本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数2,817 件)





鈴木重三

没年月日:2010/09/01

 近世国文学・浮世絵研究者の鈴木重三は9月1日午後6時23分、東京都目黒区の病院で死去した。享年91。1919(大正8)年3月30日東京市麻布区霞町(現、東京都港区西麻布)に生まれる。幼少の頃より芝居を好み、合巻(江戸時代後期に流行した草双紙、作者では山東京伝、曲亭馬琴など、絵師では豊国、国貞、国芳などが手がけた)など文芸に親しみ、その後の研究の素地を形成した。1939(昭和14)年、東京帝国大学に入学するが3年で戦時中の繰り上げ卒業となり、陸軍に応召されて出征、46年復員、翌年から浦和市立高等学校に勤務した。51年より国立国会図書館に奉職、84年に司書監で退官ののち、白百合女子大学文学部教授として教鞭をとった。生涯にわたって戯作など江戸時代の絵入版本と、関連する浮世絵との考察を数多く手がけたが、研究に着手した頃、こうした分野は、文学史からも美術史からも考察の対象外とされていた感があり、鈴木の業績は先駆的な研究となり、その後の研究の礎となった。70年刊行の『広重』(日本経済新聞社)は、多種多様な作品と資料を網羅し、広重の人物像に迫る大著である。また企画・編集を行った全集・画集類も多く、『浮世絵大系』(集英社)、『浮世絵聚花』(小学館)などがある。一方、絵本や合巻の底本の吟味、校閲、解説などを数多く手がけ、企画・編集に携わった主な書籍には『近世日本風俗絵本集成』(臨川書店)、『北斎読本挿絵集成』(美術出版社)、『山東京伝全集』(ぺりかん社)、『馬琴中編読本集成』(汲古書院)、『偐紫田舎源氏』(岩波書店)、『葛飾北斎伝』(岩波文庫)などがあり、いずれも幅広い研究の基礎資料となっている。また79年刊行の『絵本と浮世絵 江戸出版文化の考察』(美術出版社)は近世文学についての研鑽と浮世絵に対する鋭い観察眼によってなされた著作集である。85年刊行の『近世子どもの絵本集』(岩波書店)では毎日出版文化賞特別賞を受賞している。また1992(平成4)年の『国芳』(平凡社)は近世文学研究の豊富な蓄積を骨子に、国芳作品の集大成として結実させた。さらに2004年刊行の『保永堂版 広重東海道五拾三次』(岩波書店)では、周到なる調査をもとに、可能な限りの初期の摺を厳密に選定して資料とともに掲載している。同書は著名な同作品の図版の決定版であるとともに、この作品が広重の上洛を契機としたものではなく、従来から知られていた『東海道名所図会』に加え十返舎一九の『続膝栗毛』を参考に制作されたことを、詳細な挿図とともに明らかにしている。最晩年に至っても研究意欲は衰えることなく、既発表の論文による『絵本と浮世絵』の改訂版のために、最後までその訂正加筆に努められていた(ぺりかん社より刊行予定)。鈴木は、片岡球子〈面構 浮世絵師歌川国芳と浮世絵研究家鈴木重三先生〉(第73回院展出品作、1988年、北海道立近代美術館蔵)にその姿が描かれており、〈面構〉シリーズに唯一とりあげられた当世人物である。その縦2m、横3.7mを超える大画面には、国芳の三枚物「七浦大漁繁昌之図」の図様を背景として、国芳と背広姿の鈴木が配されている。76年頃から鈴木は片岡の浮世絵研究の相談役として交流があり、画中の「七浦大漁繁昌之図」も鈴木の所蔵作品を参考にしたという(土岐美由紀「インタビュー 鈴木重三=片岡球子先生との交流について」『氷華(北海道立旭川美術館だより)』82、2010年、および『片岡球子展』図録、札幌芸術の森美術館・北海道立旭川美術館、2010年)。没後「鈴木重三先生を偲ぶ会」が国際浮世絵学会の主催で行われ、その際の配布物の表紙に、片岡による鈴木の写生が載せられている。

大高正人

没年月日:2010/08/20

 建築家の大高正人は、8月20日午後6時35分、老衰のため死去した。享年86。1923(大正12)年9月8日、福島県田村郡三春町に生まれる。44年旧制浦和高等学校を卒業後、東京大学工学部建築学科に入学。47年に卒業後、同大学院に進み、49年修了。同年に前川國男建築設計事務所入所。62年に独立して大高建築設計事務所を設立、同代表取締役。81年から1991(平成3)年まで計画連合代表取締役。60年に東京で開催された世界デザイン会議に向けて川添登を中心に結成された「メタボリズム・グループ」に参加、59年に発表した「海上帯状都市」などの提案を行った。日本建築学会都市計画委員会に62年に設置された人工土地部会での検討にも参加し、その成果は、大高の設計により68年に第1期工事が竣工した「坂出人工土地」として結実した。コンクリートの人工地盤を設けて下部を駐車場と商店街などに利用し、上部に住宅団地とオフィス、歩行者空間を設けるというこの再開発計画は、戦後日本が直面していた都市の諸問題を解決する画期的手法として67年に日本都市計画学会石川賞を受賞した。その後も、原爆によって生じた木造スラムの再開発計画である「広島市基町・長寿園高層アパート」(1972~76年竣工)の設計を手掛け、ここでも人工地盤や屋上庭園といった計画手法や建設コスト削減のための工夫を試みている。これらの実験的計画は結局、経済効率の悪さや法制度との不整合などから一般解とはなりえなかったものの、メタボリズムの建築家たちによる都市計画的提案の大半が構想のみに終わった中で大高の計画が長年をかけて実現に漕ぎつけたことは、その地道な問題解決能力のなせる技であっただろう。一方、単体の建築作品としては公共建築を得意とし、千葉県文化会館(1968年、日本建築学会(作品)賞)や栃木県議会議事堂(1969年、芸術選奨文部大臣賞)、群馬県立歴史博物館(1980年、毎日芸術賞)をはじめとする数多くの建物を設計した。その活動には、他のメタボリストのような派手さこそなかったが、大高の作品から、「坂出人工土地」のほか、「千葉県立中央図書館」(1968年)、「花泉農協会館」(1965年)の計3件が、代表的な現存の近代建築として日本におけるDOCOMOMO150選に選出されていることが示すように、戦後日本の一時代を画した建築家の一人ということができる。中央建築審査会委員(1974~82年)、建築審議会委員(1975~93年)、日本建築学会理事(1976~77年)、都市計画委員会委員長(1980~82年)、日本建築士会連合会副会長(1988~98年)等を歴任。上記以外の主な受賞歴等として、88年紫綬褒章。2000年日本建築学会名誉会員。03年日本建築家協会名誉会員。同年旭日中授章受章など。著作に、川添登と共編による『メタボリズムとメタボリストたち』(美術出版社、2005年)がある。

田中文男

没年月日:2010/08/09

 大工棟梁として活躍してきた田中文男は肺癌のため8月9日死去した。享年78。1932(昭和7)年千葉県に生まれ、46年尋常小学校高等科を卒業し、千葉県で大工棟梁に弟子入り、53年年季奉公を終えて上京し、重要文化財根津神社修理工事の現場で働く。早稲田大学工業高等学校(定時制)で学びながら、奈良県今井町や秋山郷、滋賀県湖北地方の民家調査に参加。太田博太郎や大河直躬など建築史研究者の活動に協力する。58年に田中工務店、次いで62年に株式会社真木建設設立。以後文化財建造物の保存修理工事に請負として携わる。71年重要文化財旧花野井家住宅解体移築修理工事、79年東京都指定有形文化財法明寺鬼子母神堂保存修理工事、82年重要文化財泉福寺薬師堂保存修理工事、83年東京都指定有形文化財武蔵御嶽神社旧本殿保存修理工事など多数の文化財建造物の保存修理工事に功績を残す。一方で工務店経営の傍ら82年には宮沢智士らと「普請帳研究会」を発足させ、建築生産や技術についての調査研究を進め、季刊の機関誌「普請研究」を10年40号にわたって発行した。「普請研究」は技術の実務と学問を橋渡しする田中の姿勢を体現し、建築史研究の深化発展に寄与するとともに多くの技術者や研究者の発表の場となり、後進の育成の場ともなった。1991(平成3)年には建築施工の実務を後進に譲り、有限会社真木設立。佐賀県吉野ヶ里遺跡の北内郭の復元設計などに携わり、95年財団法人国際技能工芸振興財団設立発起人、96年専門学校富山国際職藝学院オーバーマイスター就任、ベトナム・フエ明命帝陵修復プロジェクト現地指導。業績は文化財に止まらず、現代建築の施工にも足跡を残した。初期には60年宮脇檀設計による銀座帝人メンズショップの店舗改装や66年同設計者によるVANジャケット石津謙介の別荘「もうびぃでぃっく」の施工、その後は自身の考案による校倉構法や文化財修理の経験を生かした民家型構法の開発による高品質住宅の提案を行った。一般には肩書きを宮大工と呼ばれることが多く、実際に社寺建築を多く手がけていたが、興味や能力はそこに止まらず、プロデューサー、コーディネーターとして非凡な才能を発揮した。実務を通して培った幅広い知識と理論に裏打ちされた交友関係は分野を越え、建築史研究者、文化財関係者から建築家、ファッションデザイナー、林業家まで非常に幅広かった。豪放磊落さと人を気遣う細心さを併せ持つ希有の人物であった。

陰里鉄郎

没年月日:2010/08/07

 美術史研究者で美術評論家の陰里鉄郎は8月7日、心不全ため横浜市の病院で死去した。享年79。1931(昭和6)1月1日、長崎県南松浦郡岐宿村川原(現、五島市)に医師であった父陰里壽茂、母せいの次男として生まれる。小学校低学年の時、同県南松浦郡生月島に転校。長崎県立猶興館中学に入学、終戦後同学校は高等学校となり、49年3月に卒業。50年4月、日本大学教養学部医学進学コースに入学。52年3月、同大学教養学部修了。同年4月東京藝術大学美術学部芸術学科に入学。56年3月、同大学同学部を卒業、同年4月より芸術学科副手となる。59年4月、同大学美術学部助手となる。62年7月、神奈川県立近代美術館学芸員となる。同美術館採用後、当時副館長であった土方定一の命により同年7月開催の「萬鉄五郎展」を担当、以後土方より薫陶を受けることになり、本格的に日本近代美術史研究をはじめる。65年1月、同美術館の「司馬江漢とその時代」展を担当し、同年4月より東京国立博物館学芸部美術課絵画室に研究員として転出。66年4月、東京国立文化財研究所美術部第二研究室に異動。研究所在職中は、はじめに上記の美術館において担当した萬鉄五郎研究に傾注し、実証的な作家研究の成果として『美術研究』に「萬鉄五郎―生涯と芸術」(一)(255号、1968年1月)~(五)(290号、1973年11月)を連載。並行してその研究領域は、司馬江漢、石川大浪、亜欧堂田善、川原慶賀等の江戸洋風画から、明治、大正期の美術まで広範囲になっていった。個別な論文等の他に画集等の編著も数多く、主要なものに下記のものがある。『近代の美術29 萬鉄五郎』(至文堂、1975年1月)、『日本の名画5 黒田清輝』(中央公論社、1975年)、『巨匠の名画10 青木繁』(学研、1976年)、『原色現代日本の美術5 日本の印象派』(小学館、1977年)、『近代の美術50 村山槐多と関根正二』(至文堂、1979年1月)、『夏目漱石・美術批評』(講談社、1980年)、東京国立文化財研究所編『黒田清輝素描集』(日動出版部、1982年)。こうした作家等の研究のなかでも、『原色現代日本の美術5 日本の印象派』は、研究所が近代美術研究の根幹とする黒田清輝を中心に、同時代のヨーロッパ美術まで視野に入れながら考察した代表的な研究成果であった。82年5月、三重県立美術館館長に就任。同美術館には、設立準備から関わっていたことから、要請にもとづく転出であった。同美術館では、運営を主導して作品収集の基本方針の策定にあたり、それは、下記のようにそれまでの研究者としての専門性を反映した方針であった。(1)江戸時代以降の作品で三重県出身ないし三重にゆかりの深い作家の作品、(2)明治時代以降の近代洋画の流れをたどることのできる作品、また日本の近代美術に深い影響を与えた外国の作品、(3)作家の創作活動の背景を知ることのできる素描、下絵、水彩画等。この方針は、企画展の方向にもなっており、82年開館記念展として9月「三重の美術・現代」、10月「日本近代の洋画家たち展」開催をはじめ、館長在任中は展覧会の企画に積極的にあたり、日本近代美術、それに関連した海外展、また現代美術展を順次開催していった。とりわけ日本の近代美術では、「藤島武二」展(1983年4月)、「萬鉄五郎展」(1985年6月)、「橋本平八と円空展」(1985年9月)、「黒田清輝 生誕120年記念」展(1986年5月)、「関根正二とその時代展」(1986年9月)、「石井鶴三展」(1987年6月)、「鹿子木孟郎展」(1990年9月)等、いずれも今日にいたるまで基礎的、基本的な研究となっている。また、特色ある企画展として、「井上武吉展」(1987年1月)、「飯田善国展」(1988年1月)、「湯原和夫展」(1988年9月)、「向井良吉展」(1989年5月)、「多田美波展」(1991年8月)、「清水九兵衛展」(1992年5月)、「佐藤忠良展」(1994年4月)等を開催したが、これらは60年代に頭角を現した陰里とほぼ同世代の彫刻家の個展であり、戦後から現代美術における彫刻、立体表現を検証する点でも、他館にみられない意義ある企画であった。こうした数々の企画展の中で、「アーティストとクリティック 批評家・土方定一と戦後美術展」(1992年8月)は、かつて薫陶をうけた土方定一の批評的な視線をとおして戦後美術を跡づける、当時としてはユニークな試みであり、同時に土方へのオマージュでもあった。同美術館を退職後の1994(平成6)年4月、名古屋芸術大学美術学部教授となり、また同月横浜美術館館長に就任。98年4月、女子美術大学大学院美術研究科教授となる。2007年同大学を退職。陰里は、江戸洋風画から近代美術まで広範囲にわたる美術史研究のかたわら、美術評論においても現代美術を対象に積極的に執筆活動を行った。そうしたなかで培われた美術に関する高い見識と時代に対する深い洞察力、さらに何事にも平衡であろうとする姿勢は、美術館運営に如何なく発揮された。1980年代以降に誕生した多くの地方美術館のなかでも、三重県立美術館をひとつの成功したかたちにまで育て上げた「美術館人」としての功績は多とすべきである。その主要な著述は、『陰里鉄郎著作集』全3巻(一艸堂、2007年)に収録されている。

山田正亮

没年月日:2010/07/18

 画家の山田正亮は7月18日、胆管癌のため死去した。享年81。1929(昭和4)年1月1日、東京に生まれる。本名正昭。43年、陸軍兵器行政本部製図手養成所に入所。44年、同養成所助教となり、同年創立の都立機械高等工業学校第二本科機械科に入学。翌年終戦にともない陸軍兵器行政本部を退職。50年、東京都立工業高等専門学校卒業。53年に、長谷川三郎に師事。この頃より、東京京橋にあったGKスタジオに勤務、主にデザインの仕事に従事。出品歴としては、49年2月の第1回日本アンデパンダン展に出品、52年、2月第4回日本アンデパンダン展、同年10月、第16回自由美術展に出品。58年11月、教文館画廊(東京)で初個展開催。64年、東京の上北沢にアトリエを設ける。初期から1950年代には、セザンヌ、キュビスムを意識した静物画を中心に制作がつづけられた。50年代中ごろにモンドリアンを想起させるように抽象化がすすめられ、そのなかで1956年より「Work」のシリーズがはじまった。ジョーゼフ・アルバース、フランク・ステラの表現にも似た、画面に規則的な矩形の色面が占める作品を経て、ストライプに覆われた画面に到達した。ストライプの絵画作品は、ある規則性に添ったものではなく、抑制された色彩の選択と画面全体の均一性を志向しながらも、色彩の帯は、微妙に揺れ、また絵の具の滴り、厚み等、きわめて感覚的で繊細な表情をつくりあげていた。ミニマルアート以後の絵画表現として、早くから一部の識者から注目されていた。81年、「1960年代―現代美術の転換期」展(東京国立近代美術館、京都国立近代美術館)に出品。80年代に入り、60年代のストライプの絵画作品の評価が高まり、あわせて79年以降、毎年(97年まで)開催された個展(佐谷画廊)等において発表される新作は高い評価を受けるようになった。また公立美術館等における戦後美術、もしくは現代絵画の企画展にしばしば出品を要請されるようになり、日本の現代絵画を語る際に、山田の作品は重要な位置を占めるようになった。同時期の作品は、青緑色の大画面のなかの引かれたグリッドをベースにして、グリッドの直線に添いつつ、捕らわれることのない柔軟な線と鮮やかな色彩が覆う構成がとられていた。87年、第19回サンパウロ・ビエンナーレに出品。90年、『山田正亮作品集 WORKS』(美術出版社)を刊行。95年に、およそ40年間にわたってつづけられた「Work」のシリーズを終えた。その後、2001年に「Color」の連作を発表した。このシリーズの作品は、単一の色彩が画面を覆っているが、画面の端に表面下に塗られた別の色相をのぞかせることで画面の重層性を示し、絵画が薄い表面ではなく、ただならぬ平面であることを観る者に感じさせるものであった。2005年6月、府中市美術館にて「山田正亮の絵画 〈静物〉から〈Work〉―そして〈Color〉へ」展開催、初期の静物画からストライプの絵画作品、さらに最新作として「Color」シリーズ、139点からなる個展が開催された。山田は、一切の組織、運動に与することなく、また世界の流行に流されることなく、自律的な思考を深めながら、現代の日本絵画の可能性を示すことができた美術家であった。

中里斉

没年月日:2010/07/18

 現代美術家の中里斉は7月18日(日本時間)、ニューヨークの病院で死去した。7月中旬に自宅ではしごから転落し入院していた。享年74。1936(昭和11)年3月15日、東京府南多摩郡忠生村(現、東京都町田市)に生まれる。父は鉄道員、母は専業主婦で、両親はキリスト教(プロテスタント)を信仰していた。5人兄弟の長男。母の実家は、旧町田街道にあった紺屋「なるとや」で、その裏庭に伸子張りされた染物の連なり干された有様が原風景としてあることを後年追懐している。羽仁もと子の教育論を好んだ母の元、さかんにクレヨンで絵を描く幼少期であった。48年桜美林中学校に入学、54年桜美林高等学校を卒業。2年間浪人したのち、56年多摩美術大学美術学部絵画科(油画)に入学、在学中は大沢昌助らに学ぶ。60年同大学を卒業。卒業後は半年ほど『北海タイムス』の美術記者として北海道旭川市に勤務したのち、桜美林学園の専任講師となり中学・高等学校の美術、桜美林短期大学のデザイン学、色彩学を担当する。62年渡米、ウィスコンシン大学大学院に入学、専攻として絵画を、副専攻として版画を学ぶ。そのかたわら、通訳として日本の技術者を工場見学に案内しているうちに、システム・デザインに眼をひらかれる。64年ミルウォーキー、セント・ジェームス・ギャラリーで初個展を開催。同年ペンシルヴァニア大学美術大学院に入学、ピエロ・ドラツィオ、ニール・ウエリバーらに学ぶ。66年ロックフェラーⅢ世基金奨学金を受けニューヨークに移る。このころシステマティックに形成された線と色面を組み合わせた〈ペンシルヴァニア・シリーズ〉に取り組む。68年ヨーロッパと中近東を旅行し帰国、結婚。同年10月、多摩美術大学の専任講師となりデッサンを担当するかたわら、駒井哲郎の版画授業を手伝う。同年12月学園紛争により全学封鎖となったため、連日の教授会や自主ゼミへの参加。70年3月日本万国博覧会の古河パビリオンの壁画を制作。同年7月第5回ジャパン・アート・フェスティバル国内展示で、日本の伝統的な大工道具である墨壷を使用しカンバス上に直線を引いた絵画《マチス》により優秀賞(文部大臣賞)を受賞。同年8月第14回シェル美術賞展で佳作賞を受賞。同年11月青山・ピナール画廊で個展を開催。71年5月第10回現代日本美術展(東京都美術館)の招待部門に出品。同年12月現代日本美術展(グッゲンハイム美術館)に出品。71年学園闘争の緊張が募り体調を崩し、医者に転地を勧められる。ヨーロッパを旅行した後、渡米しニューヨークに居住、同年9月ペンシルヴァニア大学美術大学院で版画の専任講師となる。以後、ニューヨークに制作の拠点をおき、日本、アメリカで作品を発表。日本においては甲南高校アートサロン(1981年)、原美術館(1987年)、東京画廊SOKO(1997年)、村松画廊(2004年)、町田市立国際版画美術館(2010年)などで個展を開催し、「アメリカの日本作家」展(東京国立近代美術館、1973年)、「現代絵画の20年〈1960-70年代の洋画と新しい『平面』芸術の動向」(群馬県立近代美術館、1984年)、「日本の版画」(栃木県立美術館、1985年)、「絵画1977-1987」(国立国際美術館、1987年)、「断面アスペクト1979-1994」(ハラ・ミュージアム・アーク)など、現代日本の平面作品を検証する多くの企画展で作品が展観された。また82年から文化庁芸術家在外研修員の滞在先として20名あまり受け入れる。ペンシルヴァニア大学美術学部長を歴任。1970年代のニューヨークにあっても一貫して平面における抽象性を貫き、抑えたカラーフィールドの美しさとモノクロームの中に知的な線を維持し、平面作品において独自の世界を展開させた。2009(平成21)年日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによりインタビューが行われ、同団体のウェブサイトに公開された。

両角かほる

没年月日:2010/07/16

 泉屋博古館分館学芸員の両角かほるは7月16日、癌のため急逝した。享年39。1970(昭和45)年7月22日、横浜市に生まれる。1989(平成元)年、学習院大学文学部哲学科に入学。93年、学習院大学大学院人文学研究科哲学専攻博士前期課程(指導教官 小林忠教授)に進み95年に修了。その後、学習院大学研究生、共立女子大学家政学部科目等履修生となり、日本染織史などを学ぶ。この間、93年より96年まで東京国立博物館学芸部工芸課染織室に事務補佐員として勤務。長崎巌(現共立女子大学教授)の指導を受け、主に能装束を研究。併せて、実践的な作品の扱いを体得する。97年「摺匹田の発生と流行に関する一考察」(『日本風俗史学会会誌』35号)を発表。98年泉屋博古館分館開設準備室に勤務。建物、収蔵庫などの設計・設備の打ち合わせに勤しむ。2002年の開館以降、工芸担当として活躍し多くの展覧会を手掛ける。主なものに「特別展 共立女子大学コレクション 華麗なる装いの世界 江戸・明治・大正」(2005年)、「特別展 金箔のあやなす彩りとロマン 人間国宝 江里佐代子・截金の世界」(2005年)、「大名から公爵へ―鍋島家の華―」(2007年)「近代工芸の華 明治の七宝―世界を魅了した技と美―」(2008年)、「板谷波山をめぐる近代陶磁」(2009年)などがあげられる。一方、国内外において調査、研究も精力的に行い、「翻刻『御茶會記』(上)・(下)」を『泉屋博古館紀要』第19巻・20巻(2003年、2004年)に発表。04年から2年間にわたり『茶道の研究』三徳庵、名品シリーズを担当。05年、「黒綸子地蝶捻花模樣小袖」(『國華』(特輯寛文小袖)110巻9号、掲載通号1314)を発表。06年「風景をまとう」(『『KIMONO』小袖にみる華 デザインの世界』展図録)を執筆。09年には「東京瓢池園小史」(『幻の京焼 京都瓢池園』展図録)を執筆。同年より服飾文化共同拠点において共同研究「三井家伝来小袖服飾類に関する服飾文化史的研究:現存遺品と円山派衣裳下絵との関係を中心に」(植木淑子、長崎巌、福田博美、両☆かほる、菊池理予)を開始。これらの成果は『服飾文化共同研究最終報告書』(文化ファッション研究機構、2011年)にまとめられている。10年、「泉屋博古館創立50周年記念 住友コレクションの茶道具」展開催に向け、自宅にてカタログ編集、展示配置予定図などの作業を進める。このカタログが遺著となる。教育面では、非常勤講師として実践女子大学では博物館実習を、共立女子大学では博物館各論と博物館実習を担当していた。泉屋博古館分館の川口直宜館長による「追悼・両角かほるさん」(『泉屋博古館紀要』第27巻、2011年)には、生前の活躍の様子や人となりがまとめられている。

今泉省彦

没年月日:2010/07/13

 画家、評論家だった今泉省彦は、7月13日死去した。享年78。1931(昭和6)年11月30日、埼玉県所沢に生まれる。父は陸軍少尉で、今泉は幼少期を満州(現、中国東北部)で過ごす体験もした。18歳のころ、友人から白樺派やセザンヌを知り、美術に傾倒していき、春陽会に出品するも落選。50年日本大学芸術学部美術科に入学、ほとんど通わず美術館などで過ごし、左翼美術運動に関わる。61年には全電通労働組合分会執行委員を務める。68年、現代思潮社の川仁宏より絵の学校の企画を持ち込まれ、翌年「美学校」(千代田区神田神保町2―20 第2富士ビル3階)の開校に参加、日本電信電話公社を辞職し、現代思潮社美学校事務局長となる。これが美術界で今泉の名を知らしめるものとなる。教育者というと今泉は反論しただろうが、反美術大学的な「芸術作品と作家のありざまを本来的に捉えかえす機関」「表現を練磨し表現未生の闇へ果敢に肉迫する真の工房」として、特異な画塾とでもいうべき美学校、酒が絶えないその空間において彼は中心的な役割を担い、カリキュラムを編成した。75年に現代思潮社から分離、学校の経営は多難だったが、2000(平成12)年まで校長を務めた。画家として個展こそは少ないが、カットや装幀もよくし、その軽妙な画風から赤瀬川原平は今泉を「永遠のデッサン家」といった。評論活動は1953年から同人誌に執筆、『作品・批評』、『形象』などに、岸田劉生、関根正二、長谷川利行、ケーテ・コルビッツらを取り上げ、また60年代以降の美術情況、前衛美術界やハイレッドセンターなどを『日本読書新聞』、『美術手帖』などで論じた。復刊『機關』11号で「今泉省彦特集」が組まれている。『彷書月刊』98年3月号は「特集・美学校の30年」。 著書 『ビッグ・パレード』(赤組、1983年)

中野政樹

没年月日:2010/06/04

 金属工芸史の研究者である中野政樹は6月4日、肝不全のため順天堂病院に入院中死去した。享年80。1929(昭和4)年8月13日、鍛金作家である父中野恵祥、母ろくの長男として、東京都荒川区西日暮里に生まれる。49年、東京美術学校に入学、工芸科に進み漆芸を専攻し、52年同校を卒業する。卒業制作は卵殻フクロウ文八角箱である(中野家所蔵)。卒業と同時に東京国立博物館学芸部に文部技官として採用され、この時点から金工史の研究を始める。67年、金工室長、77年企画課長を歴任し、81年、東京藝術大学芸術学部芸術学科教授に転任する。大学では日本工芸史、日本金工史を中心に講義、演習を行う。88年から1991(平成3)年まで芸術資料館(後に大学美術館となる)館長となる。96年、同大学を退官、名誉教授を授与される。97年、ふくやま美術館館長に就任、没する直前まで館長を務めた。また同年から2003年まで文化女子大学教授を務めた。専門とした日本金工史のなかでも奈良時代の鏡鑑、仏教用具に造詣が深く、「奈良時代の鏡 本館保管の唐式鏡」1~9(『MUSEUM』東京国立博物館 1962年~1964年)、「奈良時代における唐式鏡の基礎資料」(『東京国立博物館紀要』8 東京国立博物館 1973年)はじめ多くの論文を発表した。とくに「奈良時代における唐式鏡の基礎資料」は発表された時点での日本出土、伝世の鏡を網羅し、文様ごとに系統立て、踏返しなどについて考察したもので、古代鏡鑑研究の基礎的文献となっている。また仏教用具では法隆寺献納宝物を対象として、金銅灌頂幡、竜首水瓶などを研究し、「金銅灌頂小幡」(『MUSEUM』72 1957年)、「金銅透彫灌頂幡」(『国華』928 1970年)、「金銅透彫灌頂幡の規矩性と尺度」(『MUSEUM』282 1974年)、『国宝金銅透彫灌頂幡』(大塚巧芸社インターナショナル、2000年)、「龍首水瓶」(『MUSEUM』457 1989年)を発表した。また、1970年から1972年まで正倉院宝物の調査を宮内庁から委嘱された。その成果は『正倉院の金工』(日本経済新聞社、1976年)で公表され、宝物の金工関係の論文としては「正倉院宝物の匙・加盤碗」がある。奈良時代の以降では、日本の鏡、鏡像についても研究し、『和鏡』(至文堂、1969年)、『和鏡』(フジアート出版、1973年)、『鏡像』(東京国立博物館、1974年)を刊行している。

大野一雄

没年月日:2010/06/01

 舞踏家の大野一雄は6月1日、呼吸不全のため横浜市内の病院で死去した。享年103。1906(明治39)年10月27日、北海道函館区弁天町(現、函館市弁天町)に生まれる。生家は北洋漁業の網元で、母は弾琴に長じ、西洋音楽を好んだ。10人兄弟の長男。1919(大正8)年旧制函館中学校に入学、翌年母方の秋田県の親戚に預けられ、県立大館中学校に編入。在学中は陸上部に所属、中距離競争の選手であった。25年同校を卒業。卒業後函館近村の泉沢尋常高等小学校の代用教員を1年間務めたのち、26年日本体育会体操学校(現、日本体育大学)に入学、同年から1年4か月の兵役を経て復学。1929(昭和4)年帝国劇場でスペインの舞踊家ラ・アルヘンチーナの来日公演を観て、深い感銘を受ける。同年日本体育体操学校を卒業、横浜の関東学院中学部に体育教師として赴任。33年横浜の捜真女子学校勤務の準備のため、石井獏に1年間入門、モダンダンスをはじめる。36年江口隆哉、宮操子の研究所に入門。38年召集を受け、華北、ニューギニアを転戦。終戦後、46年復員、江口・宮舞踊研究所に復帰、48年まで所属。49年大野一雄現代舞踊第1回公演を神田共立講堂にて開催。1950年代半ばに土方巽と出会い、よき協力者として彼の代表作「あんま」「バラ色ダンス」などに出演。暗黒舞踏派での共演などを通じ、西洋の影響を強く受けたモダンダンスから、日本人の内面的な問題を扱う身体表現へ転換、「舞踏(BUTOH)」として知られるスタイルを展開していく。1960年代終わりから映画作家長野千秋による舞踏映画製作に没頭、約10年間ソロでの公演から遠ざかる。76年画家中西夏之個展で観た絵画により29年に帝国劇場で観たアルヘンチーナの舞台の感動がよみがえり、これをきっかけに復帰を決意。77年「ラ・アルヘンチーナ頌」を土方巽の演出で初演、翌年第9回(77年度)舞踊批評家協会賞受賞。80年フランスの第14回ナンシー国際演劇祭で初めて海外の舞台に立つ。西洋のダンス界に衝撃を与え、世界的な舞踏ブームを作る端緒となる。以後ヨーロッパ、北米、中南米、アジア各国でも精力的に公演を行うとともに、横浜にある自身の稽古場に、舞踏を学ぶ研究生を世界中から受け入れた。93年神奈川文化賞受賞。98年日本デザイン賞、横浜文化賞受賞。99年イタリアで第1回ミケランジェロ・アントニオーニ賞受賞。2000年左臀部下内出血を患い歩行が困難になってからも、座ったまま手の動きのみで表現を行う新たな境地を開き、07年まで舞台に出続けた。01年第3回織部賞グランプリ受賞。02年朝日舞台芸術賞特別賞受賞。04年から大野一雄舞踏研究所とBankART1929の主催で毎年「Kazuo Ohno Festival」が開かれる。代表作に「わたしのお母さん」(1981年)、「死海ウインナーワルツと幽霊」(1985年)、「睡蓮」(1987年)などがある。著書に『大野一雄舞踏のことば〈御殿、空を飛ぶ。〉』限定版(思潮社、1989年)、聞き書きに『わたしの舞踏の命』(矢立出版、1992年)、『大野一雄稽古の言葉』(フィルムアート社、1997年)、『Kazuo Ohno’s world』(Wesleyan University Press、2004年)など、映像資料に『大野一雄 美と力』(NHKソフトウェア、2001年)、『大野一雄御殿、空を飛ぶ。』(クエスト、2007年)など多数。また石内都『1906 to the Skin』(河出書房新社、1994年)、細江英公『人間写真集胡蝶の夢舞踏家・大野一雄』(青幻舎、2006年)など、多くの芸術家が大野をモデルとした作品を制作した。岡山県牛窓国際芸術祭(1988年)、曽我蕭白展関連イベント「大野一雄、蕭白を舞う」(千葉市美術館、1998年)、大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレプレイベント「中川幸夫花狂い」(2002年)など美術関係のイベントにも参加。また大野一雄舞踏研究所により積極的にアーカイブ収集・整理が進められ、02年にイタリアのボローニャ大学大野一雄資料室、03年に愛知芸術文化センター大野一雄ビデオライブラリーが開設した。

針生一郎

没年月日:2010/05/26

 評論家の針生一郎は5月26日、川崎市市内の病院で急性心不全のため死去した。享年84。1925(大正14)年12月1日、宮城県仙台市に生まれる。生家は味噌醤油屋を営んでいた。「学生時代は軍国青年であった」と本人は語り、保田与重郎などの著作に傾倒し、1948(昭和23)年東北大学文学部卒業(卒論は島崎藤村)。49年東京大学美学科特別研究生(旧制の大学院制度、54年修了)。48年頃から、花田清輝、野間宏らの「夜の会」、安部公房らの「世紀の会」、雑誌『世代』の同人に、50年からは岡本太郎らの「アヴァンギャルド芸術研究会」などに参加することで、読書会や現場を主体とした在野の視点を築き、学者でなく批評家の道を歩む方向を見出す。だが、一方では52年美学会の創立に参加、学会誌『美学』の編集に携わる。53年には日本共産党に入党し(61年除名)、日本文学学校に職を得る。また、ルカーチの著作にふれ文学・哲学関連の執筆活動をはじめており、53年に新日本文学会へ入会する。同会は針生が一番長く所属した会であり、『新日本文学』の編集委員や議長を歴任した。さらに同年『美術批評』誌への執筆が、現代美術評論家の出発となった。針生の評論活動の時代は、戦後民主主義の始動、60年・70年安保といった政治的な激動期であった。自身、50年代の基地闘争をはじめ三井三池炭抗闘争へ参加、「政治と芸術」をテーマに、現代芸術と大衆(または生活者)をめぐるダイナミクスを論じることを常としていた。69年から刊行された全6巻の評論集は、戦後の芸術運動を捉え、「大衆のなかから形なき前衛」を望む姿勢を発するものである。対外的には、67年のヴェネチア・ビエンナーレ、77年と79年のサンパウロ・ビエンナーレのコミッショナーをはじめ、アジア・アフリカ作家会議の委員を務めるなど、パレスチナをはじめとする第三世界、国交樹立前の中国や南北朝鮮との文化交流に積極的に参加した。67年からのヨーゼフ・ボイスとの交流は「運動としての芸術」への思いを強くしたという。70年代半ばからは「〈前衛〉の理念の崩壊とともに、個々の作家の仕事を同時代人に正確にうけとらせる作家論に力をそそぎ」(引用「自筆年譜」『機關』17号針生一郎特集より)、今井俊満、岡本太郎、香月泰男、桂ゆきなど多くの美術家の展覧会図録や作品集へ寄稿した。80年代から、「退役批評家」と自嘲的に語り、「原稿執筆は喫茶店の梯子」もしなくなったと語っていた。1999(平成11)年に肺がんを発症、入院し抗がん剤で治療をするも、愛用のタバコ「わかば」は離さなかった。2000年の光州ビエンナーレでは「芸術と人権」の特別展示のキュレーター、02年にはアートスポット「芸術キャバレー」の設立に加わった。評論、講演活動を死の直前まで体に鞭打ち行なった「生涯現役の行動する評論家」といえよう。ドキュメンタリー映画に『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』(大浦信行監督、2001年)、出演映画に『17歳の風景―少年は何を見たのか』(若松孝二監督、2005年)がある。1968年から73年まで多摩美術大学教授、74年から96年まで和光大学教授、98年から2000年まで岡山県立大学大学院教授を歴任。また金津創作の森館長、原爆の図丸木美術館館長、美術評論家連盟会長を務めた。 主な著書 『ゴーガン』 『レジェ』(みすず書房・美術ライブラリー、1958年、1959年) 『芸術の前衛』(弘文堂現代芸術論叢書、1961年) 『われらのなかのコンミューン 現代芸術と大衆』(晶文社、1963年) 『現代美術のカルテ』(現代書房、1965年) 『針生一郎評論』(全6巻、田畑書店、1969-70年) 『文化革命の方へ 芸術論集』(朝日新聞社、1973年) 『現代の絵画 別巻今日の日本の絵画』(平凡社、1975年) 『戦後美術盛衰史』(東書選書 1979年) 『言葉と言葉ならざるもの』(三一書房、1982年) 『わが愛憎の画家たち』(平凡社選書、1988年) 『修羅の画家 評伝安部合成』(岩波同時代ライブラリー41、1990年) 主な訳書 『リアリズム芸術の基礎』(ルカーチ著、未來社、1954年) 『バルザックとフランス・リアリズム』(ルカーチ著、男沢淳と共訳、岩波書店現代叢書、1955年) 『ダダ 芸術と反芸術』(H・リヒター著、美術出版社、1966年) 『シュルレアリスム』(ベンヤミン著作集8、野村修と共訳、晶文社、1981年) 『ジョン・ハートフィールド フォトモンタージュとその時代』(H・ヘルツフェルド著、水声社、2005年) 主な編著 『現代絵画への招待』(南北社、1960年) 『現代美術と伝統』(合同出版社、1966年) 『われわれにとって万博とはなにか』(田畑書店、1969年) 『現代の美術Art Now 第10巻記号とイメージ』(講談社、1971年)

小松茂美

没年月日:2010/05/21

 古筆学研究者の小松茂美は5月21日午後0時53分、心不全のため死去した。享年85。古筆学は、書道史、歴史学、国文学、絵画史を超越する、学際的な新たな学問である。小松はその樹立に、凄まじい情熱を注ぎ、人生のすべてを捧げた。1925(大正14)年3月30日、山口県三田尻(現、防府市)に生まれる。旧制中学を卒業後、広島鉄道局に勤務した。1945(昭和20)年8月6日爆心地から1.8キロメートルという勤務先において被爆した。生死の境界をさまよう病床で、厳島神社の秘宝「平家納経」(国宝、全33巻)を視察中の文化人が披見という記事を読んだ。これを契機に、ひとりの国鉄職員が180度違う学問に目覚めた。学究生活を推し進めるため上京を企図し、運輸省に転勤した。幾多の苦難を乗り越え、53年、待望の東京国立博物館の研究員となる。以降、『後撰和歌集 校本と研究』(誠信書房、1961年)、『校本浜松中納言物語』(二玄社、1964年)と、水を得た魚の如く業績を積み、わずか34歳にして文学博士、『光悦』(共著、第一法規出版、1964年)により毎日出版文化賞特別賞、『平安朝伝来の白氏文集と三蹟の研究』(墨水書房、1965年)で学士院賞、ついには念願の『平家納経の研究』(講談社、1976年)を完成して朝日賞を受賞した。また、従来、絵巻は絵画史からの研究のみであったが、詞書にもスポットをあて古筆学の手法を取り入れて研究する。小松の編集になる『日本絵巻大成』(全27冊、中央公論社、1977~79年)、『続日本絵巻大成』(全20冊、同、1981~85年)、『続々日本絵巻大成』(全8冊、同、1993~95年)は、オールカラーで全巻掲載という画期的な出版であった。いまなお、絵巻の鑑賞、研究の決定版である。さらに、筆者を明らかにする書跡を可能なかぎり所収した小松茂美編『日本書蹟大鑑』(全25冊、講談社、1978~80年)は、書跡や歴史研究の基本台帳として研究者や愛好家に常用されている。また、公私立の博物館・美術館、個人のコレクター所蔵の平安時代から鎌倉時代にかけての歌切や歌論書などの古筆を集大成した『古筆学大成』(全30巻、講談社、1989~93年)は、通常の個人研究の枠では計り知れないもので、小松の公私の人脈を駆使して成し遂げることが出来た空前絶後の偉業である。今日でも、古筆研究に際しては、まず『古筆学大成』所収の有無を確認することからはじめなければならないというほどで、国文学、書道史研究の必須文献の一つである。また、後進の育成にも励み、東京教育大学・東北大学・早稲田大学などの講師も勤めた。86年に東京国立博物館を定年で退職すると、古筆学研究所を設立し、『水茎』などの学術雑誌を発行するほか古筆学の普及に尽力した。1990(平成2)年には、センチュリーミュージアム館長に就任し、以後没するまで古筆学の視点での展示に努めた。98年に、山口県柳井市の名誉市民に選ばれた。この間に上梓した『光悦書状Ⅰ』(二玄社、1980年)、『利休の手紙』(小学館、1985年)は古筆学を駆使した研究で、従来の数寄者的な本阿弥光悦、千利休研究にとどまらず、筆跡研究はもとより、両者の交友人物まで解き明かした名著である。ほかに、古筆、写経、手紙、宸翰などに関する多くの編著があり、研究者だけでなく、多くの人々への啓蒙活動も注目される。こうした著述の主な論文は全33巻にも及ぶ『小松茂美著作集』(旺文社、1995~2001年)に収録されている。ことに晩年の10年は、骨身を削って後白河院の研究に没頭した。文字どおりの古筆学の集大成と意気込み、公卿日記の資料の海から、膨大な記事の抄出と整理を終えていた。研究編を執筆中の逝去であったが、その成果は、2012年5月、『後白河法皇日録』(小松茂美編著 前田多美子補訂、学藝書院)としてまとめられた。今後の後白河研究のみならず、同時代のすべての研究の基盤となる大著である。

荒川修作

没年月日:2010/05/19

 美術家の荒川修作は5月19日、ニューヨークの病院で死去した。享年73。1936(昭和11)年7月6日、名古屋市瑞穂区雁道町に生まれる。51年、愛知県立旭ヶ丘高校(旧制愛知一中)美術課程に入学。同級生に美術家赤瀬川原平、一学年上に彫刻家石黒鏘二がいた。56年、武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)に入学(のちに中退)。57年、第9回読売アンデパンダン展に初出品(以降、61年まで出品をつづける)。翌年の同展に出品された「人間―砂の器B」が瀧口修造に注目され、知遇を得る。60年、吉村益信、篠原有司男、赤瀬川原平、風倉匠、有吉新、石橋清治、上田純、上野紀三、豊島壮六とともに、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成し、4月、7月、9月にネオ・ダダ展を開催。しかし、同9月に初の個展「もうひとつの墓場」(村松画廊、東京)を開いたことで、グループの規律を乱したとして批判され、グループを離れる。61年、江原順の企画により2回目の個展を夢土画廊(東京)で開催。同12月、単身、ニューヨークへ渡る。62年、マドリン・ギンズと出会い、以降共同で作品を制作する。63年のシュメラ画廊(デュッセルドルフ)以降、欧米各地で個展を開催。また、後に「意味のメカニズム」として実現されるプロジェクトを開始。このころには、「棺桶」シリーズと呼ばれる箱状の作品から、ダイアグラム絵画と呼ばれる言葉や記号などを組み合わせた作品へと制作の重点が移る。65年、南画廊(東京)で開催した個展で渡米後の作品を初めてまとまったかたちで展示。66年、第7回現代日本美術展(東京都美術館ほか)に「作品―窓辺」を出品し、大原美術館賞。67年、第9回日本国際美術展(東京都美術館ほか)に「Alphabet Skin No.3」を出品し、東京国立近代美術館賞。68年、第8回現代日本美術展(東京都美術館ほか)に「作品」を出品し、最優秀賞。このころ、ニューヨーク、ウェスト・ハウストン通りのビルに転居。70年、第35回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館(コミッショナー・東野芳明)に「意味のメカニズム」シリーズを出品。71年、マドリン・ギンズとの共著『意味のメカニズム』をドイツ語で出版。72年、ドイツ政府の奨学金で西ベルリンに約8か月滞在し、ヴェルナー・ハイゼンベルクをはじめとする多くの物理学者・生物学者と交友を結ぶ。同年、「意味のメカニズム」展がドイツ各地を巡回。77年、デュッセルドルフを皮切りに、ヨーロッパ各都市を巡回する大規模な個展を開催し、その評価を確立する。79年、ヨーロッパでの巡回展に準ずる規模の個展を国内で初めて開く(西武美術館)。同年には、「意味のメカニズム」(国立国際美術館)、「荒川修作全版画展」(兵庫県立近代美術館)など国内での大きな個展が相次ぎ、『意味のメカニズム』第二版(英語、日本語、フランス語)も刊行。86年、「前衛芸術の日本」(ポンピドゥー・センター、パリ)に出品。87年、マドリン・ギンズとともに、Containers of Mind Foundation(現、Architectural Body Research Foundation)を設立。1991(平成3)年、国内での大規模な回顧展「荒川修作の実験展―見るものが作られる場」(東京国立近代美術館ほか)が開かれ、日本の観客に荒川の全貌を知らしめる機会となった。94年、磯崎新設計による奈義町現代美術館に常設作品「偏在の場・奈義の竜安寺・心」(現、「偏在の場・奈義の竜安寺・建築する身体」)が完成。斜めに傾いた円筒状のギャラリーの内壁に、竜安寺の石庭を配置するというものだった。この作品にみられるように、晩年の荒川は、鑑賞者の身体感覚に訴える建築的作品へと傾倒していった。翌年には、大規模な野外施設としての作品「養老天命反転地」が竣工。すり鉢状の地形に様々なパビリオンが点在し、それらが遠近感や平衡感覚を狂わせることで、日常生活においては無自覚な身体感覚を再認知させる。97年、グッゲンハイム美術館(ニューヨーク)で日本人として初めてとなる個展「宿命反転―死なないために」を開催。2002年、『建築する身体』(英語版)を出版。このころから、「芸術、哲学、科学の総合に向かい、その実践を推し進める創造家」としてのコーデノロジストを名乗り始める。05年、「三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller」、08年、「バイオスクリーヴ・ハウス」(ニューヨーク)が完成。これらの作品は様々な分野の研究者の関心を惹き、05年に第1回アラカワ+ギンズ国際会議(パリ第10大学)が開かれる。その後も、08年に第2回(ペンシルベニア)、10年に第3回(on line)が開かれた。10年、初期の「棺桶」シリーズを集めた「死なないための葬送―荒川修作初期作品展」(国立国際美術館)が生前最後の個展となった。主な受賞歴として、1986年、芸術文化勲章(シュヴァリエ)受章、88年、ベルギー批評家賞、96年、第28回日本芸術大賞、2003年、日本文化芸術振興賞および紫綬褒章、10年、旭日小綬章など。

岩崎巴人

没年月日:2010/05/09

 日本画家の岩崎巴人は5月9日、千葉県館山市にて間質性肺炎のため死去した。享年92。1917(大正6)年11月12日、東京都新宿区に生まれる。本名彌寿彦。1931(昭和6)年川端画学校夜間部に入学、日本画を専攻する。34年玉村方久斗が主宰するホクト社第5回展に「少女」「風景」を出品。37年第9回青龍社展に岩崎巴生の名で「海」が初入選。翌年小林古径の門に入り、38年第25回院展に「芝」が入選、横山大観から高い評価を得る。42年に出征、復員後の47年に再び院展に入選し、院友となるが50年に脱退。一方で新興美術院の再興に参加、会員となり、以後同展に「情熱の終末」(1952年第2回)等を出品。58年谷口山郷、長崎莫人らと日本表現派を結成、68年に脱退するまで出品を続ける。この他、現代日本美術展、日本国際美術展、「これが日本画だ」展等にも出品。71年インド、スリランカへ旅行し、以後、仏伝画や仏教的テーマの作品を制作するようになる。77年には禅林寺で出家、得度し、その後も異色の画僧として活躍。南画的フォーヴの画風を展開し、「河童屏風」(1979年)、「降魔成道」(1983年)等飄逸さを加えた作品を発表する。70年上野の森美術館で岩崎巴人大作展、84年高岡市立美術館で岩崎巴人展、86年には青梅市立美術館、87年には奈良県立美術館で回顧展が開かれた。87年から翌年にかけてNHK趣味講座「水墨画入門」の講師を務める。著書に『芸術新潮』や『三彩』等に掲載のエッセイを集めた『蛸壺談義』(神無書房、1978年)。没後の2012(平成24)年には富山県水墨美術館で追悼展が開催されている。

藤井秀樹

没年月日:2010/05/03

 写真家の藤井秀樹は5月3日、肝臓がんのため八王子市内の病院で死去した。享年75。1934(昭和9)年8月28日東京に生まれる。本名秀喜。子供の頃からカメラに親しみ、高校在学中の52年に映画館の火災を撮影した写真が新聞紙面に掲載され、同年サン写真新聞優秀報道写真賞を受賞した。こうした経験から写真家を志し、54年日本大学芸術学部写真学科に入学。学業と並行して、秋山庄太郎に師事、助手を務める。57年婦人生活社に入社、ファッション誌『服装』の専属として、さまざまな撮影を担当。60年日本デザインセンターに移り、広告写真を担当、自動車会社の広告のために日本で初めて本格的な自動車のスタジオ撮影にとりくむなど、新しい広告写真表現で注目された。63年に同社を辞し、フリーランスとなり、65年スタジオ・エフ設立。同年、丘ひろみをモデルに起用したマックスファクター社の広告写真によりスペイン新聞広告賞金賞を受賞、以降8年にわたって手がけた同社の広告により評価を確立する。75年に国際写真雑誌『Zoom』29号で特集されるなど、その作品は海外でも評価が高く、生涯にわたって広告写真の一線で活動を続けた。また女優のポートレイトも多く手掛け、それらをまとめた『藤井秀樹女優作品集』(竹書房、1994年)が出版されている。全身に化粧を施したモデルを被写体に日本の伝統美を表現した、メークアップアーティスト小林照子との共同作業による「からだ化粧」の連作は、81年の展覧会(オリンパスギャラリー、東京・新宿)での発表以降、ライフワークの一つとなった。84年に出版された写真集『からだ化粧』(日本芸術出版社)などにより85年第35回日本写真協会賞年度賞を受賞。また80年代半ばからは感光乳剤を布や石などさまざまな素材に塗布して支持体とする印画技法を試み、独自に「フジイグラフィ(Fグラ)」と呼んで作品制作にとりくんだ。90年代後半からは小児病院の設立などカンボジアの児童支援に尽力するとともに、たびたび同国を訪問し子供たちのくらしを撮影、2004年には『カンボジアと子どもたちの戦後』(丹精社)を上梓している。83年日本写真芸術専門学校に講師として招聘され、以後同校で教鞭を執り、02年から校長を務めた。また02年から04年まで社団法人日本広告写真家協会会長を務めた。

芝田耕

没年月日:2010/04/30

 洋画家の柴田耕は4月30日午前0時55分、肺炎のため京都市北区の病院で死去した。享年91。1918(大正7)年11月23日、京都市上京区笹屋町に生まれる。1934(昭和9)年、旧制京都市立第二工業学校(現、京都市立伏見工業高等学校)建築科を卒業。41年以降、須田国太郎に師事。45年、須田が指導に当たっていた西陣の独立美術協会京都研究所に入所する。京都市展に出品し、市長賞・京展賞受賞。47年第15回独立美術協会展に「町」で初入選。54年第22回独立展に「夏木立」「卓上静物」を出品して独立賞を受賞し、翌年同会准会員に推挙される。59年、同会会員となる。60年京都学芸大学講師となる。68年、京都精華大学美術学部教授となる。1960年代は対象の再現描写をはなれ、やや幾何学的に形体にとらえ直して画面上に配置する詩情ある風景画を多く描いたが、1970年代半ばに、やや俯瞰した視点からとらえた西洋風景に、唐突に前景として椅子やテーブルなどの静物を描きこんだ作風へと転じた。87年第55回独立展に「或る光景」を出品して文化庁買い上げとなる。同作品も遠景に家屋を描き、画中画として静物画を描きこんだ構成となっており、自然主義的遠近表現と空間表現から離れた静謐な虚構空間を表している。88年京都府文化賞功労賞を受賞。1989(平成元)年、京都府文化功労者に選出される。94年独立美術協会会員功労賞を受賞。98年京都美術文化賞を受賞。99年には同賞受賞記念展が京都府京都文化博物館で開催された。京都教育大学で1970年まで、京都工芸繊維大学工芸学部で1985年まで講師を務めた。独立美術展30周年記念の際の『独立美術』(同協会、1962年)に「地方の地についた生活から」と題する一文を寄せ、「先ず自らの生活、生き方、考え方が先決のはずではありませんか」「地方の地についた生活から生れる絵画をいよいよ尊重してゆきたい」と述べているように、郷里である京都で制作を続け、内省的で静謐な画風を築いた。独立美術協会展出品略歴:第15回展(1947年)「町」(初入選)、20回(1952年)「樹間初秋」、25回(1957年)「出土」「古世人」、30回(1962年)「湖岸」、35回(1967年)「樹のある街」、40回(1972年)「オリーブと街」、45回(1978年)「北欧の街」、50回(1982年)「森の街」、55回(1987年)「或る光景(山脈)」、60回(1992年)「或る光景1992」、65回(1997年)「画室卓上」、70回(2002年)「ものを描く」、75回(2007年)「画室卓」、77回(2009年)「或る日の画室」(同展最終出品)

三栖右嗣

没年月日:2010/04/18

 安井賞受賞作家で、陰影の深い写実表現を追求した洋画家の三栖右嗣は、4月18日に心不全のため埼玉県嵐山町で死去した。享年82。1927(昭和2)年4月25日、父三栖秀治、母千里の次男として、神奈川県厚木市に生まれる。本名三栖英二。44年埼玉県北足立郡新倉(現、和光市)に転居。翌年、東京美術学校油画科に入学、安井曽太郎の教室に学ぶ。52年、新制大学となった東京藝術大学美術学部油絵科を卒業。55年、一水会に「室内」が初入選。以後、59年まで同会に出品する。また、制作の傍ら映画会社の大映広告宣伝部に入る。60年から70年まで、現代芸術への懐疑と自身の創作に対する模索から作品の発表を停止した。72年、ヨーロッパとアメリカを旅行、旅行中のアメリカでアンドリュー・ワイエスを自邸(フィラデルフィア郊外)に訪ねた。以後、ワイエスの自然の一角をリアルに切り取りとりながら、乾いた叙情性をにじませた表現に強い影響を受けるようになり、そこに写実表現の可能性を見いだした。75年、沖縄海洋博覧会の「海を描く現代絵画コンクール」に海に生きる三代にわたる家族像をテーマにした「海の家族」を出品、大賞を受賞。翌年、第19回安井賞展に実母をモデルにした「老いる」出品、同賞を受賞。受賞作は、老いた人間の肉体を冷静に克明に描きだすことによって、肉親に対する情愛と生命に対する敬虔な念が凝縮された表現となっていた。この時期における連続受賞と、集中力を要する堅牢な写実表現によって、日本の美術界において一躍注目されるようになった。78年、取材のためにスペインを旅行し、翌年にはマドリッドで個展を開催。これを契機に、透明感のある光と陰影に富んだ写実表現は、いっそうこの画家のスタイルとして築かれていった。また、静物、風景、人物等にわたり、画家の言葉である「いのち」をテーマとするようになり、厳然たる自然の姿に対して敬虔な姿勢と賛歌を画面に表わすことにつとめた。晩年にあたる500号の大作「爛漫」(1996年)は、画面に一面に咲きほこる枝垂桜を描きながら、この画家ならではの自然から得た生命そのものの表現となっている。81年、『林檎のある風景』を刊行、同年碇谷尚子と結婚。82年、埼玉県比企郡玉川村(現、ときがわ町)に転居、ほぼ毎年各地で個展を開催しながら、この地で生涯を終えるまで制作を続けた。画家の没後の2012(平成24)年4月、埼玉県川越市氷川町にヤオコー川越美術館・三栖右嗣記念館(伊東豊雄設計)が開館した。

毛利武彦

没年月日:2010/04/13

 日本画家で創画会会員、武蔵野美術大学名誉教授の毛利武彦は4月13日、肺炎のため死去した。享年89。1920(大正9)年8月25日、東京市荒川区日暮里に生まれる。父の教武は高村光雲門下の彫刻家。1935(昭和10)年、父の友人である川崎小虎に師事。38年東京美術学校日本画科入学、42年同校を繰上げ卒業となり徴兵され、45年台湾の山中で終戦を迎える。翌年復員し、家族が日本画家森村宜永宅に仮寓していた関係で、宜永より大和絵の技法を学ぶ。49年にかねてより敬愛していた山本丘人宅を突然訪ね、以後丘人に師事する。50年創造美術春季展に「風景」が入選。創造美術が新制作派協会と合流し新制作協会が設立された後は、新制作展日本画部に出品。55年第19回展、61年第25回展、62年第26回展で新作家賞を得、64年新制作協会会員となる。74年に新制作協会日本画部全員が同協会を退会し、創画会を結成した後は創画展に出品を続けた。クレーの作風を取り込んだ50年代の風景からビュッフェやミノーの影響を受けた骨太な表現を経て、70年代の馬シリーズや80年代のキリスト教に題材をとった作品などで自らの絵画世界を構築。重厚な構成と筆致により精神性を秘めた作風を築いた。55年に山本丘人門下の研究・発表会である凡樹画社、74年には美術団体の枠を超えて組織された遊星会、85年の創画会主力メンバーによる地の会の結成に参加。制作の一方、48年から82年まで慶應義塾高等学校の美術科教諭を務め、また58年より武蔵野美術大学で教鞭をとるなど長年後進の指導にあたった。1989(平成元)年武蔵野美術大学図書館において作品展を開催。91年同大学を定年退職、名誉教授となる。同年『毛利武彦画集』を求龍堂より刊行。没して間もない2010年夏には「毛利武彦の軌跡展」が練馬区立美術館で開催、翌年の一周忌には『幻駿忌 毛利武彦随想集』が刊行された。

山﨑一雄

没年月日:2010/04/10

 学士院会員で名古屋大学名誉教授、無機化学者で文化財科学研究者の山﨑一雄は心不全のため4月10日に死去した。享年99。1911(明治44)年3月15日に名古屋で生まれ、1930(昭和5)年に旧制大阪高等学校を卒業した後、東京帝国大学理学部化学科に進み、後に日本学士院長となる柴田雄次教授の下で研究を行う。33年に卒業し、2年間大学院に進んだ後、35年に副手、翌36年から41年まで助手をつとめた。この間に39年に設置された法隆寺金堂壁画保存調査会に、委員である柴田と共に調査員として参加し、壁画の顔料分析を行った。これを始まりとして、以後、文化財の顔料分析に係わるようになる。またこの頃に、当時東京帝国大学文学部の学生として平等院鳳凰堂壁扉画を研究していた秋山光和と知り合い、互いに協力して研究を行うようになった。山﨑は新設された名古屋大学理工学部に41年に助教授として赴任した。翌42年には東京帝国大学を定年退官した柴田が理工学部から新しくできた理学部の学部長として赴任した。43年に理学部教授となる。大学では専門である無機化学(錯体化学)の研究を行うと同時に、法隆寺金堂壁画の顔料分析を続け、名古屋に移って奈良が近くなったこともあり、戦中から戦後までの交通が困難な時代に合計すると百回近く、大半が私費で現地に通ったと対談の中で述べている(「先学訪問01」2005、学士会)。金堂壁画は49年1月26日に火災にあったが、山﨑はすぐに現場に駆けつけ火災後の調査に参加し、火災後の壁画顔料の分析を行った。その報告では、火災によって赤色の朱は分解して水銀は消失し、鉛丹は一酸化鉛になって黄色に変色したが、ベンガラは不変であったなどと生々しい被災の様子が述べられて、貴重な分析結果となっている。この頃に山﨑が利用していた分析方法はほとんどが微量定性分析で、その他に発光分光分析を用いていた。法隆寺金堂壁画の調査の後、山﨑は装飾古墳や平等院鳳凰堂、醍醐寺五重塔などの調査を行い、特に醍醐寺五重塔の共同研究(高田修編『醍醐寺五重塔の壁画』吉川弘文館、1959年)では、60年に高田修・柳澤孝などと共に日本学士院賞(恩賜賞)を受賞した。山﨑の広い時代に渡る顔料分析により、わが国では白色顔料として、初期に白土が用いられ、平安時代頃には鉛白を用い、室町時代頃からは胡粉が用いられるようになったというおおまかな変遷が明らかになった。山崎は戦後始まった正倉院の宝物調査においても調査員として活躍した。最初に関わった調査は薬物の調査で、その後の正倉院宝物特別調査では、密陀絵、絵画、ガラス、陶器、石材などの調査に参加した。中でも密陀絵の調査の際には、明治時代から漆絵か密陀絵か議論になっていた法隆寺の玉虫厨子を調査し、須弥座の捨身飼虎図に紫外線をあてたところ部分的に蛍光が見えたことから、一部に油を用いた密陀絵であろうと判断している。この当時の密陀絵の調査では、紫外線による蛍光の有無と色だけしか材料を判断する方法がなかったので、予想される各種の顔料を漆、荏油、膠などでといてあらかじめ各種の手板を作り、それに紫外線を当てて出てきた蛍光を調査対象と比較している。この実験結果は、その後も密陀絵かどうか判断する時の基礎資料となった。山﨑の研究は絵画だけでなく、陶器、ガラス、金属など広い分野に及び、それらの成果は87年に出版された『古文化財の科学』(思文閣出版)に詳しくまとめられている。74年に名古屋大学を定年退官して名誉教授となり、82年に勲二等瑞宝章を受章、88年に国際文化財保存学会(IIC)のフォーブス記念賞を受賞する。翌1989(平成元)年に、無機化学だけでなく文化財科学への貢献も評価されて、日本学士院会員に選定された。山﨑は優れた無機化学者としてわが国の文化財科学の成立と発展に大きく貢献しただけでなく、文化財科学に関する学会の発足や発展に力を尽くした。1948年には古文化資料自然科学研究会(現、一般社団法人文化財保存修復学会)の会員として、82年には日本文化財科学会の初代会長としてそれらの発足に関わり、国際文化財保存学会(IIC)では副会長として、文化財保存・修復に関わる国際学会大会をわが国で初めて88年9月に京都で開催するなど、広く国内外で文化財科学の発展に尽くした。また山﨑は若いときから会合などの細かいメモを丁寧に残していたので、多くの関係者が物故した後にも、確かな記憶とそれらのメモを元に学会誌などに文化財科学の黎明期について度々記し、それらの記事は文化財科学の始まりから発展の歴史を語る貴重な記録となっている。ほぼ百年にわたった山﨑の生涯は、その足跡そのものがわが国の文化財科学の歴史といえる。

小林章男

没年月日:2010/03/27

 屋根瓦の製作者であり、国の選定保存技術保持者であった小林章男は、膀胱癌のため奈良市の病院で3月27日死去した。享年88。1921(大正10)年12月7日、江戸時代文政年間からつづく瓦匠、屋号「瓦宇」(かわらう)の当主の長男として奈良県奈良市に生まれる。1938(昭和13)年、家業の瓦製造業に就き、以後数多くの国宝、重要文化財等に指定された建造物の屋根瓦の製造及び修理事業に携わる。81年、奈良県瓦葺高等職業訓練学校(奈良県天理市)校長に就任、88年まで務める。82年、「現代の名工」として労働大臣表彰を受ける。84年、株式会社瓦宇工業所代表取締役に就任。同年、「鬼瓦づくり」で第4回伝統文化ポーラ賞(ポーラ伝統文化振興財団)の特賞を受賞。88年、国宝「法隆寺五重塔」をはじめとして、本瓦葺の建造物の修理で捕捉される役瓦(巴瓦、鬼瓦、鯱、鴟尾等)の製作技術が高く評価され、「屋根瓦製作(鬼師)」として国の選定保存技術保持者に認定される。1991(平成3)年、瓦職人の集まりである「日本鬼師の会」の会長に就任(95年まで)。同年、日本伝統瓦技術保存会の設立にあたり会長となる(97年まで)。また勲六等瑞宝章を受章。2002年、株式会社瓦宇工業所の会長に就任。代表的な仕事としては、昭和の東大寺大仏殿の瓦葺替工事を棟梁として成し遂げた。ほかに古建築瓦葺替工事は、近畿、中国、四国を中心に全国に及んでいる。この間、古代、中世から近世にわたるまで、瓦の様式、製法等を、全国にわたる調査と製作という実践を通じて蓄積された経験、技術、知見は、建築史、歴史考古学等の学界に多大に寄与した。また、多くの著作を残しており、主要な著作は下記のとおりである。『対談・鬼瓦その他』(大蔵経済出版、1980年)、『鬼瓦』(大蔵経済出版、1981年)、中村光行共著『鬼・鬼瓦(INAX BOOKLET)』(INAX、1982年)、『生きている鬼瓦』(石州瓦販売協業組合、1985年)、『獅子口を探る』(小林章男、1995年)、山田脩二共著『瓦―歴史とデザイン』(淡交社、2001年)、日本鬼師の会、京都府大江町共編『鬼瓦(棟端飾瓦)造り 鬼瓦読本』(日本鬼師の会、2004年)。なお、『史迹と美術』(史迹美術同攷会)における連載「鬼瓦百選」(第1回は721号)は、生前に原稿がすべて準備されていたため、同誌820号(2011年12月)において100回をもって完結した。

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