高須光治

没年月日:1990/12/25
分野:, (洋)
読み:たかすみつじ

 草土社の創立会員で岸田劉生の「高須光治君之肖像」のモデルともなった洋画家高須光治は、12月25日午後3時38分、心不全のため愛知県愛知郡の福友病院で死去した。享年93。10代の後半期に岸田劉生や白樺派の人々と交遊し、間もなく帰郷して郷里の文化活動に尽くした高須は、明治30(1897)年8月13日、愛知県渥美郡に生まれた。同41年、豊橋尋常高等小学校高等科在学中に、黒田清輝門下の島田卓二に出会い絵に興味を抱く。同43年、高等小学校を卒業、同45年、太平洋博覧会見学のため上京し、岸田劉生個展を見て感銘を受ける。大正2(1913)年より豊橋の文化団体一隅会に参加し、同人誌『一隅』に詩の投稿を続けるが、同3年11月、画家を志して上京し、白馬会葵橋洋画研究所に入所。翌4年、岸田劉生を訪ね、劉生を介して武者小路実篤、長与善郎、千家元磨など白樺派文人と交遊するようになる。同年3月第15回巽画会展に「母におくる像」で初入選し3等賞銅牌受賞。同年10月、第1回草土社展に「半蔵門風景」「三宅坂風景」2点、「青年肖像」3点など10点の作品を展示して、同会の創立に参加する。また同年11月、劉生、木村荘八高村光太郎らを発起人として「高須光治画会」を開催する。草土社展には同5年第3回展まで出品するが、同年豊橋に帰郷し、翌年より出品せず、同11年最終回となった第9回展に「風景」を出品した。昭和2(1927)年、横浜市へ転居し、同年第1回大調和展に出品。翌年第2回展にも出品するが、同年上京し、同4年より国画会に参加。同6年、再度豊橋へ帰郷し、家業の本屋を継ぐ。国画会には同8年第8回展まで出品したが、同年豊橋文化協会を設立し、雑誌『文化』を創刊。以後しばらく中央の団体展から遠ざかり、戦後の昭和21年第二次の豊橋文化協会の創立にも参加して雑誌『豊橋文化』を中心に論評、挿図などを発表。また、同28年浜松市立図書館で「高須光治小品展」を開くなど、個展によって作品を発表する。同37年、武者小路実篤を中心に大調和会が再結成され、同会に第1回展より同43年第7回展まで出品した。同43年、豊橋文化協会文化賞を受賞。翌44年には豊橋文化協会創立当時の理事8名で文協サロンを発足し、会報『輪』に論評を発表し始めた。草土社時代に形成された芸術への真摯な姿勢を守り続け、郷里の文化の振興に尽くすとともに、独自の制作を行なった。昭和62年、豊橋市美術博物館で「高須光治と草土社展」が開かれ、生前の本格的な回顧展となった。

出 典:『日本美術年鑑』平成3年版(329-330頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月26日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「高須光治」『日本美術年鑑』平成3年版(329-330頁)
例)「高須光治 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10404.html(閲覧日 2024-04-24)
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