山田實

没年月日:2017/05/27
分野:, (写)
読み:やまだみのる

 写真家の山田實は5月27日、肺炎のため糸満市内の病院で死去した。享年98。
 1918(大正7)年10月29日、兵庫県に生まれる。20年、大阪で医師をしていた父が沖縄の養母の家を継ぐことになり、一家で那覇市に移住、同地で育つ。沖縄県立第二中学校(現、那覇高等学校)では美術サークル「樹緑会」に入り絵画にとりくむ。また当時、初めて簡易カメラを入手し撮影・現像を体験した。1936(昭和11)年、同校を卒業、進学のため上京し38年、明治大学専門部商科に入学。在学中、新聞部員として大学新聞の編集にたずさわった。41年、同大学専門部商科本科(昼間部)と新聞高等研究科(夜間部)を同時に卒業、日産土木株式会社に入社し満洲・奉天に配属される。44年、現地で召集され陸軍に入隊、満洲北部でソ連軍と交戦中に終戦を迎え、捕虜となり、二年間のシベリア抑留を経験。47年に復員し、東京の日産土木本社に復職。52年、同社を辞し、沖縄に戻って那覇市内で写真機店を開業した。
 本土から輸入したカメラの販売などを手がけるかたわら、自らも写真にとりくみ、54年、琉球新報写真展に出品した作品「光と影」が特選を受賞、新進の写真家として注目されるようになる。58年に二科展沖縄支部が結成された際には、写真部のメンバーとして参加。また山田の経営する写真機店に沖縄のアマチュア写真家たちが集うようになり、59年に沖縄ニッコールクラブを結成、会長に就任した(独立組織であった同クラブは、72年の本土復帰後はニッコールクラブ沖縄支部に移行、山田は引き続き支部長を務めた)。以後、56年に写真部が設立された沖展、二科沖縄支部、沖縄ニッコールクラブの展覧会への出品を中心に、作品の発表を続け、沖縄写真界の中心人物の一人となっていく。72年から76年にかけては沖縄県写真連盟会長を務めた。
 山田がレンズを向けた対象は、主に沖縄の人々の暮らしやそれをとりまく風景、また祭礼など沖縄固有の伝統行事である。写真に関わる専門教育を受けていなかったことから、写真機店を始めた頃、カメラ雑誌を情報源として多くを学んだ山田は、当時『カメラ』誌の月例欄を拠点に、土門拳がアマチュア写真家たちに呼びかけたリアリズム写真運動にも大きな影響を受けた。そのことは、戦中に戦場となり、戦後はアメリカの統治下に置かれた沖縄の現実とその変化を、カメラを介して見つめ続ける仕事へとつながった。
 また自由な渡航が認められていなかったアメリカ統治下の時代、62年の濱谷浩や69年の東松照明など、本土の写真家の来沖に際し、山田はたびたび身元引受人や案内役を務め、取材の支援のほか、地元の写真家の交流の場を設けるなど、沖縄と本土の写真界の橋渡し役として大きな役割を果たした。
 半世紀以上にわたる写真家としての仕事は、「時の謡 人の譜 街の紋―山田實・写真50年」(那覇市民ギャラリー、2003年)や「山田實展―人と時の往来」(沖縄県立博物館・美術館、2012年)などの回顧展で紹介された他、初めての写真集となった『こどもたちのオキナワ 1955―1965』 (池宮商会、2002年)以降、『沖縄の記憶 オキナワ記録写真集 1953―1972』 (金城棟永と共著、生活情報センター、2006年)、『山田實が見た戦後沖縄』 (琉球新報社、2012年)、『故郷は戦場だった 山田實写真集』(沖縄写真家シリーズ<琉球烈像>1、未來社、2012年)などにまとめられている。
 永年の活動とその功績に対し、沖縄県文化功労者表彰(2000年)、地域文化功労者表彰(2002年)、沖縄県文化協会功労者賞(2002年)、沖縄タイムス賞文化賞(2004年)、琉球新報賞文化・芸術功労賞(2009年)、東川賞飛彈野数右衛門賞(2013年)などを受賞している。

出 典:『日本美術年鑑』平成30年版(444頁)
登録日:2020年12月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「山田實」『日本美術年鑑』平成30年版(444頁)
例)「山田實 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/824256.html(閲覧日 2024-07-19)

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