中路融人

没年月日:2017/07/18
分野:, (日)
読み:なかじゆうじん

 日本画家の中路融人は7月18日、ホジキンリンパ腫で死去した。享年83。
 1933(昭和8)年9月20日、京都府京都市に生まれる。本名、勝博。46年、京都市立第一商業学校に入学。同年、学制改革に伴い京都市立洛陽高等学校付設中学校に転入、49年に同校を卒業する。同年、京都市立美術工芸高等学校絵画科に入学。同校は同年4月に京都市日吉ヶ丘高等学校美術科となった(現、京都市立銅駝美術工芸高等学校)。
 52年に高等学校を卒業、デザイン会社に就職し、テキスタイルデザイナーとして勤務をはじめる。同時に、須田国太郎が主宰する独立洋画研究所でデッサンを学び、作品制作に打ち込む。54年、第10回日展に三人の漁師を描いた「浜」を出品、落選。同年から山口華楊が主宰する晨鳥社に入塾する。翌年には、「牛」を第11回日展に出品。落選であったが、2頭の牛を俯瞰した大胆な構図は、師の強い影響を感じさせる作品として知られる。
 56年、第12回日展で風景画「残照」が初入選する。この作品から以後、おもに湖北の雄大な風景をテーマにした作品を発表した。同年に晨鳥社の研究会、あすなろを結成。62年には、第15回晨鳥社に「郷」(個人蔵)を出品し、京都府知事賞を受賞する。そして、同年の京展に「樹林」を出品し、京都市長賞を受賞。若手の日本画家として頭角を現す。ついに同年の第5回日展において「郷」(株式会社石長蔵)が特選・白寿賞を受賞する。63年の第6回日展からは無鑑査出品となり、「薄暮」を発表。そして、66年には、第1回日春展が開催され、中路も同展に参加した。68年の第3回日春展では、「待春」が入選、外務省買上となる。この時期までの作品は、力強く大胆な色彩による色面構成で描かれている。
 73年、雅号を勝博から融人と改める。同年に新雅号の御披露目もかねた初の個展を京都大丸で開催。75年に第7回日展に「冬田」を出品し、二度目の特選となる。この作品を境に作風が大きく変化し、静謐で穏やかな風景画を描くようになる。79年には、京都〓島屋、日本橋〓島屋、滋賀県立長浜文化芸術会館において個展を開催。また、同年から日展新審査員を務める。83年には、京都府主催の個展が開催され、京都、東京、滋賀を巡回。86年には、第18回日展に「爛漫」を出品、文化庁買上となる。87年に東京と京都で個展を開催。同年に日春会運営委員に就任する。1992(平成4)年に新現代日本画家素描集『中路融人―湖北賛歌』(日本放送出版協会)を刊行。95年に第27回日展で「輝」が文部大臣賞を受賞。それに伴い文部大臣賞受賞記念中路融人素描展を東京と京都で開催する。また、同年に京都府文化功労賞を受賞した。
 そして、97年に前年の日展出品作「映象」が日本芸術院賞を受賞した。同年に日展理事、晨鳥社会長に就任。98年に京都市文化功労者、99年に五個荘町の名誉町民となる。2001年に日本芸術院会員に任命。02年に日展常務理事となる。06年には、滋賀県文化賞を受賞。また、同年の第38回日展では、審査主任を担当する。10年に奈良県立万葉文化館にて「平城遷都1300年記念特別展 中路融人展」を開催。12年に文化功労者、14年に日展顧問、15年に東近江市名誉市民となる。16年には、東近江市に中路が寄贈した作品を展示する東近江市 近江商人博物館・中路融人記念館が開館した。

出 典:『日本美術年鑑』平成30年版(450頁)
登録日:2020年12月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「中路融人」『日本美術年鑑』平成30年版(450頁)
例)「中路融人 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/824301.html(閲覧日 2024-03-28)

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