本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





小杉武久

没年月日:2018/10/12

読み:こすぎたけひさ  作曲家で演奏家の小杉武久は、10月12日食道がんのため死去した。享年80。 1938(昭和13)年3月24日、東京に生まれる。東京藝術大学楽理科卒業。同大学在学中、水野修孝とともに即興演奏をはじめ、60年に塩見允枝子、刀根康尚らと「グループ・音楽」を結成。61年に第1回公演「即興演奏と音響オブジェのコンサート」(赤坂・草月会館ホール)を開催。その後、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ、邦千谷、土方巽、VAN映画研究所等、前衛的な芸術家との関係を深め、62年には演奏会「演奏の夕」(新宿・風月堂)での一柳慧との共演、犯罪者同盟による演劇公演「黒くふちどられた薔薇の濡れたくしゃみ」(早稲田大学大隈講堂)音楽担当、飯村隆彦による実験映画「くず」のための音楽作曲、一柳慧作曲「パラレル・ミュージック」で小野洋子らとの演奏(NHK第二放送)等という舞踏・演劇・映像のための音楽へと作品発表の場を広げる。63年、第15回読売アンデパンダン展には真空管ラジオを用いた「Micro 4 / instrument」を出品。64年、オフ・ミューゼアム展(新宿・椿近代画廊)にテルミンを使用した「Malika for Object」を出品。同年、マース・カニングハム舞踏団初来日、ジョン・ケージらと共演。65年に渡米、フルクサスの作家と交流を持つ。68年、現代芸術のシンポジウムExpose1968(草月会館ホール)第二夜、室内楽作品の特集で「Catch Wave ‘68」を発表。69年、クロストーク/インターメディア(代々木国立競技場第二体育館)に「Mano―Dharma,electronic ‘69―1」を発表。同年、小杉を中心としてジャズ、ロック、現代音楽などのジャンルの要素を融合させた即興音楽集団「タージ・マハル旅行団」結成。70年、日本万国博覧会では開会式で電子音響「ロボットのイヴェント」、会期中のお祭り広場のテープ音楽、5月と9月の吉原治良制作「夜のイベント」での音楽を担当した。71年、パリ・コミューン100年祭「ユートピア&ビジョンズ」(ストックホルム現代美術館)のために渡欧、その後、ヨーロッパ各地で演奏、タージ・マハルまでの旅を続け、翌年に帰国。76年、マース・カニングハム舞踊団の公演に参加、タージ・マハル旅行団から離れ、翌77年、米国移住、マース・カニングハム舞踏団専属の作曲家・演奏家に就任、世界各地で公演を行い、また美術館でサウンド・インスタレーションの発表も旺盛に行う。その後、ヴァイオリン演奏家としても活動。82年、ハンブルク美術学校の客員教授赴任。86年、パリのポンピドゥー・センターでの「前衛芸術の日本 1910―1970」展に出品、会場でパフォーマンスも行う。1994(平成6)年、マース・カニングハム舞踊団日本公演(新宿文化センターほか)。2008年、横浜トリエンナーレに参加した。インターメディアアート、即興音楽、サウンド・インスタレーションのパイオニアであり、晩年まで、ジャンルを超え、実験的で何ものにも捉われない自由な表現を追求し続けた。歿後、演奏・展示・映像上映を通じて小杉の活動を振り返る「小杉武久の2019」(深谷・HALL EGG FARM、神宮前・360°、UPLINK渋谷、2019年)が開催された。 著書に『音楽のピクニック』(書肆風の薔薇、1991年)、小杉や小杉が参加したグループによるメディアに『グループ・音楽』(HEAR sound art library、1996年、CD)、『小杉武久/Performance』(芦屋市立美術博物館、1996年、VHS)、『タージ・マハル旅行団「旅」について』『小杉武久 Catch―Wave ‘97』(いずれもDiskunion―Super Fuji Discs、2008年、CD)等がある。 美術館での個展には「新しい夏 小杉武久音の世界」(芦屋市立美術博物館、1996年)、「WAVES 小杉武久サウンド・インスタレーション」(神奈川県立近代美術館、2002年、今日の作家Ⅶ)、「小杉武久 音楽のピクニック」(芦屋市立美術博物館、2017―18年)、また国内の美術館での公演として「小杉武久 音の世界 新しい夏 パフォーマンスシリーズ」(芦屋市立美術博物館、1996年)、「日本の実験音楽1960’s演奏会」(水戸芸術館コンサートホールATM、1997年)、「小杉武久コンサート Spacing」(宇都宮美術館、1999年)等がある。川崎弘二編著『日本の電子音楽』(2006年、愛育社、増補改訂版2009年)において、戦後日本の音楽界に旋風をおこした「電子音楽」の作曲家のひとりとしてインタビューが収録されるなど、現代音楽史からも高く評価される。

岩倉壽

没年月日:2018/10/11

読み:いわくらひさし  日本画家で日本芸術院会員、日展顧問、京都市立芸術大学名誉教授の岩倉壽は10月11日、敗血症性ショックのため死去した。享年82。 1936(昭和11)年6月30日、香川県三豊郡山本町(現、三豊市山本町)に生まれる。旧姓門脇壽。55年京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)美術学部日本画科に進み、在学中の58年、第1回新日展に「芭蕉」が初入選する。59年同大学美術学部日本画科を卒業。同年晨鳥社に入塾して山口華楊に師事。61年京都市立美術大学美術学部日本画科専攻科修了。63年京都市立美術大学日本画科助手となる。同年の第15回京展で「里」が京都市長賞を受賞、以後71年まで同展に出品を続ける。この間、70年に京都市立芸術大学の講師となる。72年第4回改組日展で「柳図」、76年第8回改組日展で「山里」が特選を受賞。この間、73年にフレスコ壁画の日本画材による摸写研究のためイタリアへ出張、トンマーゾ・ダ・モデナの「聖オルソラ物語」連作(トレヴィーゾ市立美術館蔵)等を摸写。75年に京都市立芸術大学助教授となる。77年京都市芸術新人賞を受賞。82年日展会員となり、88年第20回改組日展で「沼」により日展会員賞、1990(平成2)年第22回改組日展では「晩夏」が内閣総理大臣賞を受賞。この間、87年に京都市立芸術大学教授となる。96年第9回京都美術文化賞、98年京都府文化賞功労賞を受賞。2002年に京都市立芸術大学を定年退官し、同大学名誉教授となる。03年「南の窓」(第34回改組日展出品)により日本芸術院賞受賞。同年日展理事に就任。04年京都日本画家協会理事長となる。同年京都市文化功労者として表彰。06年日本芸術院会員となる。07年日展常務理事に就任。17年京都府文化賞特別功労賞受賞。風景や花鳥を対象として、中間色を主とする微妙な色調で表現。微細な筆触により創出された画面は澄明な精神性を宿し、確固たる存在感を放つ。京都画壇日本画秀作展には85年第1回展より毎年招待出品。他に79、83年昭和世代日本画展、97、98、01年日本秀作美術展出品。個展としては09年高島屋美術部創設百年記念「岩倉壽展」、10年笠岡市立竹喬美術館「岩倉壽」、11年京都・ギャラリー鉄斎堂「岩倉壽・エスキース展」、15年京都府立堂本印象美術館「京都現代作家展Vol.5 岩倉壽 エスキースと日本画」が開催されている。また11年には笠岡市立竹喬美術館館長の上薗四郎の監修により作品集が刊行された。

秀島由己男

没年月日:2018/10/03

読み:ひでしまゆきお  銅版画家の秀島由己男は、10月3日に死去した。享年84。 1934(昭和9)年4月15日、熊本県水俣市に生まれる。本名秀嶋幸雄。50年、水俣市立水俣第一中学校を卒業。卒業後、中学校の美術教師長野勇が主宰する画塾に通いはじめ水彩画の指導を受け、同画塾では後に歌人、小説家となる石牟礼道子(1927-2018)を知る。また卒業した中学校の事務補佐員として働きはじめ、勤務の傍ら、ペン画を描きはじめる。 53年、第1回熊本県水彩画展に「静物」を出品、グランプリを受賞。同年、第8回熊本県美術協会展に初入選。54年、新日本窒素肥料水俣工場の絵画クラブの市民会員として加入、ここで海老原美術研究所(海老原喜之助主宰)から派遣されていた講師から油彩画の手ほどきを受ける。同年、結核と診断され入院、入院中に短歌を学ぶ。57年、東京より帰郷した浜田知明を紹介され、自作のペン画の助言を受ける。61年、この年に銅版画制作を試みた。 63年11月、第18回熊日総合美術展に「霊歌A」等3点のペン画を出品、神奈川県立近代美術館「K氏賞」受賞、同美術館の買い上げとなる。また、同展の審査員だった海老原喜之助を知り、師事する。65年、水俣市から熊本市に転居。65年11月、第20回熊日総合美術展にペン画3点を出品、そのなかの「祖国の霊」で熊日賞受賞、神奈川県立近代美術館の買い上げとなる。同展の審査員であり、同美術館長であった土方定一を介して、翌年3月、南天子画廊で第1回「秀島由己男個展-ペンに依る黒の歌」を開催。67年、浜田知明より銅版画プレス機を譲り受け、本格的に銅版画制作をはじめる。74年4月、『詩画集・彼岸花』(詩、石牟礼道子)、『版画集・わらべ唄』を南天子画廊から出版、また同月、浜田知明とともに銅版画4点を制作した『土方定一童話集 カレバラス国の名高きかの物語』(歴程社)出版。75年、第1回ユベスキュラ・グラフィカ・クリエイティヴァ国際版画トリエンナーレ(フィンランド)に『版画集・わらべ唄』を出品、ディプロマ賞受賞。80年代以降、国内外での評価の高まりとともに、熊本県立美術館、東京都美術館等の各地の美術館での企画展に出品されるようになる。84年東京に移住するが、なじめずに87年に帰郷。85年、『詩画集 静物考』(詩、高橋睦郎)、1989(平成元)年、『版画集 舊約聖書:詩編より(霊歌)』(選文、高橋睦郎)を南天子画廊から出版。91年10月から11月、熊本市と水俣市にて「秀島由己男自選展」開催。94年4月から翌年3月まで、『熊本日日新聞』に月1回自身の半生をつづったエッセイ「風の舟」を連載。95年1月、大川美術館(群馬県桐生市)にて「魂の叫び 秀島由己男展」開催、ペン画、銅版画等103点出品。97年、『詩画集 われらにさきかけてきたりしもの』(詩、高橋睦郎)を南天子画廊から出版。石牟礼道子の新聞連載小説「春の城」(『熊本日日新聞』1998年4月17日-99年3月1日連載。他に『高知新聞』等6紙に同時に連載。)の挿絵を担当し、300点をこえる作品(内、銅版画239点)を提供した。99年4月、神奈川県立近代美術館別館にて「秀島由己男展」開催、銅版画、ペン画116点出品。 2000年以降、各地の美術館等で回顧展が開催され、主要なものは下記の通りである。 2000年9月、「魂の詩-秀島由己男展」、熊本県立美術館、銅版画等211点出品。 2003年3月「秀島由己男展」、カスヤの森現代美術館(横須賀市) 同年7月「秀島由己男-心の風景」展、八代市立博物館未来の森ミュージアム 2009年8月、「新世界へ…秀島由己男展」、東御市梅野記念絵画館、テンペラ画等45点を出品。 2014年2月、「秀島由己男 創造と探究の生者展」、熊本市現代美術館、作品とともに自身が収集してきたアート・コレクションも初公開された。 2017年2月、コレクション再発見「秀島由己男展」、福島県立美術館 2017年9月、「浜田知明・秀島由己男版画展」、大川美術館、銅版画等62点出品。 なお没後の2019(令和元)年7月、島田美術館(熊本市)にて「秀島由己男展」が開催され追悼された。 緻密な表現による銅版画、ペン画等、「魂の救済」、「魂の叫び」等と評され、孤独感におおわれた幻想性と文学性に富んだ作品を数多く残したが、秀島にとって創作そのものが鎮魂の祈りであったといえるだろう。時流にとらわれることのない、孤高の版画家だった。

川﨑春彦

没年月日:2018/10/02

読み:かわさきはるひこ  日本画家で日展顧問の川﨑春彦は10月2日、老衰のため死去した。享年89。 1929(昭和4)年3月17日、東京都杉並区阿佐ヶ谷において、日本画家の父川﨑小虎と母清子の間に、5人兄弟の末子として生まれる。曾祖父は明治時代の大家として知られる川﨑千虎。また4歳上の兄鈴彦は日本画家で、長姉澄子は40年、春彦11歳の折に東山魁夷に嫁している。41年3月に東京府豊多摩郡杉並第一尋常小学校(現、杉並区立杉並第一小学校)を卒業、4月には日本大学第二中学校に入学する。同年12月には太平洋戦争がはじまり、道路工事や立川飛行機工場での作業に従事。44年12月には一家とともに山梨県中臣摩郡落合村へ疎開した。45年3月に日本大学第二中学校を卒業すると東京美術学校(現、東京藝術大学)予科へ進学。食糧難や社会情勢への不安などから、学校へはたまに行く程度であったといい、終戦後も疎開先に留まり、父小虎や兄鈴彦、義兄の東山魁夷らと山梨の山野を写生して歩き、絵を描く喜びを覚えたという。46年4月東京美術学校日本画科に入学。48年7月には父とともに東京へ戻り、50年3月、東京藝術大学を卒業した。同年4月第10回日本画院展に「山の湖」「十一月の頃」が初入選、10月には自宅近くに取材した「阿佐ヶ谷風景」が第6回日展で初入選を果たした。日本画院展ではその後、第11回展(1951年)で奨励賞、第12回展(1952年)で日本画院賞第一席、第13回展(1953年)で魚菜園賞、第14回展(1954年)で友の会賞、第15回展(1955年)でG氏賞を受賞し、第16回展(1956年)では日本画院賞受賞とともに、同人に推挙されている。51年3月には東京美術学校日本画科第60回卒業生10名による研究発表会「縁日会」の結成に参加、同年の第1回展から54年の第4回展まで毎年出品する。また同年6月には小虎塾の有志が研究会「森々会」を結成、その第1回展へ「四月の頃」「森」「高原」「丘」を出品した。同会へはその後も、56年まで毎年出品している。この頃から川﨑は全国の山や森林を写生して回るようになった。57年3月17日上田陽子と結婚。59年12月には長女麻子が誕生した。61年4月、兄鈴彦との二人展を文藝春秋画廊で開催。同年6月には栃木県会館で「川﨑春彦日本画展」を開く。さらにこの年の第4回新日展では、丹沢山麓でスケッチした、台風前の強風に揺れ動く森のようすに着想を得た「風の森」で特選・白寿賞を受賞した。この頃の作風は大量の写生をもとにした写実的なもので、ごまかしがきかないと自ら語る枯れ木をモチーフにした作品をしばしば手掛けている。62年には第5回新日展に「冬愁」が入選、同作は翌63年2月の第4回みづゑ賞選抜展に招待出品された。また63年には日展無鑑査となり、64年にはインドネシアに取材した「孤島」で再び特選・白寿賞を受賞、65年からは出品委嘱となる。「孤島」は暗く荒れた海と低く垂れこめた雲で構成された作品で、これ以降、川﨑は風や雲を中心テーマとして制作をするようになっていく。69年6月「空をテーマに―川﨑春彦近作展」(フジ・アート・ギャラリー)を開催。73年には日展会員となる。74年11月には「風をテーマに―川﨑春彦展」を日本橋・髙島屋にて開催。同展はさまざまな風の姿を描き分けようと、日本や外国で出会った風のスケッチをもとにした作品で構成された。76年10月の改組第8回日展には、雲間から射す光に照らされた富士を描いた「燿く」を出品。この頃より川﨑は富士山を描きはじめるが、写生だけでは絶対に描けないと、心で見た富士の姿を描き出していった。78年5月、横綱昇進した若乃花(二代)の化粧まわしをデザイン。80年5月には日展評議員となる。83年10月の改組第15回日展では英国に取材した「野」で文部大臣賞受賞。87年の改組第19回日展には富士山を背に勇ましい姿を見せる龍を描いた「天駆ける」を出品。翌年にかけて龍を描いた作品を複数制作する。これ以降、それまで自然の厳しさを表現してきた川﨑の作風が、1990(平成2)年の改組第22回日展へ出品された「天」のように、自然の優しさや美しさを感じさせるものへと変化していった。90年には日本相撲協会より横綱審議委員会委員を委嘱され(2003年まで)、95年に貴乃花が新横綱となった際には、明治神宮での奉納土俵入りに出席。その化粧まわし「日月赤富士」をデザインした。99年に若乃花(三代)が横綱昇進した折には、下保昭とともに化粧まわしのデザインを行い、2000年9月の断髪式には3番目にはさみを入れた。04年改組第36回日展に「朝明けの湖」を出品、翌05年6月同作に対して、恩賜賞・日本芸術院賞が贈られた。同年日展理事となり、06年12月には日本芸術院会員となった。07年には日展常務理事に、09年には同顧問となる。18年5月旭日中綬章受章。没後の10月27日には従四位に叙された。 長女の川﨑麻児も日本画家として活躍している。

最上壽之

没年月日:2018/10/02

読み:もがみひさゆき  彫刻家で武蔵野美術大学名誉教授の最上壽之は10月2日心不全のため死去した。享年82。 1936(昭和11)年3月3日、神奈川県横須賀市に生まれる。55年から光風会研究所にてデッサンを学ぶ。翌年に東京藝術大学彫刻科に入学し、石井鶴三に師事した。60年、同校を卒業。卒業制作の「カギ(鍵)」を同年の第10回モダンアート協会展に「イイイイ」と名付けて出品し、奨励賞を受賞した。翌年の第11回モダンアート協会展に「ダンダンダ」を出品。また、同年はじめての個展を村松画廊で開催する。62年の第12回モダンアート協会展で「ナムナムネ」を出品。同会会員となった。以後、69年まで同展に出品している(1970年に退会)。 63年の「コンタクト・セブン展」(椿近代画廊)では、山口勝弘に推薦され「テンテンテン」を出品。また、同年の「彫刻の新世代展」(東京国立近代美術館)に「ハハハハ」「ミロミロザマミロ」「テキテキテキテキ」を発表するなど、モダンアート協会展以外での活動も行うようになる。翌年、「現代美術の動向展」(国立近代美術館京都分館)にて「笑笑笑々」「安安安々」を発表。66年には第1回神奈川県美術展(神奈川県立近代美術館 以後、第5回まで出品)と第7回現代日本美術展に参加(第10回まで出品)。また、同年第6回フォルマ・ヴィヴァ国際彫刻家シンポジウムと「日本・イタリア作家展」で作品を発表。国内外での評価が高まった。67年には第9回日本国際美術展、71年には第4回現代日本彫刻展に作品を発表。そして、73年には第1回彫刻の森美術館大賞展と「戦後日本美術の展開」(東京国立近代美術館)に参加する。 74年には文化庁在外研修員として渡仏。パリを拠点にヨーロッパでさまざまな美術と触れる。翌年、「コテンパン」で第4回平櫛田中賞を受賞。また、同年に同賞の記念展を髙島屋で行う。同年11月にフランスから帰国。その後、数々の展覧会で賞を受賞している。76年には第5回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で「イキハヨイヨイ カエリハコワイ」を出品し兵庫県立近代美術館賞を受賞、翌年に第7回現代日本彫刻展で毎日新聞社賞を受賞する。79年、第8回同展で東京都美術館賞、80年には第7回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「コンナイイモノ ミタコトナイ」を出品し、朝日新聞社賞を受賞。翌年、「ドコマデイッテモ ボクガイル」で第12回中原悌二郎賞優秀賞を受賞した。83年には第10回現代日本彫刻展で第10回特別記念賞・土方定一記念賞、86年には、みなとみらい21彫刻展 ヨコハマ・ビエンナーレ´86でみなとみらい21賞を受賞。また、同年みなとみらいに屋外彫刻「タイヤヒラメノマイオドリ」が設置された。1990(平成2)年には第12回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で優秀賞を受賞。94年、第14回同展でも佳作賞を受賞している。また、2001年にはこれらの功績が認められ、紫綬褒章を受章した。 彫刻家として高く評価された一方で、教育者としての一面もあり、05年まで武蔵野美術大学彫刻学科教授として後進の教育に携わった。同年、同校にて退任記念展として「コドモ ドコマデモ コドモ」を開催。歿後、同校の教員やOBによって偲ぶ会が行われるなど、多くの彫刻家に慕われていたことが窺える。 先述の作品の他、「ル、ル、ル、ル」(1968年)「バッ ドラネコミャオー」(1979年)「テクテクテクテク」(1983年)など、リズミカルでユーモラスなタイトルが特徴的な作品を多く遺した。その他野外彫刻も手掛けており、新潟県の加茂駅前に「ウキウキ ワクワク ナニモカモ」(1991年)、神奈川県横須賀市の中央公園に「ヘイワ オーキク ナーレ」(1992年)、同県みなとみらい21に「モクモク ワクワク ヨコハマ ヨーヨー」(1994年)を設置している。カタカナのリズミカルなタイトルと、構造的でありながらも軽快な形を有する作品は、今も多くの人々に愛されている。

笠木實

没年月日:2018/08/27

読み:かさぎみのる  春陽会会員の洋画家笠木實は、8月27日に没した。享年98。 1920(大正9)年1月1日、群馬県桐生市に、市内でも有名だった魚問屋「魚萬」を経営し、さらに冷凍工場やバスやタクシー会社を経営していた笠木萬吉の次男として生まれる。はやくから美術に関心を寄せるようになり、桐生中学校在学中の1935(昭和10)年の夏休みに東京にあった西田武雄が主宰するエッチング研究所に通い、銅版画プレス機を購入した。同年12月、西田の紹介で同舟舎研究所に入所して田辺至の指導を受けた。37年、東京美術学校油絵科入学。同期には清宮質文、また一学年下には駒井哲郎がいて交友。同学校在学中から、日本版画協会、国画会展にエッチングを出品。41年12月、同学校を繰り上げ卒業。翌年6月には、桐生倶楽部(桐生市)にて個展を開催。同年7月には第3回日本エッチング作家協会展に出品。43年には、日本版画協会の会員となる。44年、45年とつづけて応召するが、同県下高崎の部隊に配属後に終戦となり除隊。戦後は、前橋市出身の南城一夫に師事し、油彩画に専念することをすすめられ、48年から南城と同じ春陽会に出品するようになった。また、49年には桐生美術協会結成にあたり副会長となり、同年開催の群馬美術展で知事賞を受賞。50年に上京して、岡鹿之助宅に寄寓。51年には春陽会賞を受賞、55年に同会会員となる。64年に武蔵野美術大学の共通絵画研究室に赴任して、以後1990(平成2)年に定年になるまで指導にあたった。68年に東京都小平市にアトリエを設けて転居、以後武蔵野の自然をモチーフに柔和な作品を描きつづけた。 2001年4月、渋谷区立松濤美術館にて「今純三・和次郎とエッチング作家協会」展が開催され、草創期の同協会の画家として青年期のエッチング6点が出品された。また12年12月には、和歌山県立近代美術館に寄贈した作品をもとに、コレクション展として「笠木實と日本エッチング研究所の作家たち」が開催された。17年6月には、桐生歴史文化資料館(桐生市)にて回顧展「笠木實の足跡と魚萬笠木萬吉」展が開催された。また、はやくから雑誌の挿絵、絵本のための絵を描き、若いころからスキー、釣り、山歩きを趣味としていたところから、画文集『魚狗の歌』(二見書房、1974年。96年に平凡社ライブラリーから『画文集 イワナの歌』として再刊)、『岩魚の谷、山女魚の渓』(白日社、1994年)等を残した。

古谷蒼韻

没年月日:2018/08/25

読み:ふるたにそういん  書家で文化功労者であった古谷蒼韻は、8月25日、肺炎のため死去した。享年94。 1924(大正13)年3月3日、京都府巨椋池西の北川顔に生まれる。本名繁(しげる)。1939(昭和14)年尋常高等小学校を卒業し、京都府立師範学校に入学。42年、師範学校に書道専攻科が設立され、中野越南に師事した。小学校教員となり、46年、新制東宇治中学へ書道教員として赴任。隣接する黄檗山萬福寺で費隠の額に感銘を受ける。 51年、水明書道展に出品、53年、第5回毎日書道展に出品し秀作となる。この年、辻本史邑にも師事。翌54年、第10回日展に初入選し、以後、新日展にも出品しつづけ、62年には無鑑査出品、68年、日展会員となる(2013年まで)。58年、辻本史邑急逝により村上三島に師事。71年、第15回現代書道二十人展に推薦作家として出品、73年、日本書芸院展覧会部副部長、日本書芸院特別展観の企画構成を担当。78年、第30回記念毎日書道展の実行委員、同記念中国書蹟名品展特設部展実行委員。以後、読売書法会展、日本書芸院、日展で理事などを歴任した。 自身の展覧会としては、2000(平成12)年に書業五十年記念展を東京と大阪で開催。12年、米寿記念展は京都・東京・名古屋・福岡を巡回。最初の師・中野越南の教えである「真の書」を目指して、和漢の原跡を学びながら、独自の書風を打ち立てた。原跡の鑑賞も重要視し、日本書芸院や読売書法会展では「昭和癸丑・蘭亭展」「禅林墨蹟展」等数多くの展覧会に携わり、普及にもつとめた。 81年、第13回日展出品「流灑」が内閣総理大臣賞。84年、第16回日展出品「萬葉歌」が日本芸術院賞。93年、京都市文化功労者顕彰。06年、日本芸術院会員。10年、文化功労者。

さくらももこ

没年月日:2018/08/15

読み:さくらももこ  漫画家、エッセイスト、作詞家のさくらももこは、8月15日乳がんのため死去した。享年53。 1965(昭和40)年5月8日静岡県清水市(現、静岡市清水区)に生まれる。本名三浦美紀。生家は八百屋業。86年静岡英和女学院短期大学国文科卒業。84年在学時に「教えてやるんだありがたく思え!」が『りぼんオリジナル』(秋の号、集英社)に掲載されデビュー。卒業後出版社勤務を経て、『りぼん』誌に「ちびまる子ちゃん」を連載(1986年8月号~96年6月号)、漫画家活動を本格化する。「ちびまる子ちゃん」は昭和40年代末の清水の町を舞台に親子3世代が暮らす家庭を中心に、永遠の小学3年生の主人公まる子(作者自身も投影)たちの仄々とした日常が描かれていく。1989(平成元)年、同漫画で第13回講談社漫画賞受賞、90年、フジテレビ系列でテレビアニメ化され爆発的な人気となり(番組は休みもあったが、日曜日夕方6時、「サザエさん」の前枠で2020年現在も放映中)、主題歌の「おどるポンポコリン」の作詞も手掛け、第32回日本レコード大賞を受賞する。91年、初のエッセイ集『もものかんづめ』(集英社)は、文庫版も併せて250万部のベストセラーに、92年のエッセイ集『さるのこしかけ』(集英社)で第27回新風賞受賞、93年エッセイ集『たいのおかしら』(集英社)もベストセラーになる。94年、メルヘンの国でシュールなギャグが繰り広げられる「コジコジ」を『きみとぼく』(ソニー・マガジンズほか)に連載を開始、代表作のひとつにあげられる。2000年、書き下ろし雑誌『富士山』(新潮社、全5集)では編集長を兼ね、企画、取材、執筆をこなした。11年個展(名古屋タカシマヤほか)。14年個展(阪急うめだギャラリーほか)。この頃、桑田佳祐、八代亜紀、和田アキ子らの楽曲に作詞を提供した。 「ちびまる子ちゃん」には、昭和の懐かしい風景と作者の鋭い観察眼からなる冷笑、ユーモアが軽快で親しみやすい絵柄で描かれ、テレビや映画などメディアミックスとしても成功し、さくらももこは国民的人気漫画家となった。参考文献として『太陽の地図帖38 さくらももこ『ちびまる子ちゃん』を旅する』(平凡社、2020年)がある。

浜口タカシ

没年月日:2018/08/11

読み:はまぐちたかし  写真家の浜口タカシは8月11日、大腸がんのため横浜市内の自宅で死去した。享年86。 1931(昭和6)年9月2日静岡県田方郡(現、伊豆の国市)に生まれる。本名・隆(たかし)。静岡県内の商業学校を卒業後、関西の写真材料商に勤務していた時に写真に関心を持ち、撮影を始める。 55年に横浜に移住。56年には日本報道写真連盟に加入し、写真店を営むかたわら、戦後社会のさまざまな側面にレンズを向けるようになる。59年には皇太子ご成婚パレードにおける投石事件を撮影、その写真が新聞や雑誌に広く掲載される。この頃からフリーランスの報道写真家として、米軍基地、広島と長崎の両被爆地、大学闘争、水俣や四日市などの公害といった多岐にわたるテーマを精力的に撮影、発表するようになった。68年には個展「記録と瞬間」(ニコンサロン、東京)を開催、翌年写真集『記録と瞬間:浜口タカシ報道写真集1959―1968』(日本報道写真連盟、1969年)にまとめ、報道写真家としての評価を高めた。 70年代以降もさまざまな事件、事故、災害などの現場を取材する一方、60年代半ばから12年間取材を重ねた成田闘争や、80年代に入って帰国が始まった中国残留孤児をめぐる取材、70年代初めから10数年にわたって撮影を重ねた北海道の人と自然をめぐる撮影、またライフワークとして30年以上も続けた富士山の撮影など、長期にわたってとりくんだ仕事も多い。2011(平成23)年の東日本大震災の際にも発生直後に被災地に入り、その後も撮影を重ねるなど、晩年まで意欲的に取材活動を展開した。半世紀以上に及ぶ活動や幅広い取材対象は、一人の写真家の仕事としては稀有というべき、戦後日本社会の広範なドキュメントの形成という成果につながった。 写真集としてまとめられた仕事も多く、その主なものに『大学闘争70年安保へ』(雄山閣出版、1969年)、『ドキュメント・視角』(日本カメラ社、1973年)、『ドキュメント三里塚:10年の記録』(日本写真企画、1977年)、『再会への道:中国残留孤児の記録』(朝日新聞社、1983年)、『北海讃歌』(くもん出版、1985年)、『阪神大震災・瞬間証言』(岡井耀毅、照井四郎との共著、朝日新聞社、1995年)、『私の祖国:戦後50年・中国残留孤児の記録』(中国残留孤児援護基金・朝日新聞社、1995年)、『報道写真家の目:ドキュメント戦後日本[歴史の瞬間]』(日本カメラ社、1999年)、『東日本大震災の記録:報道写真家浜口タカシが見た!2011.3.11』(浜口タカシ写真事務所、2011年)などがある。 一貫して報道機関に属さないフリーランスの立場で報道写真に携わる一方で、63年には日本報道写真連盟横浜支部、69年には二科会写真部神奈川支部の設立に中心的にかかわり、それぞれの支部会長を長く務めた他、66年には横浜美術協会にも加入するなど、横浜のアマチュア写真界の指導者として貢献した。また70年代には関東写真実技学校で後進の指導にあたった。 87年には個展「ドキュメント日本:激動の日々35年」(横浜市民ギャラリー)を開催。同展により88年、第38回日本写真協会賞年度賞を受賞。また97年には長年の活動に対し、第46回横浜文化賞を受賞した。晩年には60-70年代の反体制運動を取材した写真による個展「反体制派」(タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム、東京、2015年)が開催されるなど、市井の写真家による戦後史のドキュメントとして、その仕事にあらためて注目が集まっていた。

下保昭

没年月日:2018/08/07

読み:かほあきら  中国や日本の自然を題材にした幽玄な水墨画で知られる日本画家の下保昭は8月7日、肺がんのため京都市の病院で死去した。享年91。 1927(昭和2)年3月3日、富山県東砺波郡出町神島(現、砺波市神島)の裕福な農家に生まれる。絵心があり旅絵師とも交流があった祖父の影響で画家を志す。43年、44年と京都絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)を受験、学科と実技は合格するも、正科であった軍事教練の成績が悪かったため不合格となる。44年隣町にある呉羽航空に徴用。45年の終戦を機に京都と富山を頻繁に行き来し、家人の知り合いであった石川県松任出身の日本画家、安嶋雨晶を訪ねる。46年第1回富山県展に出品した「白木蓮」が最高賞の富山市長賞を受賞し、これを機に画家として身を立てることを改めて決意。翌年の第2回展に出品した「かぼちゃ」でも市長賞、その後第4回展、5回展、6回展で第二賞、7回展で第一賞、53年の第8回展に出品した「河岸」で三度目の富山市長賞を受賞。この間48年に京都へ出て下宿するようになり、第4回京都市美術展に「雪どけ」が入選するが、同年の第4回日展と翌年の第5回展に出品した「斜陽」は落選。この時期、京都市内の博物館や美術館へ行き池大雅や浦上玉堂、富岡鉄斎等の作品に接する。49年安嶋雨晶の紹介で西山翠嶂の画塾青甲社に入る。画塾で開かれる月一回の研究会に出席する傍ら、大阪釜ヶ崎のドヤ街や横浜、長崎、鹿児島等の港町を転々とし、終戦後の貧民街や場末の風景をスケッチする。50年第6回日展に「港が見える」が初入選、イギリスの画家ベン・ニコルソンの感化による構築的な作風により、以後入選を重ねる。54年第10回日展「裏街」、57年第13回日展「火口原」がともに特選・白寿賞を受賞、61年第4回新日展「沼」で菊華賞を受賞。翌年日展審査員をつとめ会員となった。この頃より大自然と対峙し、そのエネルギーを孕んだ心象風景を描くようになる。62年に日本橋高島屋で初個展を開催。67年第10回新日展で「遙」が文部大臣賞を受賞し、69年には日展評議員となる。この間、63年第7回日本国際美術展、64年第6回現代日本美術展に招待出品。街並みを描いた初期の構築的な作品からモノトーンの風景表現を経て、水墨を基調とした幽玄の画趣深い山水画へと移行し、現代の水墨表現の可能性を追究していく。81年より何必館・京都現代美術館において度々個展発表を行なうようになり、82年、前年の「近江八景」連作(個展、何必館)により第14回日本芸術大賞を受賞。また同年第1回美術文化振興協会賞を受賞。83年中国の壮大な自然に触発された「水墨桂林」連作、翌年には「水墨黄山」(ともに個展、何必館)を発表し、85年新鮮な水墨画の開拓を試み、力と生彩に富む独自の表現をつくり上げたとして芸術選奨文部大臣賞を受賞した。85年画集『中国水墨山水―江・黄山』(新潮社)が刊行、また東京・大阪(〓島屋)、京都(何必館)で「中国山水・下保昭」展が開催された。87年富山県立近代美術館で回顧展を開催。88年画業に専念するため日展を退会、無所属となる。1989(平成元)年京都府文化賞功労賞を受賞。90年には前年の何必館個展で発表した「冰雪黄山」の連作に対して第3回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。91年京都市文化功労者となる。92年笠岡市立竹喬美術館で「下保昭1981―1991 水墨画の可能性を求めて」展開催。93年に作品100点が何必館・京都現代美術館の梶川芳友館長より富山県へ寄贈され、99年に開館した富山県水墨美術館に常設展示「下保昭作品室」が設置、同館では2000年、03年、10年にその画業を紹介する展覧会を開催している。2000年、大津市本堅田にある海門山萬月寺浮御堂に八面の襖絵「紫気東來」を奉納。01年茨城県近代美術館で「時代を超える日本画 山水新世紀―下保昭・色彩七変化―川﨑春彦」展が開催。同年ビジョン企画出版社より画集『下保昭』が刊行。02年京都府文化賞特別功労賞を受賞。03年、北京の国立中国美術館にて「日中平和友好条約締結25周年記念 下保昭画展」が中国文部省の主催で開催される。04年旭日小綬章を受章。岳父は日本画家の小野竹喬。

北野治男

没年月日:2018/07/29

読み:きたのはるお  日本画家で日展理事の北野治男は7月29日、転移性肝がんのため死去した。享年71。 1946(昭和21)年12月5日、大阪府に生まれる。70年京都教育大学特修美術科卒業、71年同専攻科修了。同大学で西山英雄に学び、在学中の67年第10回日展に「フラミンゴ」が初入選、以後入選を重ね、73年改組第5回日展「赤い月」、翌74年「森の中」が連続して特選、同年日春展「幻映」で奨励賞を受賞。この間70年に京都の若手日本画家によるグループである真魚(MAO)を結成、同会の中心的存在として活躍。鳥をモティーフとし、71年に初めて北海道西別の原野を訪れ、大自然に生きるカラスの群れを見て衝撃を受けて以来、北海道の原野に題材を求める。カラスをメインモティーフとした夢幻的な作風から、写実を基調とした表現に変化しながらも、大自然の神秘、生命に対する畏敬の念と共感に根ざした作品を描き続けた。76年第1回京都市芸術新人賞受賞。77年京都・朝日画廊で初個展開催。84年日展会員となる。80年代よりアメリカ南部を度々訪れ、とくにテネシーの風景を描くようになる。2004(平成16)年「道」で第36回日展会員賞受賞。05年日展評議員となる。10年「樹」で第42回日展内閣総理大臣賞を受賞。13年には京都府立堂本印象美術館で「テネシーへの想い 北野治男素描展」が開催される。13年日展理事となる。16年第34回京都府文化賞功労賞を受賞。17年京都市文化功労者として表彰された。

服部峻昇

没年月日:2018/07/29

読み:はっとりしゅんしょう  漆芸家の服部峻昇(本名・俊夫)は7月29日、肺炎のため死去した。享年75。 1943(昭和18)年1月6日、白生地屋を営む父・正太郎と母・うのの三男として、京都府京都市下京区に生まれる。中学校時代の美術教師の勧めで、58年に京都市立日吉ヶ丘高等学校(現、京都市立銅駝美術工芸高等学校)美術工芸課程漆芸科に入学、同校で指導していた漆芸家の水内杏平、平石晃祥らの指導を受ける。61年の卒業作品である漆パネル「佳人」は教育委員会賞を受賞。同年、京都市内の中村デザインスタジオに入り、65年まで勤務の傍ら作品制作を続ける。62年、第14回京展に漆パネル「おんな」で初入選、以後毎年出品を重ねる。63年、第6回新日展に漆パネル「夜の演奏者」で初入選。64年、第17回京都工芸美術展に初出品、以後毎年出品。同年、現代漆芸研究集団「朱玄会」の会員となり、漆パネル「翔」を出品、以後毎年出品。朱玄会を主宰していた番浦省吾に漆芸を学ぶ。65年、上原清に弟子入りし、蒔絵を学ぶ。69年、第22回京都工芸美術展に「漆卓」を出品、優賞受賞。70年、第22回京展に二曲屏風「花象」で市長賞受賞。またこの年、京都で活動する若手の漆芸家によるグループ「フォルメ」を伊藤祐司、鈴木雅也(三代鈴木表朔)らとともに結成、創立同人となる。「フォルメ」では60年代から70年代にかけて隆盛した前衛美術の影響を受けて、とりわけアクリルやカシュー漆などの新素材を漆芸表現に積極的に取り入れた。78年の解散まで、新たな素材との融合から漆工芸のあり方を模索する意欲的な制作を行う。72年、第4回日展で二曲屏風「陽の芯」で特選受賞。75年、文化庁在外研修員として1年間欧米に留学し、スウェーデンのコンストアカデミーやフランスのS.W.ヘイター氏の版画工房などでエッチングを学ぶ。79年、創立第1回日本新工芸展に二曲屏風「パトラスの月」を出品、審査員を務める。80年頃までの作品は、主に太陽や月などをモチーフに、抽象的かつ幾何学的な心象風景と明快な色彩の対比を特徴とした大型のパネルや屏風などの平面作品を中心とした。帰国後は、ギリシャの港町パトラスで見た月夜を題材にした作品シリーズに着手。この一連の作品は、その後「現代の琳派」と評されるようになる作風へと繋がってゆく転換点となる。82年、京都市芸術新人賞を受賞、また第14回日展で飾棚「潮光空間」が特選受賞。服部は以前から螺鈿を用いていたが、この頃より、南方のメキシコやニュージーランドの海で採れる螺鈿(耀貝)を作品制作の主要な素材として用い始める。耀貝のゆらめくような輝きは、波や光、風の移ろいなどの五感に訴える自然現象を表現する際の手法として生かされた。作品は次第に具象的傾向を強め、四季の草花や鳥などのモチーフに耀貝の光沢を組み合わせた情趣豊かな飾棚や飾箱が制作の中心となる。84年、日本新工芸展で耀貝飾箱「曄光」が日本新工芸会員賞受賞。87年、第40回京都工芸美術展で耀貝飾箱「潮文」が大賞受賞。88年、本名の「俊夫」から「峻昇」に改名する。1992(平成4)年、第4回倫雅美術奨励賞(創作活動部門)を受賞。95年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世に謁見、漆の典書台を献上。97年、京都府文化賞功労賞受賞。98年、紺綬褒章受章。99年、第12回京都美術文化賞受賞。玉虫採集家との出会いから、緑色に光る玉虫の翅を手に入れ、2004年から作品制作に取り入れる。05年、京都迎賓館主賓室の飾棚「波の燦」および調度品を制作。06年、京都市文化功労者。12年、第22回日工会展で文部科学大臣賞受賞。日展理事、日工会代表、京都府工芸美術作家協会理事などを歴任。京都に受け継がれた漆芸の伝統を受け継ぐとともに、さまざまな種類の螺鈿の光沢、さらに晩年は玉虫ならではの独特のきらめきを新たに組み合わせ、漆芸の素材に由来する光や質感を大胆に対比させた装飾性の高い日本的風景に独自の世界観を示し、その表現を追求した。

島州一

没年月日:2018/07/24

読み:しまくにいち  版画家、画家の島州一は7月24日、急性骨髄症白血病のため長野県東御市で死去した。享年82。 1935(昭和10)年8月26日東京都麹町区(現、千代田区麹町)に生まれる。祖父欽一は銀座に国内初とされる図案社の島丹誠堂を開設している。 59年多摩美術大学絵画科卒業。在学中は絵画より石版に傾倒。58年「集団・版」結成に参加(1964年まで)。64年初個展(養清堂画廊)。67年版画展(日本版画協会、1971年まで)。『LIFE』誌の写真や政治家を重層化した作品を展開。72年、ニクソンと周恩来の顔を椅子と布団に刷り込んだ「会談」が第7回ジャパン・アート・フェスティバルで大賞受賞。73年「次元と状況」展(1978年まで、新宿・紀伊國屋画廊)に参加。同年、作家たちが個々自宅で発表する「点」展に参加(1977年まで)。同年第12回サンパウロ・ビエンナーレに「200個のキャベツ」出品。74年第9回東京国際版画ビエンナーレ出品の「シーツとふとん」で長岡現代美術館賞受賞。75年、関根伸夫と全国約30か所で「列島縦断展」。同年個展(神奈川県民ホールギャラリー)。島の作品は情報化時代のイコンを自然(野菜や石)、日常品(布団やカーテン)に刷り、版画の概念を拡張していった。78年、200点近い作品を網羅した『KUNIIICHI SHIMA 1970―1977』(現代創美社)を刊行。80年度文化庁芸術家在外研修員としてパリ、ニューヨークに滞在。82年第4回シドニー・ビエンナーレ出品。85年第1回和歌山版画ビエンナーレで優秀賞受賞。87年、自分の表現行為を「モドキレーション」と名付ける。その技法は「身をもって現実を仕切り、測定し、分析、総合する」、触覚に即したフロッタージュを基底とし、テーマとしては初期から一貫している現代の情報化社会における人間の抑圧を問うことだった。1996(平成8)年の個展(玉川髙島屋)から、「造形言語が誕生する瞬間を描く」をテーマとし、主論考として「言語の誕生」(『武蔵野美術大学研究紀要』、2004年35号)を発表。2003年から15年、浅間山を油彩で描いた「Landscape」シリーズを展開。11年個展「原寸の美学」(市立小諸高原美術館)。17年からの闘病の日々を日記風に描いた「とんだ災難カフカの日々」が公式ウェブサイトで閲覧できる。 

亀井伸雄

没年月日:2018/07/17

読み:かめいのぶお  長らく文化庁に勤め、文化財行政に大きな功績を残した亀井伸雄は7月17日に死去した。享年69。 1948(昭和23)年9月19日、神奈川県に生まれる。神奈川県立小田原高等学校を卒業後、東京大学に入学、73年に同大学院工学系研究科修士課程都市工学専門課程を修了。同年4月より文化庁建造物課に勤務した。75年に奈良国立文化財研究所に異動、さらに84年から3年余にわたって奈良市教育委員会に勤務した後、87年に文化庁に戻っている。1999(平成11)年には建造物課長に就任し、2003年には国立都城工業高等専門学校長として宮崎県に赴任、2年間を高等教育の現場で過ごしている。05年には文化庁に復帰し、文化財鑑査官として文化財行政全般を専門的観点から統括する重責を担った。その後、文化庁参与などを経て、10年からは東京文化財研究所の所長を務めている。 行政にあっての亀井の業績は、町並保存、建造物修理、国宝・重要文化財の指定など幅広いが、その功績の中で特筆されるべきものとして災害への対応が挙げられる。95年1月の阪神・淡路大震災においては、建造物課修理企画部門の主任文化財調査官として、文化財建造物の復旧事業を舵取りする立場にあった。また、東京文化財研究所長在任中の11年に起きた東日本大震災に当たっては、東京文化財研究所に置かれた東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援委員会委員長として、被災した文化財のレスキュー事業を統括する役割を担った。この間、大規模災害時における文化財の復旧・復興の重要性への世の認識は大きく変わり、かつて「文化財どころではない」と語られていたことと比べると、文化財に復旧・復興全体のシンボルとしてのイメージが定着した今日は隔世の感がある。亀井は、こうした文化財の社会の中での位置づけが、大きく変わり続ける転換点に立ち会ったことになる。 同じように、文化財、特に建造物の対象が大きく広がる過程にあって、その原動力の一端を担ったことも亀井の功績と言ってよい。96年の登録文化財制度の新設にあたっては、建造物課調査部門の主任調査官としてその中核を成し、明治以降の建造物や、土木構造物の指定・登録も積極的に推進した。さらに、文化庁退任後の15年には文化審議会文化財分科会長に就任し、文化財の活用の重視や保存計画の位置付けの明確化がなされた18年の文化財保護法改正にも関わっている。 また研究者としての亀井の成果は、都市工学科出身という出自を反映してか町並関係の論考が中心である。それらは、奈良国立文化財研究所在籍当時の調査等を中心に、それまでの研究のまとめとして、92年の学位論文「歴史的市街地の構造と保存の評価に関する研究」に結実している。

浜田知明

没年月日:2018/07/17

読み:はまだちめい  銅版画家の浜田知明は、7月17日老衰のため熊本市内の病院で死去した、享年100。 1917(大正6)年12月23日、熊本県上益郡高木村(現、御船町高木)に、小学校の校長であった父高田格次郎の次男高田知明(ともあき)として生まれる。1930(昭和5)年、県立御船中学校に入学、同学校で図画科教師富田至誠(1922年、東京美術学校西洋画科卒業)に学ぶ。34年、中学4年を修了して東京美術学校油画科に入学、在学中は藤島武二教室に学ぶ。39年3月、東京美術学校(現、東京藝術大学)油画科を卒業。同年、応召して熊本歩兵第13連隊補充隊に入隊、中国大陸に派遣され、華北山西省にて作戦警備にあたった。43年、兵役満期で復員、東京都豊島区に居住。翌年6月、熊本市で浜田久子と結婚、翌月再度応召、伊豆七島の新島に派遣される。45年終戦にともない復員。戦後は帰郷して、県立熊本商業学校の教員をしていたが、48年に上京。50年、この年から、駒井哲郎、関野準一郎を訪ね、その助言のもと本格的に銅版画を研究しはじめ、自身の戦争体験をモチーフにした銅版画「初年兵哀歌」シリーズの制作をはじめる。51年10月、第15回自由美術家協会展に「壁」、「初年兵哀歌(便所の伝説)」、「初年兵哀歌(銃架のかげ)」、「戦ひのあと」を出品。53年には銀座のフォルム画廊で初個展開催。「初年兵哀歌」シリーズは、54年までに15点制作された。浜田は、後年、「この戦争に生き残ったものとして、それは、私がどうしても描かずにはいられなかったところのものである。」(「初年兵哀歌」、『現代の眼』207号、1972年2月)と記しているが、この連作が代表作となった。56年には、スイス、ルガノ国際版画ビエンナーレに出品して受賞。同年、第2回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「よみがえる亡霊」、「副校長D氏像」を招待出品、佳作賞受賞。つづいて同年の「世界・今日の美術」展(朝日新聞社主催)にも出品、一躍国内外で注目されるようになった。57年に帰郷、熊本では九州女学院高等学校、福岡学芸大学、熊本大学で非常勤講師を務めながら制作をつづけた。64年、ヨーロッパを訪れ、主にパリに滞在。1年間の滞在を終えて翌年帰国、この年フィレンツェ美術アカデミー版画部名誉会員となる。67年より熊本短期大学助教授として勤務(71年に同大学教授となり、87年に定年退職、ひきつづき客員教授、特任教授として務める。)創作では、その後、戦争、原爆、現代社会を、ユーモアを交えながら鋭く風刺する作品を制作しつづけた。また80年代からは、銅版画と並行して彫刻作品も制作するようになった。80年に第39回西日本文化賞(西日本新聞社主催)を受賞、85年には熊本県近代文化功労者として顕彰された。1989(平成元)年には、フランス政府から芸術文化勲章(レジョン・ドヌール勲章シュヴァリエ章)を受章。 他に版画集『わたくしのヨーロッパ印象記』(大阪フォルム画廊、1970年)、『見える人』(同前、1975年)、『曇後晴』(ヒロ画廊、1977年)、『小さな版画集』(同前、1992年)を刊行した他、93年には『浜田知明作品集』(求龍堂)が刊行され、2007年には画文集『浜田知明 よみがえる風景』を刊行した。70年代以降から晩年まで、浜田の生地にある熊本県立美術館をはじめ、各地の美術館で数多くの回顧展が開催され、その主要なものは下記の通りである。 1975年11月、「浜田知明銅版画作品展 銅版画作品1938-1975」、北九州市立美術館 1979年3月、「浜田知明銅版画展」、熊本県立美術館 同年、「浜田知明展」、オーストリアのアルベルティーナ国立素描美術館(ウィーン)、グラーツ州立近代美術館 1980年5月、「浜田知明・銅版画展 からまで」、神奈川県立近代美術館 1993年10月、「浜田知明展」、大英博物館日本ギャラリー 1994年1月、「浜田知明展」、熊本県立美術館 1996年1月、「浜田知明の全容展」、小田急美術館(東京新宿)、富山県立近代美術館、下関市立美術館、伊丹市立美術館 1999年7月、「銅版画憧憬-駒井哲郎と浜田知明の1950年代 コレクションによるテーマ展示」、東京都現代美術館 2001年10月、「浜田知明 版画と彫刻による人間の探究」、熊本県立美術館  2007年6月、「無限の人間愛 浜田知明展」、大川美術館(群馬県桐生市) 2009年6月、「浜田知明展 不条理とユーモア」、北九州市立美術館 2010年7月、「版画と彫刻による哀しみとユーモア 浜田知明の世界展」、神奈川県立近代美術館葉山 2015年8月、「戦後70年記念 浜田知明のすべて」展、熊本県立美術館 2017年9月、「浜田知明・秀島由己男版画展」、大川美術館 2018年3月、「浜田知明 100年のまなざし」展、町田市立国際版画美術館 なお没後の19年4月には、熊本県立美術館にて「浜田知明回顧展 忘れえぬかたち」が開催された。一兵卒としての戦争体験を原点として、戦後から現代まで、人間観察を通して「人間とは」と問いつづけた銅版画家だった。

星忠伸

没年月日:2018/07/14

読み:ほしただのぶ  東京日本橋の一番星画廊の創業者で美術商の星忠伸は癌のため7月14日死去した。享年71。 1947(昭和22)年12月5日、福島県双葉郡広野町に生まれる。福島県立勿来工業高等学校を卒業後、幼い頃から好きだった絵を学ぶため、京都市立芸術大学への入学をめざし京都に移り住む。新聞配達をしながら受験勉強に励んだものの進学に至らず、当時面識を得ていた画家の福田平八郎の助言により、画商として身を立てることを決心し、上京する。67年から銀座の石井三柳堂に勤務し、中川一政をはじめ多くの画家と出会う。72年、自宅営業の美術商として開業する。77年、作家で僧侶の今東光を通じて美術史家の田中一松と知り合う。星と田中はたまたま近所に住んでいたことから、これ以後、星は83年に田中が亡くなるまで、日常的に田中の運転手役を買って出るなど親交を深め、田中から古美術の手ほどきを受け、その後の星の仕事にも大きな影響を与えたという。一番星画廊が関わった山形県酒田市の本間美術館での展覧会の仕事なども、田中が同館の相談役を務めていた機縁によるという。 87年、古美術商の組田昌平の協力のもと、東京日本橋に株式会社一番星画廊を設立し、公立美術館への作品納入を中心に画廊経営をおこなう。屋号の「一番星」は中川一政の命名によるもので、開廊記念として中川一政展を開催した。看板とした墨書「一番星」も中川一政の印象的な書風が今なお輝かしく、画家と画商のあいだの豊かな親交を物語っている。星は、第一線で活躍する画家のスケッチ旅行の運転手としてその制作を手助けする一方、若い駆け出しの画家を温かく励まし支援するなど、星の明るい人柄とやさしさ、機転の利いた行動力をうかがわせるエピソードを数々の画家や美術関係者が伝えている。1996(平成8)年から2010年にかけて、日本画家・小泉淳作による建長寺法堂天井画および建仁寺法堂天井画の雲龍図や東大寺本坊障壁画等の制作プロジェクトに関わった。星は絵をこよなく愛し、自分がほれ込むような絵を描く画家を大切にしてきた。病を得て、入院先の病室でも小品の絵を賞翫していたという。2020(令和2)年2月29日から3月12日に、星を追悼して「よいの明星」展が一番星画廊にて開催され、親交のあった画家や大寺院の僧侶、美術関係者らの追悼文が寄せられた小冊子が発行されている。

村田省蔵

没年月日:2018/07/14

読み:むらたしょうぞう  日本芸術院会員の洋画家村田省蔵は7月14日午前1時8分、肝臓がんのため、神奈川県鎌倉市の自宅で死去した。享年89。 1929年(昭和4)6月15日、金沢市上堤町に生まれる。生家は生糸問屋を営む。42年、金沢県立第二中学校に入学。44年海軍飛行予科練習生として滋賀航空隊に入隊する。45年の終戦により金沢第二中学校に復学。同年10月に金沢地方海軍付属海軍会館を石川県美術館として開催された第1回現代美術展を訪れて宮本三郎の作品に感動し、画家を志す。46年10月金沢美術工芸専門学校予科に入学し、洋画を専攻して高光一也、宮本三郎に師事。同校での同級生に鴨居玲がいる。49年第35回光風会展に金沢美術工芸専門学校の中庭に集う学生たちを階上から見下ろした「昼近き中庭」で初入選。また、同年、同作と並行して制作していた「診療室の女医さん」で第5回日展に初入選。50年金沢美術工芸専門学校(現、金沢美術工芸大学)洋画科卒業、引き続き研究科に在籍。同年第36回光風会展に「窓辺の女」を出品してムーン賞受賞。同年から小絲源太郎に師事。51年上京し、引き続き小絲の指導を受け、59年第45回光風会展に「渡船場」を出品して会友賞受賞。61年第4回日展に「河」を出品して特選受賞。65年3月日本橋三越で初個展開催。66年光風会を退会する。67年秋、横浜港からモスクワ経由でパリに渡り、ヨーロッパ、アメリカを訪れて68年に帰国。同年、第11回日展に「箱根新涼」を出品して菊華賞受賞。72年および74年にメキシコに旅行する。74年日展審査員となり75年に同会員となる。79年、フランス、スペインを旅する。81年訪中。82年イタリアへ、84年、アメリカ旅行。86年に北海道富良野を訪れ、以後、北海道シリーズを描く。1989(平成元)年、インドネシアのバリ島、イタリアのシチリア島へ旅行。90年から日展評議員をつとめる。93年新潟県長岡市岩室には稲架木の取材に訪れ、以後、稲架木のある風景を好んで描く。98年第30回日展に稲架木のある冬景色を描いた「春めく」を出品して内閣総理大臣賞受賞。2005年第37回日展にやはり稲架木のある冬景色を描いた「春耕」を出品し、06年に同作によって恩賜賞、日本芸術院賞を受賞。同年12月に日本芸術院会員となる。07年に『村田省蔵画集』(北国新聞社)が刊行される。09年9月東京日本橋三越にて「村田省蔵 画業60年 傘寿記念展」を開催。11年5月北國新聞社主催により北國文化交流センターで「画業60年の軌跡」展を開催。12年イタリア、ボローニャに取材旅行。13年1月、郷里の石川県立美術館で「村田省蔵 画業60年の歩み」が開催され、1948年制作の自画像から2012年第68回現代美術展出品作「冬野」まで94点が展観される。年譜は同展図録に詳しい。金沢市が戦後、市民の昂揚のために設立した現代美術展には48年の第4回展から出品を続けたほか、00年に金沢学院大学美術文化学部教授、12年には同名誉教授となるなど、郷里の美術活動に長らく寄与した。初期には人物を主なモチーフとしたが、50年代後半から風景画を中心に描くようになり、67年の渡欧、72年のメキシコ旅行を経て、明るく豊かな色彩を特色とする都市風景画を多く制作した。80年代には北海道の大地を、90年代以降は稲架木のある景色を好んで、自然と人の営みが織りなす風景を描いた。没後の2019(令和元)年6月、石川県立美術館で所蔵作品27点を展観する「没後1年村田省蔵展-大地を描く」展が開催された。

村上肥出夫

没年月日:2018/07/11

読み:むらかみひでお  画家の村上肥出夫は、7月11日、岐阜県下呂市の老人福祉施設で 敗血症のため死去した。享年84。 1933(昭和8)年12月19日、岐阜県土岐郡肥田に生まれる。45年、警察官だった父の定年により、実家のあった岐阜県養老郡養老町に戻る。48年、同県養老郡高田中学校を卒業、卒業後さまざまな仕事をしながら、ゴッホに憧れて絵を独学する。53年に画家を志望して上京、コック見習い、サンドイッチマンなどの仕事をしながら絵を描きつづけた。61年4月頃、銀座並木通り路上で自作を販売していたところ、彫刻家本郷新に見いだされ、本郷の紹介で兜屋画廊社長西川武郎を知り、以後西川の援助で都内にアトリエを持つことになり制作に専念。62年5月、毎日新聞社主催第5回現代日本美術展に、「タワー」、「九段」の2点入選。同年12月の第6回安井賞候補新人展(会場、東京国立近代美術館)に「タワー」、「本郷」が出品され、最終審査まで残るが受賞には至らなかった。63年2月、「村上肥出夫油絵展」(銀座、松坂屋)開催、150点余りの新作を出品。同展は、名古屋市、大阪市にも巡回。同展を契機に、新聞雑誌に取り上げられるようになった。同年4月から8月、パリに遊学。64年4月にはニューヨークに旅行。同年11月、「村上肥出夫 油絵・素描展 巴里・紐育・東京を描く」展(銀座、松坂屋)を開催、油彩画100点、素描・水彩画50点余りを出品。見いだされた「放浪画家」  、「放浪の天才画家」などとジャーナリズムで再び評されるようになった。71年6月、「村上肥出夫新作油絵展」(銀座、松坂屋)開催。この個展に際し、すでに村上作品を数点コレクションしていた川端康成は、「構図の整理などに、多少のわがままが見えるにしても、豊烈哀号の心情を切々と訴へて人の胸に通う。」(「『村上肥出夫新作油絵展』に寄せて」)と評した。72年、パリに滞在して制作、同年のサロン・ドートンヌに出品して銀賞受賞。79年、岐阜県益田郡萩原町の下呂温泉近くに自宅アトリエを構え、東京より移住。1997(平成9)年2月、自宅アトリエ一棟が全焼、98年3月失火により自宅居間が焼ける。この火災による精神的なショックにより体調を崩し、岐阜県高山市の病院に入院。2000年以降、毎年、兜屋画廊をはじめ各地の画廊で展覧会が開催され、04年9月には、「村上肥出夫と放浪の画家たち―漂泊の中にみつけた美」展が大川美術館(群馬県桐生市)にて開催。また、16年4月には、「村上肥出夫―魂の画家」展が東御市梅野記念絵画館にて開催された。 60年代、ジャーナリズムから一躍脚光を浴びて美術界に登場したが、抽象表現主義やダダ的な前衛美術の興隆のなかで、新たな具象表現を模索する流れを背景に、純粋でいながら大胆な表現をつづけた独創の画家だった。生前には、エッセイ集『パリの舗道で』(彌生書房、1976年)があり、また池田章監修・発行『愛すべき天才画家 村上肥出夫画集』(2016年)、ならびに同画集『補遺小冊子』(2016年)、『補遺小冊子2』(2019年)、『補遺小冊子3』(2021年)が刊行されている。

流政之

没年月日:2018/07/07

読み:ながれまさゆき  彫刻家の流政之は7月7日、老衰のため死去した。享年95。 1923(大正12)年2月14日、長崎県に生まれる。父の中川小十郎は立命館大学創設者として知られており、流も同校へ1941(昭和16)年に入学している。在学中は衣笠鍛錬所にて作刀研磨を学ぶ他、太平洋戦争末期にゼロ戦パイロットとして兵役を務める。しかし、出撃命令の前に終戦となったという。 46~51年頃、大学を中退するが、八木一夫や熊倉順吉らを知り、陶芸をはじめた。52年、創元社出版の戸塚文子著『やぶかんぞう』(1952年)、テネシー・ウィリアムズ著『ストーン夫人のローマの春』(1953年)の表紙デザインを手がけるなど、美術関係の仕事をはじめるようになる。 55年になると、彫刻作品の制作に打ち込むようになる。同年、美松画廊、村松画廊で個展を開催。58年、養清堂画廊で個展を開催し、ニューヨークシティバレー団のリンカーン・カースティンが個展を観覧した。また、建築家のイーロ・サーリネン夫婦が作品を購入したという。翌年には、フィリップ・ジョンソン、ミノル・ヤマサキ、マルセル・ブロイヤーなどが作品を購入。当初から海外の芸術家から高く評価され、60年に「受」がニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションとなった。61年にはピッツバーグ・インターナショナルに選出。62年には大分県庁の壁面に「恋矢車」を制作し、日本建築学会賞を受賞する。このように国内外から作品が評価され、同年渡米に至った。 64年、ニューヨーク世界博覧会日本館で「ストーン クレージー」を発表。66年、香川県庵治半島に自身のアトリエを建設した。また、67年には早くも香川県文化功労者に選ばれ、74年には日本芸術大賞と第2回長野野外彫刻賞を受賞。翌年、7年をかけて制作した「雲の砦」が完成し、世界貿易センタービル前の広場に設置された(2001年のアメリカ同時多発テロ事件の際に撤去)。78年には「かくれた恋」で第9回中原悌二郎賞を受賞、83年には吉田五十八賞を受賞している。1995(平成7)年には「波しぐれ三度笠」で鳥取県景観大賞を受賞。そのほか、海外や日本で個展を開催した。 流は、初期から香川県庵治半島で採掘される庵治石を使用し、62年には庵治の職人とともに「石匠塾」を立ち上げ、職人とともに作品制作を行った。また、翌年には、讃岐民具連を結成するなど、美術家だけではなく職人との交流を大切にしたようである。 また、「ワレハダ」という庵治石の特性を生かした技法を考案し、作品に用いたことで知られる。このように、職人からの協力と、独自の技法を駆使し、石による巨大彫刻を制作した。600トンの石を使用した先述の「ストーン クレージー」をはじめ、総社市「神が辻」(1985~92年)、香川県「浜栗林」(1991年)など1000トン~4000トンを使った作品を発表。一方で、東京文化会館の「のぼり屏風」(1961年)、同施設の「江戸きんきら」(1992年)などの建築装飾や、鳥取県米子市の皆生温泉東光園の庭園を手がけるなど、さまざまな分野で活躍した。いずれにしても、空間を最大限に活用した、スケールの大きな作品を発表した。 なお、2009年には高松市美術館で「流政之展」が開催され、これまでの活動が顕彰された。また、同年に『流政之作品論集』(美術出版社)が刊行され、森村泰昌や中ザワヒデキなどが文章を寄せている他、歿後の2019(令和元)年にはNAGARE STUDIO 流政之美術館が開館している。

川崎清

没年月日:2018/06/09

読み:かわさききよし  建築家で京都大学名誉教授の川崎清は入院療養中のところ、6月9日、胃がんのため死去した。享年86。 1932(昭和7)年4月28日新潟県南蒲原郡加茂町(現、加茂市)生まれ、51年に県立三条高等学校を卒業し、京都大学理学部に進学、在学中に工学部建築学科に転じ、建築家で同科講師(1958年助教授、1962年教授)の増田友也に師事した。58年京都大学大学院博士課程を退学して同大建築学科講師に着任、64年助教授、70年大阪大学工学部環境工学科に移り、71年に「建築設計のシステム化に関する基礎的研究-建築設計における情報処理の研究-」により学位を取得、72年教授となった。83年に京都大学に戻り、1996(平成8)年の定年退官後は立命館大学理工学部教授となり、2003年に定年退職するまでのおよそ半世紀に渡って大学に籍を置き、生涯を通じて旺盛であった設計活動と並行して、その大半を教職に献じた。 建築家としては、国立国際会議場競技設計(1963年)や日本万国博覧会会場計画案(1965年)等の論理的かつ挑戦的な提案に加え、後楽園植物温室(1964年)、斐川農協会館、大津柳ヶ崎浄水場(1965年)等先鋭的で凄みのある実作を次々と発表し、早くからモダニズム建築の旗手として注目された。70年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)では、丹下健三のもとに大高正人、菊竹清訓、磯崎新、曽根幸一ら気鋭の建築家が集った設計チームに抜擢され、丹下自ら設計したシンボルゾーン(お祭り広場)に池を挟んで対峙する万国博美術館を担当した。万国博美術館は、巨大な三角形のボリュームにコンクリートの量感ある構造と透明性の高いガラスの空間を対比的に統合した、モダニズム建築家としての川崎の初期の設計活動を象徴する建築である。 大阪万博の閉幕後、京都市内に個人事務所(環境・建築研究所)を設立して設計活動を本格化し、建築の大半を地下に埋め込むことで岡崎公園の近代的景観の継承に深い配慮を示した京都市美術館収蔵庫(1971年)、元々敷地にあったスズカケの大樹を手がかりに地形に呼応した幾何学的構成の中に美術館機能をまとめた栃木県立美術館(1972年)と、自身の代表作となる建築を立て続けに手掛けた。その後も自らの事務所名に冠した通り、建築が存在する「環境」に主眼を置いた設計活動を精力的に展開した。川崎の「環境」への視座は、建築周囲の物理的な状態のみに留まらず、風や水などの流動的な自然環境を意識した徳島県文化の森総合公園(1990年)や能動的な市民活動の活性化を意図した京都市勧業館みやこめっせ(1996年)で顕著に示されるように、建築と相互に関連する外的事象の総体に及んでいる。新築の設計のみならず、史跡・重要文化財の旧緒方洪庵住宅(適塾)の修復整備(1981年)や旧京都帝国大学本館(百周年時計台記念館)の保存再生(2003年)など歴史的建造物の改修にも関わり、また信楽町のまちづくりを主導するなど、川崎が生涯に手がけた建築は多彩かつ幅広い。また、関西を中心に多くの建築設計競技の審査員を務め、激しい景観論争を巻き起こしたJR京都駅改築国際設計競技(1989年)では委員長として審査の取りまとめに尽力した。 万国博美術館の日本建築学会万国博特別賞、栃木県立美術館の芸術選奨・文部大臣賞、京都市勧業館みやこめっせの京都デザイン賞・京都市長賞ほか建築関係の受賞多数、2011年瑞宝中綬章。主な著作に『仕組まれた意匠-京都空間の研究』(鹿島出版会、1991年)、『空間の風景-川崎清建築作品集-』(新建築社、1996年)がある。

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