第二部会総会 

1936年03月

反帝展を標榜する洋画団体第二部会では、三月十二日丸之内マーブルに委員会を開き、今秋の同会展覧会の問題等に就き協議したが、同十四日午後五時同所で総会を開催し、今後の態度方針に就き協議の結果、今秋も昨年同様の方法を以て展覧会を開催すること帝展と時期が衝突する為会場難の惧れがあるが飽くまで既定方針を堅持して進むこと等を決した。

高間惣七等東光会脱退 

1936年03月

洋画団体東光会の会員高間惣七堀田清治橋本八百二、会友中尾達、益山雅衛等は、三月八日同会を脱退し、同志二十六名を以て新団体主線協会を結成、十日左の声明書を発表すると共に日動画廊で其の披露を行つた。 「最近私達は社会情勢や画壇の動揺に鑑み各自の真摯な芸術的精進の必要に迫られてゐることを痛感してゐます。顧れば私達の現在は芸術目的の追求以外の団体的の雑事に煩はされ擬装的な政策に悩まされ、ために純粋な絵画研究の妨げとなることが極めて多いのであります。今度はこの煩雑な団体的雑事から離別して一意各個の純粋な芸術的精進に全力を尽すことに決心しました。現在の有為の画家達は芸術目的を離れた団体の経営や其の他画壇的な政策に煩はされることなく真実な芸術研究者として反省すべき秋に際会してゐると信ずるのであります。私達はこの趣旨の旗のもとに新しい第一歩を踏み出すことに決心しました。 主線協会」

帝国美術院常議員会 

1936年03月

帝国美術院常議員会は三月九日午前十時から東京府美 術館で開催本年五月大阪に於て帝展陳列会開催の件を協議した。

夢二の会設立 

1936年03月

故竹久夢二の才能と芸術とが忘れられてゐることを惜み、有島生馬恩地孝四郎等十五名が発起人となつて夢二の会を設立することとなり三月八日上野の勘兵衛酒屋で創立相談会を開いた。

東邦彫塑院二科制廃止進言 

1936年03月

東邦彫塑院では、帝展第三部の彫塑を甲乙二種に分つ新制度に予てより反対して其撤廃を進言し、第一回帝展には不出品の態度に出でたが、帝展開催の成績に鑑みて再び其の主張を繰返すこととし、三月四日同院常議員長谷川、国方、後藤、北村、関野等は文部省に石丸学芸課長を訪問して其の趣旨を説き、「帝展三部の分科に就て文部当局並に帝院会院諸賢に再び進言す」と題する意見書を提出した。尚其の文書は関係方面に送付した。

麗交会組織 

1936年03月

東京及び京都の工芸家十九名(東京一〇、京都九)は新団体麗交会を組織し、三月一日京都で発会式を行つた。

ジユネーヴ日本版画展覧会 

1936年02月

日本版画協会では現代日本版画の海外紹介に努めてゐるが、文部省、外務省等の援助の下にジユネーヴで展覧会を開くこととなり、会員等の作品約二百五十点を送附、之に同地キヤシエー・アルバレ夫人蒐集の日本古版画等を加へた日本版画展覧会が同市博物館で二月二十九日から四月五日まで開催され、多大の成功を収めた。

平櫛田中鑑査を棄権 

1936年02月

帝展第三部の鑑査は二月十六日から行はれたが、最終日の同十八日に至り平櫛田中は他の審査員と意見衝突の結果、中途退場して鑑査を棄権した。

十七会結成 

1936年02月

昨秋構造社を脱退した寺畑助之丞を中心として、従来構造社に出品してゐた彫刻家有志が新団体十七会を結成し、二月十七日声明書を発した。

岡田三郎助抗議 

1936年02月

帝展第一部の鑑別は二月十五日から始められたが、之に関聯して、同夜岡田三郎助は第一部審査主任小室翠雲に対し、去る五日横山大観小林古径等が日本美術院々友等の帝展出品画を下見したことに就き抗議を申し込んだ。小室主任は翌十六日鑑査続行に先ち横山審査員の説明を求めた所、問題とする程度でない実情が判明した為他の審査員等も之を諒解し、同日夕小室、岡田両名と会見の結果此の問題は打切られることとなつた。

帝国美術院常議員会 

1936年02月

帝国美術院常議員会は二月十四日正午から帝国学士院で開催、京都出品延着問題に就いて協議した。

第一部会総会 

1936年02月

新帝展反対を標榜する第一部会では、其の主張貫徹の為会員一同帝展に出品しなかつたが、其の出品受付の締切日なる二月十三日午後、銀座皆川ビルの同会事務所に総会を開き、協議の結果、「帝展問題を繞つて現下の美術界は混乱を極めてゐるから新帝展は速かに解消すべし」と云ふ意味の建白書を当局に提出することに決定、委員を選んで起草せしめた上、近く川崎文相を訪問して之を提出することゝした。

京都画壇出品に決す 

1936年02月

前項の京都画壇不出品問題に就き、文部省石丸学芸課長は二月十一日入洛し、帝国美術院会員等と懇談を重ね、府市当局者等にも斡旋を求むる所があつたが、其の結果翌十二日円満なる解決に達する諒解成立し、会員等も一般の作家に対して不出品申し合わせの撤回を勧告した為、一同之に従つて今次の不出品運動は解消するに至つた。右に就き同日午後四時、西山、西村両名は入院中の土田の同意を得、三名の名を以て左の如き談話を発表した。 「私共は一般少壮作家の不出品にまで拡大した事態に対し心配し今後の局面打開策を考へてをりました折柄文部省では使者を派遣されわれわれとの間に種々協議を行つた結果文部省ではわれわれの目的要望をよく理解されましたので気分も自ら朗らかとなりここに至つては一般作家にも是非出品してもらはうといふことになつた次第であります、締切日などについては運送店と交渉中でありまして適当なる取扱ひをしてくれることと信じます、なほこの問題については京都市長も尽力されました。」

太蒼会結成 

1936年02月

第二部会々員伊原宇三郎中野和高、矢島堅土、阿以田治修、佐竹徳次郎、鈴木千久馬の六名は、新団体太蒼会を結成し、二月十一日其の旨を発表した。親睦と研究を趣旨とし、同人が第二部会々員たることに変りはないものである。

京都画壇の帝展不出品運動 

1936年02月

京都在住日本画家の間では、旧臘東京の第一部会が新帝展反対運動を起して参加を勧誘した時にも之に応ぜず、一般に帝展出品を目指して製作中であつたが、出品搬入日の迫つた二月上旬に至り俄かに不出品の空気が起り、主要作家の大多数並に一般出品者等も申し合せて帝展出品を中止せんとするに至つた。其の動機は、予て昨年の帝国美術院改組及び新帝展に慊らぬながら、同院総会の決議を重んじて帝展参加に決し、世上再改組などの論が行はれても自重を続けてゐたものであるが最近に至つて前記の如き竹内栖鳳の意見が伝へられてから、栖鳳の系統に属する画家達の間に、恩師の意向に順応し、之を実現せんとする気運が昂じて来て、遂に動かし難き大勢を成すに至つたものである。栖鳳を主宰者とする竹杖会は全員不出品を決議し、二月八日夜には西山、西村、土田、堂本、石崎、中村の各画塾では塾員参集して協議した結果、何れも全員不出品を決するに至つた。西山翠嶂西村五雲等は帝国美術院会員の立場から極力慰留に努めたが、此の気勢を如何ともし難く、菊池契月川村曼舟の各画塾に於ても無鑑査の作家達は友情不出品の情勢となり、一旦出品の発送を托した作家も撤回を申し出るなど混雑を極めた。右に就き西山翠嶂等は九日午後四時談話の形式で左の如く声明した。 「私達は今度の新帝院改組につきましては、素より十全のものとは思つてゐませんが、所謂再改組問題につきましては当然期待を持ち但し時機としては、第一回展覧会開催後が適当かと考へてゐましたが、最近栖鳳先生の再改組に対する御意見の表示を忖度致しますとその根本意見としましては元来私達と全く同一であり要はその時機が今日であるとの御考へであります上、また私達の立場と致しましては現在の状勢に鑑みまして、この際これに対する何等かの考慮を計りたいと思つてゐる次第であります。 西山翠嶂西村五雲土田麦僊

青松寺火災 

1936年02月

二月四日午前七時五十分頃芝区愛宕町の青松寺本堂より発火、同堂内部百六十坪を全焼し、本尊木彫釈迦如来及び脇侍文殊普賢両菩薩の三尊像並に上宮教会所蔵の鎌倉時代の作と言はれる聖徳太子像を焼失した。本堂は鉄筋コンクリート造、工費二十八万円を以て昭和六年落成したもの、本尊及び両脇侍は山崎朝雲に依つて同九年完成された名作であつた。

川崎文相就任 

1936年02月

松田文相薨去の為、其の後任として川崎卓吉が二月二日文部大臣に任ぜられた。

松田文相薨去 

1936年02月

文部大臣松田源治は二月一日心臓麻痺のため急逝した。

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