舟越保武

没年月日:2002/02/05
分野:, (彫)
読み:ふなこしやすたけ

 彫刻家で、文化功労者の舟越保武は、2月5日、多臓器不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年89。 1912(大正元)年12月7日、現在の岩手県一戸町小鳥谷字中屋敷に生まれる。25年、岩手県立盛岡中学校に入学、同期に佐藤俊介(後の松本竣介)がいた。1932(昭和7)年、東京美術学校師範科を受験するが、不合格となる。翌年も同学校同科を受験するが、不合格。34年、同学校彫刻科塑像部に入学。同級に佐藤忠良昆野恒、坂本文夫、井手則雄、森本清水、山本恪二等がいた。37年、第12回国画会展に「習作」、「首」を出品、褒状を受ける。39年3月、同学校を卒業。同年、国画会彫刻部を退会した本郷新山内壮夫らと新制作派協会彫刻部創立に参加、会員となった。40年、この頃より石彫をはじめ、5回新制作派展に「隕石」(大理石)を出品。46年、松本竣介麻生三郎と三人展(日動画廊)を開催。50年、盛岡カトリック教会にて家族全員で洗礼を受ける。51年、疎開先の盛岡市から、東京都世田谷区に転居する。56年、「日本の彫刻・上代と現代展」(国立近代美術館)に「逃げる魚」、「H嬢」、「萩原朔太郎像」、「白鳥」、「カンナ」を出品。62年、「長崎26殉教者記念像」で第5回高村光太郎賞を受賞。67年、東京藝術大学教授となる。71年、第35回新制作展に「原の城」(全身像)を出品、この作品により、翌年に第3回中原悌二郎賞を受賞。73年、ローマ法王パウロ6世に招かれバチカンを訪問。75年、第39回新制作展に「ダミアン神父」を出品。77年、北海道釧路市の弊舞橋に佐藤忠良「夏」、柳原義達「秋」、本郷新「冬」との競作として、「道東の四季-春」を制作し、設置する。同年、この作品により、第1回長谷川仁記念賞を受賞。80年、東京藝術大学を定年退官。81年、多摩美術大学教授となる(83年まで)。83年、前年に刊行した画文集『巨岩と花びら』(筑摩書房)で第31回日本エッセイストクラブ賞を受賞。1989(平成元)年、第53回新制作展に「ゴルゴダ」(ブロンズ)を出品。手の痕を残した力強い仕上げながら、苦悶するキリストの頭部像は、深い感銘をあたえ、晩年の代表作となった。87年、脳血栓で倒れ、入院。退院後、リハビリテーションをしながらも、左手でデッサンを描きはじめる。93年6月、「CREDO 舟越保武の造形」展(萬鉄五郎記念美術館)を開催。同月、「-信仰と詩心の彫刻六十年-舟越保武の世界」展が、茨城県近代美術館を皮切りに開催され、翌年9月まで、全国12の美術館等を巡回した。99年7月、「響きあう彫刻佐藤忠良舟越保武二人展」(北九州市立美術館、ハウステンボス美術館、大分市美術館巡回)を開催。同年、文化功労者に選ばれる。2000年5月、「昭和女子大学創立80周年記念 舟越保武のアトリエ―静謐な美を求めて」(昭和女子大学光葉博物館)を開催。ヨーロッパ近代彫刻に学びながらも、深い詩情と高い知性にうらづけられた作品は、彫刻本来の量感の表現とともに、「絵画」的ともいえる正面性を意識した独自のものであった。戦後の具象彫刻のなかでも、ひときわ高い位置をしめていたといえる。

出 典:『日本美術年鑑』平成15年版(239-240頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「舟越保武」『日本美術年鑑』平成15年版(239-240頁)
例)「舟越保武 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28248.html(閲覧日 2024-04-20)

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