豊福知徳

没年月日:2019/05/18
分野:, (彫)
読み:とよふくとものり

 彫刻家の豊福知徳は、5月18日、福岡市内の病院で死去した。享年94。長年にわたりイタリア、ミラノを拠点として活動し、厚みのある木に楕円形の穿孔を彫りめぐらせる特徴的な抽象彫刻によって知られた。
 1925(大正14)年2月18日、福岡県三井郡山川村(現、久留米市)に生まれる。1942(昭和17)年、國學院大學に進学し国文学を志すが、44年に志願して陸軍特別操縦見習士官となる。敗戦を迎え故郷に戻り、手作りのパイプに彫り物をしているところが近所の住職の眼に止まり、46年、彫刻家の冨永朝堂に紹介され師事、木彫を学ぶ。47年に第2回西部美術展に「女のトルソ」、50年、第14回新制作派協会展に「男のトルソ」を出品(以降、第16回展を除き第25回展まで出品)。
 50年に上京し三鷹市牟礼にアトリエを構える。56年、「黄駻」で第20回新制作協会賞受賞。同年、鹿和子と結婚、長女夏子が誕生。58年に新制作協会展に出品した「漂流’58」で、59年に第2回高村光太郎賞を受賞。60年、東京画廊で初個展を開催。同年、第30回ヴェネツィア・ビエンナーレの出品者に選出され「漂流」シリーズを3点出品。1点をペギー・グッゲンハイム美術館、1点をニューヨーク近代美術館が購入し、その売り上げを旅費としてヴェネツィアに渡る。ミラノのグラッタチェーロ画廊より、1年後の個展の開催と、それまでの滞在、制作費用負担の提案を受け、ミラノに移住。画廊との契約などに際して当時ミラノ在住であった画家の阿部展也の助けを借り、以後交友が始まる。ルーチョ・フォンタナ、エンリコ・カステッラーニといった同時代の作家を意識しながら抽象彫刻への飛躍を目指し模索する中で、板の表と裏から彫ったくぼみの重なりによる穴という、豊福の代名詞となる表現にたどり着く。同地で制作をつづけ、カステッラーニ、フォンタナ、ピエロ・マンゾーニらと親交を結ぶ。また日本から移住していた彫刻家の吾妻兼治郎、建築家の白井晟一、後に造形に転じるが当時は画家であった宮脇愛子らとも交友。64年からはヴェネツィアのナヴィーリオ画廊と契約を結んだ。61年、国際コンペティション「建築と美術」(コペンハーゲン)に建築家の河原一郎と応募し第3賞受賞。64年、カーネギー国際美術展(ピッツバーグ)でウィリアム・フリュー記念賞を受賞。同年、第32回ヴェネツィア・ビエンナーレ展に「火」、「風」、「水Ⅰ」、「空Ⅰ」、「識Ⅰ」等を出品。これ以降、国際展への出品多数。78年、公立美術館での初回顧展となる「豊福知徳展」(北九州市立美術館)開催。同展図録において美術批評家の河北倫明は豊福の彫刻を、木とノミによる手仕事としての師・冨永朝堂譲りの側面と、複雑な空間表現を探る抽象彫刻としての側面に着目し、現代彫刻の中に個性的通路を開いたと評した。同年、第10回日本芸術大賞受賞。83年、久留米市中央公園に石組みの噴水「石声庭」を設置。84年、同作で第9回吉田五十八賞受賞。1993(平成5)年、紫綬褒章受章。96年、博多港中央埠頭に鋼のモニュメント「那の津往還」を設置。2001年、旭日小綬章受章。05年、第13回福岡県文化賞受賞。18年、豊福知徳ギャラリーが福岡市内にオープンした。東西の骨董収集熱が高じ、『愉しき西洋骨董』(新潮社、1984年)を出版した。

出 典:『日本美術年鑑』令和2年版(490-491頁)
登録日:2023年09月13日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「豊福知徳」『日本美術年鑑』令和2年版(490-491頁)
例)「豊福知徳 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/2041011.html(閲覧日 2024-10-04)

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