本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数2,962 件)





伊藤延男

没年月日:2015/10/31

読み:いとうのぶお、 Ito, Nobuo*  元東京国立文化財研究所(現、東京文化財研究所)所長、東京文化財研究所名誉研究員で文化功労者の伊藤延男は10月31日、心不全のため死去した。享年90。 1925(大正14)年3月8日、愛知県に生まれる。江戸時代から続く尾張藩の名工伊藤家の血筋を引く。1947(昭和22)年9月東京帝国大学第一工学部建築学科を卒業。同年10月から東京国立博物館保存修理課技術員に採用され、古建築の保存修理に従事。50年9月文化財保護委員会の創設とともに同事務局保存部建造物課に文部技官(研究職)として奉職。64年文化財調査官、67年奈良国立文化財研究所に出向し、同研究所建造物研究室長、71年6月文化庁に戻り文化財保護部建造物課長、77年同部文化財鑑査官、78年4月東京国立文化財研究所長を歴任し、87年3月退官。同年4月から2年間、慶応大学非常勤講師を務め、1989(平成元)年4月神戸芸術工科大学教授に就任、95年4月同大学名誉教授。99年財団法人文化財建造物保存技術協会理事長に就任、2001年同顧問となる。 この間、78年7月から94年8月まで文化財保護審議会第2専門委員会の委員を務めたほか、日本ユネスコ国内委員会委員、財団法人明治村・永青文庫・成巽閣等数多くの組織・機関の要職に就くなど文化財保護の分野を中心に幅広く活躍し、文化財保護行政・建築史の研究・文化財保護の国際貢献の各分野で顕著な業績を残した。 文化財保護行政の分野では、50年の文化財保護法の成立とともに、旧「国宝保存法」時代の指定文化財建造物や「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」にかかる重要美術品(建造物)の現状を調査し、学術的な判断に基づき整理等を行い石造物や民家等も含め重要文化財等に読替える業務を短期間のうちに精力的にこなした。 日本の高度成長期に市街地再開発や地域開発が進む中で、明治洋風建築や民家の保存が行政課題となったが、前者は日本建築学会歴史意匠委員会の力を借り、また後者は全国の建築史研究者の協力を得て都道府県を事業主体とする調査事業を立ち上げ、全国規模での遺構の把握に努めるなど新たな分野へも積極的に挑戦し、重要な遺構について文化財指定を促進するなど建造物の保存に努めた。民家調査の進展とともに、地域的特色を保つ集落や町並についての保存対策が求められるようになると、72年に建築史、都市計画、歴史学、社会学、行政等の関係する学識経験者等による集落町並保存対策研究協議会を設置し、保存対策を検討した。その傍ら、高山市、倉敷市、萩市の3市を対象に町並調査を実施、保存のための方策を探り、75年の文化財保護法の改正による伝統的建造物群保存地区制度の創設に結びついた。同時に、文化財の保存に欠かせない修復技術等(選定保存技術)の保存制度についても技術面からその成立に尽力した。 建築史の研究分野では、博物館や文化財保護委員会に在職中に全国の社寺建造物を調査した経験に基づき、特に各地に分布する和様の様式を備えた中世の社寺建築の特色を分析しその成果を取りまとめた「中世和様建築の研究」で、61年に工学博士(東京大学)の学位を取得、さらにそれに関連する研究業績により、66年に日本建築学会の学会賞(論文)を受賞した。研究者としての専門的な論考を発表するとともに、多くの美術全集等で古建築について平易に解説し、建物としての見所や鑑賞の仕方についても気配りするなど普及に努めた。 国内の文化財保護行政に関わりながら、恩師の一人である関野克(元東大教授兼建造物課長、東京国立文化財研究所長)からの薫陶もあって海外の文化財事情にも高い関心を持つようになった。国際的な活動としてはローマに設置されたユネスコ関連機関、イクロム(ICCROM;国際文化遺産保存修復センター)の理事を83年から90年まで務めたほか、日本政府代表顧問として80年第21回ユネスコ総会等の国際会議に出席し、また78年から93年までイコモス(IKOMOS;国際記念物遺跡会議)の本部委員、93年から3年間同会議の副会長を務めるなど活躍し、持ち前の誠実で実直な人柄もあって国際的に幅広い人脈を培った。この間、法隆寺や姫路城が世界文化遺産に登録されたが、日本の文化財保護の全般的な姿勢についての理解が必ずしも十分でないことを痛感し、持ち前の人脈を活かして94年奈良市で「オーセンティシティに関する奈良会議」を開催し、日本の文化財保護についての基調講演を行ない理解を求めた。その結果、それぞれの国や地域に培われた文化の多様性を尊重すべきことや、地域に見合った独自のオーセンティシティ(真正性)概念がありそれを認識する必要性について確認することができ、その成果は95年の世界遺産会議で承認されて以降の世界遺産登録の作業指針で生かされることになった意義は大きいものがある。 こうした文化財保護に関する内外への多大な貢献によって、95年に勲三等旭日中綬章を受章、04年には文化財保護の分野で文化功労者に選ばれたほか、11年には文化財保護に関する国際社会における多大な貢献により、イコモス本部からガッゾーラ賞を贈られた。 主な著作等;『中世和様建築の研究』(彰国社、1961年)、『古建築のみかた―かたちと魅力―』(第一法規出版、1967年)、『中世寺院と鎌倉彫刻』(共著、原色日本の美術9巻、小学館、1968年)、『密教の建築』(日本の美術8巻、小学館、1973年)、『文化財講座 日本の建築Ⅰ~Ⅴ』(共著、第一法規出版、1976年)ほか多数。

生賴範義

没年月日:2015/10/27

読み:おおらいのりよし、 Orai, Noriyoshi*  イラストレーターの生賴範義は10月27日、肺炎のため死去した。享年79。 1935(昭和10)年11月17日、兵庫県明石市に生まれる。45年明石の大空襲に遭い、鹿児島県川内市(現、薩摩川内市)に移住。54年東京藝術大学美術学部絵画科へ入学し油画を専攻、ミケランジェロに心酔し、人物のデッサンと油絵に没頭するも、三年で中退。アルバイトをしながら油絵を描き続けていたが、62年、結婚を機に企業の社内報や新聞広告のカットの仕事を開始。次第に出版社から本や雑誌の表紙画や挿絵の依頼も増え、映画のポスター等も手がけるようになる。71年よりSF作家の平井和正、翌72年より小松左京の『復活の日』(早川書房日本SFノヴェルズ版、1972年)をはじめとする小説の装画の多くを担当、その迫力溢れる卓越した画力について、小松は「日本の近代絵画が、あまりに性急な「開化」の国策にそってヨーロッパの「もっとも進んだ」絵画の技法をいれたために、かえって導入しそこねた「ヨーロッパ絵画の伝統」の一つを、いま生賴さんが、SF画の形で私たちの社会に導入しつつあるのではないか」(『イラストレーション』9、1981年)と語っている。73年には母の郷里である宮崎県宮崎市に居を構え、同地で制作に励む。80年、「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」の国際版ポスターが世界的に注目され、日本SF大会において第11回星雲賞(アート部門)を受賞。同年初めての作品集となる『生賴範義 イラストレーション』(徳間書店)を刊行、その中で自らを「生活者としての」「肉体労働者」と称したが、この頃より仕事量は加速度的に増え、88年には装画を担当した書籍が一年間で100点を超えるほどであった。この間、84年には映画「ゴジラ」のためにポスターを描き、2005(平成17)年の「GODZILLA FINAL WARS」まで9作品の宣伝ポスターを手がける。11年に脳梗塞を発症し、療養生活を送ることになるが、14年には宮崎市のみやざきアートセンターで初の大規模な展覧会「生賴範義展 THE ILLUSTRATOR」が開催。同年文化庁映画賞(映画功労部門)を受賞。没後も明石市立文化博物館(2016年)、大分市美術館(2017年)、上野の森美術館(2018年)で巡回展が開催されている。

前田正明

没年月日:2015/10/17

読み:まえだまさあき、 Maeda, Masaaki*  美術史家で武蔵野美術大学名誉教授の前田正明は10月17日、肺炎のために死去した。享年83。 1932(昭和7)年3月3日佐賀県唐津市に生まれる。53年関西大学経済学部卒業後、大阪豊中市立第四中学校の教諭となり、5年間英語教師として教壇に立つ。教職に従事するかたわら、国立大阪外国語大学別科フランス語学科を56年に修了。その後学習院大学で美術史を学び、61年、同大学院人文科学研究科修士課程を修了する。修士論文は「ギリシア・アルカイック彫刻の研究」(富永惣一主査)。ほどなくして前田はギリシャに渡り、アテネ大学哲学部美術考古学科でニコラス・コンドレオン教授の薫陶を受け、さらにアメリカ・ミシガン大学に留学して研鑽を積み、63年に帰国。 65年、武蔵野美術大学造形学部助手に着任、74年に同助教授、80年に同教授に昇任し、1999(平成11)年の定年退官に至る約34年の長きにわたり、同大学にて研究、学生指導、大学運営に尽力する。67年、「クーロス像の研究2―そのプロポーションについて」(『武蔵野美術大学研究紀要』4)、71年に「クーロス像の研究1―腹部の表現について」(同7)を発表し、古代ギリシャ彫刻の様式的発展の端緒を開いたクーロス像の研究に打ち込む。同時に、ギリシャ美術の最も重要なジャンルのひとつであるギリシャ陶器の研究にも勤しみ、71年、「ギリシア陶器の技法」(『陶説』218)を発表。するとやがて、前田の陶器への関心はギリシャを超えて欧米各地にも及び、「英国中世陶器の魅力」(同255、1974年)の発表を皮切りに、『西洋陶磁物語』(講談社、1980年)、『タイルの美・西洋編』(TOTO出版、1992年)、『西洋やきものの世界:誕生から現代まで』(平凡社、1999年)、『西洋陶芸紀行』(日貿出版社、2011年)等を刊行し、西洋陶磁器を中心とする工芸世界の魅力を生涯にわたり紹介した。 古代ギリシャ研究においては80年、「クーロス像の研究3 膝関節部の表現について」(『武蔵野美術大学研究紀要』12)、98年に「彫刻とは何か:ギリシア彫刻の誕生―西洋美術の源流として」(『武蔵野美術』107)を発表して、クーロス像に始まるギリシャ彫刻を最重要テーマとする、一貫した研究姿勢を示す。その一方で、彫刻、絵画、工芸など種々のジャンルに表された数々の神話と多種多様な図像に関する「ギリシア神話の空想動物とその図像」(『世界美術大全集西洋編3―エーゲ海とギリシア・アルカイック』小学館、1997年)は、古代文化に対する幅広い視野に裏打ちされた研究の所産である。 研究・執筆活動以外にも、72年に創立会員として日本ギリシャ協会に加わり、93年には同協会理事に就任したほか、78年、朝日新聞社主催「ギリシア美術展(仮称)」の対ギリシャ政府交渉代表としてギリシャに渡航し、展覧会の実現に寄与するなど、日本とギリシャの文化交流の促進に多大な貢献を果たした。 その履歴・業績については櫻庭美咲作成「前田正明先生履歴・業績目録」(武蔵野美術大学造形文化・美学美術史研究室『美史研ジャーナル』12、2016年)に詳しい。

八賀晋

没年月日:2015/10/06

読み:はちがすすむ、 Hachiga, Susumu*  考古学者で三重大学名誉教授の八賀晋は10月6日、肺がんのため死去した。享年81。 1934(昭和9)年5月15日、岐阜県高山市に生まれる。50年3月高山市立第2中学校卒業。同年4月斐太高等学校入学、53年3月同校卒業。同年4月岐阜大学学芸学部史学科入学、57年3月同科卒業。59年4月名古屋大学文学部研究生となり、翌年4月同大大学院文学研究科史学地理学専攻修士課程に入学、63年3月同課程修了後、同年4月奈良国立文化財研究所歴史研究室に入所した。奈良国立文化財研究所では、平城宮跡発掘調査部、飛鳥藤原宮跡発掘調査部にて諸遺跡の調査に当たった後、76年4月京都国立博物館学芸課考古室長に転出、さらに85年4月に三重大学人文学部の考古学研究室教授に就任し、1998(平成10)年同大を退官して名誉教授となった。また三重大学のほか、35年にわたった岐阜大学や、関西学院大学・同志社大学においても教鞭をとった。 八賀は大学学部生時代より数多くの発掘調査に従事し、調査指導を行なった。岐阜大学から名古屋大学大学院在籍時の主な調査には猿投古窯址群や岐阜県域の古墳などがあり、奈良国立文化財研究所在職時には平城宮跡を始めとして、興福寺、大安寺や岐阜県内の国分寺・地方古代官衙・寺院跡、またその瓦窯跡などの調査に携わった。京都国立博物館在職時には考古学関係展覧会の企画実施といった博物館業務を中心に活動し、三重大学に移ってからは熱心な教育活動に加え、以前より行なってきた岐阜県内の飛騨国分尼寺といった寺院跡や美濃国府などの調査、また船形埴輪を出土したことでも著名な松阪市宝塚1号墳など三重県内の諸古墳を始めとする多数の遺跡調査を精力的に実施した。 八賀の研究や業務実績は幅広い。大学在籍時に行なった業績としては、水田土壌の特徴に着目して弥生時代から古代にかけての集落分布の変化と水田開発との対応関係を指摘した先駆的研究が著名であり、奈良国立文化財研究所在職時では、特定の古瓦様式を持つ寺院の分布と政治勢力との関係を論じた研究などが広く知られている。また京都国立博物館在職時では、美術史展覧会が主体となってきた同館において77年に企画した展覧会「日本の黎明―考古資料にみる日本文化の東と西―」で全国から出土した旧石器時代から古墳時代までの考古遺物によって日本列島の東西文化の違いを示したことで注目を浴び、またこれ以降、〓製三角縁神獣鏡をはじめとする青銅鏡の研究にも取り組んだ。三重大学赴任後は、森浩一らと共に長期に亘って参画した「飛騨国府シンポジウム」や「春日井シンポジウム」、また愛知・岐阜・三重県史編纂を始めとする中京圏を中心とした地域史研究とその広範な普及への積極的な参加がこの時期の八賀の姿勢を示していよう。 学問的な厳しさと社交性を兼ね備えたその人柄は年齢を問わず多くの人々に愛され、発掘調査、遺物・遺構に対する綿密な観察力と図化能力、さらに長年の経験に裏付けられた文化財写真撮影の優れた技術力は、生きた学問として在籍した職場の同僚や学生らに現在も伝えられている。2010年には地域文化功労者文部科学大臣表彰を受けた。

森本草介

没年月日:2015/10/01

読み:もりもとそうすけ、 Morimoto, Sosuke*  端麗な写実絵画で知られた洋画家森本草介は10月1日、心不全のため死去した。享年78。 1937(昭和12)年8月14日森本仁平、久子の長男として父の赴任先であった朝鮮全羅北道全州府に生まれる。43年父の転任のため東京都足立区小台町に転居。44年母の郷里岩手県一関町に疎開し、同年4月に一関町立一関国民学校初等科に入学するが、同年秋、父の赴任先である黄海道海州府に転居。45年終戦を朝鮮半島で迎え、徒歩で京城に到り、京城から引き上げ船で山口県仙崎港を経て、一関町に帰着。一関国民学校初等科2学年に編入。50年3月一関市立一関小学校を卒業して、同市立一関中学校に入学。51年9月上京し、墨田区立堅川中学校に編入。53年同校を卒業し4月に墨田区立墨田川高校に入学、56年に同校を卒業。自由美術協会の画家であった父の影響で画家を志し、阿佐ケ谷美術研究所に学び、58年に東京藝術大学絵画科に入学。61年伊藤廉教室に入り、同年安宅賞受賞。62年東京藝術大学絵画科を卒業し、専攻科に進学。63年第37回国画会展に「聚」で初入選し、以後、同展に出品を続ける。64年3月、東京藝術大学油画専攻科を修了し、4月に同学美術学部助手となる。同年の第38回国画会展に「閉ざされた碑(B)」「閉ざされた碑(C)」で入選。65年第39回同展に「逆光」「碑(B)」を出品し、国画賞受賞。66年第40回同展に「沈む風景」「赤の碑」を出品し会友に推挙される。68年第42回同展に「響」を出品し、同会会友最高賞であるサントリー賞受賞。69年第43回同展に「逆光」を出品し、同会会員となる。同年、東京藝術大学の同世代のグループ十騎会の結成に参加し、以後同展に出品を続ける。70年第5回昭和会展に「貝とリボンのある静物」を招待出品し昭和会優秀賞受賞。71年東京から千葉県鎌ヶ谷市に転居。76年フランス旅行。77年最初の個展となる森本草介展を東京の日動サロンで開催。79年第18回国際形象展に「卓上の構図」「果物と少女」を出品し、以後85年まで同展への出品を続ける。また、同年第22回安井賞展に「午後の翳り」を出品。84年、『森本草介画集』(講談社)刊行。85年第1回具象絵画ビエンナーレ(神奈川県立近代美術館ほか)に「華」を出品。1989(平成元)年1月と10月にフランスへ取材旅行。92年フランスへ取材旅行。94年奈良県立美術館で開催された「輝くメチエ 油彩画の写実・細密描写」展に「朱」(1981年第55回国画会展出品)、「青衣の婦人」(1992年第66回国画会展出品)等、自選による11点を出品。95年『森本草介画集』(求龍堂)が刊行される。学生時代に50年代60年代の抽象画隆盛期を体験し、半抽象的な作品を描いたが、60年代末から写実的で静謐な具象絵画を描くことの追求が始まる。70年代には「昼」(1976年第50回国画会展出品)、「卓上の構図」(1979年第18回国際形象展出品)など、静物を知的な構図に収めて写実的に描く作品が中心であったが、80年代からセピア色を基調とする裸婦や着衣の女性像が主要な作品となった。風景画のほかは自然光を用いず、好みの効果が得られるよう照明を調整し、人物画では後姿や伏目がちな表情を好んで、写実的でありながら虚構の世界を描いた。フェルメールやアングルなどの西洋古典絵画に学び、筆跡を残さないすべらかなマチエールを特色とした。作画の合間に散策とピアノ演奏を楽しみ、画題にも「響き」「間奏曲」「調べ」など音楽に関連するものがある。画家は「私の絵はリアリズムとは違う」「ものを再現しようとしているのではなく、詩を描きたい」「人間存在の不思議とか、その奥にかくれている精神だとか、即物感に興味があるのではない」と語っている(『アート・トップ』143)。自らの生きる時代を「美術運動は多分無力な時代」と認識し、「個人が信じる自己の感性を掘り下げ、深め、みがく行為だけが有効」(同上)と考えて、自然との静かな対話を画面に表した。2010年ホキ美術館開館記念特別展に「横になるポーズ」(1998年)ほかが出品され、11年には同館で森本作品約30点が常設展示されることとなった。12年に『光の方へ 森本草介』(求龍堂)が刊行されており、詳しい年譜が掲載されている。

石本正

没年月日:2015/09/26

読み:いしもとしょう  伝統や規範にとらわれず、自らの心を通して作品を描き続けた日本画家、石本正は9月26日、不整脈による心停止のため死去した。享年95。 1920(大正9)年7月3日、島根県那賀郡岡見村(現、浜田市三隅町岡見)に生まれる。本名正(ただし)。幼少期には豊かな自然の中で小さな生き物と触れあい、素直な感性を培った。1927(昭和2)年岡見尋常小学校へ入学。2年生のときにおじから油絵の具を贈られ、担任の先生と使い方を試行錯誤する。33年島根県立浜田中学校(現、島根県立浜田高等学校)入学。この頃映画や音楽、文学に興味を持ち、独自に油絵も描いていたが、画家になろうとは考えていなかった。38年同校を卒業。40年京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)日本画科予科へ入学するが、伝統的な円山四條派の形式に則った授業に馴染めなかった石本はあまり授業に出席せず、関西美術院や華畝会の研究所などへ通い、石膏や人物のデッサンを学んだ。2回生への進級制作の折には、伊藤若冲の絵に触発され軍鶏を描いたという。44年同校を繰り上げ卒業し、学徒動員で気象第一連隊に配属、翌年復員。47年から大阪の高校で美術教師を務めながら作品を制作し、ボッティチェリの「春」をイメージした「三人の少女」で第3回日本美術展覧会(日展)に初入選を果たす。このときの作品は福田平八郎に激賞され、以後第5回展まで入選を重ねた。49年9月には京都市立美術専門学校助手となる。 50年京都市立美術大学の先輩画家・秋野不矩の勧めで発表の場を創造美術展へ移し、同年「五条坂」「踊子」が入選。翌51年創造美術と新制作派協会が合同して新制作協会となり、その第15回展へ「影」「旅へのいざない」を出品して新作家賞受賞、同会の会友に推挙され、以後第37回展(73年)まで出品した。「踊子」「旅へのいざない」はいずれも女性群像で、石本が50年にパブロ・ピカソの「青の時代」に出てくる女性によく似たモデルと出会ったことから生まれた作品であるという。しかしこの時代の作品は当時、古くさいとして画壇に受け入れられず、石本は次第に自らの愛するロマネスク美術の壁画に見られる太い線を用いた作品を描くようになる。 53年第17回新制作展へ、いずれも太い線を用いて描いた「高原」と「女」を出品、新作家賞を受賞する。作品は高く評価され、55年頃までこうした作品を描き続けるが、迎合的な制作に納得のいかない思いを抱いていた石本は、56年以降従来の花鳥画とはまったく異なる、擦り付けるような強い筆触を感じさせる鳥の絵を次々に発表する。同年の第20回展へは、木下順二脚本の舞台「夕鶴」を見て描いた「双鶴」、さらに「野鳥」の2点を出品し、同会日本画部の会員に推挙され、翌年の第21回展へは自ら編み出したペインティングナイフを用いる技法で描いた「樹根と鳥」を出品。いっときその技法が若い画家たちの間で流行したという。またこの頃より、石本は舞妓や芸妓を描こうと思い、祇園に通い始めた。58年京都の土井画廊で初の個展を開催。59年12月、加山又造・横山操らと轟会(村越画廊)を発足させ、「横臥舞妓」「鶏」「丘の木」を出品、以降も第15回展まで出品した。60年10月村越画廊・彌生画廊主催「石本正個展」(文藝春秋画廊)開催、出品作の「桃花鳥」が翌年1月、文部省買上となる。また60年には京都市立美術大学講師となった。 64年はじめての渡欧を果たし、憧れつづけたヨーロッパの中世美術に触れ、規範にとらわれない自由な美的感覚に共感。同年の新制作展から舞妓を題材とした作品を毎回発表する。石本は田舎出の娘が煌びやかに着飾った、華やかな中に孤独な翳りを見せる舞妓を描きたいとし、顔や手の黒い舞妓を発表、きれいごとではないリアリティがあるなどと評された。67年の第31回展へは、横たわる三人の裸の舞妓を描いた「横臥舞妓」を出品。68年5月「石本正風景展」(彩壺堂)を開催。70年には舞妓の作品ばかりを並べた「石本正人物画展」(彩壺堂)を開催した。このときの「横臥舞妓」などが「日本画における裸婦表現に一エポックを画した」として、翌71年第21回芸術選奨文部大臣賞(美術部門)を受賞。同年3月舞妓をテーマとしたシリーズで第3回日本芸術大賞(新潮文芸振興会)を受賞するが、以後はすべての賞を辞退した。この間、65年に京都市立美術大学助教授(70年教授)となり、69年11月には学生等とともにイタリアへ研修旅行に出かける。以後この旅行は慣例となり、ヨーロッパや中国、インドなどを訪れた。 74年、新制作協会日本画部会員全員が同会を退会し、新たに創画会を結成。9月の第1回展へ石本は「鶏頭」を出品、以後毎回出品する。この頃から石本の女性像は舞妓ではない裸婦が中心となり、アンドレア・マンテーニャの「死せるキリスト」に触発されて描いた83年の「夢」(個展、東京セントラル絵画館)頃から背景に絨毯を描きこむようになった。86年3月京都市立芸術大学教授を退任し、同大学名誉教授となる。1989(平成元)年11月兼素洞にて花の作品ばかりを集めた「石本正「花」展」を開催。この頃から石本は物語性のある作品を描くようになり、映画の舞踏会シーンを思い浮かべて描いたという「牡丹」(89年、第16回創画展)や、花火をイメージしたという「菊」(94年)、また平泉・中尊寺の古面を思い出して描いたという「空蝉」(94年)など、対象を通して得たイメージを画面に表現するようになる。96年には初の本格的な展覧会となる「石本正展―聖なる視線のかなたに―」を開催、92年以降の近作37点と素描50点が展観された。2001年故郷である島根県那賀郡三隅町(現、島根県浜田市三隅町)に石正美術館が開館し、名誉館長となる。この開館を機に、石本はふるさとを意識した作品を描くようになり、創画展へも「幡竜湖のおとめ」(02年、第29回展)などを出品。03年10月には画一的な表現しか認めない当時の画壇に新風を吹かせたいという思いから、石本がはっきりと感動を覚えた作品のみを集めた「日本画の未来」展を開催。09年石正美術館の塔に長年の念願だった天井画を老若男女592人とともに制作する。また06年以降、創画展へは牡丹や薊などの花を描いた作品を中心に発表していたが、14年の第41回展へは薄物をまとい横たわるふたりの裸婦を描いた「裸婦姉妹」を出品、翌15年10月の第42回展へは舞妓を描いた「舞妓座像」が未完のまま出品された。

福島菊次郎

没年月日:2015/09/24

読み:ふくしまきくじろう、 Fukushima, Kikujiro*  写真家・ジャーナリストの福島菊次郎は9月24日脳梗塞のため山口県柳井市の病院で死去した。享年94。 1921(大正10)年3月15日、山口県都濃郡下松町(現、下松市)に生まれる。太平洋戦争末期に二度にわたり陸軍に召集され、終戦まで従軍。戦後復員し、郷里で時計店を開業。戦争末期、広島の部隊に配属されるも、原爆投下直前に九州方面に配置されたことで被爆を免れた経験を持ち、戦後広島に通い、被爆者の撮影を重ねるようになる。写真雑誌への投稿などを通じ評価を高め、1961(昭和36)年、10年以上にわたって被爆者の一家族を撮りためた写真により『ピカドン ある原爆被災者の記録』(東京中日新聞社)を刊行。これにより同年、第5回日本写真批評家協会賞特別賞を受賞、またこの年上京、フリーランスの写真家となる。以降、ライフワークとしてとりくんだ被爆地広島の他、全共闘運動(『ガス弾の谷間からの報告』M.P.S.出版部、1969年)、兵器産業(『迫る危機 自衛隊と兵器産業を告発する』現代書館、1970年)、三里塚闘争(『戦場からの報告 三里塚1967-1977』社会評論社、1977年)、公害(『公害日本列島』三一書房、1980年)など、多岐にわたる社会問題にとりくみ、多数の写真集、著作を発表、また雑誌等に多く寄稿した。 80年代には瀬戸内海の無人島に入植し、ジャーナリストとしての活動を離れるが、昭和の終焉にあたって、あらためて戦争責任を問うために活動を再開、取材の他、執筆、講演、また自身の仕事を写真パネルに仕立て、各地の展示に貸出すなど、広く問題提起を続けた。 晩年は2011(平成23)年に発生した東日本大震災における原発事故を取材、常に反権力、反戦の立場から徹底した取材と発言を重ねてきた姿勢があらためて注目され、その活動を追った映画『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』(長谷川三郎監督、2012年)が制作され、代表作をまとめた写真集『証言と遺言』(デイズジャパン、2013年)も刊行された。15年に死去した後も『ピカドン ある原爆被災者の記録』(復刊ドットコム、2017年)が復刻されるなど、再評価が進んでいる。

スタン・アンダソン

没年月日:2015/09/14

読み:Stanley N.Anderson  造形作家スタン・アンダソンは、9月14日、心筋梗塞のため死去した。享年68。 1947(昭和22)年、アメリカ合衆国ユタ州ソルトレイク・シティに生まれる。66年にモルモン教布教のために初来日、69年まで滞日。71年、ユタ大学心理学科を卒業。73年に再来日し、75年から79年まで美学校の小畠廣志教室で木彫刻を学んだ。80年に帰国して、ニューヨークのプラット・インスティテュート大学院で彫刻、美術史を学び、82年に修了。同年再来日、埼玉県入間市、後に飯能市に住む。以後、国内各地の野外彫刻展にインスタレーションの作品を発表するようになった。なかでも、84年9月、現代彫刻国際シンポジウム(会場:滋賀県守谷市第2なぎさ公園、主催:びわこ現代彫刻展実行委員会、協賛:ブリティッシュ・カウンシル、美術館連絡協議会)に自作のインスタレーションを出品したのに加え、同展のために来日した英国の美術作家デイヴィッド・ナッシュ(David Nash、1945-)の座談会のための通訳をつとめた。ナッシュから制作上の恩恵を受け、これが縁で、1994(平成6)年6月の北海道立旭川美術館の「デイヴィッド・ナッシュ 音威子府の森」展では、ナッシュのアシスタントを務めた。 87年、栃木県立美術館の「アートドキュメント ‘87」で優秀賞を受賞。88年から、世田谷美術館のワークショップに講師として参加、2014年まで継続した。また、埼玉県立近代美術館、三重県立美術館をはじめ、国内各地で開催されたグループ展、ワークショップに積極的に参加した。05年、群馬県吾妻郡六合村の暮坂芸術区に移住。(同村は10年に中之条町に合併)暮坂芸術区は、群馬県の芸術振興に尽力した実業家井上房一郎(1898-1993)が、芸術村として開発をはじめた地であった。同地の自然、野生動物などを素材に、あるいはモチーフにした作品を制作しはじめ、同地での作品を09年群馬県立近代美術館にて、「スタン・アンダソン 東西南北天と地―六合の一年」の個展で公開した。自然から取り出した竹、木、石、動物の毛皮、骨などを素材に、自然が織りなす時間、空間の表情を表現しようとしていた。これに加えて、ネイティヴ・アメリカン、オーストラリアのアボリジニ、日本のアイヌへの関心も深く、現代が忘れた自然への信仰と畏怖への意識もつねに漂わせていた。11年の中之条ビエンナーレでは、居住する同地の古道を、下草を刈りながら再生するプロジェクトをはじめた。これは13年の同ビエンナーレにおいて「犬の散歩道:暮坂高原古道再生プロジェクト」と名付けられ、15年の同ビエンナーレでは、18キロにもおよんだ古道でのワークショップを開幕する直前に急逝した。かざらない純朴で、温厚な人柄とやさしく、的確な日本語の語りは、アーティストとしての自然志向の表現とともに、一般にも広く親しまれていた。一方90年代からは、制作のかたわら、日本語の能力を評価され、国内の美術館カタログの日本語の論文等の英訳に従事することが多くなった。国内の美術館界にとっては、海外への美術情報の発信という点からも、その正確な英訳は高く評価されていた。 没後の16年10月-12月、群馬県立館林美術館にて、「大地に立って/空を見上げて-風景のなかの現代作家」展が開催され、紙漉き作品、立体作品、ドローイングなどが出品され、あわせて活動の記録写真、映像も公開された。同展カタログに掲載された同題名のテキスト(松下和美)によって、その創作の意義が解説され、「略歴」、「主要参考文献」にその事績が簡潔に記されている。

大河直躬

没年月日:2015/09/13

読み:おおかわなおみ、 Okawa, Naomi*  日本建築史(特に中世の建築生産組織や近世民家)の研究者であると同時に、歴史的な建造物や集落・町並等に関する実証的な調査研究を通して培った理念から、早くから人とものとのかかわりのなかで文化財を活かす保護のあり方の必要性を説き、文化遺産の保存と活用に関する指導的役割を担った研究者の一人として知られた大河直躬は9月13日、肺炎のため死去した。享年86。 1929(昭和4)年4月24日石川県金沢市に生まれる。52年東京大学工学部建築学科卒業後、同大学院に進学し太田博太郎教授の指導のもと日本住宅史の研究に携わる。58年3月東京大学大学院数物系研究科専門博士課程修了、翌年4月日光二社一寺国宝保存工事事務所嘱託となり、当時行われていた日光東照宮や二荒山神社、輪王寺の社殿の昭和大修理事業に関わる。60年5月東京大学工学部助手、65年4月東京電機大学建築学科助教授、翌年10月千葉大学工学部建築学科助教授、77年4月同教授、また、87年から2年間東京大学教授を併任、1995(平成7)年3月定年退官、千葉大学名誉教授となる。 学部学生の時から農村建築研究会(農村建築に関する住宅改善等の諸問題を研究するため50年に創設。今和次郎、竹内芳太郎、高山英華、西山卯三、太田博太郎等が参加)に加わり、主として農村建築の形成に関する歴史的分析を行うため、岐阜県白川村や静岡県井川村、さらには奈良県橿原市今井町の民家調査を行った。同研究会での研究成果としては、各地に残る古民家の実証的な研究を通して民家においても復原と編年という建築史学の基本的視点が通用することを見出したことによって、民家研究を建築史の一分野として位置づけることに成功したことがあげられる。その実務経験から生み出された数々の知見は、一部を分担執筆した文化財保護委員会監修の『民家の見方調べ方』(第一法規出版、1967年)として著され、その後の民家の調査研究の発展に大きく貢献することになった。 この時期、現地調査を基本とする民家の実証的な研究を共同で進める一方、かねてから関心の高かった中世工匠の生産活動についての研究も進め、主に『大乗院寺社雑事記』の記述を中心に大工集団の生産組織について建築の立場から掘り下げ、大家族的な血縁関係がその生産活動の原動力であることを突き止めた。この研究は「中世建築の制作組織に関する研究」としてまとめられ、61年に東京大学から工学博士号を授与された。中世大工に関する研究はその後も継続し、研究成果として『番匠―ものと人間の文化史』(法政大学出版局、1971年)を著すなど日本中世大工の生産組織や生活様態を明らかにした。これら一連の業績である「日本中世工匠史の研究」により、74年に日本建築学会賞(論文賞)を受賞した。 また、日光社寺建築に関しては、昭和大修理事業の修理工事報告書の刊行に尽力し、後にその経験を生かしてまとめた『桂と日光』(日本の美術20、平凡社、1964年)、『東照宮』(SD選書、鹿島研究所出版会、1970年)などによって、近世初頭における彫刻及び彩色を多用する煌びやかな日光の社寺建築群の建築史における評価を確立し、霊廟建築に対する関心を高めた。 大学で教鞭をとる傍ら、文化財保護行政にも関わり、長野県(1976~2001年)や千葉県(1981~1982年)の文化財保護審議会委員として活動する傍ら、千葉県や長野県等の民家の研究にも引き続き取り組み、民家等の持つ形態美・構造美を追求していった。この間、90年から2000年まで、国の文化財保護審議会第二専門調査会の委員も務め、数多くの歴史的建造物の指定や保存修理事業に関わった。一方で、74年の佐原(千葉県)や89年の須坂(長野県)の町並調査の主任調査員として関わるなど、商家の町並の保存にも尽力した。こうした文化財建造物の保存への関心は79~80年にかけてドイツやオーストリアの大学に在外研究員として派遣され、西欧建築の研究に従事したことも絡んでいた。 当時の西欧の建築事情は、75年の欧州会議で宣言された欧州建築遺産年の理念に基づき戦後の都市開発等に絡んで歴史的建造物の保存再生事業が数多く展開されていた時期であり、市街地復興や歴史地区再生事業に関する事例を数多く見聞し、帰国後はその経験を加味して経済の高度成長を続ける国内において歴史的建造物の保護について数々の保存論を発表し、後進にも強い影響を与えた。後に『歴史的遺産の保存・活用とまちづくり』(共著、 学芸出版社、2006年)などにまとめられた歴史的建造物の活用に関する数々の論考は、今日の文化財建造物の保存・活用を考える上での指針ともなっている。主な著書(既述を除く)『日本の民家―その美しさと構造―』(現代教養文庫383、社会思想社、1962年)、『日本の民家』(山渓カラーガイド83、山と渓谷社、1976年)、『住まいの人類学―日本庶民住居再考―』(平凡社、1986年)、『都市の歴史とまちづくり』(編著、学芸出版社、1995年)、『歴史ある建物の活かし方』(共同編著、学芸出版、1999年)ほか多数

近藤弘明

没年月日:2015/09/13

読み:こんどうこうめい、 Kondo, Komei*  東洋の仏教的真理を幻想美によって現わし、視覚に語りかけてくる作品を目指し描き続けた日本画家、近藤弘明は9月13日、肺炎のため死去した。享年90。 1924(大正13)年9月14日、東京市下谷区龍泉寺町(現、台東区龍泉3丁目)に生まれる。本名弘明(ひろあき)。家は天台宗寺門派三井寺(園城寺)の末寺にあたる天台宗龍光山三高寺正宝院で、江戸七不動のひとつ、飛不動とも呼ばれた。父・近藤教圓は仏画をよくし、近藤は幼いころから絵の具溶きや絹張りの手伝いをしていたという。1930(昭和5)年、6歳のときに得度受戒し僧籍に入る。36年3月下谷区立龍泉寺小学校を卒業。中学時代には川端画学校のデッサン教室へ通い、一時洋画家となることも考えたという。41年3月文京区の駒込中学校卒業、大正大学師範科に入学する。その一方で当時東京美術学校教授であった常岡文亀に植物写生を習い、43年大学を中退、東京美術学校(現、東京藝術大学)日本画科へ入学した。44年陸軍軽井沢航空教育隊に志願し入隊、八ヶ岳山麓にてグライダー訓練を受ける。訓練中に見た小さな高山植物が強く印象に残り、後の作風に影響を及ぼしたという。その後罹病、陸軍学校を点々とし、終戦後は兄が大僧正となっていた滋賀県大津の園城寺法泉院に滞在、療養に努めるとともに、兄から天台哲学を学ぶ。この頃一時文学を志し、志賀直哉のもとへ通うが、「文学よりも絵に向いている」との助言から、47年画業に専念するため上京、翌年4月東京美術学校に復学した。49年3月東京美術学校を卒業し、以後も同校助教授だった山本丘人に教えを受けた。 50年第3回創造美術展へ「街裏」を出品、初入選を果たす。翌年創造美術と新制作派協会が合同して新制作協会となり、同年の第15回展へ「木馬館」「六区高台」を出品、以後第37回展(1973年)まで毎回出品し、新作家賞を4度受賞、63年には会員となる。また同会の春季展や日本画部研究会へも積極的に出品し、受賞を重ねた。54年第18回新制作展へ「夜の華」など4点を出品。この頃から異形ともいえる幻想的な花や鳥をモチーフとした作品が制作されるようになる。翌年12月尾崎光子と結婚。59年1月、初となる個展(画廊ひろし)開催。60年1月第11回秀作美術展に「月の華」(1959年)が選抜出品され、第15、17回展(1964、66年)にも選抜される。同年7月第2回みづゑ賞選抜展に「解脱」「迦陵頻伽」を出品。この頃より仏教的な世界観に基づくものと考えられる作品が描かれ始める。62年5月第5回現代日本美術展へ「慈母」(のちに「天上の華」と改題)「飛翔」を招待出品、翌年5月第7回日本国際美術展へ「善と悪の園」を招待出品する。以後も前者には第8回展(1968年)まで、後者には第9回展(1967年)まで出品、65年の第8回日本国際美術展では、「寂光」がブリヂストン美術館賞となる。66年第5回福島繁太郎賞受賞。60年代半ば頃より、各モチーフが徐々に具象的となり、画面が遠近法に即した広がりを見せる風景として構成されるようになる。また「幻影」「寂園」(1968年、個展・彩壺堂)など、具体的な菩薩の姿を描いた作品が表れはじめる。71年「今日の日本画―第1回山種美術館賞展―」へ「清夜」を出品、優秀賞となる。74年新制作協会日本画部会員全員が同会を退会、新たに創画会を結成し、9月の第1回展へ「黄泉の華園」を出品、第13回展(1986年)まで出品した。75年6月「一つの神秘的空間を示す画業にたいして」第7回日本芸術大賞が贈られる。76年12月東京・杉並から神奈川県小田原市にアトリエを移転、寂静居と名付けた。82年3月第4回日本秀作美術展に「幻桜」が選抜される。同展へは1990(平成2)年の第12回展に「幻秋(秋の七草)」で再び選抜されて以降、第25回展(2003年)までに10回選抜された。83年10月第10回創画展へ「霊桜」を出品。この頃より描かれるモチーフが現実の草花となり、日本の伝統的な花鳥画を思わせるような構図の画面となっていく。85年第21回神奈川県美術展の審査員となり、以後第31回展(1995年)まで務め、第32回から第39回展(2003年)までは顧問を務めた。86年2月、師である山本丘人が没し、翌年の第13回春季創画展を最後に創画会を退会、以後無所属となる。91年4月紺綬褒章受章。93年9月、初期作品から最新作までを集めた回顧展「華と祈り 近藤弘明展」開催。2000年4月二度目となる紺綬褒章を受章。同年7月には「サンクチュエール日光 近藤弘明展―聖地の神秘を描く」が開催された。

長谷部満彦

没年月日:2015/09/08

読み:はせべみつひこ  東京国立近代美術館工芸館の開館に尽力し、福島県立美術館館長、茨城県陶芸美術館館長を歴任した長谷部満彦は9月8日死去した。享年83。 1932(昭和7)年3月31日宮城県仙台市に生まれる。父は、東京大学理学部教授を勤めた人類学者で学士院会員、文化財保護委員会専門委員等を歴任した長谷部言人。元東京国立博物館次長で東洋陶磁研究の長谷部楽爾は実兄。逗子開成高等学校卒業、1956年東京藝術大学美術学部芸術学科卒業。神奈川県立博物館勤務を経て、東京国立近代美術館分館として計画されていた工芸館の設立準備室に採用された。77年7月工芸課主任研究官・陶磁係長(併任)となり、11月わが国で近・現代工芸を専門とする初の美術館となった工芸館の開館に尽力した。以降、近代工芸の作品収蔵と展示・普及活動を牽引し、「現代日本工芸の秀作―東京国立近代美術館工芸館・開館記念展―」をはじめ、79年「近代日本の色絵磁器」展や81年「石黒宗麿:陶芸の心とわざ」展等の企画展を担当した。82年工芸課長に就任して以降も、84年「河井寛次郎:近代陶芸の巨匠」展や1991(平成3)年「富本憲吉展」等、陶芸関連を主に多数の展覧会を企画し開催した。またイギリス・ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館を主にした在外での研究を踏まえて、明治時代初期の日本を訪れた初の工業デザイナーであるクリストファー・ドレッサーの作品収蔵と紹介に努め、工芸館に工業デザイン部門開設の基盤をつくった。さらに、その頃に日本の近代工芸を海外に紹介し文化として発信する事業が活発となり、82年ボストン美術館他アメリカ各地を巡回した「人間国宝展」をはじめ、89年ユーロパリア’89・ジャパンの催事としてベルギーで開催された「日本の現代陶芸展」や、90-91年北欧4カ国を巡回した「心と技―日本の伝統工芸」展、フランス・パリの三越エトワールで開催された92年「日本の陶芸―百選展」や94年「人間国宝展―日本工芸の華」等を監修した。また現代を代表した藤本能道や清水卯一ら数々の陶芸家の国内回顧展のほか、海外でも90年「三浦小平二の青磁」展や94年「十三代今泉今右衛門展」、96年「清水卯一の陶芸」展、98年「鈴木蔵の志野」展を監修し開催した。92年福島県立美術館館長就任、2000年開館の茨城県陶芸美術館館長を歴任し、近・現代の陶芸に関わる展覧会等を企画・開催した。文化庁の文化財保護委員会専門委員をはじめ日本陶磁協会理事や永青文庫評議員等を勤めたほか、82年以降日本伝統工芸展の鑑審査委員、83年以降日本陶芸展審査員・運営委員、県展等の各地で開催された多数の展覧会の委員も務めて、近代陶芸の発展を検証し陶芸を主に現代の工芸家らの制作を評価した。編集・著作に、『近代日本の色絵磁器』(淡交社、1979年)、『陶芸 石黒宗麿作品集』(毎日新聞社、1982年)、『松井康成 陶瓷作品集』(講談社、1984年)、『日本の美術11 No.306 陶芸―伝統工芸』(至文堂、1991年)、『原色日本の美術33 現代の美術』(小学館、1994年)、『富本憲吉全集2 富本憲吉の東京時代』(小学館、1995年)等がある。

中平卓馬

没年月日:2015/09/01

読み:なかひらたくま、 Nakahira, Takuma*  写真家の中平卓馬は9月1日肺炎のため横浜市内の病院で死去した。享年77。 1938(昭和13)年7月6日、東京市渋谷区原宿に生まれる。63年東京外国語大学スペイン科卒業。同年、現代評論社の総合誌『現代の眼』の編集部に入る。写真家東松照明に映画批評の寄稿を依頼したことをきっかけに、写真に関心を持ち、同誌に写真ページを設け、編集を担当、自らも撮影するようになる。65年現代評論社を退社、日本写真家協会主催の「写真100年 日本人による写真表現の歴史」展(東京・西武百貨店池袋店、1968年)の編纂作業に携わる一方、『現代の眼』、『アサヒグラフ』などに作品を発表、写真家、批評家として活動を展開する。 66年には森山大道と共同事務所を開設。68年に多木浩二、高梨豊、岡田隆彦を同人として季刊誌『PROVOKE』を創刊(2号より森山大道が参加、3号で終刊)。同誌などに発表した作品により69年、第13回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞。既成の写真美学を否定し、「アレ・ブレ・ボケ」と評された過激な写真表現が注目され、写真集『来たるべき言葉のために』(風土社、1970年)、雑誌等に寄稿した文章による評論集『なぜ、植物図鑑か』(晶文社、1973年)など、実作、批評の両面から写真表現にラディカルな問いを発する活動を展開、当時の写真界に特異な存在感を示した。69年および71年には「パリ青年ビエンナーレ」、74年には「15人の写真家」展(東京国立近代美術館)に参加。 77年に急性アルコール中毒で倒れ記憶の一部を失うが、療養の後、写真家として再起。83年には写真集『新たなる凝視』(晶文社)を発表。1989(平成元)年には『Adieu a X』(河出書房新社)を刊行、翌年同写真集に対し第2回写真の会賞を受賞。97年には個展「日常 中平卓馬の現在」(愛知・中京大学アートギャラリーC・スクエア)を開催。その後、2010年代初めまで活動を続けた。 73年にそれまでの作品を自己批判、プリントやネガの大半を焼却したとされていたが、当時の助手のもとにかなりのネガが残されていたことが判明し、それをきっかけとして03年には横浜美術館で大規模な個展「中平卓馬:原点復帰-横浜」が開催された。また同年ドキュメンタリー映画「カメラになった男-写真家中平卓馬」(小原真史監督)が制作され、評論集『見続ける涯に火が…批評集成1965-1977』(オシリス、2007年)、写真集『来たるべき言葉のために』(1970年の写真集の復刻、オシリス、2010年)、初期の雑誌掲載作品の集成『都市 風景 図鑑』(月曜社、2011年)が刊行されるなど、晩年あらためてその仕事に注目が集まり、再評価が進んでいた。

三浦景生

没年月日:2015/08/28

読み:みうらかげお、 Miura, Kageo*  染色家の三浦景生は8月28日死去した。享年99。 1916(大正5)年8月20日、父久次郎、母タキの長男として京都市に生まれる。本名景雄。1932(昭和7)年、丸紅株式会社意匠部に染織図案制作の見習いとして入社する。42年、大阪陸軍造兵廠に徴用される。45年、終戦とともに徴用を解かれる。46年、丸紅株式会社意匠部の再建に参加。47年第3回日展に蝋染屏風「池の図」が初入選。同年、丸紅株式会社図案部を退社し、小合友之助を師事。その後、京展や日展に出品を行う。55年には初の個展である「三浦景生染色工芸展」を京都府ギャラリーで開催。59年、第2回新日展にて、「朧」が特選・北斗賞を受賞。この時期の作品から、現像的・無双的な具象表現から知的で鋭い抽象表現に移行したと評される。61年以降、染色作品展(黒田暢、寺石正作、来野月乙、三浦景生)を京都府ギャラリーや養清堂画廊で開催。養清堂画廊では、65年に「三浦景生作品展」、66年には「三浦景生・五東衛(清水九兵衛)展」、77年「三浦景生染絵展」等を開催する。 62年第1回日本現代工芸美術展にて「青い風景」が会長賞・文部大臣賞を受賞。翌年、京都市立美術大学美術学部工芸科染織図案の助教授となる。67年、社団法人日展の会員となる。71年、京都市立芸術大学美術学部工芸科染織専攻の教授となる。78年には第30回京展にて「春の譜(椿と水仙)」が記念市長大賞を受賞。80年には「染と織-現代の動向」展(群馬県立近代美術館)に出品。翌年には「ろう染の源流と現代展」(サントリー美術館)に出品。1982年『三浦景生作品集』(染織と生活社)を出版。同年、京都市立芸術大学を定年退官し、名誉教授の称号を受ける。大手前女子大学が染色科を創設したことに伴い、教授に着任。 83年には「現代日本の工芸展-その歩みと展開」(福井県立美術館)に出品。同年、京都府文化功労者に選ばれる。84年、「京都府企画・三浦景生展」(京都府立文化芸術会館)を開催。同年より染織と生活社刊行の月刊誌「染織α」の表紙絵の担当を始める(1998年4月号まで担当)。さらに、石川県九谷焼技術研修所に出講し、作図の指導を行う。これが契機となり、九谷焼に依る色絵磁器の制作を試みるようになる。同年、京都市文化功労者に選ばれる。 85年には有楽町の阪急百貨店にて「三浦景生の宇宙」展を開催。87年、「1960年代の工芸(高揚する新しい造詣)」展(東京国立近代美術館工芸館)に出品。同年、第9回日本新工芸展にて「きゃべつ畠の虹」が内閣総理大臣賞を受賞。1990(平成2)年、「染の世界・三浦景生展」(高島屋美術画廊/京都)を開催。91年、京都のギャラリーマロニエにて月刊染織αの「表紙絵原画展」を開催。94年には「現代の染め四人展 佐野猛夫、三浦景生、伊砂利彦、来野月乙」国立国際美術館に出品。同年、京都工芸美術作家協会の理事長となる。 95年、第13回京都府文化賞特別功労賞を受賞。96年、『三浦景生作品集』を求龍堂より出版。98年目黒区美術館にて「染の詩-三浦景生展」を開催。99年、芸術選奨文部大臣賞を受賞。2000年、「染・1990-2000 三浦景生展」(エスパスOHARA/東京)を開催。 題材に野菜なども好み、染色家としてのパネルや着物だけでなく、陶板や陶筥も制作している。活動は制作だけでなく、嵯峨美術短期大学や多摩美術大学、京都精華大学等でも講義や講演を行った。 16年には回顧展となる「三浦景生の染め 白寿の軌跡」が京都市美術館で開催された。 作品は東京国立近代美術館や京都国立近代美術館等に所蔵されている。

高晟埈

没年月日:2015/08/25

読み:コソンジュン  ビザンティン美術史、北東アジア近現代美術史の領域でめざましい活動を続けていた新潟県立万代島美術館主任学芸員の高晟埈は、8月25日午前8時15分(現地時間)、トルコ共和国でのカッパドキア壁画調査旅行中に心不全で急逝した。享年40。 韓国籍の特別永住者であった高は、1974(昭和49)年9月19日に埼玉県川口市に生まれる。81年5月から84年7月の間、大韓民国の済州島で過ごし、同地の済州西国民学校(現、初等学校、日本の小学校)に通った。日本に帰国後、1990(平成2)年に埼玉県立浦和高等学校に入学。93年同高等学校卒業後、優れた成績で東京芸術大学美術学部芸術学科に入学。入学時の新入生挨拶で「エルミタージュ美術館の学芸員になりたい」と語るなど、はやくから美術史家・学芸員となることを強く意識していた。在学時には西洋美術史の越宏一教授に師事。ロシア美術、ビザンティン美術を主たる研究対象とした。96年5月に安宅賞受賞。97年に卒業論文「«クルドフ詩篇»に関する覚書」で第1回杜賞受賞、同年に東京芸術大学美術研究科修士課程芸術学専攻に進む。この頃から、自分が書く氏名をそれまでの通名(日本名)である大家晟埈(おおやせいしゅん)から本名の高晟埈(コ・ソンジュン)に変更。大学院では、芸大が60年代に実施した中世オリエント遺跡学術調査団による調査資料を出発点に、現地調査を行ったトルコ・カッパドキア壁画アーチ・アルト・キリセシを包括的に考察した修士論文「カッパドキア岩窟修道院壁画の研究――アーチ・アルト・キリセシ(ウフララ渓谷)」が研究室保存論文となる。99年から2002年まで同大学美術学部芸術学科西洋美術史研究室助手、あわせて00年から02年には東京国立博物館資料部助手も務める。02年4月から新潟県教育庁文化行政課 新美術館開設準備室に学芸員として赴任。翌03年4月に開館した新潟県立万代島美術館の美術学芸員となる。09年4月には新潟県立近代美術館に異動、12年4月には新潟県立万代島美術館に異動。そして15年7月には新潟県教育庁文化行政課に異動(新潟県立万代島美術館兼務)となっていた。 学芸員としての高は、様々な展覧会企画に関わっていた(詳細は末尾の業績一覧参照)が、特筆すべき企画は07年から08年に新潟県立万代島美術館ほか五会場を巡回した特別展「民衆の鼓動――韓国美術のリアリズム 1945-2005」である。新潟県立万代島美術館は準備室時代より、アジア美術、特にロシアを含めた北東アジア地域を対象とする企画展を検討していたが、高はそのなかで、自らの出自である韓国の美術、特に80年代の韓国民主化運動の時代に展開したリアリズム系民衆美術に焦点をあてる企画を立ち上げた。強いメッセージ性と諧謔性を有する韓国の民衆美術を紹介するという、日本では極めて難易度の高いこの展覧会は、多くの展覧会紹介や専門的な展覧会評のなかで極めて好意的に評価され、美術館連絡協議会(美連協)の07年美連協展部門の「優秀カタログ賞」(美術館表彰)を受賞している。ちなみに、民衆美術が展開した80年代とは、高が済州島で多感な少年時代を送っていた時代であった。 高は美術館学芸員としての活動の他、ビザンティン美術史家としての研究活動を旺盛に進めていた。修士論文の研究に基づく論文「カッパドキア岩窟修道院聖堂アーチ・アルト・キリセシの装飾プログラム」『美術史』第154冊(2003年)をはじめとして、膨大な調査に裏打ちされたビザンティン美術、およびロシア美術研究を展開させた。高のビザンティン美術史にかかわる最後の論考は、16年に刊行された「天の元后と地の女王―ダヴィト・ガレジ(グルジア)、ベルトゥバニ修道院主聖堂」(越宏一監修、益田朋幸編『聖堂の小宇宙』竹林舎所収)であった。 特別永住者としての国籍問題など複雑な背景を抱えながらも、高は文字通り身を削るように調査・研究を続けていた。彼の早すぎる死は関係者に大きな衝撃を与えた。彼の墓は、多感な時代を過ごした済州島の先祖代々の墓所に置かれている。【関わった代表的な展覧会】「チャイナ・ドリーム」(兵庫県立美術館他、2004年)「ロマノフ王朝と近代日本」(長崎歴史文化博物館他、2006年)「民衆の鼓動―韓国美術のリアリズム 1945-2005」(新潟県立万代島美術館他、2007年)「ポンペイ展 世界遺産―古代ローマ帝国の奇跡」(福岡市博物館他、2010年)「ミュシャ展」(森アーツセンターギャラリー他、2013年)「国立国際美術館コレクション 美術の冒険 セザンヌ、ピカソから草間彌生、奈良美智まで」(新潟県立万代島美術館他、2014年)「日韓近代美術家のまなざし―「朝鮮」で描く」(神奈川県立近代美術館 葉山他、2015年)【主な研究論文・執筆活動】「カッパドキア岩窟修道院聖堂アーチ・アルト・キリセシの装飾プログラム」(『美術史』154、2003年)「聖ゲオルギオスの奇跡伝―イクヴィ(グルジア)、ツミンダ・ゲオルギ聖堂の北翼廊壁画を中心に」(『新潟県立万代島美術館研究紀要』1、2006年)「«フルドフ詩篇»(モスクワ国立歴史博物館所蔵Cod. gr.129d)に関する諸問題」(『新潟県立万代島美術館研究紀要』2、2007年)「亀倉雄策旧蔵イコン「キリストの復活と十二大祭」についての覚書」(『新潟県立近代美術館研究紀要』8、2008年)「「民衆の鼓動〓韓国美術のリアリズム 1945-2005」展の開催にいたるまで」(『あいだ』152、2008年)「彫刻家・戸張幸男の朝鮮滞在期の制作活動について」(『新潟県立近代美術館研究紀要』10、2011年)「旧李王家東京邸内の武石弘三郎作大理石浮彫について」(『新潟県立近代美術館研究紀要』11、2012年)「ニコーディム・コンダコフとチェコスロヴァキア」(『新潟県立近代美術館研究紀要』12、2013年)「在朝鮮日本人漫画家の活動について―岩本正二を中心に」(『新潟県立近代美術館研究紀要』13、2014年)「天の元后と地の女王―ダヴィト・ガレジ(グルジア)、ベルトゥバニ修道院主聖堂」(『聖堂の小宇宙』越宏一監修、益田朋幸編、竹林舎、2016年)【翻訳】久保田成子、南 禎鎬『私の愛、ナムジュン・パイク』(平凡社、2013年)

柳原良平

没年月日:2015/08/17

読み:やなぎはらりょうへい、 Yanagihara, Ryohei*  サントリーのウイスキー「トリス」のキャラクター“アンクルトリス”のデザインで知られるイラストレーターの柳原良平は8月17日午前8時52分、呼吸不全のため神奈川県横浜市の病院で死去した。享年84。 1931(昭和6)年8月17日、東京府豊多摩郡東田町(現、東京都杉並区)に生まれる。6歳の時に銀行員だった父の転勤で関西へ移り、少年時代を京都、西宮、豊中で過ごす。50年京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)工芸科(図案専攻)に入学。在学中にウィーン工房出身の上野リチによる色彩構成の講義を受け、後の切り絵を多用した作風に影響を及ぼす。54年同大学を卒業し、寿屋(現、サントリーホールディングス)大阪本社宣伝部意匠課に入社。翌年日本宣伝美術会に「トリス」のポスターを出品し、奨励賞を受賞。56年より、後に作家となる開高健や山口瞳が編集長を務めた寿屋のPR誌『洋酒天国』で表紙を担当。またテレビCMのキャラクター“アンクルトリス”を案出、動きを簡略化してデザイン的に処理したスタイルが注目された。56年に東京支社へ転勤、59年に寿屋を退社し嘱託となり、64年に開高、山口らと広告制作会社サン・アドを設立。この間、59年から翌年にかけて『朝日新聞』日曜版で漫画「ピカロじいさん」を連載。60年久里洋二、真鍋博と「アニメーション3人の会」を発足、実験アニメにも意欲をみせ、草月ホールで上映を行なう。また本の装丁も積極的に手がけるほか、絵本作家として、大胆なデフォルメの切り絵による『かお かお どんなかお』(こぐま社、1988年)等の絵本も制作。また少年時代より船舶に強い関心を寄せ、『柳原良平 船の本』(至誠堂、1968年、以後シリーズで1976年までに5冊出版)、『柳原良平 船の世界』(誠文堂新光社、1973年)等、船や港に関する著書を多数出版。商船三井や太平洋フェリーの名誉船長、日本船長協会の名誉会員を務めた。64年より横浜に住み、75年より横浜市中区のせんたあ画廊で、没年に至るまで継続的に個展を開催。77年横浜文化賞受賞。2001(平成13)年に横浜マリタイムミュージアム(現、横浜みなと博物館)で企画展「船の画家 柳原良平」が開催されている。

木田安彦

没年月日:2015/08/13

読み:きだやすひこ  京都の寺社や仏像を主なモティーフとして木版画をはじめ、ガラス絵や水墨画、書等多彩な活動を繰り広げた木田安彦は8月13日、悪性リンパ腫のため死去した。享年71。 1944(昭和19)年2月14日、京都府京都市に生まれる。67年京都教育大学特修美術科構成専攻卒業。在学中の66年に制作したポスターが京都産業デザイン展で市長賞銀賞を受賞。同大学の美術・工芸専攻科(現、大学院)構成学専攻へ進むも退学し、京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)美術専攻科(現、大学院)へ進学。在学中の69年に東京イラストレーターズ・クラブによる全国公募にイラストが入選、同クラブ編集の『年鑑イラストレーション』に掲載される。70年京都市立芸術大学美術専攻科デザイン専攻を修了。同年東京へ移り博報堂制作部に勤務、入社一年目で毎日商業デザイン賞を受賞するなどグラフィックデザイナーとして注目を集める。75年に京都へ戻り、木版画家として作家活動を開始。木版画の棟方志功を意識しつつも洗練された京都人のセンスを活かした画風を追求する。一方でグラフィックデザイナーの田中一光に見出され、77年には田中をリーダーとするセゾングループのクリエイティブスタッフとなるなど、グラフィックの世界でも存在感を示す。田中一光とは2002(平成14)年に田中が没するまで、その薫陶を受けた。また日本画家の下村良之介や彫刻家の辻晉堂、哲学者の梅原猛、ファッションデザイナーの三宅一生らともジャンルを越えて交流。自らの制作においても木版画の他、華麗な色彩によるガラス絵、板絵、水墨、油彩、陶、書と様々な材料と技法により領域を拡げていった。87年に初めての大規模な個展「京都から世界へ ひた走る木版画家 木田安彦展」を東京・池袋の西武アート・フォーラムで開催。2000年に第79回ニューヨークADC賞で銀賞、優秀賞、04年に第17回京都美術文化賞、06年に第24回京都府文化賞功労賞等、国内外の数々の賞を受賞。この間、03年にはNHK大河ドラマ「新撰組!」タイトル版画を制作。04年には、松下電工のカレンダーを20年来手がけてきた縁で、松下電工汐留ミュージアム(現、パナソニック汐留ミュージアム)で「煌めきのガラス絵 木田安彦の世界」展を開催。04年から09年にかけて眼疾と闘いながら最後の木版画連作「西国三十三所」を制作し、09年に京都文化博物館とパナソニック電工汐留ミュージアムで公開、その後も肉筆による作画を続けた。11年に京都市文化功労者に選ばれる。12年にはミネルヴァ書房より『一刀の無限 木田安彦木版画集成』が刊行、また池田20世紀美術館で「木田安彦 祈りの道」展が開催。13年には京都三十三間堂本坊妙法院門跡より法眼位の称号を叙位された。

丹野章

没年月日:2015/08/05

読み:たんのあきら、 Tanno, Akira*  写真家の丹野章は8月5日急性肺炎のため八王子市内の病院で死去した。享年89。 1925(大正14)年8月8日、東京に生まれる。1947(昭和22)年、大内写真工房に入社、大内英吾のもとで広告写真にとりくむ。日本大学専門部芸術科で写真を専攻、49年卒業。51年に独立、フリーランスとなる。57年、戦後に出発した若手写真家による展覧会、第一回「10人の眼」展に連作を出品。同展の主要メンバー東松照明、奈良原一高らと59年自主エージェンシーVIVOを結成(1961年に解散)。初めての写真集として『ボリショイ劇場』(音楽之友社、1958年)を刊行するなど、舞台写真から身体表現へと関心を広げ、その他の写真集に70年代から長くとりくんだ主題による『壬生狂言』(イメージハウス、1990年)、『壬生狂言』(光陽出版社、1992年)、『日本で演じた世界のバレエ1952-1972』(イメージハウス、1995年)などがある。また炭鉱や基地問題など社会的主題の取材にもとりくみ、日本写真リアリズム集団にも参加、1989(平成元)年から2001年まで理事長を務めた。98年、第48回日本写真協会賞功労賞を受賞。死去の翌月、初期作品による写真集『昭和曲馬団』(禅フォトギャラリー、2015年)が刊行され、刊行記念の個展(東京・禅フォトギャラリー)が開催されるなど、晩年その仕事への再評価が始まっていた。 また日本写真家協会の著作権委員として著作権法の改正について70年、国会で意見陳述し、71年の日本写真著作権協会の創設に尽力、写真の著作権保護期間延長に関する活動に長く携わった。その功績に対し、99年、著作権制度百年記念功労者として文部大臣表彰を受けた。また2000年代に入り、03年には新たに創設された日本写真家ユニオンの初代理事長に就任、また個人の肖像権保護意識が高まる中、『撮る自由―肖像権の霧を晴らす』(本の泉社、2009年)を著すなど、社会的存在としての写真家の権利と自由について発言を続けた。

久保田成子

没年月日:2015/07/23

読み:くぼたしげこ、 Kubota, Shigeko*  美術家・映像作家の久保田成子は7月23日午後8時50分、癌のためニューヨークで死去した。享年77。 1937(昭和12)年8月2日、高校教師の父・隆円と、東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽学部)でピアノを専攻した母・文枝の次女として、新潟県西蒲原郡巻町(現、新潟市西蒲区)に生まれる。母方久保田家の曾祖父・十代右作は貴族院議員となり、地元小千谷の発展に尽力した。母方の祖父・久保田彌太郎は水墨画家(雅号は翁谷)。成子は祖父の影響で芸術的な雰囲気の家庭に育ち、幼少から美術に優れた頭角を現す。両親からの賛同を得て、高校から新潟大学教授について絵を習い、在学中「二紀展」に入選。当時の日本に女流彫刻家が少なかったことから、この分野で身を立てようと東京教育大学(現、筑波大学)の彫塑科に進学。しかし、教員養成用教育課程に辟易とし、在学中は「全日本学生自治会総連合」(全学連)の「安保闘争」などに加わり、社会変革運動に積極的に関与。卒業後は、品川区立荏原第二中学校で教鞭を執った。 この頃前衛芸術に心酔していた久保田は、既存の秩序に抵抗した作品を理想とし、63年12月に東京・内科画廊で開催した初個展「Make a Floor of Love Letters」では、くしゃくしゃにした新聞紙を山のように積み、その上を白の布で覆ってブロンズの彫像を設置し、観客が紙の山に這い上がって鑑賞する作品を発表。現代舞踊家の叔母・邦千谷を通して、ニューヨークから帰国したオノ・ヨーコと、彼女の最初の夫一柳慧に会い、国際的な前衛美術運動で、ダダの流れを組むフルクサスに関与する。64年5月29日、ドイツのフルクサス運動で活躍中であった芸術の反抗児、ナムジュン・パイク(白南準)の東京・草月会館ホールでの公演に強い衝撃を受ける。公演を見て、当時の日本の美術界では自分のような前衛的な作家は育たないと思っていた矢先に、オノを通して知り合ったフルクサスの旗手ジョージ・マチューナスからニューヨークで開催されるフルクサスのコンサートに招待され、結婚資金から500ドルを持って64年7月4日、友人のアーティスト塩見充枝子とともにニューヨークに渡る。目的地はマンハッタンのキャナル・ストリート359番地の、フルクサス本部として使われていたマチューナスの事務所。そこで、ニューヨーク滞在中のパイクと運命のような再会をし、やがて恋愛関係を持つようになる。到着後しばらく一人暮らしをするが、マチューナスの呼びかけで、フルクサス本部で「コモン・システム」という共同生活を始め、この運動の副議長となる。65年7月の「不朽のフルクサス・フェスティヴァル」では、パイクの提案で、股座に筆を挿して描いたように演出したパフォーマンス「ヴァギナ・ペインティング」を披露し、一躍大胆な芸術家として知られるようになる。 ビデオ・アートの先駆者であるパイクの影響で、映像作品と、大学時代に学んだ彫刻の技術とを組み合わせたビデオ・スカルプチャーに転向。74年-82年まで、ジョナス・メカスの主催するアンソロジー・フィルム・アーカイブでビデオ・キュレーターの仕事も務める。仕事を通して人脈を広げ、当初はパイクの作品のプロデュースに力を入れたが、自分の「パートナーの芸術世界を真似ただけの皮相な二番煎じの作家」とならないよう、自作も当時の若手アーティストの登竜門であったニューヨークのオルターナティブ・スペース、The Kitchen(1972年)や、Everson Museum of Art(1973、75年)で展示。それらが画商のRené Blockの目に留まり、ニューヨークでの初個展「Shigeko Kubota Video Sculpture」(1976年)をRené Block Art Galleryで開催。尊敬するデュシャンを主題とした展覧会を開いて大きな反響を呼ぶ。中でも「階段を降りるヌード」(1976年)は、同年ビデオ作品で初めてニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵される。また、「ビデオ・チェス」(1968-75年)では、デュシャンがパサデナ カリフォルニア美術館個展のオープニングで行った全裸の女性と着衣のアーティストとの関係を反転させ、着衣の久保田と全裸のパイクがチェスを打つパフォーマンスの映像作品を収録して、当時一世風靡したフェミニズムの反骨精神を反映させた。 Ren〓 Block Art Galleryの個展の成功を受けて、久保田の作品は、世界の美術の今後5年間の方向性を示す「ドクメンタ 6」(1977年)や、MoMAの「Projects」(1978年)で紹介された。84年の雑誌『アート・イン・アメリカ』のビデオ・アーティスト特集では、作品「River」(1979-81年)が表紙を飾り、久保田は巻頭記事で特集される。その後もグループ展では「ホイットニー・ビエンナーレ」(1983年)や「ドクメンタ8」(1987年)で紹介され、1991(平成3)年にはニューヨークの映像芸術専門美術館American Museum of the Moving Imageで大回顧展が開催された。このほかアムステルダムのステデリック美術館(1992年)や、日本の原美術館(1992年)、 ホイットニー美術館(1996年)などで次々と個展が開催され、シカゴ美術学校、ブラウン大学、スクール・オブ・ビジュアルアーツなどで教鞭を執った。久保田の考案したビデオ・アートに彫刻的要素を合わせたビデオ・スカルプチャーは、パイクに影響を与えたとも言われている。 私生活では77年3月21日パイクと結婚。その後1977-87年は、パイクの仕事の関系でドイツ在住。96年にパイクが脳卒中で倒れてからは介護に追われた。パイクのリハビリする姿を映像で記録し、2000年にLance Fung画廊で「セクシャル・ヒーリング」として発表。パイクの死後07年にMaya Stendhal Galleryで開催された「パイクとともに歩んだ生涯」が、最後の個展となった。今後、新潟県立近代美術館をはじめ国内で回顧展が予定されている。

川添登

没年月日:2015/07/09

読み:かわぞえのぼる、 Kawazoe, Noboru*  建築評論から民俗学に至る分野で活躍した建築評論家の川添登は7月9日肺炎のため死去した。享年89。 1926(大正15)年2月23日東京駒込染井に生まれる。早稲田大学専門部工科(建築)、文学部哲学科を経て、1953(昭和28)年、理工学部建築学科卒業。同年より新建築社勤務。53年より『新建築』の編集長を務めていたが、1957年に独立して建築評論家となる。60年世界デザイン会議日本実行委員。69年大阪万博博覧会テーマ館サブプロデューサー。70年京都に加藤秀俊などとともにシンクタンクの株式会社CDI(コミュニケーションデザイン研究所)を設立し、所長を務めた。72年日本生活学会を設立し、理事長・会長を歴任した。81年つくば国際科学技術博覧会政府出展総括プロデューサー、87年から1999(平成11)年まで郡山女子大学教授、93年より96年まで早稲田大学客員教授、99年より2002年まで田原市立田原福祉専門学校校長。日本生活学会・日本展示学会・道具学会名誉会員。 川添が残した日本建築界への多大な功績のうち、特筆すべきは1950年代から60年代にかけて建築界の言説を牽引し、建築批評と建築評論の両面から建築ジャーナリズムを確立していったことが挙げられる。川添が編集長を務めていた『新建築』の中で建築家に論考を促し、建築の背景にある思想を記述させた。また、50年代半ばには紙面にて集中的に伝統論をテーマにするよう仕掛け、言説を煽った。これは「日本建築のルーツはなにか」、さらには「日本建築をどう表現すべきか」を問うものであった。さらには、編集のみに留まらず川添は「岩田知夫」のペンネームで、新建築および他の建築雑誌『国際建築』と『建築文化』にも寄稿して議論を盛り上げ、建築ジャーナリズムを通して、現代に通じる日本建築とは何かを日本の建築家に問い続けた。 また、特筆すべきは中心メンバーとしてメタボリズム運動を生み出し、牽引したことである。60年に開催された世界デザイン会議においては実行委員の中心メンバーとして参画し、他国から著名な建築家を招聘するだけではなく、それを迎え撃つように、菊竹清訓、大高正人、槇文彦、黒川紀章らとメタボリズムの概念を練りあげ、『METABOLISM 1960 都市への提案』(美術出版社、1960年)を出版し、日本発の世界的な建築理念を発表するに至った。50年代当時において、海外ではオリエンタリズムの観点から形態について述べられるに過ぎなかった日本の現代建築を、現代建築思想の観点を含めて世界的な建築批評の壇上に持ち上げることに成功した。 このように川添は建築の実作をつくらずして、日本の建築思想を牽引し、日本の建築家の作品や考え方に影響を与え続けた。 川添は生涯に渡り、数多くの著作を執筆した。受賞歴として、60年『民と神の住まい』により毎日出版文化賞、82年『生活学の提唱』により今和次郎賞、民間学である生活学を体系したことで97年南方熊楠賞を受賞している。主要著書:『現代建築を創るもの』(彰国社、1958年)、『伊勢 日本建築の原形』(丹下健三、渡辺義雄と共著、朝日新聞社、1962年)、『メタボリズム』(美術出版社、1960年)、『民と神の住まい大いなる古代日本』(光文社、1960年)、『建築の滅亡』(現代思潮社、1960年)、『日本文化と建築』(彰国社、1965年)、『建築と伝統』(彰国社、1971年)、『生活学の提唱』(ドメス出版、1982年)、『象徴としての建築』(筑摩書房、1982年)、『「木の文明」の成立』(上下 NHKブックス、1990年)、『木と水の建築 伊勢神宮』(筑摩書房、2010年)など多数

大竹省二

没年月日:2015/07/02

読み:おおたけしょうじ、 Otake, Shoji*  写真家の大竹省二は7月2日、心原生脳塞栓症のため死去した。享年95。 1920(大正9)年5月15日、静岡県小笠郡横須賀町(現、掛川市)に生まれる。1933(昭和8)年東京に転居。中学時代から写真を撮り始め、写真雑誌のコンテストに入選を重ねるようになり、すぐれた少年アマチュア写真家として知られるようになる。40年上海の東亜同文書院に入学。42年陸軍に応召。対外宣伝誌のための写真撮影や、北京大使館報道部付として同大使館の外郭団体、華北弘報写真協会の結成に協力するなど、情報関連の軍務にあたり、終戦は東京で迎える。 46年連合軍総司令部(GHQ)報道部の嘱託となる。アーニー・パイル劇場に配属され舞台や出演者の撮影を担当。その後『ライフ』誌やINP通信社の専属を経て、50年フリーランスとなる。その間、同世代の秋山庄太郎、稲村隆正らと49年日本青年写真家協会を結成。50年には日本写真家協会の設立に参加、また同年三木淳らと集団フォトの結成にも参加した。53年には二科会写真部の創設会員となった。 51年から5年にわたり来日した音楽家のポートレイトを撮影、『アサヒカメラ』誌上に連載し、最初の写真集として、その仕事をまとめた『世界の音楽家』(朝日新聞社、1955年)を出版、また54年に来日したマリリン・モンローを撮影するなど、人物写真の名手として評価を確立する。とくにモダンで洗練された女性写真やヌード写真で知られ、56年には女性写真の分野で活躍する写真家たちのグループ、ギネ・グルッペの結成に参加。71年からは5年にわたり、日本テレビの番組「お昼のワイドショー」で一般から募集したモデルのヌードを撮影する「美しき裸像の思い出」という企画で撮影を担当、話題を呼んだ。この企画から写真集『ファミリー・ヌード』(柴田宏二との共著、朝日ソノラマ、1977年)が刊行された。 上記以外の主な写真集に、『照る日曇る日』(日本カメラ社、1976年)、『101人女の肖像』(講談社、1982年)、『昭和群像』(日本カメラ社、1997年)、『赤坂檜町テキサスハウス』(永六輔との共著、朝日新聞社、2006)など。文筆家としても優れ、終戦後の混乱期の経験をつづった回想記『遥かなる鏡 ある写真家の証言』(東京新聞出版局、1998年)がある。 83年には戦前に撮影した写真をまとめた写真集『遥かなる詩 大竹省二初期写真集』(桐原書店)を出版、翌年同題の個展(東京・ミノルタフォトスペース)を開催し、知られざる初期作品に注目が集まった。 1992(平成4)年、第42回日本写真協会賞功労賞を受賞した。

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