泰国美術品を献上

1941年02月

泰国皇帝陛下には我紀元二千六百年の祝典に際し、我皇室に深甚なる御慶祝の意を表せられ、同国の美術品の数々を御贈進あらせられた。即ち二月八日皇帝陛下の御意を受けて同国駐日公使ピヤ・シー・セナは宮中に参入、祝意表彰のメツセージ並に贈呈の宝物を捧呈した。

九皐会解散

1941年01月

関長次郎の斡旋に依り文展系並に院展系作家十三名により結成された九皐会は、七周年に当り、新体制下の情勢に鑑み解散に決定、一月三十日の総会に於いて発表した。

朝日文化賞贈呈式挙行

1941年01月

昭和十五年度朝日賞の贈呈式は一月二十日東京朝日新聞社貴賓室に於いて行はれた。美術部門に於いては川合玉堂佐藤清蔵、滝精一が選ばれた。即ち玉堂は紀元二千六百年奉祝記念美術展覧会に出品せる「彩雨」により、佐藤清蔵は大日本護王会の委嘱に依り製作せる「和気清磨朝臣像」によるものであり、又滝精一は美術雑誌「国華」による東洋美術の宣揚に生涯を捧げ来つた功績によるものである。なほ同日夜同賞記念講演会が蚕糸会館講堂に於いて行はれた。

大阪美術団体連盟結成

1941年01月

新体制に即応し協力すべく関西の洋風画家を結合して新しく結成された大阪美術団体聯盟は、一月十五日発会式を挙行、東京の美術団体聯盟と連絡をとることゝなつた。

青年彫塑家連盟結成

1941年01月

東邦彫塑院、新制作派協会、日本彫刻家協会その他各団体並に無所属作家により結成された青年彫塑家聯盟の発会式は、一月十二日丸の内鉄道協会に於いて挙行され、百余名が出席した。

横山大観日本美術新体制に関する意見書を発表

1941年01月

横山大観は昭和十六年々頭に際しその抱懐する美術界革新の意見書を「画壇新体制理念」と題して発表、政府の文化担当者に送達参考に供した。その要は国家施設としての展覧会の革新、私塾的機構の解消と国民美術道場の建設、東京美術学校を中心とする美術教育の刷新改善等であつて、美術界に於いても在来の放慢なる自由思想を戒飭し、各自が職分に於いて日本精神の顕揚に力め奉公の誠を致すべきであるといふにある。

七洋美術会創立

1940年12月

海洋美術の研究と其普及の為文部省練習船に便乗遠洋航海をした画家により「七洋美術会」が結成された。 

日本陶磁彫刻作家協会創立

1940年12月

旧日本陶彫協会を更新し、陶磁彫刻作家の組織的活動に依つて国家の文化的使命に協力する為、沼田一雅を中心に十二名の組織委員により「日本陶磁彫刻作家協会」が結成された。

横山大観献画

1940年12月

横山大観は奉祝展覧会出品画「日出処日本」を 天皇陛下に献上、更に同画題の四尺幅の作品を 皇后陛下に、「富士山」及び「竹林煙雨」の両図を皇太后陛下に献上し、それゞゝ皇室に対し奉祝の誠を捧げた。又秩父宮殿下にも明春の勅題「漁村曙」の図を献上した。

坂井犀水追悼会

1940年12月

国民美術協会は秋季総会を兼ね十二月十九日同会評議員にして理事たりし坂井犀水の追悼会を開催した。

日本出版文化協会創立総会開催

1940年12月

社団法人日本出版文化協会では十二月十九日情報局に於て創立総会を開き、伊藤情報局総裁及び各省関係官をはじめ官民代表五十名出席、会長に鷹司信輔公を推し専務理事一名、常務理事二名、理事六名の役員を決定した。

和気清麿公銅像除幕式

1940年12月

紀元二千六百年奉祝の事業として、大日本護王会が厚生省前濠端に建設した佐藤清蔵作和気清麿公の銅像除幕式が十二月十八日挙行された。寄贈者石川博資の令息令嬢の手で除幕され、続いて建設委員長林銑十郎大将の式辞、松平宮相祝辞、首相、文相、内相の祝辞代読があり、盛大に行はれた。

創元会創立

1940年12月

美術本来の精神に徹し、民族性の特質と時代の認識を強調し、我国文化の向上発展に寄与せんが為、洋風画の無所属作家阿以田治修、大久保作次郎安宅安五郎等に依て創元会が結成され、十二月十七日発会式を挙げた。

図画会美術団体連盟不参加

1940年12月

図画会は美術団体聯盟に十二月十四日不参加を次の如く声明した。 「美術団体聯盟は団体を単位とするが故に無所属作家を加入せしむる便なく、全画壇を包含するものとならず、情実多き既成団体を強化し反つて其の旧弊を助長する恐れあり、時勢の推移に従ひ必要ある場合は個人を単位とし組合を組織するを妥当とす」。

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