溶接の行為は、以後村岡にとって重要な表現のひとつとなった。86年7月から翌月にかけて、中国新疆ヴィグル地区に赴き、タクラマカン砂漠を旅行。この時の体験は、その後の制作に大いに影響を与え、特にこの地の岩塩を得たことから、鉄、硫黄とともに塩もその後の表現の要素に加わった。87年11月、第4回牛窓国際芸術祭―彫刻と空間(会場、岡山県牛窓町)に、「牛窓・7つの酸素」を出品、酸素ボンベを初めて作品に組みいれた。70年代から80年代にかけて、村岡の作品は、元素的な素材を取りあげて、溶接、熱、振動の痕跡を作品化、もしくはインスタレーションとして提示し、自然、身体、宇宙、生命等を強く意識した創作活動をつづけた。 1990(平成2)年、第44回ヴェネツィア・ビエンナーレに遠藤利克とともに日本館に出品(日本のコミッショナーは美術評論家建畠晢)、国際的にも注目された。97年11月、東京国立近代美術館にて「村岡三郎展 熱の彫刻―物質と生命の根源を求めて」を開催(同展は、翌年3月まで京都国立近代美術館を巡回。)80年代から90年代までの近作を中心に28点を出品。同展の成果により、99年1月に第40回毎日芸術賞を受賞。 青年期にあたる戦中、戦後の時期の苛烈な体験から、内面に虚無を抱えこむことなく、また情緒性や感傷を一切排し、科学、物理学の原理的な理論を援用しながら、自らの死生観と想像力を元素的な物体を素材にして表現した特異なアーティストであった。身体性、観念性と即物性を力技で作品化した点から、日本の戦後美術から現代美術においてユニークな位置を占めている。なお創作活動と並行して、81年から滋賀大学教育学部教授として勤め、93年3月に退官。続いて同年4月より2002年まで京都精華大学芸術学部教授を勤めた。没後、2013年7月、京都精華大学(会場、同大学ギャラリーフロール)にて「故 村岡三郎先生 追悼展示」が開催された。

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