鏑木清方

没年月日:1972/03/02
分野:, (日)

 日本画家鏑木清方は、3月2日午後3時5分老衰のため鎌倉市の自宅で死去した。享年93才。本名健一。明治11年8月31日東京神田に、幕末の文人で毎日新聞社の前身である東京日々新聞の創設者であった條野採菊を父として生れた。明治24年14才の時、浮世絵の流れをくむ水野年方の門に入った。同27年「やまと新聞」に挿絵を執筆し、以後新聞諸雑誌に挿絵を描いて活躍した。明治34年には同志と烏合会を結成し、挿絵をはなれての制作に力をそゝぐ、この2回展には代表作の「一葉女史の墓」が発表された。同40年文展開設後は、挿絵界を退き専ら展覧界制作がつづけられる。文展では「鏡」(双幅)が初入選で褒状となり、以後殆ど毎年出品し、第11回「黒髪」が特選となった。帝展2回では委員となり、第8回の「築地明石町」では帝國美術院賞となった。昭和4年には帝國美術院会員、同12年帝国芸術院会員となり、戦後も日展を舞台に力作を発表して活躍し、29年文化勲章を受領した。官展のほか、明治期には烏合会があるが、大正6年には結城素明、吉川霊華、平福百穂、松岡映丘らと金鈴社を結成(大正11年解散)し、ここでの作品に「薄雪」、「雨月物語」等がある。そのほか街の展覧にも独特の小品が寄せられ、また流麗な筆になる随筆をよくし、自伝の「こしかたの記」「続こしかたの記」のほか「築地川」「褪春記」「銀砂子」等著書が多い。清方が永い生涯の間に描きつづけた作品の中には、「三遊亭円朝像」や「築地明石町」のような洗練された画面の立派な大作が幾つか数えられる。しかし、之らの制作にも増して、清方の本領を発揮したものは、「註文帳」「築地川連作」のような小品の中にこそあるように思える。明治のはじめ東京下町に生れた彼は、父親が劇評や人情本を書く仕事の関係から、江戸末期の所謂文化人との接しょくの機会が多く、多感な時期に洗練された江戸人の教養を深く身につけて行った。明治、大正、昭和と激しい時代の変転の中で、今は遠く忘れ去られた佳き時代の種々を、肌こまやかな筆に描きあらわして行ったのが清方の芸術であったといえよう。玄人の粋に流れず、上流の野暮にならない、江戸ッ子の好んだいわゆる粋人柄という言葉であらわす美人は清方以外の筆にはないもので、清方美人画の心酔者の多いのもうなずける。そのほか「鰯」「朝夕安居」など、江戸ッ子の洗練された暮し振りなどの風俗画も清方芸術の独壇場であったといえよう。
略年譜
西紀 年号 年令
1878 明11 1 8月31日東京神田に生れる。本名健一。父條野伝平(号を採菊)は、山々亭有人と名乗った小説家で、明治5年東京日日新聞を創刊し、後、やまと新聞を創立、その社長として知られる。
1885 18 8 京橋鉄砲州、鈴木小学校へ入学。京橋に住む。
1886 19 9 10月、やまと新聞創刊。
1889 22 12 神田東京英語学校へ入学。
1891 24 14 7月水野年方に入門。
1892 25 15 家庭の事情あって学校をやめ、画業に専心。
1893 26 16 京橋大根河岸祭礼行灯に三遊亭円朝の「塩原多助」を年方及び弟子たちと共に執筆す。師より清方の画号を与えらる。鷺流の狂言を習い日本橋倶楽部で初舞台を踏む。一家と共に本郷に移る。
1894 27 17 「やまと新聞」に挿絵を執筆。回覧雑誌「筆花抄」に三保の羽衣をかく。牛込の貸席、琴富貴にて開かれる書画研究会に出る。
1895 28 18 この頃、脚気を患う。10月円朝と栃木、佐野、田沼へ78日の旅をする(初旅)。湯島に住む、
1896 29 19 「東北新聞」「九州日報」等地方新聞や諸雑誌に挿絵を執筆す。この頃久松町の寺尾という型紙屋にて浴衣図案をかく(二年でやめる)。友人と松島仙台に旅する。
1897 30 20 第2回絵協(日本絵画協会)に「ひなた」を初出品。7月小説雑誌「新著月刊」に口絵を描く。尾崎紅葉を知る。
1898 31 21 第5回絵協「暮れゆく沼」。
1899 32 22 第7回絵協「かざしの花」。人民新聞社に入社し挿絵を執筆。「新著月刊」に小説口絵。
1900 33 23 第8回絵協「霜どけ」「紫陽花」。第9回絵協「琵琶行」。五月「新小説」に口絵。
1901 34 24 6月、鰭崎英朋、池田輝方、池田蕉園、大野静方、河合英忠、山中古洞、山村耕花その他同志と烏合会を組織す。烏合会「金色夜叉」「横笛」「散りゆく花」「雛市」。人民新聞社を退社。読売新聞社へ入社。この頃新聞(「読売」「報知」)雑誌単行本の挿絵を盛んにかく。一家再び木挽町に住む。夏、安田松廼舎氏宅にて泉鏡花と初対面し、これより鏡花と親しくす。
1902 35 25 烏合会「一葉女史の墓」「田舎源氏の黄昏」。日本美術院で開かれた第13回絵画共進会へ「孤児院」。この頃梶田半古に啓発さる。以後。しばらく公開展へ出品せず、烏合会のみに出品す。3月、「文芸倶楽部」鏡花「三枚続」の口絵執筆。小杉天外「魔風恋風」の挿絵を梶田半古の代りに執筆。秋、読売新聞社を退社。
1903 36 26 烏合会「廃園の幻」「廃駅の夕」。日本美術院「秋宵」。この年、都筑照と結婚。自宅を紫陽舎となづける。
1904 37 27 烏合会「佃島の秋」「深沙大王」「葉山の御夢」。
1905 38 28 烏合会「日高川」「寄宿舎の窓」「曲亭馬琴」。
1906 39 29 烏合会「断崖」「朧駕篭」。父伝平死去。(72才)
1907 40 30 烏合会「抱一」「老嬢」。東京勧業博覧会「嫁ぐ人」。第1回文展「曲亭馬琴」落選。浜町河岸に移る。
1908 41 31 第1回玉成会「花吹雪」「落葉時雨」。烏合会「あけびとり」。
1909 42 32 第3回文展「鏡」双幅。烏合会「抱一上人」三幅対。長女清子生れる。
1910 43 33 第4回文展「女歌舞伎」六曲一双、三等賞首席(震災焼失)。第10回巽画会「八幡鐘」。ロンドン日英博「水上の花」。
1911 44 34 第5回文展「朝顔と駅路の女」二曲一双。東京勧業博「お七と吉三郎」。巽画会「春宵」。次女泰子生れる。
1912 45 35 第6回文展「紅雨荘」二曲一双、落選。(震災焼失)。巽画会「若き人々」二枚折一双。12月浜松河岸より本郷に移る。
1913 大2 36 第7回文展「かろきつかれ」「野崎村」。 挿絵の執筆より肉筆画の方へ進む。この頃長女病身の為、家族四人で雑司ヶ谷に家を借り養生す。
1914 3 37 第8回文展「墨田河舟遊」二等賞。大正博覧会「芝居のお七」。この頃、神経衰弱となり小田原にて静養す。箱根塔の沢温泉に浴す。
1915 4 38 第9回文展「晴れゆく村雨」二等賞首席。(震災焼失)。この頃、鈴木春信に最も親しむ。
1917 6 40 第11回文展「黒髪」四曲一双特第一席。 結城素明、吉川霊華、平福百穂、松岡映丘と金鈴社を起す。特に映丘と親しくす。第1回金鈴社「薄雪」。
1918 7 41 第12回文展「ためさるる日」文展推薦となる。第3回金鈴社「遊女」二曲屏風。「早春」。
1919 8 42 第4回金鈴社に梅蘭芳をえがいた「天女の舞」「悼花の歌」「絵草紙屋の店」。帝展審査員を任命さる。神奈川県金沢に遊心庵と名づけた控家を設け昭和13年まで時々静養に滞在。
1920 9 43 第2回帝展「妖魚」。第5回金鈴社「晩凉」「道成寺」二曲屏風。「雪つむ宵」。郷土会「暮雲低迷」。祖母ふく死去(90才)。
1921 10 44 第6回金鈴社「雨月物語」(妖蛇の巻八段)。「弁慶橋」「弁天山」。3月高島屋初個展「雪十題」(この中「三千歳」大正12年の震災にて焼失)。
1922 11 45 第4回帝展「春の夜のうらみ」「権八と小紫」。郷土会「夜の梅」二曲屏風。金鈴社解散
1923 12 46 二科会フランス展「採蓮」。郷土会「桜姫」。年方の未亡人、弟子達と計って、神田神社境内に記念の燈を建てる。本郷にて震災にあう。
1924 13 47 高島屋個展「町駕篭」「粉雪」「濡鷺」「お仙の茶屋」「襟おしろい」。
1925 14 48 第6回帝展「朝凉」。
1926 15 49 「木場の春雨」。母ふみ死去(75才)
 この頃より牛込矢来に住む。
1927 昭2 50 第8回帝展「築地明石町」帝国美術院賞郷土会「註文帳」12点。「浴後」。東京日日新聞挿絵「深川浅景」。
1928 3 51 挿絵「濠端風景」。「長唄二十番」二十図。
1929 4 52 イタリア展出品「道成寺」「鷺娘」「七夕」六曲一双。帝国美術院会員となる。12月静浦、修善寺、熱海を自動車にて7日の旅。
1930 5 53 第11回帝展「三遊亭円朝像」。第1回七絃会「くろかみ」「滝野川観楓」。
 ドイツ日本画展「水声」。聖徳太子奉讃展「大和路のある家」。「舞妓」「清元二十番」二十図。「新富町」「浜町川岸」。百穂、映丘の渡欧を送って2月20日東京を発ち家族と共に、自動車にて関西に初旅をす。
1931 6 54 第2回七絃会「関の夕暮」「狐狗狸」「明鏡」。この秋より「初雁の御歌」の下書をする。
1932 7 55 第3回七絃会「桜もみぢ」二曲一双。「聖徳記念絵画館壁画「初雁の御歌」。牛込の自宅を改築し、夜蕾亭と名づける。
1933 8 56 第4回七絃会「目黒の柏莚」(戦災焼失)」。尚美会「夏の女客」「朗羅」御大礼記念献上屏風「讃春」。夏箱根小涌谷に保養す。
1934 9 57 第15回帝展「妓女像」双幅(戦災焼失)。六潮会「にごり江」。第5回七絃会「鐘供養」「山茶花」。三越個展「おかる三態」「十種香」「三千歳」「助六」「梅王丸、桜丸」。第1回珊々会「祇園林の歌人」「うたひめ」「保名」「鏡獅子」。随筆集「銀砂子」「築地川」刊行。
1935 10 58 第6回七絃会「初冬の花」。個展「明治風俗12ヶ月」(戦災焼失)。第2回珊々会「巣林子」。第1回踏青会「歌妓素描」。
1936 11 59 改組第1回新帝展「慶喜恭順」。第7回七絃会「伽羅」。第2回踏青会「ほととぎす」。三越個展「隅田川に因む作」。挿絵倶楽部の顧問を引受ける。
1937 12 60 第1回文展「鰯」。第8回七絃会「雪粉々」。「屠蘇」。芸術院会員。審査主任。随筆集「褪春記」刊行。
1938 13 61 第9回七絃会「歌舞伎の始」。随筆集「芦の芽」「御濠端」刊行。秋、川越喜多院を訪れる。この頃東郊葛飾一帯に興味を惹かれる。
1939 14 62 第3回文展「柳圃虫声」。第10回七絃会「お夏清十郎」「四季美人」。(由縁、宵宮、月影、淡雪の四幅対)。第5回珊々会「うき大尽」。
1940 15 63 紀元2600年奉祝展「一葉」。個展「助六廓江戸桜」。
1941 16 64 「富士詣」。「藤懸静也博士像」。
1942 17 65 第12回七絃会「雪旦」。第6回珊々会「歌舞伎絵姿扇面八連作」。
1943 18 66 第6回文展「阿竹大日如来」。第7回珊々会「築地川連作」画帳。第13回七絃会「菊佳節」。随筆集「柳小紋」。「連翹」刊行。
1944 19 67 「高尾さんげ」。芸術院会員として陸海軍に「蕪」「蟹と童」をおくる。帝室技芸員となる。「清方随筆選集」刊行。戦争のため茅ヶ崎に疎開。
1945 20 68 三浦謹之助博士八十の祝「三浦博士像」。東京の家戦災に罹る。静岡県御殿場に疎開。
1946 21 69 第1回日展(日本美術展覧会)「春雪」。鎌倉市材木座に移る。東大入院。
1947 22 70 珊々会「洋燈」。「静物小品15点、苦楽表紙」。
1948 23 71 第4回日展「朝夕安居」。
1949 24 72 第5回日展「先師の面影」。
1950 25 73 第3回清流会「築地川春雨」。白寿会「雪見舟」。三越個展「八重垣姫」。「姫街道」「からかぜ」「大蘇芳年」。上野松坂屋にて朝日新聞社企画のもとに、「画業50年展」開催さる。代表作50点余。
1951 26 74 第4回清流会「柳やおふじ」。白寿会「春宵怨」「春の浦曲」。
1952 27 75 第5回清流会「夏ざしき」。五月会「大川の虹」。兼素洞展「吹雪」。柏風会「緑燈」。
1953 28 76 第6回清流会「夏草」。白寿会「菊寿盃」。紫草会「白魚橋」。在外公館の為に「客室」製作す。十大家額装展(兼素洞)「吹雪」。
1954 29 77 神奈川県立近代美術館にて回顧展開催さる。文化勲章を授けらる。鎌倉市新居に移る。
1955 30 78 第7回清流会「朝顔」。
1956 31 79 白寿会「11月の雨」。第8回清流会「道成寺道行」。白木屋にて毎日新聞社主催のもとに「清方名作展」開催さる。
1957 32 80 薫風会「夏の武家屋敷」。9回清流会「遠い花火」「雨あがる」。「清方画集」刊行。
1958 33 81 10回清流会「隅田川名所」(梅若塚)。
1959 34 82 銀座松屋で朝日新聞社主催『清方下絵展』を開催。11回清流会「汐路のゆきかひ」出品。
1960 35 83 浜奈寿会「金沢瀬戸の夕潮」出品。12回清流会「李の花影」。
1961 36 84 随筆集「こしかたの記」(中央公論美術出版)刊行。
1962 37 85 14回清流会「つゆのひととき」銀座松屋で『鏑木清方自選展』を開催。菅楯彦と共著「東京と大阪」(毎日新聞社)刊行。
1963 38 86 15回清流会「棗の葉かげ」。
1964 39 87 16回清流会「橋場真崎」。
1965 40 88 横浜高島屋で『鏑木清方展』を開催。17回清流会「竹屋の渡」。
1966 41 89 18回清流会「待乳雪景」。
1967 42 90 19回清流会に「ままごと」を出品。随筆集「続こしかたの記」(中央公論美術出版)刊行。
1968 43 91 20回清流会「牡丹の客」。
1969 44 92 日本橋高島屋で個展『今様絵詞の会』を開催。21回清流会「笹団子」。
1970 45 93 三越で個展『清方えがく心のふるさと-江戸十五題-』を開催。谷崎潤一郎著・鏑木清方挿絵「少年」(中央公論社)刊行。22回清流会「吹雪」。妻照死去。
1971 46 94 銀座松屋で毎日新聞社主催『鏑木清方展』を開催。23回清流会「雪ころがし」。
1972 47 95 3月2日 鎌倉雪ノ下にて没す。
鏑木清方画集・美術出版社、鏑木清方展-46年、目録参照)

出 典:『日本美術年鑑』昭和48年版(63-66頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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