三木多聞

没年月日:2018/04/23
分野:, (評)
読み:みきたもん

 美術評論家で、国立国際美術館長などを歴任した三木多聞は、4月23日急性心不全のため没した。享年89。
 1929(昭和4)年2月6日、現在の東京都北区中里に生まれる。父は、彫刻家の三木宗策。早稲田大学第二文学部芸術学科を卒業後の52年に開設時の国立近代美術館に採用。以後、82年まで東京国立近代美術館の事業課長、美術課長、企画課長を歴任した。72年9月、同美術館の開館20年を記念して「現代の眼-近代日本の美術から」展が開催され、74年に同展の記念図録を刊行。つづいて73年9月、同美術館において「近代日本美術史におけるパリと日本」展を開催し、75年には同展の記念図録を刊行した。両展とも、当時としては規模も大きく、その中心となって担当して図録の編集執筆にあたったが、前者は日本の近代美術を批評的にとらえなおそうとする試みであり、後者は、ヨーロッパ近代美術の受容史として見なおす内容であった。81年12月、同美術館において「1960年代-現代美術の転換期」展を企画担当し、国内外で活躍する日本の美術家72名を網羅し、日本の現代美術を横断的に俯瞰しようとする画期的な内容であった。
 82年、文化庁文化財保護課企画官に異動。86年、国立国際美術館に館長として赴任。同美術館を退職後の1992(平成4)年から97年まで徳島県立近代美術館長。また、徳島県立近代美術館在職中、併任して95年から2000年まで東京都写真美術館長を務めた。01年に勲三等旭日中綬章を受けた。
 また、海外での活動としては、75年、アントワープ・ミデルハイム国際彫刻ビエンナーレ展コミッショナー、81年と83年、サンパウロ・ビエンナーレ展コミッショナー、85年、リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展審査員などを務めた。
 東京国立近代美術館在職中から、勤務の傍ら各種のコンクールの審査員や新聞雑誌、展覧会カタログ等に旺盛に執筆をして、近代、現代彫刻を中心に広く批評活動をつづけた。そうした視野の広さと交友の広さから、70年代から80年代にかけては美術評論の分野で重きを置いていた。90年7月、柏市文化フォーラム104主催で第1回TAMON賞展(会場、〓島屋、千葉県柏市)が開催された。同展は、現代絵画の分野で若手美術家を育成する目的で、三木多聞の単独審査による公募展であった。同展は、95年の第6回展まで三木が審査にあたった。
 なお、多くの編著作、ならびにカタログ、新聞雑誌への寄稿があるが、主要な著作は下記のとおりである。
 『近代の美術 第7号 高村光太郎』(至文堂、1971年)
 共編『現代世界美術全集21 ムンク、カンディンスキー』(集英社、1973年)
 共編『現代日本美術全集17 中村彝・須田国太郎』(集英社、1973年)
 共編『日本の名画24 岡鹿之助』(中央公論社、1977年)
 編著『原色現代日本の美術13 彫刻』(小学館、1979年)
 小倉忠夫共著『日本の現代版画』(講談社、1981年)
 『近代絵画のみかた:美と表現』(第一法規出版、1983年)
 執筆「皇居宮殿の絵画 その画家と作品」(『皇居宮殿の絵画』、ぎょうせい、1986年)
 監修・文『寓意像 鶴岡政男素描画集』(PARCO出版、1988年)
 編著『昭和の文化遺産5 彫刻』(ぎょうせい、1990年)
 編著『自画裸像 或る美術家の手記・保田龍門遺稿』(形文社、1997年)
 なお、父三木宗策(1891-1945)の作品集『三木宗策の木彫』(アートオフィス星野編、2006年)を自家出版した。また没後、遺族より東京文化財研究所に「三木多聞氏関係資料」が寄贈された。資料は、図書、カタログの他、自筆原稿を含む著述ファイル、展覧会案内状等によるスクラップブック、写真アルバム、手帖等であり、現在同研究所にて公開、活用にむけて整理が進められている。

出 典:『日本美術年鑑』令和元年版(507-508頁)
登録日:2022年08月16日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「三木多聞」『日本美術年鑑』令和元年版(507-508頁)
例)「三木多聞 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/995696.html(閲覧日 2024-10-04)

以下のデータベースにも「三木多聞」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top