向井良吉

没年月日:2010/09/04
分野:, (彫)
読み:むかいりょうきち

 武蔵野美術大学名誉教授で、彫刻家の向井良吉は、老衰のため9月4日に死去した。享年92。1918(大正7)年1月26日、京都市下京区仏光寺通柳馬場西入東前町406番地に生まれる。生家は、額縁、屏風の製造を営んでいた。3人兄弟の末弟で、長兄は、洋画家の潤吉。30(昭和5)年、京都市立美術工芸学校彫刻科に入学。35年3月、同学校を卒業し、4月に東京美術学校彫刻科塑像部に入学。在学中の40年9月、新制作派協会第5回展に「臥せるトルソ」が初入選。41年12月、同学校を繰り上げ卒業、同窓に建畠覚造がいた。翌年2月、福井県鯖江の陸軍歩兵第36連隊に入営、幹部候補生の訓練を受けた後南太平洋ニューブリテン島ラバウルに配属。45年8月、敗戦をラバウルでむかえる。抑留生活の後、46年6月復員、京都に居住、7月にはマネキン会社七彩工芸を創業。51年9月、行動美術協会第6回展の彫刻部に「航海」を出品、会員となり、以後同協会展を作品発表の場とする。54年から一年間ほどパリを中心に、ヨーロッパに遊学。58年9月、行動美術協会展第13回展に「飛翔する形態」、「発掘した言葉」を出品。「発掘した言葉」は、過酷な戦中期の体験、記憶を造形に昇華させ、「蟻の城」シリーズへの展開を導いたことからもこの作家の創作の基点となる代表作となった。同時に戦後彫刻のなかでも、抽象表現の可能性と合成樹脂等の戦後に開発された素材の多様化を予知させる独自の位置を占めている。59年9月、第5回サンパウロ・ビエンナーレに日本代表として「発掘した言葉1」等4点を出品。61年4月、「蟻の城」(1960年)に対して、第4回高村光太郎賞を受賞、同月、依頼を受けて制作にあたっていた東京上野の東京文化会館大ホールの音響壁面と緞帳が完成。同年7月、創設に尽力した第1回宇部市野外彫刻展が開催され、選考委員として出品。62年6月、第31回ベニス・ビエンナーレの日本代表に選ばれ、「蟻の城Ⅰ」等7点出品。68年10月、神戸須磨離宮公園第1回現代彫刻展が開催され、運営委員を務める。73年6月、第1回彫刻の森美術館大賞の審査委員。80年9月、初の個展となる向井良吉彫刻展(東京、現代彫刻センター)を開催、「ヴァイオリン・チェロ」等11点を出品。81年3月、第31回芸術選奨文部大臣賞を受賞。同年4月、武蔵野美術大学造形学部芸能デザイン学科教授となる(88年に定年退職、名誉教授となる)。1989(平成元)年5月から11月まで、三重県立美術館、伊丹市立美術館、神奈川県立近代美術館を巡回した「向井良吉展」が開催され、55年制作の「アフリカの木」以後の戦後の代表作62点と新作12点を中心にした個展が開催された。2000年2月には、「向井良吉展」が世田谷美術館において、彫刻作品の代表作64点をはじめ、その多方面の創作活動を跡づけるために大型壁面レリーフ1点、デザインを担当したタペストリー7点、舞台装置のマケット11点、陶磁器等によって構成された本格的な回顧展が開催された。日本における戦後彫刻から現代彫刻の展開のなかで、歴史を生き抜いて築いた思想と造形表現の問題を作品に結実させた点で、良質な面を確実に残した彫刻家であった。

出 典:『日本美術年鑑』平成23年版(445頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「向井良吉」『日本美術年鑑』平成23年版(445頁)
例)「向井良吉 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28506.html(閲覧日 2024-04-20)

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