本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数2,850 件)





工藤甲人

没年月日:2011/07/29

 日本画家で東京藝術大学名誉教授の工藤甲人は7月29日、老衰のため神奈川県平塚市内で死去した。享年95。 1915(大正4)年7月30日、青森県中津軽郡百田村(現、弘前市)の農家に生まれる。本名儀助。少年の頃は詩人に憧れていたが、16歳の頃から画家への志が芽生え、1934(昭和9)年に上京、翌年より川端画学校日本画科で岡村葵園の指導を受ける。同校では友人の西村勇より西洋の絵画思想や理論を叩き込まれ、とくにシュールレアリズムに興味を持ち始める。39年第1回日本画院展に「樹」、第2回新美術人協会展に「樹夜」を工藤八甲の号で出品、後者は推奨作品となる。新美術人協会展への出品をきっかけに福田豊四郎の研究会に出席し、指導を受ける。40年、42年と応召、中国大陸の戦線へ渡り、45年の敗戦直前に復員。しばらく郷里で農業に従事した後、福田豊四郎の呼びかけに応じて制作活動を再開する。50年第3回創造美術展に「蓮」が入選し、翌51年創造美術と新制作派協会の合流による新制作協会日本画部設立後は同会に出品。51年第15回新制作展にヒエロニムス・ボッシュの影響が色濃い「愉しき仲間」2点、56年同第20回にも「冬の樹木」「樹木のうた」を出品し、ともに新作家賞を受賞した。62年に弘前市から神奈川県平塚市に転居。63年第7回日本国際美術展「枯葉」が神奈川県立近代美術館賞、翌64年第6回現代日本美術展「地の手と目」が優秀賞を受賞。さらに64年新制作春季展「秋風の譜」「枯葉の夢」により春季展賞を受賞、同年新制作協会会員となる。樹木や動物、蝶などをモティーフに、郷愁や宗教感を感じさせる鮮麗で夢幻的な心象世界を描き出し、現代日本画に新生面を切り拓く。71年東京藝術大学助教授、78年教授となり、73年同大学イタリア初期ルネサンス壁画調査団に参加。83年退官後、名誉教授となった。また74年新制作協会日本画部会員による創画会結成に参加し、会員となる。82年第1回美術文化振興協会賞受賞。87年東京・有楽町アート・フォーラムにて「いのちあるものの交響詩―工藤甲人展」を開催、同展での透徹した自然観照と豊かな詩的幻想を結合させた独自の表現が評価され、翌年芸術選奨文部大臣賞を受賞。88年より沖縄県立芸術大学客員教授。1991(平成3)年平塚市美術館他で「画業50年 工藤甲人展―夢幻の彼方から」を開催、同展に対し翌年毎日芸術賞を受賞。99年に増上寺天井画「華中安居」を制作。2007年には郷里の青森県立美術館で「工藤甲人展―夢と覚醒のはざまに」が開催された。

曲子光男

没年月日:2011/07/19

 日本画家で日展参与の曲子光男は7月19日、老衰のため死去した。享年96。 1915(大正4)年3月12日、北海道磯谷郡蘭越町港に生まれる。旧姓赤井。5歳で父を失い、9歳で石川県河北郡七塚村秋浜にある祖父の実家に預けられた後、10歳で遠縁にあたる京都の友禅業曲子光峰の養子となる。1927(昭和2)年京都市立美術工芸学校に入学。次いで京都市立絵画専門学校で西山翠嶂、川村曼舟らの指導を受け、35年より堂本印象に師事、その画塾東丘社に入る。36年京都市立絵画専門学校本科を卒業し、同年の文展鑑査展で「濱木綿の丘」が初入選、選奨となる。38年第1回東丘社展に「鳥の群」を出品し東丘賞を受賞。同年応召し、41年まで華北に派遣。43年再び出征、バンコクに赴く。46年復員後、47年第3回日展に「秋陽」が入選、続いて48年第4回「入汐」、49年第5回「彩秋」と出品し、51年第7回日展で「製鋼工場」が特選・朝倉賞を受賞した。52年同第8回に「港」を無鑑査出品。以後55年初の日展審査員をつとめ、58年会員、70年評議員、1995(平成7)年参与となる。いっぽう84年より東丘社幹事長をつとめ、92年顧問となる。84年京都府文化賞功労賞を受賞。生を受けた北海道の雄大な自然や、幼年の一時を過ごした北陸の風土を思わせる重厚な風景を描き続けた。93年石川県立美術館において特別陳列「日本画家 曲子光男の世界」が開催されている。長男は日本画家で日展会員の曲子明良。

青葉益輝

没年月日:2011/07/09

 グラフィックデザイナーの青葉益輝は、7月9日午後11時、食道がんのため東京都内の自宅で死去した。享年71。 1939(昭和14)年7月18日東京に生まれる。62年桑沢デザイン研究所を卒業後、オリコミ(広告代理店)に入社、主に東京都のポスターを担当する。69年A&A青葉益輝広告制作室を設立。72年東京アートディレクタースクラブADC賞受賞。80年日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)の理事となる(~2011年)。82年個展「平和ポスター展」(松屋銀座)開催。同年、ブルノ国際グラフィック・ビエンナーレ(チェコスロバキア)にてグランプリ受賞。83年ソ連平和ポスター展にて奨励賞受賞。同年、世界平和大会(旧ユーゴスラビア)の公式ポスターを制作。86年交通万国博覧会(バンクーバー)日本政府館のグラフィックを担当。87年個展「Graphically」(ギンザグラフィックギャラリー、東京)開催。同年、ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレにて金賞受賞。1992(平成4)年個展「青葉益輝環境ポスター展」(ショーモン、フランス)開催。同年、ニューヨークADC国際展金賞受賞。94年「自然との共生」をテーマに長野オリンピック(1998年)の第1号公式ポスターを制作。95年日本宣伝賞山名賞受賞。2006年紫綬褒章受章。07年個展「AOBA SHOW」(ギンザグラフィックギャラリー、東京)開催。11年、個展「青葉益輝・平和ポスター展」(調布市文化会館たづくり、東京)開催。 商業広告の仕事の一方で、東京都の美化運動のための公共ポスター「灰皿ではありません」(1971年)など環境保護をテーマとするポスターや、「THE END」(1981年)など平和をテーマとする社会性の強いポスターの自主制作に取り組んだ。 著書に『アートディレクター』(浅葉克己、長友啓典との共著、東洋経済新聞社、1987年)、『青葉益輝』(ggg Books、1995年)、『心に「エコ」の木を植えよう』(求龍堂、2008年)などがある。

福本章

没年月日:2011/07/06

 1960年代後半からフランスを拠点として活動を続けた洋画家福本章は7月6日、胃がんのため死去した。享年79。 1932(昭和7)年5月16日岡山市に麺類製造業を営む福本勘吉の三男として生まれる。本名章一(しょういち)。49年頃に独立美術協会会員の洋画家中津瀬忠彦(1916-73)を知り、絵を描き始める。52年東京藝術大学美術学部油画科に入学。林武教室に学ぶ。56年、同学を卒業して油画専攻科に進学。同校の絵画学生の奨学金のひとつである大橋賞を受賞する。57年第25回独立展に「追はれる子」を初出品して入選するが、以後は不出品。58年、油画専攻科を修了し、同科副手として62年まで同校に在籍する。59年、黒土会の創立に参加し、同年第1回展に「横臥裸婦」を出品し、以後、65年まで毎年出品を続ける。60年第3回国際具象派展覧会(朝日新聞社主催)に重厚なマチエールで裸婦坐像を描いた「赤の裸婦」を出品。61年新樹会に「樹」「裸婦」を招待出品し、以後64年まで出品を続ける。62年第4回国際具象派展に「黄の中の二つの裸婦」「黄の中の裸婦」を出品。63年第2回国際形象展に「樹」「裸婦」「靴下の裸婦」を招待出品し、不出品の年もあるものの1981年まで7回、同展に出品する。抽象表現が盛んに行われる洋画壇にあって、具象画における表現を模索して注目され、63年、第7回安井賞展に「裸婦」が出品される。64年東京の日動サロンで初めての個展を開催し、風景や静物を描いた作品を発表。65年に国立近代美術館京都分館で開催された「具象絵画の新たなる展開」に「靴下の裸婦」「樹間」「泰山木のある静物」他を出品する。また同年第9回安井賞展に「風景」を出品。66年第1回昭和会展に「静物」「卓上静物」を出品し、翌年の同第2回展では「模様の上の裸婦」で昭和会賞を受賞。同年渡欧し、ローマを経てパリに居を定める。69年日動サロンで滞欧作展を開催。70年、スペインを訪れる。また同年フランスのサロン・ドートンヌに「オンフルール」を出品する。72年フランスのニースにアトリエを持ち、南仏での制作を開始する。73年にヴェニスを訪れて以後たびたびに同地に旅行。74年、パリ郊外に居を定める。同年、第1回東京国際具象絵画ビエンナーレにヴェニスに取材した「河口(ヴェニス)」「運河」を招待出品。75年には日動サロンで個展を開催し「運河」「リアルト橋」などヴェニス風景を主題とする作品を発表した。76年毎日新聞夕刊に掲載された辻邦生による連載小説「時の扉」の挿絵を担当。78年第21回安井賞展に「運河」を出品する。80年パリ郊外に居を定める。85年、朝日新聞朝刊の連載小説、辻邦生「雲の宴」の挿絵を担当。同年、野村本社ビル(京都)のモザイク壁画「レダ」を制作。1990(平成2)年立軌会に参加し2007年の退会まで出品を続ける。91年、「在仏三人展―福本章、桜庭優、小杉小二郎」の第1回展を名古屋画廊で開催。同展は以後第3回展まで開催された。93年に東京藝術大学出身の画家たちによる「杜の会」展に初出品し、以後同展に出品を続ける。97年小山敬三賞を受賞し、同年日本橋高島屋で受賞記念展を開催。同年から2002年までヴェニスにアトリエを構えて制作する。98年倉敷芸術科学大学芸術学部教授となり04年まで教鞭を取る。00年より「両洋の眼」展に出品。同年第23回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞し、同賞記念展覧会を開催する。01年郷里にある大原美術館にて「福本章」展を開催。02年週刊朝日の連載小説、山崎朋子「サンダカンまで」の挿絵を担当。没後の13年5月「二都物語~プロヴァンスからヴェネツィアまで~」と題して日仏会館で「福本章-青の世界」、イタリア文化会館で「福本章-ヴェネツィアの光」展が共同企画として開催された。一貫して具象絵画を描き、対象のかたちを幾何学的形体に分割して捉えた上で再構成し、簡略化した色面であらわす作品を描いた。1960年代には赤や黄といった原色に近い色も用い、厚塗りのマチエールを示したが、60年代後半から青を基調とする穏やかな中間色を主に用いるようになり、次第にマチエールも平滑になっていった。画面全体が紫を含んだ柔らかい青灰色に包まれる独自の画風で知られた。画集に『福本章画集』(日動出版部、1981年)『福本章画集 パリの空』(朝日新聞社、1986年)、『福本章画集 1956-2005』(求龍堂、2005年)がある。

藤田慎一郎

没年月日:2011/05/20

 岡山県倉敷市の大原美術館の館長を30年以上にわたり務めた藤田慎一郎は、5月20日に呼吸不全のため亡くなった。享年91。 大正9(1920)年4月19日に東京都に生まれる。昭和13(1938)年3月、旧制広島県立福山誠之館中学校を卒業。その後結核を患い、療養生活後の47年8月に、親戚にあたる大原総一郎のすすめにより大原美術館に就職。大原美術館は、倉敷紡績株式会社などを経営する実業家大原孫三郎(1880-1943)によって30年11月に開館し、孫三郎の長男総一郎(1909-1968)によって継承発展した。50年11月、同美術館20周年記念行事を開催、梅原龍三郎、安井曾太郎、浜田庄司、河井寛次郎、武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦等を東京から招き、公開の座談会等が行われ、学芸員として諸行事の進行に務めた。以後、大原総一郎の片腕として、展覧会の企画実施、コレクションの拡充のための作品購入にあたった。51年2月、「現代フランス美術展(サロン・ド・メ日本展)」(日本橋高島屋)が開催、戦後のフランス美術が紹介されたことから、その出品作6点を購入したのをはじめとして、以後国内外の現代美術の収集に力を入れるようになり、藤田はその選定と購入につとめた。この現代美術収集は、戦後から現代につらなる国内美術館における先駆的な活動として特筆されるものである。61年7月、同美術館の副館長となり、64年に館長に就任。在職中は、近現代絵画をはじめ、民芸、工芸、古美術等にわたる広範な領域のコレクションの充実につとめるかたわら、展示室の拡大にも積極的にあたり、新館(現在の分館、1961年5月完成)、陶器館(現在の工芸館、同年11月完成)にはじまり、本館増設(現在の本館新展示室、1991年9月完成)まで、現在の同美術館のほぼ全体の施設作りを担当した。1998(平成10)年4月に館長を退任、相談役に就任。2002年に相談役を退任。 91年7月から97年6月まで全国美術館会議の会長を務め、また、ひろしま美術館、財団法人成羽町美術振興財団、倉敷民藝館等の理事などを歴任した。褒賞については、80年11月、フランス政府よりシュヴァリエ芸術文化勲章を受章。翌年11月に文部大臣表彰。88年に第46回山陽新聞賞(文化部門)受賞。89年、平成元年度倉敷市文化連盟賞、91年には文化の向上に貢献したことで第44回岡山県文化賞を受賞。98年10月、公共奉仕の精神をもって地域社会に貢献した者を顕彰する岡山県の第31回三木記念賞を受賞。 編著には、『大原美術館 岡山文庫10』(日本文教出版、1966年)をはじめ、同美術館、ならびにコレクションに関する刊行物についての著述が多い。その中で『大原美術館と私―50年のパサージュ―』(松岡智子編、山陽新聞社、2000年)は、長時間にわたるインタビューをまとめたものであるが、内容は同美術館の戦後からの歴史と同時にコレクションの形成史になっており貴重な証言である。

有光教一

没年月日:2011/05/11

 朝鮮考古学者で京都大学名誉教授の有光教一博士は5月11日、膿胸のため死去した。享年103。 1907(明治40)年11月10日、山口県豊浦郡長府村(現、下関市)に生まれた。1925(大正14)年3月大分県中津中学校卒業、同年4月福岡高等学校入学、1928(昭和3)年4月京都帝国大学文学部史学科入学。翌年、当時日本で唯一同大に開設されていた考古学専攻に進学し、31年3月に卒業する。専攻進学以降、大学に在籍した三年半にわたり主任教授の濱田耕作、また梅原末治から指導を受けたことが朝鮮考古学に傾倒する大きなきっかけとなった。 31年4月、引き続き京都帝国大学大学院に入学するとともに副手として考古学研究室に勤務するが、同年8月には濱田の斡旋により朝鮮古蹟研究会助手として採用され、朝鮮半島に赴く。さらに9月には慶州勤務の朝鮮総督府古蹟調査事務嘱託となり、二年ほどの間、慶州皇南里82・83号墳、金仁問墓碑、忠孝里古墳群、南山仏蹟、皇吾里16・54号墳、路西里215番地古墳などの調査・整理作業を実施する。33年1月に京城の総督府博物館勤務指示を受け3月にソウルに転出した後は、半島各地での調査のほか、遺跡遺物の文化財指定に関する準備作業、博物館の展示などを担当する。37年10月に朝鮮総督府学務局技手嘱任、41年6月には藤田亮策の後を受け、朝鮮総督府学務局社会教育課古蹟係主任および朝鮮総督府博物館主任兼務となり、実質的な総督府博物館長として戦時下の博物館運営管理を担った。さらに戦況の悪化により館に被害が及ぶ危険性が高まると、総督府の協力が得られない中、わずかな人数の館員で手持ち、列車輸送による収蔵品の扶餘・慶州分館疎開を行った。 日本敗戦直後の45年9月、米軍政庁統治下で氏以外の日本人博物館職員はすべて罷免され、韓国側担当となった金載元博士を補佐して疎開品の回収や国立博物館への引継ぎと再開館準備を行った。12月に軍政期国立博物館は無事開館したものの、その後も博物館運営および発掘調査指導のため米軍政庁文教部顧問として残留を余儀なくされ、この間には混乱下にあった民間所在文化財の散逸拡散防止に腐心し、また好太王の銘が鋳出された青銅椀が出土したことで知られる路西里140号墳(壺 塚)の発掘を国立博物館メンバーと行い、調査を終えた46年6月にようやく帰国を果たした。 引揚後の同年10月にG・H・Q九州地区軍政司令部顧問(民間教育課文化財担当)、また49年10月に福岡県教育委員会事務局嘱託となり九州各県の文化財調査を実施、50年3月に京都大学講師、また同年9月にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校東洋語学部講師として渡米、帰国後の52年12月に京都大学文学部助教授、56年8月に京都大学文学博士学位を授与され(学位論文「鉄器時代初期の朝鮮文化:石剣を中心とした考察」)、57年3月京都大学文学部教授就任、71年3月に京都大学を定年退官する。73年6月に奈良県立橿原考古学研究所副所長に迎えられ、80年11月に同研究所所長就任(1984年3月まで)、また1989(平成元)年11月には創設者である鄭詔文たっての希望により高麗美術館研究所所長となり、以降亡くなるまでの二十二年間、同研究所所長を務めた。 氏は、戦前は現地において、戦後は梅原考古資料(朝鮮之部)の整理などによって、新石器時代から青銅器時代を中心に、朝鮮半島各時代の幅広い遺跡遺物について調査研究を精力的に進められ、単著には『朝鮮磨製石剣の研究』(京都大学文学部、1959年)、『朝鮮櫛目文土器の研究』(京都大学文学部、1962年)、『有光教一著作集』第1~3巻(同朋舎出版、1990~99年)、『朝鮮考古学七十五年』(昭和堂、2007年)などが、また多数の共著や論文がある。発刊に携わった発掘調査報告には、氏が戦前の発掘時に勤務地の異動や戦前戦後の混乱といった事情のため報告できずにいた慶州皇吾里16号墳他の発掘調査記録を、齢90歳を超えてから韓国語を主語として発刊した『朝鮮古蹟研究会遺稿』Ⅰ~Ⅲ(東洋文庫、2000~03年)を始め、戦前に朝鮮総督府や朝鮮古蹟研究会から出版された多くの報告書類等がある。 これら一連の業績により、78年に勲三等旭日中綬章、2000年に京都新聞大賞文化学術賞が授与された。 氏は一般に、朝鮮考古学者として標榜されることが多いが、その活動は上述のように、朝鮮半島における戦前の総督府博物館の維持管理から戦後の国立博物館の成立に至る博物館業務、さらに大学退官後の橿原考古学研究所所長・副所長、高麗美術館研究所所長としての長年の活動など、様々な文化財の保全や博物館・美術館の維持発展に尽力された博物館人でもあった。 自身の半生を回顧した「私の朝鮮考古学」(1984-87年、『季刊三千里』に連載)の最後で氏は、「「私の朝鮮考古学」のすべてが現代史である」と述懐されている。日本と大韓民国にとって最も困難な時代をその中心で生き抜き、そして終生両国の人々からの信頼と敬愛を保ち続けたその生き方は、学問業績に勝るとも劣らない大きな価値を放っている。

三輪良平

没年月日:2011/04/20

 日本画家の三輪良平は4月20日、肺炎のため死去した。享年81。 1929(昭和4)年10月29日、京都市東山区の表具師の次男として生まれる。51年京都市立美術専門学校を卒業後、同校専攻科に進み、53年修了。在学中の51年より山口華楊に師事し、華楊が主宰する晨鳥社で研鑽を積む。52年第8回日展に「憩ひ」が初入選し、56年第12回日展で「裸像」が特選・白寿賞を受賞。この頃、中路融人ら晨鳥社の若手と研究会「あすなろ」を結成。60年第3回新日展では、現代的感性により舞妓三人の坐像を描いた「舞妓」が再び特選・白寿賞となり、62年第5回展では人物の形と色を単純化した「裸婦」が菊華賞を受賞。翌63年は審査員をつとめ、64年日展会員となる。若い頃より肺疾患や肝臓病等と闘いながら、裸婦や舞妓、大原女等を題材として清麗な女性美を描いた。84年日展評議員となる。1993(平成5)年京都府文化賞功労賞受賞。没後の2011年に遺族より東近江市近江商人博物館へ作品が寄贈、翌年同館で回顧展が開催された。

多木浩二

没年月日:2011/04/13

 評論家の多木浩二は4月13日、神奈川県平塚市の病院で肺炎のため死去した。享年82。 1928(昭和3)年12月27日、兵庫県神戸市に生まれる。57年東京大学文学部美学美術史学科卒業。名取洋之助のスタッフとして『岩波写真文庫』の制作、編集に携わる。59年博報堂に入社。61年編集デザイン事務所ARBO(アルボ)を設立、旭硝子の広報誌『ガラス』の企画、編集、執筆、撮影を行なう。同誌関連での60年代におけるヨーロッパの建築体験が後に建築を考察する基盤となる。 美術評論では、55年第2回美術出版社芸術評論で「井上長三郎論」で佳作入選(『みづゑ』1955年8月号掲載)。その後、『美術手帖』、『デザイン』などに執筆をするようになる。60年代末の活動としては、日本写真家協会が主催した「写真100年展」(『日本写真史1840-1945』平凡社1971年に結実)の仕事を経て、中平卓馬、高梨豊らと68年に刊行した同人誌『PROVOKE―思想のための挑発的資料』(季刊、プロヴォーク社、3号まで)がある。彼らのブレボケ写真は既成のリアリズム写真を批判した。しかし90年代後半からの同誌への過大評価に対して、晩年多木は嫌悪に近い感慨をもっていた。 多木が扱う領域は建築、写真、美術、デザイン、都市と幅がひろい。主に関わった作家たちには、篠原一男、坂本一成、磯崎新、倉俣史朗、桑山忠明、楠本正明、大橋晃朗らの名があがってくるが、ミニマル系の系譜がみえてくる。彼の方向はジャンルを重層的に捉えているが、物と空間、そして社会との関係を深層の域から意識化していくことであった。初期の重要な著作『生きられた家』(田畑書店、1976年)は、初出は篠山紀信の写真集『家』に掲載されたテキストだが、単行本化、改訂を4度行ない、記号論的な思考を深化させていった。さらに『天皇の肖像』(岩波新書、1988年)、『写真の誘惑』(岩波書店、1990年)は、写真の芸術性よりも社会のなかに写真メディアが位置づけられる過程を問い、ベンヤミンを援用して論じていく。80年代に到り、モチーフは広がり、『絵で見るフランス革命』(岩波新書、1989年)で歴史論へと向かい、「やっとここまできた」と述懐していた。40数冊の書籍の多くが、青土社と岩波書店から上梓されており、身体論やキャプテン・クックなどへの広がりは、編集者三浦雅士との信頼関係によるところがある。1994(平成6)年からは八束はじめと季刊誌『10+1』(INAX出版)の編集を始める。美術論では、『神話なき世界の芸術家―バーネット・ニューマンの探究』(岩波書店、1994年)でアメリカ抽象表現主義の絵画を、『シジフォスの笑い―アンセルム・キーファーの芸術』(同、1997年、芸術選奨文部大臣賞)で歴史と絵画について考察した。さらに、60年代からモチーフとしていたデ・ステイルのなかから身体論(例えばリートフェルトの椅子)を含め、20世紀の特異な表象「抽象」について、モンドリアンの絵画をとおして考察していくことが晩年の課題であったが、形にはならなかった。日本近代絵画についての論考としては、靉光論「絵画というものの探求」(『靉光』展図録、練馬区立美術館他、1998年)などがある。教育者としては、67年和光大学助教授就任をはじめ、東京造形大学教授、千葉大学教授などを歴任した。著作目録については『建築と日常・別冊(多木浩二と建築)』(2013年)が参考となる。

大西博

没年月日:2011/03/31

 東京藝術大学准教授の大西博は3月31日、滋賀県長浜市の琵琶湖上で釣舟転覆水難事故に遭い死去した。享年49。 1961(昭和36)年6月18日、徳島県池田町に生まれる。東京都立保谷高等学校を卒業し、82年に東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻に入学。テンペラ絵画と油絵具の併用技法である混合技法を学び、1989(平成元)年に同大学大学院美術研究科油画技法・材料第一研究室を修了。フランドルやドイツの絵画に憧れ、92年から97年にかけてドイツのニュルンベルク美術大学絵画科に留学。ドイツ滞在中、自らが外国人であり日本人であるという認識から、キャンバスや油絵具等、それまで慣れ親しんできた画材と距離を置き、和紙に日本画の技術で描くことを試みるようになる。帰国後は東京藝術大学油画研究室、続いて油画技法・材料研究室の非常勤講師を担当し、2002年より同研究室の常勤講師となる。03年には東京藝術大学アフガニスタン文化支援調査団第三次調査団に参加、カブールでのラピスラズリの原石との出会いをきっかけとしてその精製法に取り組み、画材メーカーと水彩絵具「本瑠璃」を開発。自身の制作においても、同画材を使用したモノトーンの静謐な作風に到達する。06年、東京藝術大学美術学部絵画科(油画技法・材料)助教授となる。死の前月に開催された個展(表参道画廊)では南禅寺塔頭天授庵に設置される襖絵十二面を発表。没後の12年には東京藝術大学大学美術館陳列館で、同大学油画技法・材料研究室の主催により「大西博 回顧展 ―幻景―」が開催された。

佐藤忠良

没年月日:2011/03/30

 彫刻家で、東京造形大学名誉教授の佐藤忠良は3月30日、老衰のため東京都杉並区永福の自宅で死去した。享年98。 1912(明治45)年7月4日、宮城県黒川郡落合村舞野字仁和多利86番地(現、大和町落合字舞野)に生まれる。父は郡立黒川農学校の教師をしていた。1919(大正8)年、前年に父が没したため、母の実家である北海道夕張町に転居。1930(昭和5)年3月、札幌第二中学校を卒業、32年画家を志して上京、中学校の一年下であった船山馨(小説家、1914-1981)の下宿に同居しながら川端画学校に通学。34年4月、東京美術学校彫刻科塑像部に入学、同級に舟越保武、山本恪二、昆野恆等がいた。37年4月、美術学校の先輩であった柳原義達のすすめで第12回国画会に「裸習作」等を出品、初入選で同会奨学賞を受賞。同年、中学の先輩にあたる本郷新、山内杜夫等が前年結成した造型彫刻家協会(ZTK)に参加。38年10月、第2回文部省展覧会に「女」が初入選。39年3月、東京美術学校を卒業、国画会彫刻部を退会した本郷新、山内杜夫とともに新制作派協会彫刻部創立に参加、会員となる。同年11月の第4回同協会展に「海(トルソ)」、「空(トルソ)」を出品。以後、同協会展に2009(平成21)年まで、戦中、戦後の一時期をのぞき毎回出品。44年7月召集、満州に渡り、ソ連、朝鮮国境近くの東寧に派遣される。45年、終戦を知らぬまま約一か月間逃避行をつづけた後に投降、その後3年間シベリアの収容所(イルクーツク州タイシュタット)に抑留。48年夏、舞鶴港に帰還。東京世田谷の本郷新のアトリエに寄寓して、制作活動を再開。 52年9月、第16回新制作展に「群馬の人」を出品。この作品は翌年1月の朝日新聞社主催第4回秀作美術展に選抜された後、東京国立近代美術館に収蔵された。「群馬の人」は、後に「美男美女でない日本人の顔を作り続けたが、(中略)本当のいい男、女、言いかえれば生き生きした人間の顔を作りたかっただけだったのだ。」(『つぶれた帽子』より)と記しているが、当時は素朴ながら力強いリアリズムが評価された。59年、絵本『やまなしもぎ』(福音館書店)を刊行、以後『おおきなかぶ』(1962年)等絵本原画の制作が80年代までつづく。60年4月、「群馬の人」をはじめとする一連の日本人の顔をテーマにした作品に対して、第3回高村光太郎賞を受賞。50年代から60年代にかけては、女性像と並行して、小児をモデルにその無垢な表情と動作を表現した作品の制作をつづけた。66年、東京造形大学美術科主任教授となる。71年、同大学の学生たちとヨーロッパ各地を訪れる、これが初めてのヨーロッパ旅行であった。72年、第36回新制作展に「帽子・夏」を出品、この時期より帽子をかぶり、ジーパンをはいた女性像が現代的で新鮮な具象表現として注目された。73年10月、「支倉常長像」がメキシコ南部の都市アカプルコ・デ・フレアス市に設置されるにあたり、除幕式に出席。その帰途アメリカ、ヨーロッパ各地を巡り、ヘンリー・ムーア、マリノ・マリーニ、ジャコモ・マンズー等のスタジオを訪れる。74年1月、前年11月東京で開催した「佐藤忠良自選展」の評価により第15回毎日芸術賞、また「帽子・あぐら」(前年9月、第37回新制作協会展出品)により、同年3月芸術選奨文部大臣賞をそれぞれ受賞。75年10月、「カンカン帽」(1975年9月、第39回新制作展出品)により第6回中原悌二郎賞を受賞。 81年5月、パリの国立ロダン美術館にて、彫刻117点、デッサン20点からなる「Churyo Sato(佐藤忠良展)」開催。同年8月、「パリ・国立ロダン美術館開催記念;ブロンズの詩・佐藤忠良展」を国立国際美術館で開催。同展は、その後、83年までに全国8館を巡回。86年、東京造形大学名誉教授となる。88年11月、彫刻94点、レリーフ5点、デッサン50点等から構成された「佐藤忠良のすべて」展が岩手県民会館で開催され、これを皮切りに全国11会場を巡回。89年1月、1988年度朝日賞を受賞。90年6月、宮城県美術館に佐藤忠良記念館が開館。92年、彫刻芸術と地方文化の振興に寄与した功績により第41回河北文化賞受賞。同年8月、テレビ番組収録のためにシベリアの抑留地付近を再訪、同年10月にNHK衛生放送で「彫刻家佐藤忠良の世界」が二日間にわたり放送される。95年4月、生誕地である宮城県大和町の大和町ふれあい文化創造センター内に佐藤忠良ギャラリーが開設。98年3月、佐川美術館(滋賀県守山市)内に佐藤忠良館が開設、記念展が開催される。2008年9月、札幌芸術の森野外美術館内に佐藤忠良記念子どもアトリエが開設。10年12月、世田谷美術館で「ある造形家の足跡:佐藤忠良展」が開催され、彫刻87点、素描72点、絵本・挿絵原画79点等が出品された。同展が、生前最後の個展になった。 佐藤は、柳原義達(1910-2004)、舟越保武(1912-2002)とならんで、戦後の良質な具象彫刻において欠くべからざる存在であり、その作品は生活感情と時代感覚に根ざした現代の人間像として生き生きと表現した点で高く評価される。長期間にわたる創作のなかで生まれた数々の作品は、作風の上で大きな展開があるわけでもなく、また各時代の流行や風俗と無縁ではない。しかし一貫しているのは、写実を通して生きた人間を表現することに徹したものであった。上記の展覧会において刊行された図録等の他に、下記のような作品集、著作がある。主要な作品集『彫刻=佐藤忠良1949-1971』(現代彫刻センター、1971年)『佐藤忠良作品集』(現代彫刻センター、1973年)『佐藤忠良作品集 大きな帽子』(現代美術社、1978年)『旅の走り描き 自選素描集』(現代美術社、1980年)『アトリエの中から 自選素描集』(現代美術社、1980年)『佐藤忠良』(全2冊、講談社、1989年)『佐藤忠良作品集』(河北新報社、1990年)藤田観龍『佐藤忠良写真集―全野外作品』(本の泉社、2003年)『佐藤忠良 彫刻七十年の仕事』(講談社、2008年)主要な著述集等『対談 彫刻家の眼』(対談舟越保武)(講談社、1983年)『子どもたちが危ない―彫刻家の教育論』(岩波書店、1885年)『つぶれた帽子』(日本経済新聞社、1988年)『触ることから始めよう』(講談社、1997年)『ねがいは「普通」』(対談安野光雅)(文化出版局、2002年)『彫刻の〈職人〉佐藤忠良―写実の人生を語る』(草の根出版会、2003年)『生誕100年 彫刻家佐藤忠良』(美術出版社、2013年)

鷹見明彦

没年月日:2011/03/23

 美術評論家の鷹見明彦は3月23日、群馬県前橋市の病院で肝臓がんのため死去した。享年55。 1955(昭和30)年7月19日、北海道富良野市に生まれる。幼少時は広島で過ごし、10歳頃に東京都立川市に転居。絵を描くのが好きな少年だった。74年桐朋学園高校卒業。80年中央大学文学部哲学科卒業。20代後半から、音楽雑誌『中南米音楽』(後に『ラティーナ』と改称)に音楽、本、美術などの評論を執筆するようになる。84年同人誌『砂洲』を刊行。題字は中央大学在学中に交流をもった小川国夫が書いた。87年、作家の蔡國強と知り合い、『砂洲』に彼のテキスト「硝煙の彼方より」(山口守訳)を掲載する。90年代から、ギャラリー美遊、ガレリアラセンなどの企画に参加し、王新平、渡辺好明らの評論を執筆。90年頃から『美術手帖』に展覧会評を始め、評論活動が活発化する。1997(平成9)年から2000年まで、岩手芸術祭の現代美術部門の審査員を務める。98年、第3回アート公募’99企画作家選出展(天野一夫、西村智弘とともに)の審査に関わり、第6回まで務める。99年から東京藝術大学美術学部の油画科、以後同大先端芸術表現学科、彫刻科などで、また2000年からは茨城大学教育学部の非常勤講師を務める。03年から、表参道画廊の企画に関わり、水野圭介、坂田峰夫らの展覧会を企画する。同年、アートプログラム青梅の企画に参加。04年から07まで、武蔵野美術大学日本画学科の非常勤講師を務める。05年から『ホルベイン アーティスト ナビ』に毎月書評と映画評の連載を始める。鷹見は、環境、自然、神秘といったモチーフをもとに文明論を構想していた。書籍のかたちには至らなかったが、美術評論の数々は、彼と並走していた若い作家たちへのエールであり、その活動は病によって突然切断されてしまった。残された資料の一部は、東京文化財研究所に所蔵された。

吉村益信

没年月日:2011/03/15

 現代美術家でネオ・ダダのリーダーだった吉村益信は、3月15日、多臓器不全のため死去した。享年78。 1932(昭和7)年5月22日、大分市で薬局を営む父益次、母幸の九男として生まれる。48年、大分第一高等学校入学。一学年上に磯崎新、赤瀬川隼がいた。高校二年の時に青木繁の画集を見て画家になることを決意。この頃から、地元の画材店キムラヤに出入りするようになる。51年、東京藝術大学受験に失敗し、武蔵野美術学校に入学。同年、大分のキムラヤで結成されたグループ新世紀群に参加し、第1回新世紀群同人展に出品する。新世紀群には、磯崎新、風倉匠、中学生だった赤瀬川原平なども関わっており、後のネオ・ダダの原型となった。52年、新世紀群野外展を若草公園で開催(56年まで)。55年、武蔵野美術学校を卒業。この頃、国分寺の旧児島善三郎アトリエに移り、日本アンデパンダン展(第7~10、12、13回)、読売アンデパンダン展(第7~14回)に出品を始める。また、55年4月に新世紀群主催の座談会に池田龍雄を招いたことをきっかけに、「制作者懇談会」や岡本太郎主宰「アートクラブ」に出席し、アヴァンギャルドの精神を吸収していった。57年、赤瀬川隼の結婚式で磯崎新に描いてもらった図面をもとにしたアトリエ「ホワイトハウス」が新宿百人町に完成。若い前衛芸術家たちが集まるようになる。赤瀬川原平、風倉匠、磯崎新らに呼びかけ、60年に「オール・ジャパン」結成。しかし、本格的に活動を始める前に、篠原有司男が合流し、「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を改めて結成する。4月には第1回展を銀座画廊で開き、吉村は折り畳み可能な「携帯絵画」を出品するとともに、ポスターを全身に巻いて街中を練り歩くパフォーマンスで注目を集める。その後も立て続けに、「安保記念イベント」(6月、ホワイトハウス)、第2回ネオ・ダダ展(7月、同上)、「ビーチ・ショウ」(7月、鎌倉安養院/材木座海岸)、第3回ネオ・ダダ展(9月、日比谷画廊)とイベントを行うが、10月に吉村が石崎翠と結婚したことで、ネオ・ダダは事実上解散する。ネオ・ダダ活動中は作品制作の余裕がなかったが、62年の読売アンデパンダン展で展示空間を埋め尽くすような作品「ヴォイド」を出品し話題となる。同年8月、国立市公民館での「敗戦記念晩餐会」、磯崎新邸での壮行会を経て、ニューヨークに渡る。 ニューヨークでは大工やディスプレイの仕事をしながら制作を続ける。その際、他の日本人作家たちにも仕事を斡旋するなど、リーダーとしての資質を発揮。渡米当初は「ヴォイド」シリーズの制作を続けていたが、66年にカステレーン・ギャラリーで開催した個展「HOW TO FLY」では、電球を使用した作品を発表し、ライト・アートの先駆となる。同年、ビザのトラブルで帰国を余儀なくされる。帰国後は、電球やネオンを使った作品の制作を続けるが、アトリエが手狭なために、自身は図面を引くだけで制作は工場に発注する「発注芸術」と呼ばれる制作方法をとる。ライト・アートと発注芸術は、68年の第8回現代日本美術展でコンクール優賞となった「反物質 ライト・オン・メビウス」に結実する。70年の大阪万国博覧会に際しては、「貫通」という会社組織を作り、若い作家たちを雇い、彼らに活躍の場を与えた。万博のせんい館のために作られた巨大なカラスのオブジェ「旅鴉」は、のちにデュシャンの作品になぞらえて「大ガラス」と改名されたことで知られる。吉村のリーダーシップが発揮された「貫通」も、万博の終了と共に仕事の機会が減るなどして解散。テクノロジーに彩られた万博のあと、吉村は第10回現代日本美術展にサヴィニャックのポスターを元にしたオブジェ「豚・pig lib;」を出品し、新しい作風を見せる。翌72年には、サトウ画廊で個展「群盲撫象」を開催し、象の身体部位を切り落としたようなオブジェを発表する。万博前後のこの時期は、異なるスタイルで自身の代表作となる作品を次々と作り出した豊穣な時期となった。75年にこれまで様々な組織を牽引してきた実績をかわれ、国内外の作家から要請されてアーティスト・ユニオン結成に伴うまとめ役を引きうけるが、79年には事実上消滅した。精神的にも疲弊していた吉村は神奈川県秦野市の山中にアトリエを構え、アートシーンの中心から離れていった。90年代に、戦後の前衛美術の再評価が高まるなか、福岡のギャラリーとわーるで行われた石松健男の写真展「60年代ネオ・ダダと!」(1992年)や福岡市美術館の「流動する美術―ネオ・ダダの写真」展(1993年)によって、ネオ・ダダにも注目が集まる。1994(平成6)年の個展「ウツ明け元年」(佐野画廊)で「豚;Pig Lib;」を再制作し、吉村はふたたび表舞台に登場する。その後も、「ヴォイド」や「携帯絵画」などの再制作を行い、ほとんど作品が残っていなかったネオ・ダダの再評価に寄与する。2000年には地元である大分市美術館で回顧展「応答と変容 吉村益信の実験展」が開催された。

瀬木慎一

没年月日:2011/03/15

 美術評論家の瀬木慎一は3月15日、肺炎のため死去した。享年80。 1931(昭和6)年1月6日、東京市京橋区(現、中央区)銀座に生まれ、豊島区目白台で育つ。生家は銀座で飲食店を営み、父が骨董収集を趣味としたため、近所の骨董屋によく同行した。幼少のころより教会に通い、初歩的な英語を習得する。10歳の時に父が戦死。44年から王子区(現、北区)十条の東京第一陸軍造兵廠で働く。このころ文学書、教養書を多読、特に万葉集や古今和歌集、世界名詩選のようなものに惹かれる。詩作もし、戦後は同人誌などに発表する。47年中央工業専門学校に入学、学制改革に伴い翌々年中央大学法学部に入学する。東宝の契約社員としてアニー・パイル劇場(現、東京宝塚劇場)に派遣され、脚本の翻訳、音楽の訳詩などの仕事に携わる。劇場の横にあったCIE(民間情報局)図書館で数年間アメリカの映画雑誌や美術書を読み、特にニューヨーク近代美術館の叢書などで西洋美術の勉強をする。一方自作の詩を見てもらったことを契機に小説家野間宏の知遇を得、野間の紹介で花田清輝、安部公房らを知る。岡本太郎、花田清輝らの前衛芸術運動「夜の会」に参加。49年「世紀」管理人となり、桂川寛とともにガリ版刷りパンフレット『世紀群』の制作責任者を担う。50年『世紀群』第3号でピート・モンドリアンの著述を翻訳した「アメリカの抽象芸術―新しいリアリズム」を発表。51年「世紀」が解散したのちに結核を患い、2年間秦野で療養生活を送る。大学を中退し、53年から『読売新聞』の展覧会評を執筆、のちに他紙でも執筆する。同年『美術批評』に初めての美術批評論文「絵画における人間の問題」を発表。54年「現代芸術の会」に参加。このころから養清堂画廊、東京画廊などの展覧会企画に携わる。57年渡仏、ミシェル・ラゴン、ハンス・アルプ、ジャン・デュビュッフェらと交友、同年イタリアで開催された国際美術評論家連盟会議に日本代表として参加。75年「現代美術のパイオニア」を『古沢岩美美術館月報』に連載開始、この連載を軸に翌々年東京セントラル美術館で「現代美術のパイオニア展」が開催される。77年東京美術研究所を西新橋・東京美術倶楽部内に創設し(1980年に総美社と社名変更)、『東京美術市場史』(東京美術倶楽部、1979年)の編纂にあたる。1990(平成2)年から『新美術新聞』で「美術市場レーダー」連載を開始(2011年まで)。この他に「今日の新人1955年」展(神奈川県立近代美術館、1955年、作家選出)、「世界・今日の美術」展(日本橋高島屋、1956年、展覧会委員)、シャガール展(国立西洋美術館ほか、1963年、実行委員)、ピカソ展(国立近代美術館、1964年、展覧会委員)、現代日本美術展(1964年から1971年まで、選考委員)、日本国際美術展(1959年から1965年まで、選考委員)、選抜秀作美術展(1966年まで、作品選定委員)、東京国際版画ビエンナーレ(1957年から1964年まで、展覧会委員)、東京野外彫刻展(1986年から1995年まで、選考委員)などの展覧会に携わる。また和光大学、女子美術大学、多摩美術大学、東京藝術大学で教鞭をとった。国際美術評論家連盟会長、ジャポニスム学会常任理事、国際浮世絵学会理事などを歴任。おもな著書に『現代美術の三十年』(美術公論社、1978年)、『戦後空白期の美術』(思潮社、1996年)、『国際/日本 美術市場総観』(藤原書店、2010年)など、総合美術研究所での編書に『全国美術界便利帳』(総美社、1983年10月)、『日本アンデパンダン展全記録1945-1963』(総美社、1993年6月)などがある。現代美術やデザインを論じる一方、社会的・経済的な視点から美術品取引の実態や、美術商・オークションの動向など美術市場を実証的に研究した。2009年日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによりインタビューが行われ、同団体のウェブサイトに公開された。

村野守美

没年月日:2011/03/07

 漫画家の村野守美は、3月7日心不全のため東京都府中市の病院で死去した。享年69。 村野(本名、佐藤守)は1941(昭和16)年9月5日、中国の満洲(現、中国東北部)の大連に生まれた。48年に引き上げ、幼少期を福島県会津若松で過ごした。高校を中退後、上京し手塚治虫に師事する。一時期手塚の虫プロダクションで働き、「鉄腕アトム」などの原画を描いた。60年『少年』の夏増刊号にロボットものの「弾丸ロンキー」でデビューする。78年、『週刊漫画アクション』に連載した「ボクサー」が高い評価を得る。また79年『ビッグコミックオリジナル』におてんばな老婆を主人公にした「垣根の魔女」を連載、ともに代表作といわれる。「草笛のころ」や「だめ鬼」など彼の多くの作品は青年誌に掲載されていった。日常をきめ細かく取材する視点から紡ぎだされるストーリー、そしてやわらかな美しい輪郭線にみられる確かな画力により、多くのファンを持った。漫画家永島慎二は村野を「人間の心を読ませる事の出来る数少ない作家の一人」といった。アニメーションも手がけ、「佐武と市捕物帳」や「ムーミン」の制作演出にも携わり、「ユニコ―魔法の島へ」(1983年)は、脚本・監督をしている。童話や絵本も多数上梓しているが、80年代半ばから、宮沢賢治や高村光太郎などへモチーフを広げていき、外国の古典、「ピーターパン」「シンドバットの冒険」などを描いた。90年代、「神々の指紋」で著名なグレーアム・ハンコックを原作とした作品、また池波正太郎の江戸ものを手がけた。

中原佑介

没年月日:2011/03/03

 美術評論家の中原佑介は3月3日、死去した。享年79。 1931(昭和6)年8月22日、兵庫県神戸市に生まれる。本名江戸頌昌(えどのぶよし)。神戸市立成徳国民学校、兵庫県立神戸第一中学校を卒業。中学校時代に相対性理論の解説書を読み理論物理学に惹かれる。48年旧制第三高等学校理科に入学、学制改革に伴い翌年京都大学理学部に入学。このころ理論物理学研究のためにロシア語を学び、エイゼンシュタインの映画論やマヤコフスキーの詩に傾倒。また当時「まやこうすけ」というペンネームで詩作もした。53年同物理学科を卒業、同大学院理学研究科に進学、湯川秀樹研究室で理論物理学を専攻。55年修士論文と並行して書いた「創造のための批評」が美術出版社主催第2回美術評論募集第一席に入選、雑誌『美術批評』に掲載される。湯川の紹介で平凡社に就職、『世界大百科事典』嘱託編集部員となるが、一年ほどで退職。上京してまもなく、安部公房に誘われ「現在の会」に参加、のちに「記録芸術の会」に参加。56年から『読売新聞』の展覧会週評を担当。63年「不在の部屋」展(内科画廊)を企画。このころから内科画廊、東京画廊、サトウ画廊、おぎくぼ画廊などの展覧会企画に携わる。66年「空間から環境へ」展(銀座松屋)に参加。68年「トリックス・アンド・ヴィジョン」展(東京画廊・村松画廊)を石子順造と、「現代の空間’68光と環境」展(神戸そごう)を赤根和生と共同企画。70年に第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)「人間と物質」のコミッショナーを務める。75年から草月流機関誌『草月』に「現代美術入門」を執筆。82年から伊奈ギャラリー企画委員会に参加、その中心となり作家選定、会場構成、リーフレット『INA-ART NEWS』(1985年社名変更に伴い『INAX ART NEWS』と改題)への作家解説の執筆を行う。その他東京国際版画ビエンナーレ(1957年から1979年まで、展覧会委員、実行委員、組織委員)、長岡現代美術館賞(1964年から1968年まで、出品者選考審査員、受賞者選考審査員)、現代日本美術展(1966年から2000年まで、選考委員、ただし12回は除く)、パリ青年ビエンナーレ(1967年、コミッショナー)、サンパウロ・ビエンナーレ(1973年と1975年、日本館コミッショナー)、ヴェネツィア・ビエンナーレ(1976年と1978年、日本館コミッショナー)、現代日本彫刻展(1977年から2011年まで、選考委員、運営委員長、選考委員長)、富山国際現代美術展(1993年と1996年、日本セクションコミッショナー)、越後妻有アートトリエンナーレ(2000年から2009年まで、アートアドバイザー)など現代美術の展覧会にさまざまなかたちで携わる。京都精華大学学長、水戸芸術館美術部門芸術総監督、兵庫県立美術館館長、国際美術評論家連盟会長などを歴任。おもな著書に『ナンセンスの美学』(現代思潮社、1962年)、『現代彫刻』(角川書店、1965年)、『見ることの神話』(フィルムアート社、1972年)、『人間と物質のあいだ』(田畑書店、1972年)、『大発明物語』(美術出版社、1975年)、『80年代美術100のかたち』(INAX、1991年)などがある。2011(平成23)年大地の芸術祭における企画「中原佑介のコスモロジー」として、旧蔵書約3万冊が川俣正によってインスタレーションとして展示された。また同年から現代企画室とBankARTにより『中原佑介美術批評選集』が全13巻の予定で刊行されている。前出の「創造のための批評」では、批評は作家の創作の秘密を説明するにとどまらず、それを変革するためのものであると説き、戦後の美術批評の地平をひらいた。針生一郎、東野芳明と並んで美術批評の「御三家」と称され、若い世代の作家たちを大いに刺激し、晩年まで日本の現代美術界を牽引した。

小野寺久幸

没年月日:2011/03/01

 文化財(仏像)修理技師で、財団法人美術院常務理事であった小野寺久幸は3月1日、肝不全のため死去した。享年81。 1929(昭和4)年5月18日に宮城県本吉郡本吉町(現、気仙沼市)に生まれる。同県本吉郡小泉高等尋常小学卒業。小野寺の文化財(仏像)修理技師としての力量発揮を知らしめたのは、51年、神奈川県鎌倉市覚園寺における重要文化財の木造薬師如来および日光菩薩、月光菩薩の各坐像の保存修理からとみられる。54年には、東京国立博物館内の文化財修理室に勤務。翌年、美術院国宝修理所に就職した。以後、国宝・重要文化財の彫刻作品の修理に専従するとともに、現場において後進の育成に努めた。75年、財団法人美術院国宝修理所所長・常務理事に就任。79年、岐阜県文化財保護審議会委員に、1989(平成元)年には、財団法人川合芳次郎記念京都仏教美術保存財団理事に、91年には、東京藝術大学美術学部保存技術客員教授に、97年には、財団法人仏教美術協会理事に就任する。2000年、財団法人美術院国宝修理所所長を退き、常務理事専務に就任する。この間、88年から5年の歳月をかけて東大寺南大門の国宝金剛力士像二軀の本格解体修理に当って陣頭指揮を行う。その功績により、93年には、東大寺から「東大寺大仏師」の称号が授与された。また、文化庁長官表彰、および、第11回京都府文化功労賞を受ける。翌94年には、宮城県本吉郡本吉町名誉町民となる。95年には、第44回河北文化賞を受賞。96年には、長年にわたる文化財(仏像)修理と後進の育成の功績を認められて紫綬褒章を、03年には、勲四等旭日小綬章の栄誉を受ける。 この間の主な仏像修理は以下の通り。京都・妙法院三十三間堂・重要文化財木造千手観音立像1001軀(昭和48~61、平成2~12年度)、同・国宝木造千手観音坐像(湛慶作、昭和62年~平成元年度)、大分・国宝臼杵磨崖仏(昭和53・55~61、63~平成5年度、同10~12年度)、奈良・法隆寺国宝木造観音菩薩立像(百済観音、昭和55年度)、同・国宝木造観音菩薩立像(救世観音、昭和62年度)、同・国宝銅造薬師三尊像(金堂所在、平成2~3年度)、京都・教王護国寺講堂の国宝を含む諸尊像20軀(平成9~11年度)の本格修理を行う。また、大阪・観心寺如意輪観音像の模造(昭和49~56年度)、京都・寂光院地蔵菩薩立像の模造(平成13~17年度)をはじめ、兵庫・清澄寺大日如来坐像(平成2年度)、東京・長仙寺金剛力士像(同6~9年度)、愛知・鳳来寺薬師如来立像(同10年度)、奈良・桜本坊木造天武天皇坐像(平成19~21年度)の製作を手がけた。仏像修理を通じての知見については、「文化財の保存修理」(『美術院紀要』創刊号、1969年)、「「明月院塑造北条時頼像」の修理について」(『同』2号、1971年)、「群馬県・不動寺の石仏修理について」(『同』3号、1973年)、「文化財の損傷と修理について」(『同』5号、1980年)。「THE REPAIR OF THE WOODEN SCULPTURES」(『International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property』東京文化財研究所編、1983年)、「文化財の保存修理」(『日本藝術の創跡2010』世界文藝社、2010年)などがある。

杵島隆

没年月日:2011/02/20

 写真家の杵島隆は2月20日、敗血症のため東京都新宿区内の病院で死去した。享年90。 1920(大正9)年12月24日アメリカ合衆国カリフォルニア州カレキシコに、移民一世の父母のもと生まれる。旧姓渡邊。24年にいわゆる排日移民法が施行され、その影響を懸念し、母の実家である鳥取県西伯郡の杵島家に預けられ、養子として育てられる。1938(昭和13)年鳥取県立米子中学校卒業。アメリカ国籍であったため進学に不都合を生じ、電気会社に就職するが、39年養父の知人増谷麟が重役を務める東宝映画株式会社に増谷の推薦により入社し、東宝の委託学生として日本大学専門部映画科に入学する。42年同大学を繰り上げ卒業し、東宝撮影所に勤務。43年杵島家の籍に入り日本国籍を取得、海軍飛行予備学生に志願、海軍航空隊に任官し各地を転戦、福岡の基地で特攻待機中に終戦を迎え、除隊後帰郷。 終戦直後に知人からカメラを譲られ、中学時代にとりくんだ写真撮影を再開、作品を作り始めるとともに、郷里で現像・焼き付けや撮影などの仕事を手がけるようになる。48年には同郷の写真家植田正治に師事。戦後に復刊した『アサヒカメラ』、『カメラ』など写真雑誌の月例懸賞欄に作品を投稿、入賞を重ねる。とくに『カメラ』1950年5月号月例で特選となった「老婆像」は、ソラリゼーションの技法によるマチエールを生かした表現により、同欄の評者を務めていた土門拳に高く評価され、杵島の存在を広く知らしめるものとなった。50年植田を中心に山陰地方の若手写真家が結成した「写真家集団エタン派」に参加。広告写真の懸賞にもたびたび入賞し、53年には上京してライト・パブリシティに入社、広告写真家として活動を始める。55年にフリーランスとなり、56年キジマスタジオを設立。 広告写真家としてさまざまな撮影を手がけるかたわら、「グラフィック集団」(55年の第2回展から参加)、女性写真の分野で活躍する秋山庄太郎、稲村隆正らが結成した「キネグルッペ」(56年に参加)などの活動に加わり、58年には個展「裸」(富士フォトサロン)で、皇居桜田門前で撮影した斬新なヌード作品を発表するなど、作家活動も並行して展開した。 60年代以降も広告写真やファッション写真などの撮影のほか、テレビCMの制作やショーウィンドーディスプレーなど幅広い分野の仕事を手がける。とくに蘭の撮影と、歌舞伎や文楽などの伝統芸能をめぐる撮影はライフワークとなり、75年に出版された写真集『蘭』(講談社)により76年日本写真協会賞年度賞を受賞した。その他の主要な写真集に『義経千本桜』(日本放送出版協会、全4冊、1981年)、『裸像伝説1945-1960』(書苑新社、1998年)がある。 58年に日本広告写真家協会の結成に参画した他、日本写真家協会副会長(88-90年)、東京写真文化館館長などを務めた。1991(平成3)年に勲四等瑞宝章、2001年に日本写真協会賞功労賞を受賞。また同年には米子市美術館で回顧展が開催された。詳細な年譜が同展図録に収載されている。

井波唯志

没年月日:2011/01/25

 漆芸家の井波唯志は1月25日、急性心不全にて死去した。亨年87。 1923(大正12)年3月10日、代々加賀蒔絵を営む二代目喜六斎の長男として金沢市に生まれる。本名忠。1944(昭和19)年東京美術学校附属文部省工芸技術講習所卒業。在学中は漆芸を山崎覚太郎に、陶芸を加藤土師萌と富本憲吉に師事し美術工芸の方向を探求するようになる。その後、父の二代目喜六斎(日本工芸会正会員)より加賀蒔絵の技術を習得するが、活躍の場は日本工芸会ではなく日展や日本現代工芸美術展が中心となる。両展で評価を受けたものの多くが漆屏風や漆芸額であり題材も抽象的でモダンな作風である。 46年、第2回日展で出品した手筥「夏の蔓草」が初入選。以来、連続入選し、第10回日展では漆屏風「彩苑」が第1回改組日展では漆屏風「化礁譜」が特選・北斗賞を受賞する。74年には日展会員に、その5年後には日展評議員に就任する。1994(平成6)年、第26回日展では漆屏風「晴礁」が日本芸術院賞を受賞し、翌年には日展理事に就任している。 一方、日本現代工芸美術展では64年の第3回展に出品した「白日」が現代工芸賞を受賞する。その後も同展での活躍が続き、第5回展出品の「風かおる」や第8回展出品の「湖精」が外務省に、第10回展出品の「海の棹歌」がノルウェー・トロンドハイム美術館買い上げとなる。84年に開催された第23回展では漆芸額「汀渚にて」が内閣総理大臣賞を受賞する。なお、第10回では審査員も務め、75年には現代工芸美術家協会理事に就任する。 これらの活躍と並行し、53年には輪島市立輪島漆器研究所所長に就任する。その後十五年間にわたり漆芸パネルや大型家具の開発など時代に合わせた漆器意匠開発に努める。75年には石川美術文化使節副団長として渡欧。翌年から二年間にかけて横浜高島屋で父子漆芸展を開催し、同展以降は父喜六斎の作品と共に出品されることも多くなる。 その後も「金沢四百年記念国際工芸デザイン交流展」(1982年)や開館記念特別展「現代漆芸の巨匠たち」(輪島漆芸美術館、1991年)、「開館十周年記念特別展 石川の美術―明治・大正・昭和の歩み―」展(石川県立美術館、1994年)、浦添市美術館開館5周年記念「輪島漆芸展」(浦添市美術館)、特別展「輪島の現在漆芸作家」(石川県輪島漆芸美術館、1997年)、「日蘭交流400周年記念日本現代漆芸展」(ヤン・ファン・デルトフト美術館、2000年)、友好提携石川県輪島漆芸美術館10周年記念「漆芸の今、現代輪島漆芸」展(浦添市美術館、2001年)、「現代漆芸作家―輪島の今:開館15周年記念展」(輪島漆芸美術館、2006年)等に出品を重ねる。また、大阪心斎橋大丸や日本橋三越で多くの個展を開催する。 2008年にはイタリア・ローマ日本文化会館で開催されたローマ賞典祭「北陸の工芸・現代ガラス工芸展」に花器「洋々」を出品。長年の活躍の場でもあった第48回日本現代工芸美術展(2009年)に「翔陽」を、そして第42回日展に「宙と海の記憶」(2010年)を出品している。2011年には石川県輪島漆芸美術館「漆、悠久の系譜:縄文から輪島塗、合鹿椀:開館20周年記念特別展」において父喜六齋の「縞模様研出蒔絵宝石箱」とともに第32回日展へ出品した漆屏風「水澄めり」が出品される。 加賀蒔絵の系譜を想起させる伝統的な蒔絵の作品だけでなく、朱漆等が印象的で抽象的な作風も多く見られる。蒔絵粉の粒度や細やかな技法の違いによる表現を検討するため、必ず試験手板を数種類制作した上で作品に用いたという。上記以外にも北國文化賞(1982年)や石川テレビ文化賞(1985年)、輪島漆器蒔絵組合功労賞(1986年)、紺綬褒章(1987年、1990年)、漆工功労者表彰(日本漆工協会、1993年)、石川県文化功労賞(1994年)、勲四等旭日小綬章(1995年)を受賞(章)している。 2013年、石川県輪島漆芸美術館で回顧展でもある「漆革新 井波家四代の足跡」が開催される。作品は石川県立美術館や石川県輪島漆芸美術館に所蔵されている。

門倉武夫

没年月日:2010/12/26

 保存科学分野の研究者である門倉武夫は12月26日、自宅にて急逝した。享年76。 1934(昭和9)年8月27日、東京都八王子市に生まれる。57年工学院大学を卒業後、同年、東京国立文化財研究所(現、東京文化財研究所)保存科学部化学研究室に就職。その後、78年以降、保存科学部主任研究官を経て、1993(平成5)年から保存科学部生物研究室室長を務める。また、東京国立文化財研究所を退官後は、東京国立文化財研究所名誉研究員となり、東京都埋蔵文化財センター嘱託研究員として研究を続けた。またその間、明治大学、和光大学、女子美術大学、東京学芸大学等で講師として文化財の保存科学について教鞭をとった。一貫して文化財の保存科学に生涯を捧げた。とくに、文化財を取り巻く大気環境調査や、大気汚染や酸性雨が文化財に及ぼす影響などについて調査を行い、大理石やブロンズ彫刻など、屋外の文化財の保存環境の研究に取り組んだ。また、ひたちなか市(旧勝田市)の虎塚古墳については、71年から文化財保存対策委員を務め、発掘の際の古墳の環境調査を担当するとともに、その後も毎年の点検に欠かさず参加し、その保存対策に終生貢献した。文化財の保存科学や人間に向き合う真摯な姿勢と、その温かい人柄から、年齢を問わず、多くの親交があり慕われた。 主要な研究業績は以下の通りである。 「上野公園内の大気汚染」(『古文化財の科学』17 1953年) 「大気汚染が文化財の及ぼす影響」(江本と共著、『分析化学』12,11 1963年) 「古文化財と空気汚染の諸問題」(『産業環境工学』31 1964年) “Exhibition of the wall-paintings on the tumulus Torazuka;The7th International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property and Analytical Chemistry,1966) 「如庵(国宝)及び旧正伝院(重文)の被覆燻蒸」(森八郎と共著、『古文化財の科学』20-21 1967年) 「ガスクロマトグラフィーによる収蔵庫内外の文化財環境調査」(江本と共著、『保存科学』8 1972年) 「奈良国立博物館における正倉院展展示環境調査」(江本と共著、『保存科学』8 1972年) 「万国博覧会美術館の展示環境調査」(江本と共著、『保存科学』9 1972年) 『虎塚古墳「保存整備報告書」』(共著、茨城県勝田市(現、ひたちなか市)、1977年) 「文化財周辺の塵埃に関する研究(1)-奈良国立博物館における収蔵庫、展示室、ケース内塵埃調査-」(『保存科学』12、1979年) 「文化財周辺の塵埃に関する研究(1)-走査電子顕微鏡、X線マイクロアナライザーによる銅版葺屋根の汚染物質の測定-」(『保存科学』18、1975年) 「緑青成分による大気汚染解析」(加藤、秋山と共著、『古文化財の科学』27 1982年) 「高松塚古墳壁画修理用剤蒸気除去対策」(『国宝高松塚古墳壁画-保存と修理-』文化庁、第一法規出版、1987年) “Concentration of nitrogen dioxide in the museum environment and its effects on the fading of dyed fabrics”(Kadokura,Yoshizumi,Kashiwagi and Saito,Preprints of the contributions to the Kyoto congress,19-23September,The Conservation of Far Eastern Art,987-89,The International Institute for Conservation of Historic and Artistic Works,1988) 「非破壊式蛍光X線分析法による蒔絵柱の分析」(共著、『国宝中尊寺金色堂附旧組高欄・附古材保存修理工事報告書』(財)文化財建造物保存協会、中尊寺、1990年) 「文化財環境と汚染因子の挙動」(『環境技術』20-8、1991年) 「建築装飾金具の耐久性の研究」(青木・斉藤・鈴木・木下と共著、『保存科学』31、1992年) 「文化財の保存環境と汚染因子」(『環境と測定技術』19-10 1992年) 「遺跡保存と公害による影響」(『地理・歴史』62、帝国書院、1992年) 『「酸性雨の科学と対策」文化財への影響』(共著、(財)日本環境測定協会、環境庁大気保存局大気規制課、監修、溝口次男、1994年) 「文化財と環境問題」(『産業と環境誌』23-10 1994年) 「東アジヤ地域を対象とした酸性大気汚染物質の文化財および材料への国際共同影響調査」(辻野らと共著、『全国公害研究誌』20-1 1994年) “Acidic mist in the surrounding of cultural property and its effect on restoration of cultural property -Cultural property and environment-(Tokyo National Research Institute for Cultural Properties,p53-66,1995) “Study on …

石田武

没年月日:2010/12/24

 日本画家の石田武は12月24日、腎不全のため横浜市の病院で死去した。享年88。1922(大正11)年4月27日、京都市の西陣織職人の家に生まれる。本名武雄。1935(昭和10)年京都市立美術工芸学校図案科に入学、図案を山鹿清華、日本画を森守明、洋画を太田喜二郎に学ぶ。40年に同校を卒業し、大阪丸高商事宣伝部に入社。43年より45年まで応召、復員ののち、46年より翌年にかけて京都新制作研究所に学び、主に桑田道夫の指導を受ける。50年頃より児童図書のイラストを描き始める。59年東京に居を写し、この頃より動物図鑑などの挿絵の仕事に専念するようになる。67年小説家の戸川幸夫とともにアフリカ、ヨーロッパに旅行。その生態を研究し、翌68年『世界の動物』『世界の鳥』をフランスなど数か国で出版した。71年日本画に転向し、翌年三越の新鋭選抜展に「冬の風景」を出品、73年第2回山種美術館賞展で「林」が大賞を受賞する。74年第6回日展に「雪晨」を出品。80年第2回日本秀作美術展に「虚空」が選ばれ出品。79年、85年に東京セントラル絵画館で、1992(平成4)年に西武アート・フォーラムで個展を開催。個展を中心に、明快かつ鋭い筆致と安定した描写力による写実的な作品を発表し続けた。

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