小村雪岱追悼会

1940年12月

十一月十六日急逝した挿絵画家小村雪岱の追悼会が十二月三日明治生命マーブルに於て行はれた。

工芸指導所本所東京に移転

1940年12月

工芸指導所は昭和三年以来仙台に本所を置いてゐたが、工芸指導の重要性により東京移転に決し、十二月二日官制改正公布と共に仙台より東京に本所を移転した。

海軍恤兵絵葉書完成

1940年11月

海軍では紀元二千六百年記念の一として恤兵絵葉書を作成、在支海軍部隊をはじめ各地海軍病院等に配布した。第一輯は竹内栖鳳「海」、横山大観「黒潮」、川合玉堂「山村の春」、第二輯は石井柏亭の「軍艦出雲」、吉田博「海軍航空隊の爆撃行」、古城江観の「海南島警備の陸戦隊」である。

高村豊周渡米

1940年11月

高村豊周は商工省嘱託海外工芸調査員として、北、中、南米各地に於ける工芸調査並に民族視察の為、横浜出帆靖国丸にて渡米した。

川合玉堂午餐を賜ふ

1940年11月

畏き辺りでは紀元二千六百年祝典に際し文化勲章を賜つた川合玉堂並びに佐々木隆興両氏(西田、高木氏欠席)を正午霞ヶ関離宮に召させられ、我が国文化興隆の功労者として午餐を賜はつた。

東京府工芸協会創立

1940年11月

東京府では美術的工芸に生きる管下関係者を糾合してその大同団結をはかり、統制経済下に於ける法令の遵法と工芸技術の研鑽につとめ、東京工芸品の卓越性を宣揚するとともに輸出振興に貢献する為東京府工芸協会を創立し、十一月二十五日創立総会を開いた。

三井洋画コレクシヨン開設

1940年11月

男爵三井高精はその蒐集せる日本現代洋風画、及び近代西洋画を展観する為、麹町区平河町に三井洋画コレクシヨンを開設、十一月二十一日開館式を催した。年数回陳列替を行ひ、毎週一回定期的に公開する筈である。

日東美術院創立

1940年11月

美術に於ける肇国精神の発揚、日本画の海外進出等を目的として園部香峰等により創立された日東美術院は、十一月二十一日上野精養軒に発会式を行つた。

照宮内親王殿下帝室博物館及び奉祝展台臨

1940年11月

照宮内親王殿下には、十一月十六日女子学習院の御学友九十名と共に上野公園帝室博物館へ成らせられ、特別陳列中の正倉院御物を御覧遊ばされ、次いで東京府美術館に開催中の後期奉祝美術展に成らせられた。

上野会創立

1940年11月

東京市内に於て発行する日刊新聞社美術担当記者を会員とし、相互の親睦と指導的立場に於て美術界の事象を検討する目的を以て十一月十日「上野会」が結成された。

第三部会改称

1940年11月

文展改組に際し結成された第三部会は十一月十日皇紀二千六百年祝典に際し「民族彫塑」の創造と建設を旨として国風彫塑会と改称、此の月公募に依る第一回展を開催した。

川合玉堂文化勲章を授けらる

1940年11月

畏き辺りでは紀元二千六百年の式典に際し、佳年の御慶びを広く一般にもわかたせ給ふ思召から十一月十日の式典当日、文化風教其他社会事業、殖産興業等各方面の功労者二百五十七名に叙位、叙勲、文化勲章授賜、褒賞下賜の御沙汰あらせられた。其中文化勲章は日本画壇の長老帝室技芸員、帝国芸術院会員川合玉堂をはじめ、科学、文学方面の学者四氏に授けられた。その授与式は同日賞勲局総裁室で行はれた。

美術団体連盟創立

1940年11月

美術団体相互間の連絡を図る目的を以て一水会、二科会、東光会、独立美術協会、旺玄社、大平洋画会、光風会、春陽会、新制作派協会を役員団体として美術団体聯盟が創立され、十一月七日初総会を挙行した。後図画会を除き、白日会、日本版画協会、日本水彩画会、第一美術協会、春台美術会、美術創作家協会、美術文化協会が加盟した。

直土会更新

1940年11月

建畠大夢門下の同会は「時代の核心を把握し健全なる彫刻芸術の発展を期し」てその更新を声明し、十一月五日発会式を挙げた。猶ほ公募展を開催することとなつた。

新版画会設立

1940年11月

新しき版画運動を起すため旭泰宏等に依り新版画会が十一月三日結成され展覧会を開催することとなつた。

跡見玉枝筆「御駒繋ぎ桜」奉納

1940年11月

日本画家跡見玉枝は紀元二千六百年奉祝と明治神宮鎮座二十年祭奉祝との心をこめ、明治天皇に御縁りある東京府下南多摩郡多摩村の「向の岡」の桜の古木を縦二尺五寸、横三尺の画面に謹写し、十月二十七日明治神宮へ奉納した。

黒田子爵記念美術奨励資金買上

1940年10月

同資金委員会では本年度の買上として奉祝展出品中より長原坦作「牡丹」を選定買上げ、大礼記念京都美術館へ寄贈した。

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