日本美術院同人軍用機献納展開催
1942年02月日本美術院では陸海軍に軍用飛行機を献納することとなり、同人各二点宛を製作、十四、五、六日その完成作品を谷中同院に於て展観した。而して作品は挙げてこれを匿名の篤志家に提供したが、同人からはこれに替へて金拾五万円が同院に寄せられ、同院はこれに故富田渓仙の遺族より寄贈された一千円を加へ、十九日金七万五千五百円宛を陸海軍省に夫々献納した。
日本美術院では陸海軍に軍用飛行機を献納することとなり、同人各二点宛を製作、十四、五、六日その完成作品を谷中同院に於て展観した。而して作品は挙げてこれを匿名の篤志家に提供したが、同人からはこれに替へて金拾五万円が同院に寄せられ、同院はこれに故富田渓仙の遺族より寄贈された一千円を加へ、十九日金七万五千五百円宛を陸海軍省に夫々献納した。
西日本文化奨励の為設定された福岡日々新聞社の福日文化賞は、自然科学、文化科学に亘つて決定したが、その美術賞は二科会々員坂本繁次郎に授けられた。
全国女流画家の会員藤川栄子、三岸節子、佐伯米子等は、十一日海軍省を訪れ、建国の佳節に際し全国会員七十四名の作品八十四点を献納した。
三日竹内栖鳳は陸海軍省へ一万円宛金弐万円を献金した。
創作版画の発達と普及を図る為に平塚運一、橋本興家、前田政雄等の木版画家により新しくきつつき会が結成された。同会は展覧会を開催し、又自刻自摺の年刊画集を刊行する予定。
美術家として職域奉公の誠を致すべく、三十一日洋風画家八百名は東京府美術館に参集、一人一点の献画を決議し、その委員を挙げて実行することとなつた。
文展無鑑査級、日本美術院同人及び青竜社々人等在京約九十名の日本画家は、三十一日日比谷三信ビル東洋軒に参集、全日本画家報国会の結成を決議し、その最初の事業として展覧会を開催、その売上金を以て軍用機日本画家号を陸海軍に献納することを決定した。
昭和十六年度朝日賞受賞者は、十日決定発表されたが、同賞贈呈式は二十日午後四時朝日新聞東京本社貴賓室に於て挙行された。美術部門に於ては安田靫彦の「黄瀬川の陣」が選ばれた。尚同日午後六時より同講堂に於て記念講演会が開催された。
東京市は予て皇太子殿下御誕生記念事業として日本近代美術館の建設を計画し、去歳その建設案を発表したが、十四日華族会館に於て第一回資金募集懇親会を開催、藤山愛一郎、侯爵細川護立、男爵団伊能、五島慶太、金光庸夫等都下財界諸有力者と市側大久保市長、橋本助役、谷川部長等と正式懇談を行ひ、建設費七百五十万円の内五百万円の寄附を財界より仰ぐことゝなつた。
近代日本美術の功労者岡倉天心を顕彰する岡倉天心偉績顕彰会が、予て侯爵細川護立、横山大観、前田青邨、平櫛田中、福原信三、斎藤隆三、黒田朋信等に依り発起されてゐたが、七日財団法人として認可された。役員は会長侯爵細川護立、評議員理事長横山大観、同専務理事斎藤隆三、同理事安田靫彦、小林古径、前田青邨等である。
第二十八回日本美術院展覧会に絵巻「耀く大八州」を出品した横山大観は、帝室技芸員として渡部帝室博物館総長を通じ 天皇陛下に献上方手続中のところ、十二月十八日御嘉納あらせられた。
わが国文化の進展に寄与せんとの故野間清治の遺志に依り今回学術、文芸、美術各文化方面に野間賞の設定を見たが、第一回野間美術賞は帝室技芸員、帝国芸術院会員、日本美術院同人たる安田靫彦に決定、十二月十七日大日本雄弁会講談社講堂に於いて授賞式を挙行、賞及副賞一万円が授与された。尚各部門奨励賞が授与されるが本年度美術奨励賞はこれを欠いた。審査関係者は次の通りである。(顧問)清水澄、細川護立、(委員)横山大観、竹内栖鳳、川合玉堂、鏑木清方、安田靫彦、小林古径、藤島武二、安井曽太郎、梅原竜三郎、高村光太郎、田中豊蔵、児島喜久雄、矢代幸雄。
十二月八日米英両国に対する宣戦の大詔渙発され、わが国は米英両国と交戦状態に入つた。
第二回中央協力会議に於いて各界代表高村光太郎は「全国の工場施設に美術家を動員せよ」との議案を提出した。即ち国民士気の源泉たる健康なる精神生活向上の為美術家を動員し、大工場の食堂、休憩室、合宿所、病院等に合理的美を与へるのみならず、壁面に彫刻或は絵画を活用すべきであるとの主旨であつた。
文部省は東洋文化を綜合的に研究するため、東洋文化研究所を東京帝国大学に附置するに決定、十一月二十七日の官報で官制を公布した
東京市に於いては皇太子継宮明仁親王殿下の御誕生を寿ぎ奉るにふさはしき記念事業を企画しつゝあつたが、十一月十三日「皇太子継宮明仁親王殿下御誕生記念日本近代美術館」をその事業に決定、その計画案を発表した。即ち建設費約七百万円、敷地坪数四千坪乃至七千坪、建坪二千坪、延坪五千七百坪の建築を予定し、明治以降現代及将来に亘る美術及美術工芸品を蒐集陳列し、わが近代美術の精華を顕揚すると共に国民文化の向上に資し、日本美術の健全な進展に貢献せんとするものである。
上村松園及三谷十糸子は支那風物と風俗描写のため十月二十九日京都出発渡支、上海、抗州、南京、鎮江、蘇州等を旅行した。尚十一月十三日汪首席を訪問、十二月一日帰朝した。
第三次近衛内閣の後を承けて後継内閣組織の大命を拝した東条陸相は、十月十八日組閣を完了した。
高松宮、同妃両殿下には九月二十七日より二日間日本橋三越に開かれた日仏印親善洋画展示会へ御成り遊ばされ、出陳作品を順次台覧遊ばされた。
国際文化振興会、日本印度支那協会主催、帝国芸術院後援に依り、仏印に送り現代日本洋画を紹介すべき作品五十七点が日本橋三越に於いて内示された。尚仏印に於ける展覧会は、十一月二十四日ハノイ百貨店グラマンカザンに於いて開かれた。