本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





白田貞夫

没年月日:2017/08/12

読み:しろたさだお  シロタ画廊主の白田貞夫は8月12日、都内の聖路加国際病院で肺がんのため死去した。享年84。 1933(昭和8)年6月26日山形県生まれ。学業修了後、日産自動車に務める。もの書きを目指すうち、武蔵野美術大学油絵科卒業の英子夫人と知り合い、66年3月15日、中央区銀座3丁目5番15で開廊。版画は小さなスペースでも数多く扱えるため、版画を中心に扱うこととした。画廊のマークは具体のメンバーでもあった岡田博による。70年、常設展示のスペースを確保するため、銀座7丁目10番8に移転する。以後、国内外の作家が発表を行なってきた地下の空間は、版画家だけでなく、若手を含め多くの作家の寄りどころとなってきた。69年の福地靖の詩画集の刊行以来、2003(平成15)年までプロデュースした版画集は45集にのぼり、美術界に着実な軌跡を残してきた。画廊で発表をしてきた作家に、日和崎尊夫、中林忠良、司修、島州一、黒崎彰、柄沢齊、多賀新、坂東壮一、小林敬生、山中現、丹阿弥丹波子、李禹煥らがいる。特異なところでは現代美術家の加賀谷武の個展を定期的に行なっている。76年日本現代版画商組合が設立されると理事として活動、85年から91年まで同組合理事長を務め、その後も理事、名誉理事として版画界に貢献した。16年6月には作品や記録写真による「シロタ画廊50年の歩み展」が開催された。19年には生前から企画に関わってきた『李禹煥全版画1970―2019』が刊行された。画廊は白田没後、英子夫人とスタッフにより運営されている。

岩田信市

没年月日:2017/08/06

読み:いわたしんいち  1960年代に前衛芸術集団「ゼロ次元」を結成し、街頭裸体パフォーマンスで話題となった画家、演出家で元劇団「スーパー一座」主宰の岩田信市は8月6日に大腸がんのため死去した。享年81。 1935(昭和10)年8月8日、名古屋市中区大須に生まれる。43年白川国民学校入学。疎開により愛知県海部郡勝幡(現、愛西市勝幡)に疎開。45年、終戦で大須に戻り、大須小学校に転入。52年旭丘高校に入学。同年、中部日本美術展奨励賞受賞。学外の左翼サークルに入り活動、戦後三大騒乱事件の一つといわれる大須事件に参加。55年同校美術課程卒業(出席日数不足のため「仮卒業」との記録もある)。60年頃、グループ「0次現」を結成。62年、第14回読売アンデパンダン展に出品、翌年も出品。63年、加藤好弘らとというコンセプトで「ゼロ次元」を結成、同年1月の公開儀式「はいつくばり行進」を皮切りに数々のパフォーマンスを行う。64年、関東から福岡までの広範な地域から反芸術パフォーマンスを行ってきた作家たちが結集した日本超芸術見本市(愛知県文化会館美術館、平和公園他)で、のちの「全裸儀式」の原型となるパフォーマンスを実施。65年、アンデパンダン・アート・フェスティバル(現代美術の祭典、通称岐阜アンパン)にてゼロ次元として河川敷に見世物小屋風テントを設営し儀式「尻蔵界(けつぞうかい)曼荼羅祭り」を行う。日本万国博覧会(大阪万博)が行われる前年69年には、秋山祐徳太子、告陰、ビタミン・アート、クロハタなどとともに反万博団体「万博破壊共闘派」を立ち上げ、京都大学講堂屋上にて全裸のパフォーマンスを行うなど社会を賑わす。70年に愛知県文化会館美術館で起こった「ゴミ作品撤去事件」を発端とする芸術裁判の支援活動を行い、「ゴミ姦団」を結成。この頃より活動の中心をゼロ次元から、ゴミ姦団、頭脳戦線等のグループに移行。73年、全国のヒッピー代表として名古屋市長選に立候補。79年、劇団スーパー一座を旗揚げ、主宰として演出を担当、2008(平成20)年の劇団解散まで数回のヨーロッパ講演、ロック歌舞伎、大須オペラ等を演出を手掛け、古典や伝統の再解釈と超克を試みた。引退後も画家として作品制作を継続した。 新作を含む回顧展としては「岩田信市的世界」(犬山・岩田洗心館、1995年、企画=三頭谷鷹史)、パブリック・コレクションに「ランニングマン」(1965年頃、名古屋市美術館蔵)、「ウォーキングマン」(1969年、愛知県美術館蔵)、「ファイティング・ビューティ(キック)」(1981年、名古屋市美術館蔵)、著述集に『現代美術終焉の予兆』(スーパー企画、1995年)がある。また60年代の反芸術パフォーマンスを体系的にまとめた研究書、黒ダライ児『肉体のアナーキズム』(グラムブックス、2010年)では、「ゼロ次元」として一章が設けられその活動が検証され、15年8月に日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴとAsia Culture Center(韓国・光州)との共同事業として岩田の聞き取り調査を行った(聞き手は細谷修平、黒ダ、黒川典是)。歿後、芸術批評誌『REAR』第41号(2018年)において岩田の特集が組まれ、友人、同志、研究者、遺族といった様々な立場から追悼文が寄せられた。 60年代に肥大していったマスメディアと都市という社会制度をフィールドとして、既存の美術システムを大きく越えた過激な表現活動は、カウンターカルチャーの政治的・社会的意義を読み解く視点からも近年その活動が再評価されている。

中路融人

没年月日:2017/07/18

読み:なかじゆうじん  日本画家の中路融人は7月18日、ホジキンリンパ腫で死去した。享年83。 1933(昭和8)年9月20日、京都府京都市に生まれる。本名、勝博。46年、京都市立第一商業学校に入学。同年、学制改革に伴い京都市立洛陽高等学校付設中学校に転入、49年に同校を卒業する。同年、京都市立美術工芸高等学校絵画科に入学。同校は同年4月に京都市日吉ヶ丘高等学校美術科となった(現、京都市立銅駝美術工芸高等学校)。 52年に高等学校を卒業、デザイン会社に就職し、テキスタイルデザイナーとして勤務をはじめる。同時に、須田国太郎が主宰する独立洋画研究所でデッサンを学び、作品制作に打ち込む。54年、第10回日展に三人の漁師を描いた「浜」を出品、落選。同年から山口華楊が主宰する晨鳥社に入塾する。翌年には、「牛」を第11回日展に出品。落選であったが、2頭の牛を俯瞰した大胆な構図は、師の強い影響を感じさせる作品として知られる。 56年、第12回日展で風景画「残照」が初入選する。この作品から以後、おもに湖北の雄大な風景をテーマにした作品を発表した。同年に晨鳥社の研究会、あすなろを結成。62年には、第15回晨鳥社に「郷」(個人蔵)を出品し、京都府知事賞を受賞する。そして、同年の京展に「樹林」を出品し、京都市長賞を受賞。若手の日本画家として頭角を現す。ついに同年の第5回日展において「郷」(株式会社石長蔵)が特選・白寿賞を受賞する。63年の第6回日展からは無鑑査出品となり、「薄暮」を発表。そして、66年には、第1回日春展が開催され、中路も同展に参加した。68年の第3回日春展では、「待春」が入選、外務省買上となる。この時期までの作品は、力強く大胆な色彩による色面構成で描かれている。 73年、雅号を勝博から融人と改める。同年に新雅号の御披露目もかねた初の個展を京都大丸で開催。75年に第7回日展に「冬田」を出品し、二度目の特選となる。この作品を境に作風が大きく変化し、静謐で穏やかな風景画を描くようになる。79年には、京都〓島屋、日本橋〓島屋、滋賀県立長浜文化芸術会館において個展を開催。また、同年から日展新審査員を務める。83年には、京都府主催の個展が開催され、京都、東京、滋賀を巡回。86年には、第18回日展に「爛漫」を出品、文化庁買上となる。87年に東京と京都で個展を開催。同年に日春会運営委員に就任する。1992(平成4)年に新現代日本画家素描集『中路融人―湖北賛歌』(日本放送出版協会)を刊行。95年に第27回日展で「輝」が文部大臣賞を受賞。それに伴い文部大臣賞受賞記念中路融人素描展を東京と京都で開催する。また、同年に京都府文化功労賞を受賞した。 そして、97年に前年の日展出品作「映象」が日本芸術院賞を受賞した。同年に日展理事、晨鳥社会長に就任。98年に京都市文化功労者、99年に五個荘町の名誉町民となる。2001年に日本芸術院会員に任命。02年に日展常務理事となる。06年には、滋賀県文化賞を受賞。また、同年の第38回日展では、審査主任を担当する。10年に奈良県立万葉文化館にて「平城遷都1300年記念特別展 中路融人展」を開催。12年に文化功労者、14年に日展顧問、15年に東近江市名誉市民となる。16年には、東近江市に中路が寄贈した作品を展示する東近江市 近江商人博物館・中路融人記念館が開館した。

乾由明

没年月日:2017/07/17

読み:いぬいよしあき  近現代陶芸や西洋近代美術史の研究者・評論家として活躍し、京都大学・金沢美術工芸大学名誉教授を務めた乾由明は7月17日肺炎のため死去した。享年89。 1927(昭和2)年8月26日大阪市に生まれる。生家はかつて大阪市内や兵庫県・甲陽園に店舗を構えた高級料亭「はり半」で、谷崎潤一郎の「細雪」にも登場する料亭であり、美術品や古美術に囲まれて育った。51年京都大学文学部西洋近代美術史専攻卒業後、同大学院美術史専攻を修了した。前京都国立近代美術館長で美術評論家の今泉篤男のもと、63年開館した国立近代美術館京都分館(現、京都国立近代美術館)の学芸員として勤務、その後母校である京都大学の教授となる。フランスを中心とする西洋近代美術の研究・紹介に務める一方で、日本の近・現代美術について活発な評論活動を繰り広げ、現代美術批評の最前線に立つ。また、現代陶芸研究者としても活躍、「前衛」、「オブジェ」などの新しい陶芸分野に注目した。富本憲吉、楠部弥弌などの日本の陶芸家のみならず、バーナード・リーチ、ルーシー・リーやハンス・コパーなど海外の陶芸家とも親交を深めた。 1989(平成元)年第10回小山冨士夫記念賞受賞。92年には、『日本の陶磁 現代篇』(中央公論社)の責任編集者として、明治時代から現代に至る現代日本の陶芸を代表する名匠を選出。第1巻では、板谷波山、富本憲吉、北大路魯山人、楠部弥弌、加藤土師萌、六代清水六兵衛、近藤悠三を紹介した。2003年、陶芸界の巨匠重要無形文化財保持者(通称「人間国宝」)の集大成として、『人間国宝の技と美 陶芸名品集成(1) 陶器』(講談社)を平山郁夫と共に監修した。陶器編、磁器編、併せて計3巻を刊行。 兵庫陶芸美術館設立にあたり基本構想・計画策定委員を務め、05年の開館と共に初代館長に就任。古陶磁のみならず、現代陶芸家の展覧会も積極的に開催。バーナード・リーチ展や三代徳田八十吉展などを企画。 編著作に『抽象絵画』(保育社、1965年)、『近代の美術5浅井忠』(至文堂、1971年)、『世界の名画 6 モネと印象派』(中央公論社、1972年)、『日本の名画 20須田国太郎』(中央公論社、1976年)、『巨匠の名画 2 ルノワール』(学習研究社、1976年)、『日本のやきもの 現代の巨匠4 河井寛次郎』(講談社、1978年)、『現代日本陶芸全集 やきものの美 3 富本憲吉』(集英社、1980年)、『現代陶芸の系譜』(用美社、1991年)、『眼の論理 現代美術の地平から』(講談社、1991年)、『古備前を超えて 森陶岳』(東方出版、2000年)、『ルーシー・リー&ハンス・コパー 二十世紀陶芸の静かなる革新』(六耀社、2013年)他多数。

大塚英明

没年月日:2017/07/17

読み:おおつかひであき  日本大学文理学部教授の大塚英明は、7月17日に死去した。享年69。 1948(昭和23)年1月12日、千葉市に生まれる。76年3月、日本大学大学院文学研究科日本史学博士課程単位課程を修了し、同年4月より同大学文理学部史学科にて助手をつとめた。78年4月文部省に文部技官として任官し、文化庁文化財保護部美術工芸課歴史資料部門に勤務した。84年4月に同部門文化財調査官、1997(平成9)年4月に同部門主任文化財調査官に任ぜられた。この間93年から96年にかけて文化財管理指導官を併任した。2001年4月には独立行政法人文化財研究所東京文化財研究所の協力調整官に転じた。03年に文部省を退官し、日本大学文理学部教授となり、死去の前月まで教鞭を執った。 この間、文化審議会文化財分科会第一専門調査会委員(2004年~14年)、文化審議会文化財分科会委員(2015年~17年)等文化財行政や、日本生活文化史学会理事・常任理事、千葉県郷土史連絡協議会常任理事等の学会関係の委員等をつとめた。 大学院生、助手時代は、吉田松陰を主たる研究対象とし、「吉田松陰の思想系譜をめぐって」(『史叢』18、日本大学史学会、1974年)、「吉田松陰と蘭医青木研蔵ー蘭学摂取の一過程をめぐって」(『近代日本形成過程の研究』雄山閣出版、1978年)等複数の論考を発表した。 文化庁では、歴史資料部門に23年間所属し、同部門の草創期以来の文化財保護行政を長年担った。同部門は75年の文化財保護法改正により新たに誕生した部門で、歴史上重要な人物又は事象に関する遺品のうち学術的価値の高いものを対象とした。文化財保護行政上の歴史資料の概念は独特のもので、絵画・彫刻等従来の美術工芸品の分野とは質を異にし、一括資料を含む幅広い分野の文化財の調査・指定・修理・防災等に従事した。96年の文化財保護法改正では、科学技術分野を加えて近代の文化財も保護の対象となり、時代、分野ともに保護の対象が拡大した。同部門における仕事のありようは「歴史資料の指定調査と保存修理をふりかえって」(『月刊文化財』、2007年11月)に詳しい。 この間、重要文化財の指定調査の成果等を反映し、「内閣文庫保管・国絵図、郷帳一管見」(『三浦古文化』33、三浦古文化研究会、1983年)、「林靖と『寛永諸家系図伝』編纂の周辺」(『MUSEUM』508、1993年)、「『寛永諸家系図伝』編纂における延引について」(『日本歴史』559、1994年)、「万延元年遣米使節、随行医師・川崎道民の海外帰国報告―道民自筆本『航米実記』の紹介をめぐって」(『MUSEUM』546、1997年)、『羊皮紙に描かれた航海図』(至文堂、2002年)等の多分野にわたる論考を発表した。また、歴史資料部門における近代の文化財保護行政の端緒を担ったことから、「近代の歴史資料の保存・活用と課題」(『文化庁月報』346、1997年)、「日本の科学、産業遺産の保存と活用」(『産業遺産―未来につなぐ人類の技』東京文化財研究所、1999年)等、当該分野における文化財保護の基本的な考え方を述べた著述がある。 一方、文化財の管理や公開、重要文化財公開施設の建築・設備の指導にあたる文化財管理指導官をつとめた経験から「公開施設の在り方-文化財の保存と活用をめぐって-」(『設備と設計』オーム社、1995年)等がある。また、同官在任中の95年に阪神淡路大震災が発生し、被災文化財の保護、文化財防災対策の充実に携わった。 大学では、文化財学・博物館学を担当し、文化財に即した仕事を一貫して続け、日本大学文理学部資料館の設立(2006年)とその後の運営にも尽力した。没後「大塚英明先生の逝去を悼む (博物館学・文化財学特集号)」(『史叢』日本大学史学会、2018年)が刊行された。

三谷吾一

没年月日:2017/07/12

読み:みたにごいち  漆芸家の三谷吾一は7月12日、肺炎のため死去した。享年98。 1919(大正8)年2月13日、塗師であった父・忠作の五男として石川県輪島町(現、輪島市)に生まれる。本名・伍市。1930(昭和5)年、輪島男児尋常高等小学校尋常科在学中、赤十字社が募集したポスター展に応募し、パリで開催された世界展に展示される日本代表6名のうちの一人に選ばれる。三谷の家の近くには、後に重要無形文化財「沈金」保持者、いわゆる人間国宝に認定される前大峰が住んでいた。この頃帝展で特選を受賞した前が、三谷の通っていた小学校で講演を行い、その話に感銘を受けたことから三谷は沈金作家を志すようになる。33年、同校高等科卒業後、前大峰の兄弟子であった沈金師の蕨舞洲の下で5年間修行を積む。38年、年季明けの後、さらに2年間前大峰に師事し、41年に独立。翌42年、「沈金漆筥」で第5回新文展に初入選。戦時中の徴用のため、輪島航空工業株式会社に部品検査官として勤務しながらの制作であった。45年、第1回現代美術展に出品し、以後2014年まで毎年出品を重ねる。49年、デンマーク船エルセメルクス号など豪華客船の壁面装飾を制作。戦後は、自身で「スランプ状態」と語るように連続して展覧会に落選するなど、長い試行錯誤の時期を乗り越え、62年に第1回日本現代工芸美術展に初入選。65年、沈金パネル「飛翔」で第4回日本現代工芸美術展で現代工芸大賞・読売新聞社賞を受賞。66年、第9回日展で「集」が特選北斗賞受賞。60年代半ばの作品は、複数の色漆の塗り重ねと沈金の線彫り・点彫りの技法を高度に組み合わせたもので、沈金の技を駆使した抽象的な自然の風景を特徴とした。70年、第2回改組日展で特選北斗賞を受賞。78年、石川県美術文化協会理事となる。83年、日本現代工芸美術家協会理事となる。84年、北國文化賞を受賞。87年、石川県輪島漆芸技術研修所講師となる。88年、第44回日本芸術院賞を受賞。1989(平成元)年、日展理事となる。90年、紺綬褒章受章(以降、5回にわたって受章)。91年、石川県文化功労賞を受賞。93年、勲四等旭日小綬章受章。94年、中日文化賞を受賞。99年、日本現代工芸美術家協会顧問、輪島塗技術保存会会長、日展参事となる。2002年、日本芸術院会員、03年、日展顧問、輪島市名誉市民となる。04年、第60回現代美術展に出品し、第1回展より60回連続出品を果たす。 三谷はとりわけパウル・クレーの抽象的かつ詩情豊かな色彩に影響を受け、色粉の研究に基づく新しい沈金表現を確立したことで高く評価された。黒、朱などの限られた色数の漆に顔料や金銀粉を組み合わせた従来の伝統的な沈金は、色の多彩さという点においては他の漆芸技法に比べて制約が大きい。三谷は繊細な諧調表現を可能にするプラチナ箔、アルミの粉に着色を施したエルジー粉、酸化チタンや酸化鉄を用いて雲母を着色したパール粉など、ややもすると人工的で俗っぽい印象を与えかねない新素材の金属粉を、沈金の絵画的表現に大胆に取り入れた。十数年の研究のうちに、金属粉同士の組み合わせや、線彫りと点彫りを重ねる工程を工夫することで、豊かな中間色による明るく柔らかな表現を行うことが可能となり、油彩とも版画ともまったく異なる、沈金ならではの独自の世界を展開した。そのモチーフには、幼い頃の記憶にある身近な動植物や草花、貝、魚、鳥などが一貫して多く用いられるが、80年代の作品を中心に見られる黒漆による地と着色金属粉による発光するような明るい色彩のコントラストを強調した幻想的な作風は、90年代半ば以降はさらに一つの色面の中でも複雑な色の重なりが彫りによって表され、2000年代後半には切り箔や堆漆板による効果を組み合わせるなど、常に沈金の可能性を拡げ続けた。15年、文化功労者顕彰。没後の17年末、彫刻家である長男の三谷慎の編集により『GOICHI MITANI-三谷吾一作品集』が刊行される。

辻茂

没年月日:2017/07/02

読み:つじしげる  東京藝術大学名誉教授の辻茂は、7月2日、肺炎のため、イタリア、オルヴィエートの病院で死去した。享年87。 1930(昭和5)年3月29日、旧満州国南満州大石永昌街に生まれ、福井県敦賀市で育つ。53年3月に東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業。4月に同大学美術学部助手として採用される。55年4月に日伊協会事務嘱託(西洋美術史研究)となり、56年9月にイタリア政府給費留学生としてローマ大学文学部美術史学科に留学。57年10月からはヴェネツィア中亜極東学院で日本語講師を務める。60年4月に東京藝術大学美術学部非常勤講師を委嘱され、64年9月には同大学音楽学部講師として採用される。68年3月に同大学美術学部講師に配置換えされ、69年4月に同学部助教授、78年4月に教授に昇任。87年4月から1991(平成3)年4月まで同大学附属図書館長も務め、85年4月以降は同大学評議員でもあった。97年3月に同大学を定年退職、同年6月に名誉教授の称号を授与された。 大学において教育・研究・大学運営に尽力する一方で、文部行政関連委員を歴任し、70年4月に教科用図書検定調査審議会調査員、86年2月に学術審議会専門委員(科学研究費分科会)、同年7月から2期続けて大学設置審議会専門委員(大学設置分科会)、及び87年9月から4期続けて大学設置・学校法人審議会専門委員(大学設置分科会)に任命された。また、日伊協会の常務理事、『日伊文化研究』編集委員長などを務めた。 研究の業績は多岐にわたるが、特にイタリアのゴシックおよびルネサンス美術史の分野において、国際的に評価の高い研究成果を数多く発表した。とりわけ顕著な業績としては、ジョルジョーネ研究、アッシジのサン・フランチェスコ聖堂の初期壁画研究、技法史研究、そしてその一環としての遠近法に関する研究を挙げることができる。 ジョルジョーネ研究に関しては、76年に『詩想の画家ジョルジョーネ』(新潮社)を刊行した。この本では主題に関して諸説紛糾する「嵐」を中心に据え、先行研究と同時代史料を検証しつつ、当時のヴェネツィアの文化状況、とりわけプロットよりも情景描写を重視する同時代のヴェネツィアの文学との関連を考察することで、独自の結論を提出した。また、古文書に記された「夜の絵」に関する章は、71年に発表した論文を土台としたものであり、「キリスト降誕図」とする従来の研究に対して、夜景図とする解釈を打ち出した。研究の成果は79年にイタリア、カステルフランコ・ヴェネトで開催された生誕五百年記念ジョルジョーネ国際学会においても、イタリア語で発表された。 アッシジのサン・フランチェスコ聖堂の壁画研究に関しては、日本人の美術史・建築史研究者および画家によるチームを組織して聖堂下堂壁画の現地調査を行い、78年に『アッシージのサン・フランチェスコ聖堂――建立初期の芸術』(共著、岩波書店)を出版した。サン・フランチェスコ聖堂の壁画のうち、下堂にある13世紀のそれはほとんど調査・研究のなされていなかったものであり、撮影・測量・模写によるこの基礎研究は、画期的なものとなった。 技法史に関しては、論文ではなく彫刻の制作によって学部を卒業したことが示す通り、もともと制作に大きな関心を有したことが根底にある。美術史研究においても作品制作に根差した作品理解や、制作プロセスを重視する姿勢は、おのずと技法の探求へと自らを導いた。フレスコ画の技法研究はアッシジの壁画調査においても行われたが、その後も研究を深め、成果を内外で発表した。論文を発表する一方で、ヴァザーリの『芸術家列伝』中の技法論を中心とする箇所を翻訳し、それらは1980年に『ヴァザーリの芸術論』(共訳、平凡社)に収録された。また、チームを組織してチェンニーノ・チェンニーニの古典的な技法書『絵画術の書』の翻訳作業を地道に進め、1991年に岩波書店より刊行したことは、特筆すべき業績である。 研究の興味が技法史研究から遠近法研究へと向かうのは自然の流れであった。特に遠近法の発明者ブルネッレスキの遠近法研究を深め、図学的な作図方法に基づいて発明がなされたという従来の見解に対して、史料調査と実験にもとづき、カメラのような「暗箱」を用いて作図したという斬新な説を提出した。研究の成果はイギリスの著名な学術誌『Art History』(vol.13,no.3、1990年)誌上に発表され、また遠近法研究の集大成として『遠近法の誕生――ルネサンスの芸術家と科学』(朝日新聞社、1995年)が出版された。翌96年には、ほとんど数学の領域に踏み込んで中世末期からルネサンスにかけての遠近法理論の歴史を解説した、『遠近法の発見』(現代企画室、1996年)を出版した。 大学退官後はイタリア中部の町オルヴィエート近郊に移住し、ローマやフィレンツェに通いつつ研究を続けた。2011年秋に瑞宝中綬章を受章した。

高﨑元尚

没年月日:2017/06/22

読み:たかさきもとなお  前衛美術家グループ「具体美術協会」の一員として活躍した現代美術家の高﨑元尚は6月22日に老衰のため死去した。享年94。 1923(大正12)年1月6日、高知県香美郡暁霞村(現、香美市香北町)に生まれる。父元治は農家を生業とし村長も歴任。1940(昭和15)年、早稲田大学専門部工科建築科に入学。翌年休学、川端画学校に通う。42年、東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻科に入学、学徒出陣による海軍配属を経て、戦後同校に復学、49年、同校彫刻科を卒業。中学校教諭、自衛隊員などの職を経て、52年第2回モダンアート協会展に出品、この年高知に帰郷。54年第4回モダンアート協会展で新人賞受賞。50年代はピエト・モンドリアンを参照した抽象画を制作、その後「朱と緑」シリーズに展開。55年、高知モダンアート研究会を結成、東京から講師を招いて美術教育の講習会を開くなど啓蒙的な活動を行う。56年から土佐高等学校教諭に赴任(1988年まで)。57年、モダンアート協会会員に推挙(1970年に退会)。58年、「抽象絵画の展開」展(国立近代美術館)に出品。このころ、絵画と並行して写真制作に取り組み、高知の詩誌『POP』、北園克衛主宰VOUの機関誌や実験写真展で作品を発表。60年、村松画廊で個展を開催。61年、前衛美術グループ「グループ・ゼロ」のパフォーマンス「理由なくデモして街を歩く」(高知市帯屋町界隈)に参加。63年に矩形に切った白いカンバス片を板に碁盤目状に貼付した「装置」シリーズを開始。65年第16回選抜秀作美術展に招待出品。66年に具体美術協会加入。同年、第1回ジャパン・アート・フェスティバルに「装置」を出品。60年代から70年代にかけて鉛の板を壁面や床などに打ち付けた「密着」シリーズを制作。70年、日本万国博覧会ではグタイグループ展示などに参加。また同年若手作家の経験をつむ場として企画展シリーズ「現代美術の実験」を高知市で開始。72年、京都・ギャラリー16での個展で段ボール箱を破り裂いた作品「LANDSCAPE」を発表、以後建築資材、石膏、木、素焼き粘土などを用いたインスタレーションのシリーズ「破壊」を展開。78年にはアート・ナウ’78に「COLLAPSE」を発表、設置した700個以上のコンクリートブロックを一定の規則でハンマーで割り、鑑賞者にブロックの上を歩かせる方法で、偶然性による素材の変容を作品に取り入れる。「破壊」以後は、ゴムやパイプなど軽量素材を用いた可変オブジェのシリーズに移行、80年代ニューウェーブ的な作風へと転身。1990(平成2)年頃より、具体美術協会の再評価の機運が高まり、複数の美術館の依頼に応えるため、「装置」シリーズの再制作を取り組み、同シリーズの新作も発表した。95年に高知県文化賞受賞。 回顧展に「高﨑元尚 誰もやらないことをやる」(香美市立美術館、2016年)、「高﨑元尚新作展―破壊COLLAPSE」(高知県立美術館、2017年、企画=松本教仁)がある。12年12月に、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによって聞き取り調査が行われ(聞き手は中嶋泉、池上裕子)、また生前の高﨑本人や家族から提供された資料に基づいた作家研究として塚本麻莉「規則と偶然の芸術―前衛美術家・高﨑元尚の制作活動」(『高知県立美術館研究紀要』9、2019年)がまとめられた。 時代の動向に呼応したアクチュアルな表現を展開させ、東京や関西の現代美術界で評価を得て、その一方で活動基盤を高知に置き、高知市展、高知県展で継続的に作品発表をするとともに、さまざまなかたちで若手を支援する基盤を作るなど、地域の現代美術の振興にも取り組んだ。

ヴィクター・ハリス

没年月日:2017/06/13

読み:VICTOR HARRIS  日本美術史の研究者であったヴィクター・ハリスは、6月13日肝硬変のためイギリスで死去した。享年74。 1942年8月3日生、イングランドのエセックス州出身で、ウィリアム・ヴィクター・クレイトン・ハリス(William Victor Clayton Harris)を父に、テリーザ・ハリス(Theresa Harris)を母に生まれる。エセックス州(Essex)のバンクロフツ・スクール(Bancroft’s School)を卒業し、バーミンガム大学(Birmingham University)で機械工学専攻(BSc in Mechanical Engineering)、卒業した。68年から71年まで駒沢大学の講師となる。71年、Japanese Engineering Translation and Consultancyを78年まで個人経営する。74年に柳川加津子と結婚している。 78年、大英博物館の東洋美術部のResearch Assistantとして勤務するようになり、87年にはDepartment of Oriental Antiquities(日本美術部)のAssistant Keeper、97年に同部のKeeper(部長)となる。2002年大英博物館退職とともにKeeper Emeritus(名誉研究員)を授与される。 05年明治大学の客員教授、同年美術品オークション会社であるクリスティーズのコンサルタントとなる。06年にはロンドンのJapan SocietyのHonorary Librarian(名誉司書)、ハリリコレクションの日本美術のHonorary Curator(名誉学芸員)などを歴任する。 日本剣道の剣士であり、剣道の実践とともに日本美術とりわけ日本刀について造詣が深く、大英博物館の日本刀収蔵の充実や研究に尽力した。90年、大英博物館日本ギャラリーが開設されると、その開幕展として「日本の刀」を開催し、さらに文化庁の海外交流展で、91年の「鎌倉」、01年の「神道」では大英博物館側でのキュレーションを行い、同展でのシンポジウムの司会を担当、これまでに海外では注目されなかったテーマで日本美術と文化を紹介した。また大英博物館所蔵品の日本での展覧会も手掛け、85年「大英博物館所蔵浮世絵名作展、87年「大英博物館日本中国名品展」を実現させた。 剣道に関するものでは74年、宮本武蔵の「五輪書」(A Book of Five Rings)を翻訳した。また、02年までEuropean Kendo Federation(ヨーロッパ剣道連盟)、International Kendo Federation(国際剣道連盟)の役員を歴任するなどヨーロッパにおける日本剣道の普及につとめた。 日本美術の研究では、1980年 Musical Scenes in Japanese Woodblock Prints, in Music and Civilisation No.4, British Museum1981年 Japanese Portrait Sculpture, Apollo, 81, no.1131982年 Japanese Decorative Arts from the 17th to 19th centuries, British Museum 1986年 Japanese Swords and the Bizen Tradition, Arts of Asia, vol.161987年 Netsuke:The Hull Grundy Collection in the British Museum, British Museum 1990年 Japanese Art:Masterpieces in the British Museum, British Museum 1990年 Swords of the Samurai, British Museum1991年 kamakura:The Renaissance of Japanese Sculpture, 1185―1333[Kamakura jidai no chokoku], British Museum 1994年 Japanese Imperial Craftsmen:Meiji Art from the Khalili Collection, British Museum 2001年 Shinto:The Sacred Art of Ancient Japan, British Museum2004年 Cutting Edge:Japanese Swords in the British Museum, British Museum Press2014年 Alloys of Japanese Patinated Metalwork, in ISIJ International などがある。

田原桂一

没年月日:2017/06/06

読み:たはらけいいち  写真家の田原桂一は6月6日、肺がんのため東京都内の病院で死去した。享年65。 1951(昭和26)年8月20日京都市左京区に生まれる。中学生の頃より写真家であった祖父から写真技術を学ぶ。高校卒業後の71年、実験劇団「レッド・ブッダ・シアター」に照明・映像担当として参加。72年同劇団の公演のため渡欧、公演終了後パリに残り、写真家として活動し始める。 パリの自室の窓から撮影した「窓」シリーズ、パリの都市風景をめぐる「都市」シリーズの二つの初期作品で注目され、77年にアルル国際写真フェスティバル新人賞を受賞、評価を確立した。78年からは芸術家のポートレイトのシリーズ「顔貌」、79年からは金属やガラスなどさまざまな素材に落ちた光とそこにつくられる影が織り成す抽象性を帯びた連作「エクラ」などにとりくむ。84年写真集『TAHARA KEIICHI 1973―1983』(ゴローインターナショナルプレス)を刊行、同書により84年日本写真協会賞新人賞、85年第10回木村伊兵衛写真賞を受賞。また85年第一回東川賞国内作家賞、88年にはフランス在住で50歳以下の写真家を対象とするニエプス賞を受賞するなど多くの賞を受ける。1993(平成5)年にはフランス芸術文化勲章シュバリエを受章した。 写真集としてまとめられた仕事も多く、主なものに『世紀末建築』(全6巻、三宅理一との共著、講談社、1984年)、『メタファー』(求龍堂、1986年)、『顔貌』(PARCO出版局、1988年)、『天使の廻廊』(新潮社、1993年)などがある。 多彩な写真表現のほか、80年代後半からは光を素材にした立体作品やインスタレーション、環境造形、建築デザインなどにもとりくんだ。その主な作品に89年、北海道恵庭サッポロビール恵庭工場に設置された「光の庭」、2000年、パリ市のコミッションでサンマルタン運河地下水道に設置された「光のエコー」、07年のパリ第七大学新校舎外壁デザインなどがある。04年には写真と立体作品による個展「光の彫刻」を東京都庭園美術館で開催、その後帰国し09年に東京で株式会社KTPを設立、アーティストとしての経験、知見に基づく建築コンサルティング事業、企業のブランディング事業などをてがけた。 14年にはパリのヨーロッパ写真美術館で個展「光の彫刻」を開催、16年には何必館・京都現代美術館で初期から近作にいたる写真作品により構成された「光の表象 田原桂一 光画展」を開催。また同年、写真集『Photosynthesis 1978―1980 光合成 田中泯 田原桂一』(スーパーラボ)を刊行。これは舞踊家田中泯を被写体とした、70年代末にパリやローマ、東京などいくつかの都市で断続的に行われたフォトセッションで撮影され、長く未発表であった作品であり、翌17年にはプラハ・ナショナル・ギャラリーで、同シリーズによる個展「Photosynthesis 1978―1980」を開催するなど、晩年、あらためて写真作品に注力し、精力的に活動を続けていた。東京での個展「Les Sens」(ポーラミュージアムアネックス、銀座)開催の直前に死去。プラハで開催された個展を再構成し、同シリーズの国内での初めての展示となった「田原桂一『光合成』with田中泯」展が、死去の三ヵ月後、原美術館で開催された。

山崎博

没年月日:2017/06/05

読み:やまざきひろし  写真家、映像作家の山崎博は6月5日、歯肉がんのため東京都三鷹市の病院で死去した。享年70。 1946(昭和21)年9月21日長野県松本市に生まれる。幼少期に神奈川県川崎市新丸子に移り、同地で育つ。日本大学付属高等学校で写真部に入部、この頃より写真家を志す。65年日本大学芸術学部文芸学科に入学。高校時代からの友人で、ともに同じ学科に進んだ萩原朔美(のち演出家、映像作家)の誘いで、寺山修司の主宰する劇団「天井桟敷」に出入りするようになり、舞台監督助手、舞台監督を務める。68年大学を中退。翌年天井桟敷を離れ、フリーランスの写真家となり『SD』や『美術手帖』などで現代美術や舞台などの写真を担当。 この頃、被写体を選ばず、与えられた状況で写真画像が得られることそれ自体をめぐって成立する制作のあり方を模索し、自宅の同じ窓から見える光景や、特徴のない海岸と水平線を、定点観測などの手法で撮影する作品にとりくみはじめる。また72年ごろから16ミリフィルムによる実験的な映画作品の制作を開始した。74年、窓のシリーズや海景のシリーズによる初個展「OBSERVATION・観測概念」(ガレリア・グラフィカ、東京)を開催。以後、同題の個展を76年、77年、78年、79年と継続する。また78年にはゼロックス社のPR誌『グラフィケーション』のために、コピー機で風景を撮影する作品を制作するなど、写真を成立させる根本的な要素である光や時間、カメラの原理などめぐって、さまざまな手法の作品を試みる。こうした姿勢は映画作品にも共通し、主な作品に、時間軸の中でフィルムが回るということ自体を表現する作品「A STORY」(1973年)や、天体観測用の赤道儀にカメラをセットし、太陽を一昼夜追尾して撮影した「HELIOGRAPHY」(1979年)などがある。 独自のコンセプチュアルな制作活動が次第に評価を高め、79年には『ジャパン・ア・セルフポートレイト』(国際写真センター、ニューヨーク)に、当時の日本写真界において注目すべき写真家の一人として選ばれて出品。83年には初の写真集として、太陽の軌跡を長時間露光でとらえた連作による『HELIOGRAPHY』(青弓社)を刊行、また同写真集に収載されている「海と太陽」シリーズにより日本写真協会賞新人賞を受賞した。1989(平成元)年には写真集『水平線採集』(六耀社)を刊行。94年、水平線を撮影した写真によるカレンダー作品で全国カレンダー展総理大臣賞を受賞。2001年の個展「櫻花図」(ニコンサロン、東京・大阪)では、桜の花を被写体とし、夜の屋外でストロボを光源に、フォトグラムの手法を試みた連作を発表、同展で伊奈信男賞を受賞している。 87年から89年まで東京芸術専門学校で講師、89年から93年まで東京造形大学で非常勤講師を務め、93年に東北芸術工科大学の教授となる。2005年に武蔵野美術大学教授に就任(2017年3月退任)。 09年にはそれまでの軌跡を振り返る個展「動く写真!止まる映画〓」(ガーディアン・ガーデンおよびクリエイションギャラリーG8、東京)を開催。また死去の直前、大規模な回顧展「山崎博:計画と偶然」(東京都写真美術館、2017年)が開催された。

山田實

没年月日:2017/05/27

読み:やまだみのる  写真家の山田實は5月27日、肺炎のため糸満市内の病院で死去した。享年98。 1918(大正7)年10月29日、兵庫県に生まれる。20年、大阪で医師をしていた父が沖縄の養母の家を継ぐことになり、一家で那覇市に移住、同地で育つ。沖縄県立第二中学校(現、那覇高等学校)では美術サークル「樹緑会」に入り絵画にとりくむ。また当時、初めて簡易カメラを入手し撮影・現像を体験した。1936(昭和11)年、同校を卒業、進学のため上京し38年、明治大学専門部商科に入学。在学中、新聞部員として大学新聞の編集にたずさわった。41年、同大学専門部商科本科(昼間部)と新聞高等研究科(夜間部)を同時に卒業、日産土木株式会社に入社し満洲・奉天に配属される。44年、現地で召集され陸軍に入隊、満洲北部でソ連軍と交戦中に終戦を迎え、捕虜となり、二年間のシベリア抑留を経験。47年に復員し、東京の日産土木本社に復職。52年、同社を辞し、沖縄に戻って那覇市内で写真機店を開業した。 本土から輸入したカメラの販売などを手がけるかたわら、自らも写真にとりくみ、54年、琉球新報写真展に出品した作品「光と影」が特選を受賞、新進の写真家として注目されるようになる。58年に二科展沖縄支部が結成された際には、写真部のメンバーとして参加。また山田の経営する写真機店に沖縄のアマチュア写真家たちが集うようになり、59年に沖縄ニッコールクラブを結成、会長に就任した(独立組織であった同クラブは、72年の本土復帰後はニッコールクラブ沖縄支部に移行、山田は引き続き支部長を務めた)。以後、56年に写真部が設立された沖展、二科沖縄支部、沖縄ニッコールクラブの展覧会への出品を中心に、作品の発表を続け、沖縄写真界の中心人物の一人となっていく。72年から76年にかけては沖縄県写真連盟会長を務めた。 山田がレンズを向けた対象は、主に沖縄の人々の暮らしやそれをとりまく風景、また祭礼など沖縄固有の伝統行事である。写真に関わる専門教育を受けていなかったことから、写真機店を始めた頃、カメラ雑誌を情報源として多くを学んだ山田は、当時『カメラ』誌の月例欄を拠点に、土門拳がアマチュア写真家たちに呼びかけたリアリズム写真運動にも大きな影響を受けた。そのことは、戦中に戦場となり、戦後はアメリカの統治下に置かれた沖縄の現実とその変化を、カメラを介して見つめ続ける仕事へとつながった。 また自由な渡航が認められていなかったアメリカ統治下の時代、62年の濱谷浩や69年の東松照明など、本土の写真家の来沖に際し、山田はたびたび身元引受人や案内役を務め、取材の支援のほか、地元の写真家の交流の場を設けるなど、沖縄と本土の写真界の橋渡し役として大きな役割を果たした。 半世紀以上にわたる写真家としての仕事は、「時の謡 人の譜 街の紋―山田實・写真50年」(那覇市民ギャラリー、2003年)や「山田實展―人と時の往来」(沖縄県立博物館・美術館、2012年)などの回顧展で紹介された他、初めての写真集となった『こどもたちのオキナワ 1955―1965』 (池宮商会、2002年)以降、『沖縄の記憶 オキナワ記録写真集 1953―1972』 (金城棟永と共著、生活情報センター、2006年)、『山田實が見た戦後沖縄』 (琉球新報社、2012年)、『故郷は戦場だった 山田實写真集』(沖縄写真家シリーズ1、未來社、2012年)などにまとめられている。 永年の活動とその功績に対し、沖縄県文化功労者表彰(2000年)、地域文化功労者表彰(2002年)、沖縄県文化協会功労者賞(2002年)、沖縄タイムス賞文化賞(2004年)、琉球新報賞文化・芸術功労賞(2009年)、東川賞飛彈野数右衛門賞(2013年)などを受賞している。

池原義郎

没年月日:2017/05/20

読み:いけはらよしろう  建築家で早稲田大学名誉教授、日本芸術院会員の池原義郎は5月20日、東京都内にて肺炎のため死去した。享年89。 1928(昭和3)年3月25日、東京都渋谷区に生まれる。51年早稲田大学理工学部建築学科卒業後、同大学院工学研究科建設工学専攻に進学。53年に修了後、山下寿郎設計事務所(現、山下設計)に勤務。56年に早稲田大学理工学部建築学科今井兼次研究室助手、65年同学科専任講師、66年助教授、71年教授。1995(平成7)年の退官まで同大学にて教鞭を執るとともに、88年に株式会社池原義郎・建築設計事務所を設立し、建築家として設計活動にあたった。 アントニオ・ガウディをわが国に紹介したことでも知られる今井兼次に師事する中でその設計思想を継承し、コンクリートと鉄を素材としながら静謐な詩的空間を生み出してきた池原は、機能的合理性への指向や建築理念に関わる言説といった方向性とは異なる近代建築の在り方を作品を通じて提示することに意識的であった。その思考が最も端的に造形されたのが、大地と建築が一体化した彫刻のような「所沢聖地霊園礼拝堂・納骨堂」(1973年竣工、日本建築学会賞(作品))であり、あるいは旋回する上昇性が強調された「早稲田大学所沢キャンパス」(1987年、日本芸術院賞)であろう。幾重にも重ねられた壁やスキップフロアといった、池原が好んで用いた建築言語は、建築に奥行きを与える要素であるとともに、視点を変え歩を進めるごとに異なる風景が立ち現れるという空間体験を喚起する仕掛けでもあった。 その他の主な作品に、白浜中学校(1970年)、西武ライオンズ球場(1979年)、松ヶ丘の家(1986年)、酒田市美術館(1997年)、下関市地方卸売市場唐戸市場(2001年)、軽井沢プリンスショッピングプラザ・ニューイースト(2004年)などがある。 上記以外の主な受賞歴に、88年大隈記念学術褒賞記念賞、02年瑞宝中綬章、16年早稲田大学芸術功労者。 主な著作に『池原義郎 建築とディテール』(彰国社、1989年)、『光跡 モダニズムを開花させた建築家たち』(新建築社、1995年)など。また、作品集として、『池原義郎・作品 1970―1993』(新建築社、1994年)ほかがある。

河原正彦

没年月日:2017/05/09

読み:かわはらまさひこ  京都国立博物館名誉館員で、元京都橘大学教授の河原正彦は5月9日、細菌性肺炎のため京都府城陽市内の病院で死去した。享年81。 1935(昭和10)年9月25日、長野市に生まれる。68年、同志社大学大学院文学研究科文化史学専攻博士課程単位取得退学。大学院在籍中の64年より京都府立総合資料館に4年間勤務し、68年に京都国立博物館へ職場を転じた。76年から同館学芸課工芸室長、95年から同館学芸課長を務めた。1997(平成9)年に退官した後、2006年まで京都橘女子大学(後に京都橘大学)教授として教鞭を執る傍ら、滋賀県立陶芸の森館長を務めた。 京都国立博物館には、陶磁器担当の研究員として勤務していたが、工芸品全般、とりわけ意匠としての文様に造詣が深く、その一端を京都国立博物館の特別展覧会「日本の意匠―工芸にみる古典文学の世界」(1978年)の図録論文「工芸にみる古典文学意匠の流れ」をはじめとして、共編著の『日本の文様』全30巻および別冊3巻(光琳社出版、1970~79年)の中に窺うことができる。 陶磁器に関しては、『古清水』(京都書院、1972年)、『陶磁大系26京焼』(〓凡社、1973年)、「御室仁清窯の基礎的研究―文献史料を中心とする考察」(『東洋陶磁』4、1974年)、『日本陶磁全集27仁清』(中央公論社、1976年)、『日本のやきもの22仁清』(講談社、1976年)、『日本のやきもの 現代の巨匠15清水六兵衛』(講談社、1977年)、『日本陶磁全集29頴川・木米』(中央公論社、1978年)、『乾山』(日本の美術154、1979年)、『頴川・木米・道八』(日本の美術227、1985年)、「仁清作色絵雉香炉―その製作期をめぐって」(『國華』1100、1987年)、「京焼の「陶法伝書」―『陶工必用』『陶磁製方』『陶器指南』」(『学叢』28、2006年)など京焼に関する著作が目立って多いが、『陶磁大系9丹波』(〓凡社、1975年)、『日本陶磁全集12信楽』(中央公論社、1977年)、『信楽と伊賀』(日本の美術169、1980年)、『丹波』(日本の美術398、1999年)など焼締陶器に関する著書も少なくない。さらには、『染付伊万里大皿』(京都書院、1974年)、『古染付』(京都書院、1977年)、『唐津』(日本の美術136、1977年)といった唐津焼・伊万里焼・中国陶磁に関する著作も手掛けるなど、陶磁器全般に関する広汎な見識を有していた。 京都国立博物館在職時に企画を担当し、日本人と中国陶磁の関わりを古代から近世まで通時代的に捉えて展観してみせた特別展覧会「日本人が好んだ中国陶磁」(1991年)では、研究領域が幅広い陶磁器研究者としての本領を遺憾なく発揮している。 75年から01年まで東洋陶磁学会常任委員、85年には文化史学会評議委員を務め、93年には小山冨士夫記念賞を受賞した。

舟越直木

没年月日:2017/05/06

読み:ふなこしなおき  彫刻家の舟越直木は、5月6日に死去した。享年64。 1953(昭和28)年1月14日、東京都に舟越家の三男として生まれた。父の保武、兄の桂はともに彫刻家である。78年に東京造形大学絵画科を卒業。83年にみゆき画廊で初の個展を開催する。84年と85年のギャラリーQにおける個展では、油彩画を発表。80年代後半から抽象彫刻を制作するようになる。 87年からは、毎年続けてなびす画廊において個展とグループ展を開催している。以下は、すべて同画廊での開催展である。87年のグループ展「ぷろみしんぐ・なびす」において彫刻作品「WORK」と、それにともなうドローイングを発表。88年には、加茂博と中原浩大とともにデッサン展を開催し、「drawing」や「UNTITLED」などを出品する。1989(平成元)年の個展では、蜘蛛や脚を連想させる抽象彫刻「彫刻」「Serampore」とドローイングを発表。92年の個展では、「Chordeiles Minor」を出品した。この個展のカタログでは、同作や前年に発表した「Serampore」について峯村敏明が批評を執筆している。また、同展は『Japan Times weekly』で海外にも宣伝された。93年の個展では、「Chuckwill’s Widow」を発表。94年には、グループ展「金曜日のまれびとたち その3」を開催。同展には、笠原たけし、山崎豊三らも出品している。95年の個展では、「Bella coola」「MARONITA」「SASSETTA」「小さな夜鷹」といった小品を出品。96年のグループ展「匍匐は跳躍」では、石膏による「UGARIT」を発表。同展には、大森博之、黒川弘毅ら同世代を代表する彫刻家も参加している。97年の個展にはハート(心臓)から着想を得たと思われる石膏作品「the Queen of hearts」、ブロンズ作品「the Ace of hearts」「the nine of hearts」「the eight of hearts」「the Jack of hearts」を発表。また、それに伴うハートをモチーフにしたドローイングを出品した。99年の個展では、ドローイングと油絵のみ出品されたが、その表現は大きく広がりをみせた。昨年に引き続き「ピンクのハート」「3つのハート」など、ハートをモチーフにした絵画から、ひし形を表した「薄青いかたちのイメージ」、抽象的なかたちの「青のバックのなまけもの」や「drawing」などを発表。2001年の個展では、前回の個展で発表したドローイングを彫刻に発展させた作品「Al―Erg」「Erg Che Che」を多数出品。いくつもの球体が集合することで、ひとつの形を表す彫刻作品を制作した。03年のグループ展「新年のおくりもの」では、「Al―Erg」などの作品を構成していた球体ひとつひとつを解体したような作品「An Evacuees」を発表。05年「2月のおくりもの」では、石膏を赤い布で覆った「頭部」を出品し、新たな表現を獲得した。 なびす画廊における個展やグループ展のほかにも、91~1998年、06年の世田谷美術館における「世田谷美術展」に作品を出品。また、90年の神奈川県民ホールギャラリーにおける「現代彫刻の歩み1970年以降の表現」展、93年の小原流会館における「とは何か」展、96年の佐倉市立美術館における「体感する美術’96」展、98年の新潟県立近代美術館における「インサイド/アウトサイド」展など数々の展覧会に出品。美術館での展示において同世代の彫刻家とともに高い評価がなされた。そのほか、横浜市民ギャラリー、ギャラリーGAN、田中画廊、MORIOKA第一画廊などでもグループ展などが開催されている。また、96年度には、父・保武の出身地である岩手県において美術選奨を受賞した。 2000年代前後からは、その表現や活動範囲にさらなる広がりがみられる。97年には、新潟県立近代美術館に野外彫刻「夏の夜」を設置。同作は、舟越の作品の中で最も大型の作品である。04年、アートフロントギャラリーで行われた個展では、人体の胸像を思わせる作品を多数発表。06年のギャラリーせいほうで行われた個展では、「sleep」などの抽象彫刻を出品。同年のGALLERY TERASHITAにおける個展では、人間の頭部を思わせる作品「婦人像」を発表する。そして、08年のギャラリーせいほうにおける個展では、胸像を思わせる石膏作品「うつむく少年」などを出品。さらに、14年にはフランス、パリのatelier viscontiにおいて稲田美乃里との二人展も実現した。 死去後、追悼展が多くのギャラリーや美術館で開催された。18年には世田谷美術館、19年にギャラリーせいほうにて個展が開催され、同年、平塚市美術館において開催された「空間に線を引く 彫刻とデッサン展」でも彫刻とドローイングが数多く出品された。 生前、無所属で作品を発表し続け、副業として他の職業に就くことなく、その生涯を彫刻とドローイングを通して「かたち」の探求に費やした。その作品と生き方は、同世代、後進の彫刻家に大きな影響を与えた。素朴で純粋な仕事の数々は、今も多くの人を魅了する。

安井収蔵

没年月日:2017/05/03

読み:やすいしゅうぞう  美術評論家で、しもだて美術館長(茨城県筑西市)の安井収蔵は、肺がんのため西東京市の自宅にて死去した。享年90。 1926(大正15)年9月20日、愛知県名古屋市に生まれる。日本大学予科を修了、1946(昭和21)年、毎日新聞東京本社に入社。事業部を経て文化部に勤務した後、同新聞中部本社に報道部に異動。63年に同新聞東京本社学芸部に移り、美術に関する報道を担当。同紙の美術記事を76年12月まで執筆し、また各美術雑誌にも寄稿した。同年、同社を退社。笠間日動美術館顧問、日動画廊嘱託となる。85年、山形県の酒田市美術館長に就任。2003(平成15)年からしもだて美術館長となる。同館長職は没年まで勤めた。美術館の館長職の傍ら、晩年までジャーナリストの視点から、美術界の事情をとりあげ、『新美術新聞』をはじめ各誌に寄稿を続けた。なお各誌に寄稿した美術に関する記事は、下記の4書にまとめられている。『色いろ調:美術記者のコラム』(美術年鑑社、1985年)『当世美術界事情:コラム「色いろ調」1985-1990』(美術年鑑社、1990年)『当世美術界事情2』(美術年鑑社、2000年)『絵話 諸縁 近頃美術界の話題を掬う』(講談社エディトリアル、2015年)

高田良信

没年月日:2017/04/26

読み:たかだりょうしん  仏教史学・歴史学者で法隆寺長老、第128世住職を務めた高田良信は、老衰のため4月26日に死去した。享年76。 1941(昭和16)年2月22日、奈良県奈良市に生まれる。幼名は信二。53年、法隆寺に入り、良信と改名。当時の管主だった佐伯良謙(1880~1963)の徒弟となる。龍谷大学文学部仏教学科を卒業し、65年、龍谷大学大学院仏教学専攻修士課程修了。82~1992(平成4)年、法隆寺執事長。93年、法隆寺住職代行に就任。94年、法隆寺管主(代表役員)就任。95~98年、聖徳宗第5代管長・法隆寺第128世住職を務める。自坊は法隆寺実相院。 東大寺に縁のある家に生まれ育ち、当時の東大寺管長・平岡明海の紹介により12歳で法隆寺に入る。幼い頃より寺域から掘り出される古瓦や古材、周辺の古墳に強い関心を持ち、大学院在学の頃には寺内の過去帳や年表、室町時代の子院配置図を自作するなどして、法隆寺の学問的な整理・体系化を志し、のちに「法隆寺学」を提唱。生涯に渡って史料や宝物の調査・研究に取り組んだ。 67年に金堂壁画の再現事業が、68年には若草伽藍の再発掘、同じ頃、『奈良六大寺大観』(岩波書店)刊行のための宝物調査が始まり、考古や歴史、建築、絵画・彫刻の研究者らと交流する機会を多く持つ。71年4月、聖徳太子1350年御忌にて会奉行を務める。81年、聖徳太子1360年御忌事業として高田が提案した『法隆寺昭和資財帳』の編纂事業が開始される。宝物の調査・目録化を行い、のちに全15巻の『資財帳』(小学館、1991~1992年)が刊行された。97年、法隆寺史編纂所を開設。98年10月、百済観音堂の落慶法要を営む。「印鑰継承の儀」や「慈恩会」などの途絶えていた法隆寺の古儀再興にも努めたほか、81年にNY・ジャパンソサイエティ―で開催された法隆寺宝物展や88年の「百済観音像展」(東京国立博物館)など、国内外の展覧会に数多く携わった。 主要な著作は次の通りである。共著『法隆寺』(学生社、1974年)、『法隆寺のなぞ』(主婦の友社、1977年)、『近代法隆寺の歴史』(同朋舎出版、1980年)、『法隆寺の秘話』(小学館、1985年)、共著『四季法隆寺』(新潮社、1986年)、『「法隆寺日記」をひらく:廃仏毀釈から100年』(日本放送出版協会、1986年)、共著『追跡!法隆寺の秘宝』(徳間書店、1990年)、『法隆寺の〓を解く』(小学館、1990年)、共著『再現・法隆寺壁画』(NHK取材班編、日本放送出版協会、1992年)、『法隆寺の〓と秘話』(小学館、1993年)、『法隆寺建立の〓:聖徳太子と藤ノ木古墳』(春秋社、1993年)、『世界文化遺産法隆寺』(吉川弘文館、1996年)、『法隆寺教学の研究』(聖徳宗総本山法隆寺、1998年)、『法隆寺辞典』・『法隆寺年表』(柳原出版、2007年)、『法隆寺学のススメ―知られざる一四〇〇年の軌跡―』(雄山閣、2015年)ほか多数。没後の17年10月、朝日新聞デジタルでの連載(2016年4月~2017年3月)をまとめた『高田長老の法隆寺いま昔』(構成:小滝ちひろ、朝日新聞社)が出版された。

松本俊夫

没年月日:2017/04/12

読み:まつもととしお  映画監督、映画作家、映画理論家の松本俊夫は4月12日死去した。享年85。元日本映像学会会長。前衛的な記録映画や実験映画を手掛け、本邦において映画作家という言葉を初めて職業名として自身に用い、実験映画から劇映画、ドキュメンタリーやビデオアートまで多岐にわたり実験的・前衛的で果敢な作品を残した。また同時代において戦後の戦争責任について映像作家の果たす役割や記録の意義、映画の方法論などを拓き、多くの局面で議論をリードした。 1932(昭和7)年3月26日、愛知県名古屋市に生まれる。55年、東京大学文学部美学美術史学科卒業。大学卒業後、新理研映画に入社しPR映画『銀輪』を初演出する。『銀輪』はPR映画という制作環境ではあったが、美術評論家・詩人の瀧口修造を後見人とした若手アーティストの集う「実験工房」と連携し、山口勝弘、北代省三らと共に松本が絵コンテを書き、特殊撮影の円谷英二と連携した画面における特殊効果を用いた。また当時はまだ無名であった音楽家の武満徹と鈴木博義のミュージック・コンクレート作品を映画内で使用するなど、前衛的・実験的な表現手法を用いて撮影された。その後、58年に新理研映画を退社し、『記録映画』『映画批評』などの雑誌で映像と美術の垣根を超えた先鋭的な観点に基づく映画理論家として活動する一方、映画制作も旺盛に行う。『安保条約』(1959年)、『白い長い線の記録』(1960年)、『西陣』(1961年)、『石の詩』(1963年)などを出がけていき、「京都記録映画を見る会」という市民団体が企画をした記録映画『西陣』で松本は62年度ベネチア国際記録映画祭グランプリを受賞した。この作品では人の手や機械によって規則正しく繰り返される機織りを、細切れにクロースアップされた映像、ショック的な音楽・ナレーション、分断された音声録音を用いて、働く人間をも分断され繰り返される機械的な運動に還元して見せ、同時に人間が分断されている当時の社会状況や労働問題も炙り出した。 続けて、記録映画『母たち』(1967年)ではアメリカ・フランス・ベトナム・ガーナの四カ国の母親らの姿に、作家の寺山修司の作詩を女優の岸田今日子が朗読を行って重ね、抒情的ながらそれぞれの親子の間に存在するアクチュアルな現実と、社会における黒人差別やベトナム戦争の問題等を問い、重ね合わせた。この作品で再びベネチア国際記録映画祭グランプリを受賞(1967年)した。劇映画としては当時16歳の東京・六本木の踊り子であったピーター(池畑慎之介)を主演に起用した『薔薇の葬列』(1969年)、鶴屋南北の狂言『盟三五大切』を基に制作され、忠臣蔵の裏側の愛憎劇を凄惨に描いた、異色の時代劇である『修羅』(1971年)から『ドグラ・マグラ』(1988年)に至る実験的作品などを精力的に発表。夢野久作の長編小説を原作に落語家・桂枝雀が主演をした『ドグラ・マグラ』では、物語の叙述に焦点をあてた脱構築を目指し、文脈を絶えず非認識的に展開させる実験も行っている。 一方、70年の大阪万博では「せんい館」の総合ディレクターを担当すると共に、自身は『スペースプロジェクション・アコ』を発表。複数画面による映像制作を行なった。複合メディア・アートビデオの領域においても『イコンのためのプロジェクション』(1969年)、『シャドウ』(1969年)、『マルチビデオのためのモナ・リザ』(1974年)『ユーテラス=子宮』(1976年)など、多数の作品を残した。 映画理論家としても、『映像の発見―アヴァンギャルドとドキュメンタリー』(三一書房、1963年)、『表現の世界―芸術前衛たちとその思想』(三一書房、1967年)、『映画の変革―芸術的ラジカリズムとは何か』(1972年 三一書房)、『幻視の美学』(1976年 フィルムアート社)、『映像の探求―制度・越境・記号生成』(三一書房、1991年)、『逸脱の映像』(月曜社:編 金子遊、2013年)など多くの著作をおこない、制作・執筆と同時に、映像教育の分野にも尽力。東京造形大学デザイン科助教授(1968―71年)、九州芸術工科大学芸術工学部画像設計学科教授(1980―85年)、京都芸術短期大学映像専攻課程主任教授(1985―91年)、京都造形芸術大学教授(教務部長・1991―94年、芸術学部長・1995―96年、副学長・1997―98年)、日本映像学会会長(1996―2002年5月)、日本大学芸術学部教授(1999―2002年)、日本大学大学院芸術学研究科客員教授(2002―2012年3月)を歴任した。松本の功績に対して、第17回(2013年)文化庁メディア芸術祭功労賞が贈られたが、映像における前衛的実験、多数の著作による映像理論の発展、後進の教育等、本邦に果たした役割は一言に尽くせないものがある。

儀間比呂志

没年月日:2017/04/11

読み:ぎまひろし  生涯にわたり沖縄を描き続けた版画家で絵本作家の儀間比呂志は4月11日、肺炎のため死去した。享年94。 1923(大正12)年3月5日沖縄県那覇市久米町に生まれる。士族であった厳格な父のもとに育つも、もともと絵を描くのが好きだったこともあり、小学校でのちに戦後沖縄美術を代表する画家となった大嶺政寛と出会ったのをきっかけに、画家にあこがれるようになる。一方戦時下の昭和40(昭和15)年頃の沖縄では、日本政府による皇民化政策のもと、方言や琉歌が禁止され、息のつまるような状況であった。さらに父親からも絵を描くことを禁止され、沖縄を離れることを決意。40年5月に家を出、マリアナ諸島のひとつであるテニアン島に行き着き滞在、渡嘉敷守良が座長を務める球陽座で道具方の仕事をしたり、芝居絵を描いたりして暮らした。この沖縄芝居から得たドラマツルギーが、後の絵本制作の原点となる。球陽座はロタ、パラオ、ポナペなど他の島への巡業も盛んに行っており、儀間はロタ島で鉄木の彫刻をしていた杉浦佐助と出会う。その後、テニアン島で杉浦と再会、42年12月に戦況の悪化から球陽座が閉鎖されたのを機に杉浦の弟子となり、カロリナス高地の崖下に丸太を渡して建てた小屋にて寝食をともにしながらデッサンなどを学んだ。杉浦の作品をモデルにしながら、儀間は形の正確な把握よりも、そのものがもつ気の表現に務めたという。43年儀間は徴兵検査の令状を受け、杉浦の勧めもあり帰国。44年海軍へ入隊し、翌45年横須賀にて終戦を迎えた。沖縄の親兄弟は皆亡くなったと聞かされた儀間は、失意のまま大阪へと移り、阿倍野の芝居小屋に道具方として雇われ、舞台風景を描いた。46年夏、大阪市立美術館に付属美術研究所が新設されると、洋画部に第一期生として入学(1951年まで在籍)。須田国太郎らに教えを受けるかたわら、生活のために心斎橋で似顔絵を描いていたという。そのうちに沖縄の母親と兄弟たちが生きていることを知るも、すぐには帰郷せずに精進を重ねる。またこの頃、メキシコ壁画運動の画家、ダビッド・アルファロ・シケイロスやディエゴ・リベラらの絵画に出会い、その表現に強く惹かれた。54年創造美術展へ出品して初入選を果たし、55年堺市展にて会頭賞受賞。翌56年には第11回行動美術展へ「働く女達」で初入選を果たし、以後71年まで毎年出品した。また、同年には戦後初めて沖縄へ帰郷、5月に沖縄・那覇市松尾の第一相互ビルにて個展を開催する。帰阪後には沖縄の現状を伝えるため、肌の色が異なる姉妹が肩を組む姿を描いた作品をその年の平和美術展へ出品する。58年第13回行動美術展へ出品した「働く女」「山原のアンマー」で奨励賞を受賞し、翌59年には第14回展へ出品した「蛇皮線」「龍舌蘭」「民謡」で新人賞を受賞、会友となる。さらに60年の第15回展では「島の踊り」「島に生きる」で会友賞受賞、66年には会員に推挙された。一方で儀間は、行動美術展へ出品をするようになった頃より、東京・上野桜木町に住んでいた上野誠に木版画を学び、56年には浅尾忠男との詩画集『城と車』を刊行。68年には第6回東京国際版画ビエンナーレ展へ「まつりの人々A」「まつりの人々B」を出品する。69年ギャラリー安土にて木版画展を開催、71年には画廊みやざきで版画展を開催した。「沖縄の普及化」を目指していた儀間にとって、安価でより多くの人々の目に触れる版画はうってつけの表現形態であった。さらに儀間は、大人だけでなく子どもに対しても沖縄をアピールしていく必要を感じ、絵本制作にも着手。70年には『ねむりむし・じらあ』(福音館書店)を刊行する。翌71年には『ふなひき太良』(岩崎書店)で第25回毎日出版文化賞を、76年には『鉄の子カナヒル』(岩崎書店)で第23回産経児童出版文化賞を受賞。この間、72年5月には行動美術を脱退、以後木版画をもっぱらの仕事とした。85年米軍撮影の沖縄戦記録フィルムの上映会で、白旗を掲げ米軍に近づく少女の映像に衝撃を受け、沖縄戦をテーマにした絵本の作成に着手。同年『りゅう子の白い旗』(築地書館)を刊行する。海軍に入り、沖縄にいなかった儀間にとって、絵本作りは故郷が受けた苦難を追体験する作業であったという。2005(平成17)年には宮古島のハンセン病療養所での取材をもとにした『ツルとタケシ』(清風堂書店)を、翌06年には石垣島に実在した住民の防衛隊を主人公とした『みのかさ隊奮闘記』(ルック)を刊行。さらに当時リトル・オキナワと呼ばれた南洋の島・テニアンを舞台にした『テニアンの瞳』(2008年、海風社)を番外編として、4冊の絵本は「沖縄いくさ物語」シリーズとしてまとめられた。 没後の18年7月には、沖縄県立博物館・美術館にて「儀間比呂志の世界」が開催された。

大岡信

没年月日:2017/04/05

読み:おおおかまこと  現代日本を代表する詩人で、美術評論も多数手がけた大岡信は4月5日午前10時27分、誤嚥性肺炎による呼吸不全のため静岡県三島市内の病院で死去した。享年86。 1931(昭和6)年2月16日静岡県田方郡三島町(現、三島市)に歌人・大岡博の長男として生まれる。旧制中学在学中から短歌や詩を書き始め、東京大学文学部国文学科在学中の52年、雑誌『赤門文学』に発表した評論が注目を集める。53年に同大学を卒業、読売新聞外報部記者の傍ら旺盛な創作を進め、川崎洋、茨木のり子、谷川俊太郎らの詩誌『櫂』に参加。63年に新聞社を退社後は65年に明治大学助教授、70年に同大学教授、88年より東京藝術大学教授を務める。『記憶と現在』(ユリイカ、1956年)、『透視図法―夏のための』(書肆山田、1977年)、『春 少女に』(書肆山田、1978年)等清新な実験精神に富む詩集、『紀貫之』(筑摩書房、1971年、翌年読売文学賞受賞)、『うたげと孤心』(集英社、1978年)等日本の古典に根ざした斬新な評論を次々と発表。また連歌・連句という日本古来の集団制作の伝統を現代詩によみがえらせる「連詩」を創始、海外の詩人らと共同制作を重ね、また外国での朗読会、講演等を通じて日本文学の紹介に努めるなど国際的にも活動した。 大岡は詩人としての創作活動の傍ら、50年代から美術評論家としても活躍した。56年に東野芳明や飯島耕一ら東京大学時代の仲間とシュウルレアリスム研究会を立ち上げた後、『美術批評』に初めての美術評論「PAUL KLEE」を執筆。同誌の他『みづゑ』『美術手帖』等で活発な美術論を展開し、数々の美術書の解説も手がける。58年、書肆ユリイカが創立十周年を記念して企画した「ユリイカ詩画展」で、大岡の詩に対して駒井哲郎が銅版画を合作。59年に東京・日本橋の南画廊で開催された「フォートリエ展」カタログ作成に協力したのをきっかけに同画廊主の志水楠男と知り合い、同画廊を通じて国内外の現代芸術家と交流するようになる。加納光於、宇佐美圭司、嶋田しづ、サム・フランシス、ジャン・ティンゲリーといった美術家はもとより、武満徹や一柳慧といった音楽家とも親交を結んだ。なかでも加納光於とは60年の南画廊での個展で大岡が作品を買ったことがきっかけとなって親しくなり、互いの詩作、作品制作にも深く係わり合い、共同制作「アララットの船あるいは空の蜜」(1971―72年)を生み出した。また63年にパリ青年ビエンナーレ詩部門に参加するため渡仏した際に菅井汲と出会い、以後幾度か詩と画のパフォーマンス的共演を行うなど、美術家との共同制作を試みたほか、自ら版画や水彩画の制作にも取り組んだ。 79年から『朝日新聞』に連載したコラム「折々のうた」で80年に菊池寛賞を受賞。日本現代詩人会会長、日本ペンクラブ会長を歴任し、1995(平成7)年には恩賜賞・日本芸術院賞を受け日本芸術院会員となる。2002年に『大岡信全詩集』(思潮社)が刊行。03年文化勲章を受章。翌年には文化交流の功労に対しフランス政府からレジオン・ドヌール勲章(オフィシエ)を贈られる。06年から07年にかけて三鷹市美術ギャラリー他で、芸術家同士の交流を通じて収集された作品を紹介した「詩人の眼・大岡信コレクション」展が開催。長男の大岡玲(あきら)は作家。09年に脳出血で倒れた後は一線を退き、療養に努めていた。 大岡の美術に関する主要著書は下記の通りである。『芸術マイナス1』(弘文堂、1960年)『ポロック』(みすず書房、1963年)『芸術と伝統』(晶文社、1963年)『眼・ことば・ヨーロッパ』(美術出版社、1965年)『肉眼の思想』(中央公論社、1969年)『現代美術に生きる伝統』(新潮社、1972年)『装飾と非装飾』(晶文社、1973年)『ドガ』(新潮社、1974年)『岡倉天心』(朝日新聞社、1975年)『日本の色』(朝日新聞社、1976年)『加納光於論』(書肆風の薔薇、1982年)『ミクロコスモス 瀧口修造』(みすず書房、1984年)『抽象絵画への招待』(岩波書店、1985年)『美をひらく扉』(講談社、1992年)

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