舟越保武
彫刻家で、文化功労者の舟越保武は、2月5日、多臓器不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年89。 1912(大正元)年12月7日、現在の岩手県一戸町小鳥谷字中屋敷に生まれる。25年、岩手県立盛岡中学校に入学、同期に佐藤俊介(後の松本竣介)がいた。1932(昭和7)年、東京美術学校師範科を受験するが、不合格となる。翌年も同学校同科を受験するが、不合格。34年、同学校彫刻科塑像部に入学。同級に佐藤忠良、昆野恒、坂本文夫、井手則雄、森本清水、山本恪二等がいた。37年、第12回国画会展に「習作」、「首」を出品、褒状を受ける。39年3月、同学校を卒業。同年、国画会彫刻部を退会した本郷新、山内壮夫らと新制作派協会彫刻部創立に参加、会員となった。40年、この頃より石彫をはじめ、5回新制作派展に「隕石」(大理石)を出品。46年、松本竣介、麻生三郎と三人展(日動画廊)を開催。50年、盛岡カトリック教会にて家族全員で洗礼を受ける。51年、疎開先の盛岡市から、東京都世田谷区に転居する。56年、「日本の彫刻・上代と現代展」(国立近代美術館)に「逃げる魚」、「H嬢」、「萩原朔太郎像」、「白鳥」、「カンナ」を出品。62年、「長崎26殉教者記念像」で第5回高村光太郎賞を受賞。67年、東京藝術大学教授となる。71年、第35回新制作展に「原の城」(全身像)を出品、この作品により、翌年に第3回中原悌二郎賞を受賞。73年、ローマ法王パウロ6世に招かれバチカンを訪問。75年、第39回新制作展に「ダミアン神父」を出品。77年、北海道釧路市の弊舞橋に佐藤忠良「夏」、柳原義達「秋」、本郷新「冬」との競作として、「道東の四季-春」を制作し、設置する。同年、この作品により、第1回長谷川仁記念賞を受賞。80年、東京藝術大学を定年退官。81年、多摩美術大学教授となる(83年まで)。83年、前年に刊行した画文集『巨岩と花びら』(筑摩書房)で第31回日本エッセイストクラブ賞を受賞。1989(平成元)年、第53回新制作展に「ゴルゴダ」(ブロンズ)を出品。手の痕を残した力強い仕上げながら、苦悶するキリストの頭部像は、深い感銘をあたえ、晩年の代表作となった。87年、脳血栓で倒れ、入院。退院後、リハビリテーションをしながらも、左手でデッサンを描きはじめる。93年6月、「CREDO 舟越保武の造形」展(萬鉄五郎記念美術館)を開催。同月、「-信仰と詩心の彫刻六十年-舟越保武の世界」展が、茨城県近代美術館を皮切りに開催され、翌年9月まで、全国12の美術館等を巡回した。99年7月、「響きあう彫刻佐藤忠良・舟越保武二人展」(北九州市立美術館、ハウステンボス美術館、大分市美術館巡回)を開催。同年、文化功労者に選ばれる。2000年5月、「昭和女子大学創立80周年記念 舟越保武のアトリエ―静謐な美を求めて」(昭和女子大学光葉博物館)を開催。ヨーロッパ近代彫刻に学びながらも、深い詩情と高い知性にうらづけられた作品は、彫刻本来の量感の表現とともに、「絵画」的ともいえる正面性を意識した独自のものであった。戦後の具象彫刻のなかでも、ひときわ高い位置をしめていたといえる。
出 典:『日本美術年鑑』平成15年版(239-240頁)登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「舟越保武」『日本美術年鑑』平成15年版(239-240頁)
例)「舟越保武 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28248.html(閲覧日 2024-11-05)
以下のデータベースにも「舟越保武」が含まれます。
- ■美術界年史(彙報)
- 1972年10月 第3回中原悌二郎賞
- 1977年10月 第一回長谷川仁記念賞決まる
- 1999年10月 文化勲章、文化功労者決定
- 2001年10月 岩手県立美術館開館
外部サイトを探す