山崎博

没年月日:2017/06/05
分野:, (写)
読み:やまざきひろし

 写真家、映像作家の山崎博は6月5日、歯肉がんのため東京都三鷹市の病院で死去した。享年70。
 1946(昭和21)年9月21日長野県松本市に生まれる。幼少期に神奈川県川崎市新丸子に移り、同地で育つ。日本大学付属高等学校で写真部に入部、この頃より写真家を志す。65年日本大学芸術学部文芸学科に入学。高校時代からの友人で、ともに同じ学科に進んだ萩原朔美(のち演出家、映像作家)の誘いで、寺山修司の主宰する劇団「天井桟敷」に出入りするようになり、舞台監督助手、舞台監督を務める。68年大学を中退。翌年天井桟敷を離れ、フリーランスの写真家となり『SD』や『美術手帖』などで現代美術や舞台などの写真を担当。
 この頃、被写体を選ばず、与えられた状況で写真画像が得られることそれ自体をめぐって成立する制作のあり方を模索し、自宅の同じ窓から見える光景や、特徴のない海岸と水平線を、定点観測などの手法で撮影する作品にとりくみはじめる。また72年ごろから16ミリフィルムによる実験的な映画作品の制作を開始した。74年、窓のシリーズや海景のシリーズによる初個展「OBSERVATION・観測概念」(ガレリア・グラフィカ、東京)を開催。以後、同題の個展を76年、77年、78年、79年と継続する。また78年にはゼロックス社のPR誌『グラフィケーション』のために、コピー機で風景を撮影する作品を制作するなど、写真を成立させる根本的な要素である光や時間、カメラの原理などめぐって、さまざまな手法の作品を試みる。こうした姿勢は映画作品にも共通し、主な作品に、時間軸の中でフィルムが回るということ自体を表現する作品「A STORY」(1973年)や、天体観測用の赤道儀にカメラをセットし、太陽を一昼夜追尾して撮影した「HELIOGRAPHY」(1979年)などがある。
 独自のコンセプチュアルな制作活動が次第に評価を高め、79年には『ジャパン・ア・セルフポートレイト』(国際写真センター、ニューヨーク)に、当時の日本写真界において注目すべき写真家の一人として選ばれて出品。83年には初の写真集として、太陽の軌跡を長時間露光でとらえた連作による『HELIOGRAPHY』(青弓社)を刊行、また同写真集に収載されている「海と太陽」シリーズにより日本写真協会賞新人賞を受賞した。1989(平成元)年には写真集『水平線採集』(六耀社)を刊行。94年、水平線を撮影した写真によるカレンダー作品で全国カレンダー展総理大臣賞を受賞。2001年の個展「櫻花図」(ニコンサロン、東京・大阪)では、桜の花を被写体とし、夜の屋外でストロボを光源に、フォトグラムの手法を試みた連作を発表、同展で伊奈信男賞を受賞している。
 87年から89年まで東京芸術専門学校で講師、89年から93年まで東京造形大学で非常勤講師を務め、93年に東北芸術工科大学の教授となる。2005年に武蔵野美術大学教授に就任(2017年3月退任)。
 09年にはそれまでの軌跡を振り返る個展「動く写真!止まる映画〓」(ガーディアン・ガーデンおよびクリエイションギャラリーG8、東京)を開催。また死去の直前、大規模な回顧展「山崎博:計画と偶然」(東京都写真美術館、2017年)が開催された。

出 典:『日本美術年鑑』平成30年版(444-445頁)
登録日:2020年12月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「山崎博」『日本美術年鑑』平成30年版(444-445頁)
例)「山崎博 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/824261.html(閲覧日 2024-04-26)

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