大阪美術懇話会結成
1941年09月大阪市立美術館を中心とし京阪神在住の美術同好者に依り大阪美術懇話会が結成され、九月十六日同美術館に館長上野直昭、主事望月信成をはじめ田万清臣、野田吉兵衛、水野?之助等会合し第一回発起人会を開催、会長に上野直昭を推し、毎月一回鑑賞、講演、研究会等を開催することゝなつた。因みにその第一回例会は十二月四日大阪市美術館に於いて催された。
大阪市立美術館を中心とし京阪神在住の美術同好者に依り大阪美術懇話会が結成され、九月十六日同美術館に館長上野直昭、主事望月信成をはじめ田万清臣、野田吉兵衛、水野?之助等会合し第一回発起人会を開催、会長に上野直昭を推し、毎月一回鑑賞、講演、研究会等を開催することゝなつた。因みにその第一回例会は十二月四日大阪市美術館に於いて催された。
わが国現代美術の粋を紹介する為、日伊協会に於いては紀元二千六百年奉祝美術展覧会の作品より日本画、洋画各約五十点を選び、日伊両国語の解説を添へて編纂中であつたが、完成したのでムツソリーニ首相をはじめ伊太利亜宣伝省、各文化団体、大学、美術館、図書館等に寄贈した。
高松宮、同妃両殿下には九月九日「仏印巡回日本画展覧会」内示会に御成り遊ばされ、出品作品を順次台覧あらせられた。
国際文化振興会に於いては、帝国芸術院の後援の下に、現代日本芸術の紹介を通じ日本仏印両国文化交流の為仏印巡回日本画展覧会を企劃しつゝあつたが、その出品作品日本画、?風、版画等百六十二点の内示会を九月九、十の両日日本橋三越に開催した。尚仏印に於ける展覧会は十月十七日ハノイ市安南クラブに於いて開催されたのをはじめ、次でハイフオン、サイゴン、ユエ等に於いて展観された。特に藤田嗣治は日本絵画紹介の為帝国芸術院及国際文化振興会から派遣された。
日本画、洋画、彫刻各団体の中堅人より成る忠愛美術院が結成され、総裁に八角八郎中将が推された。
南宗画家が一致団結し絵画を通じて日、満、華の親善融和並に文化交流を図らんが為に新しく大東南宗画院が結成され、八月八日帝国ホテルに於いて委員長小室翠雲、幹事長岩切重雄、学芸研究所長河野桐谷等二百名の画家の外来賓として帝国芸術院長清水澄、頭山満、大攻翼賛会事務総長石渡敏一、同文化部長岸田国士等列席のもとにその結成式を行つた。同院は日満華三国画家と提携し、毎年一回三国の重要都市に於いて展覧会を開催し、又国体精神作興の為随時勤皇先覚志士の事跡顕彰並に遺墨展覧会等を開催する。なほ東洋文化並に芸術の闡明の為学芸研究所を置いた。
都下美術雑誌は従来三十八種に上つたが、内務省警保局企画掛に於いてその統制が行はれた。即ち七月二十一日全誌廃刊届を提出、七月三十一日新しく当局より八誌が指定され、各誌は題号を改めて九月より発行した。その新題号、主宰者等は次の通りである。「国画」専門日本画誌(旧「塔影」斎田元次郎)「新美術」専門洋画誌(旧「みづゑ」大下正男)「国民美術」日本画大衆誌(旧「美術」岩佐新)「生活美術」洋画大衆誌(旧「アトリエ」山口寅夫)「画論」綜合評論誌(旧「造形芸術」藤本韶三)「季刊美術」季刊誌(旧「美の国」石川宰三郎、「美術日本」広橋善司、「美術評論」藤森順三)「旬刊美術新報」旬刊(旧「日本美術新聞」猪木卓爾)「美術文化新聞」週刊通信(旧「美術通信」佐久間善三郎)尚これと同時に八主催者により日本美術雑誌会が創立された。
日本画家岩崎清峡は伊太利亜傷病兵慰問の為荒鷲、菊花、鴬等を描いた花鳥画を伊大使館を経て伊国衛戍病院に贈つた。
七月十七日後継内閣組織の大命を拝せる公爵近衛文麿は十八日第三次近衛内閣を組織し、同日親任式が挙行された。
橋本関雪は昭和十四年第一回聖戦美術展覧会へ出品した「江上雨来る」を七月十五日竹田宮殿下へ献上した。
商工省は七月十二日「芸術保存のため七・七禁令並に公定価格制の特例に関する」次官通牒を発した。これは七・七禁令と公定価格制のために束縛を受けてゐた芸術品に最小限度の除外例を認め、芸術の維持保存を図らんとするものである。而して芸術家の資格として、一、帝国芸術院会員にして美術関係会員、文展第四部に於いて審査員たりし者及無鑑査の者にして現に芸術家として活動をなしつゝある者、二、文展第四部に二回入選したる者にして現に芸術家としての活動をなしつゝある者、三、前各項に準ずる実力を有する者である。
閑院元帥宮、同若宮妃両殿下には七月四日聖戦美術展覧会に成らせられ、約五十分にわたり御巡覧遊された。
朝香大将宮、同湛子女王両殿下には七月二日聖戦美術展覧会に成らせられた。
北白川宮大妃、故永久王妃両殿下には六月三十日上野公園日本美術協会陳列場に開催中の聖戦美術展覧会に成らせられ、約一時間にわたり御巡覧あらせられた。
天皇、皇后両陛下におかせられては六月二十九日皇太子殿下、照宮内親王殿下をはじめ奉り各皇子殿下御同列にて宮中千種の間並に豊明殿に於いて、従軍画家が皇軍将兵の活躍を描いた陸軍省所蔵戦争画十五点を天覧並に御覧あらせられた。
国画の伝統的精神に立脚し、新時代の絵画芸術を創建せんが為、京都市在住無所属作家によつて皇国芸術京都聯盟が創立され、六月六日京都平安神宮に於いて発会式を挙行した。
岐阜在住画家に依り六月五日新興岐阜美術院が結成された。陸軍々医中将鳥居百三外三十一名を賛助員、川崎小虎、水田竹圃を顧問、小塩美州を主催とし、春秋二回公募展を開催する。
帝国芸術院に於いては、三月末の第一回総会に続き、会員補充の件に就き総会を五月二十日上野帝国学士院に於いて開催した。清水院長以下会員四十七名出席、文部省より永井専門学務局長、本田学芸課長等出席し、新会員を第一部(美術)に於いて上村松園(日本画)藤田嗣治(洋画)小林万吾(洋画)六角紫水(工芸)佐藤功一(建築)と決定した。因に新会員の発令は七月四日附を以つて行はれたが、佐藤功一は六月二十二日逝去の為自然消滅となつた。
石井柏亭の指導を受けた画人によりその研究及発表の機関として双台社が結成された。
西山翠嶂塾青甲社に於いては、五月十六日海軍各艦へ献納する為、塾生七十余名の作品内示展を京都市公会堂に開催、同日同所に於いて献納式を挙げた。