本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,013 件)





三笠宮崇仁親王

没年月日:2016/10/27

読み:みかさのみやたかひとしんのう  オリエント学者で、日本オリエント学会名誉会長、中近東文化センター名誉総裁、日本・トルコ協会名誉総裁、日本赤十字社名誉副総裁、日本フォークダンス連盟名誉総裁などを務めた三笠宮崇仁親王は、東京都中央区の聖路加国際病院にて、10月27日に心不全のため薨去した。享年100。 1915(大正4)年12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四皇子として、東京の青山御所に生まれる。昭和天皇の末弟にあたる。学習院初等科・中等科、陸軍士官学校、陸軍騎兵学校、陸軍大学校卒業後、1943(昭和18)年に支那派遣軍参謀として南京に派遣された。44年には大本営参謀となり、陸軍少佐として終戦を迎えた。 終戦後の47年、戦争への反省から歴史を学ぶことを決意し、東京大学文学部史学科の研究生になる。古代オリエント史を専攻し、その後、歴史学者として活躍し、数多くの論文や著書、翻訳書などを発表した。 54年には日本オリエント学会の創設に尽力し、54年から76年までは初代会長、76年から1996(平成8)年までは名誉会長を務め、日本の古代オリエント史研究をながらく牽引した。 55年には、皇族としてはじめて大学の講師になり、東京女子大学の教壇に立つ。大学への通勤は国鉄を利用し、昼食は必ず学生たちにまじり学生食堂で一杯20円のキツネうどんを食べるなど、三笠宮崇仁親王の庶民的で気さくな人柄を伝える逸話が数多く残されている。東京女子大学のほか、北海道大学や静岡大学、青山学院大学や天理大学、拓殖大学、東京芸術大学でも、古代オリエント史の講義を担当した。また、テレビやラジオにも積極的に出演し、古代オリエント史の普及と啓蒙につとめた。 56年に上梓した処女作『帝王と墓と民衆―オリエントのあけぼの―』(光文社)は、石原慎太郎の『太陽の季節』(新潮社)とともに56年を代表するベストセラーとなった。 また同年、戦後初の本格的な海外調査団の1つである『東京大学イラク・イラン遺跡調査団』の立ち上げに関与し、イラクのテル・サラサート遺跡において同調査団による発掘調査開始を記念した鋤入れ式にも参加している。 日本オリエント学会創立10周年の記念事業として、64年から66年にかけて行われたイスラエルのテル・ゼロ―ル遺跡の発掘調査に関しても、オリエント学会の会長として寄付金集めなどに尽力した。 79年には、三笠宮崇仁親王の発意のもと、出光佐三や佐藤栄作、石坂泰三が協力をし、日本最初の古代オリエント研究機関として中近東文化センターが東京の三鷹に創設された。三笠宮崇仁親王殿下が総裁、名誉総裁を務めた中近東文化センターは、86年以降、トルコのカマン・カレホユック遺跡の発掘調査を実施し、現在では、世界的な研究機関となっている。 著作には、『帝王と墓と民衆―オリエントのあけぼの―』(光文社、1956年)、『乾燥の国―イラン・イラクの旅―』(平凡社、1957年)、『日本のあけぼの―建国と紀元をめぐって―』(光文社、1959年)、『ここに歴史はじまる(大世界史第一巻)』(文藝春秋、1967年)、『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)、『古代エジプトの神々―その誕生と発展―』(日本放送出版協会、1988年)、『文明のあけぼの―古代オリエントの世界―』(集英社、2002年)、『わが歴史研究の七十年』(学生社、2008年)など多数。

中西夏之

没年月日:2016/10/23

読み:なかにしなつゆき、 Nakanishi, Natsuyuki*  現代美術家で、東京藝術大学名誉教授の中西夏之は、10月23日に脳梗塞のため死去した。享年81。 1935(昭和10)年7月14日、現在の東京都品川区大井町に生まれる。54年、東京都立日比谷高等学校を卒業、東京芸術大学美術学部油画科に入学。58年に同大学を卒業、同期に島田章三、高松次郎、工藤哲巳、磯部行久、山領まりがいた。58年7月、檪画廊にて個展開催。59年9月、村松画廊にて個展。63年5月、新宿第一画廊にて「赤瀬川原平・高松次郎・中西夏之展」開催。この3人をメンバーに、「ハイレッド・センター」を結成。「ハプニング」と称して、パーフォーマンスなどの発表活動をはじめる。64年1月-2月、南画廊にて、荒川修作、三木富雄、工藤哲巳、菊畑茂久馬、岡本信治郎、立石紘一とともにヤングセブン展に出品。65年、土方巽演出・振付の暗黒舞踏派公演にあたり舞台美術を担当。66年、通貨及証券模造取締法違反を問われ、被告となった赤瀬川原平の「千円札裁判」で、証言及び作品の提示を行う。69年、美学校に「中西アトリエ」を開設、72年には同学校にて「中西夏之・素描教場」を開設、翌年にかけて制作指導にあたる。75年9月、西武美術館にて「日本現代美術の展望」展に出品。 80年11月、雅陶堂ギャラリーにて個展。絵画に復帰。83年、同ギャラリーにて個展「中西夏之 紫・むらさき」を開催、油彩画シリーズ「紫・むらさき」を発表。85年7-8月、北九州市立美術館にて「中西夏之 Painting 1980―85」展を開催。1989(平成元)年4月、西武美術館にて「中西夏之展」を開催。同年4月、筑摩書房より美術論集『大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』を刊行。95年、愛知県美術館にて「中西夏之-へ」を開催。同年11-12月、神奈川県立近代美術館にて「着陸と着水 舞踏空間から絵画場へ 中西夏之展」を開催。96年4月、東京藝術大学美術学部絵画科教授となる。97年1-3月、東京都現代美術館にて「中西夏之展―白く、強い、目前、へ」を開催。2002年、名古屋市美術館にて「中西夏之«柔らかに、還元»の絵画/思索」展を開催。同年、愛知県美術館、愛媛県立美術館にて「中西夏之展 広さと近さ-絵の姿形」を開催し、絵画作品の大規模な回顧展となった。2003年、東京藝術大学大学美術館にて「二箇所-絵画場から絵画衝動へ―中西夏之展」を開催、油彩画の他、授業のドキュメントや資料を出品。同年、同大学教授を退官。2004年、倉敷芸術科学大学芸術学部教授となる。07年に退任。2008年4月-5月、渋谷区立松濤美術館にて「中西夏之新作展 絵画の鎖・光の森」を開催。2012年10月-13年1月、DIC川村記念美術館にて「中西夏之 韻 洗濯バサミは攪拌行動を主張する 擦れ違い/遠のく紫、近づく白斑」展を開催。 60年代の「ハプニング」など反芸術的な活動から始ったが、70年代の「山上の石蹴り」のシリーズから、「紫・むらさき」のシリーズを経て、晩年まで描く自身の身体性を強く意識して、平面に向き合うという「絵画」表現の本質を追求した、現代絵画において類まれな画家であったといえる。

村井修

没年月日:2016/10/23

読み:むらいおさむ、 Murai, Osamu*  写真家の村井修は10月23日、急性心不全のため東京都内の病院で死去した。享年88。 1928(昭和3)年9月27日、愛知県知多郡(現、半田市)に生まれる。愛知県立第七中学校(現、愛知県立半田高等学校)を経て、50年東京写真工業専門学校(現、東京工芸大学)を卒業し、写真の仕事を始めた。初期より建築、彫刻などの撮影にとりくみ、建築雑誌や美術雑誌のための撮影を担当。とくに建築家の丹下健三や白井晟一、彫刻家の流政之、佐藤忠良、澄川喜一らの作品を多く手がけ、57年には流の作品をテーマとした個展「カメラでとらえた彫刻と空間」(新宿風月堂)を開催。67年には『LIFE』誌の連載テーマ「家族」の日本編を担当した。 早くから建築写真の第一線で活躍した村井だが、建築や彫刻といった造型物だけでなく、それらが置かれた空間、さらには風土や暮らしといった周囲の環境にも目を向けた独自の作風は高い評価を受けた。一貫してフリーランスの写真家として、最晩年まで約60年にわたり国内外での撮影にとりくみ、また68年から1990(平成2)年まで母校(東京写真大学・東京工芸大学)の講師として後進の指導にあたった。 その仕事は『旧帝国ホテルの実證的研究』(明石信道著、東光堂、1972年、のち写真・図版版、1994年)以降、単著もしくは写真を担当した共著として書籍にまとめられ、その主なものに『丹下健三 建築と都市』(世界文化社、1975年)、『白井晟一(現代の建築家)』(鹿島出版会、1975年)、『金壽根(現代の建築家)』(鹿島出版会、1979年)、『写真都市』(用美社、1983年)、『世界の広場と彫刻』(現代彫刻懇談会、中央公論社、1983年)、『石の記憶』(リブロポート、1989年)、『前川國男作品集 建築の方法』(美術出版社、1990年)、『そりのあるかたち 澄川喜一作品集』(平凡社、1996年)、『パリ・都市の詩学』(河出書房新社、1996年)、『フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル』(建築資料研究社、2004年)、『京都迎賓館』(平凡社、2010年)などがある。 このうち『世界の広場と彫刻』により83年第37回毎日出版文化賞特別賞、90年には『石の記憶』により第6回東川賞国内作家賞を受賞。また長年の業績に対し2010年日本建築学会文化賞、12年には日本写真協会賞功労賞を受賞した。14年の第14回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展では韓国館の展示に写真を提供し、金獅子賞をグループ受賞している。 死去の直前に郷里で回顧展「村井修 半田写真展 めぐり逢ひ」(半田赤レンガ建物他、半田市)が開催され、自選の代表作をまとめた写真集『TIME AND LIFE 時空』(赤々舎、2016年)が出版された。

井出洋一郎

没年月日:2016/10/19

読み:いでよういちろう、 Ide, Yoichiro*  19世紀フランス絵画を専門とする美術史研究者で、美術評論家の井出洋一郎は、10月19日に胆管がんのため死去した。享年67。 1949(昭和24)年5月8日、群馬県高崎市昭和町に生まれる。上智大学外国語学部フランス語学科を卒業後、早稲田大学大学院文学研究科に進学し、78年に同大学院博士課程を満期退学(西洋美術史専攻)。同年、山梨県立美術館学芸員に採用される。在職中、同美術館のミレー・レクションを担当した。87年に退職し、私立の村内美術館(東京都八王子市)の顧問を務めるかたわら美術評論家として活動した。また、教育面では、非常勤講師として上智大学で西洋美術史を担当し、跡見学園女子大学、武蔵野美術大学、実践女子大学で博物館学等を担当した。1992(平成4)年に東京都青梅市に開設された明星大学日本文化学部生活芸術学科の助教授として勤務。その後、東京都八王子市の東京純心女子大学芸術文化学科教授となる。2009年に府中市美術館長、15年から翌年まで群馬県立近代美術館長を務めた。 その生涯において数多くの西洋美術史、欧米の美術館をめぐる啓蒙書、ガイドブックを執筆したが、本領は山梨県立美術館学芸員の時代から取り組んでいたジャン・フランソア・ミレーに関する研究であった。その成果は、ミレーを中心とする各種展覧会の企画監修に生かされたと同時に、長年にわたり取り組んでいたアルフレッド・サンスィエ著『ミレーの生涯』(角川ソフィア文庫、2014年)の翻訳監修と、『「農民画家」ミレーの真実』(NHK出版新書、2014年)に結実した。なお、主要な著作は下記のとおりである。主要著書:『西洋名画の謎-ミステリー・ギャラリー』(小学館、1991年)『美術館学入門』(明星大学出版部、1993年)(新版、2005年)『バルビゾン派』(世界美術双書)(東信堂、1993年)『美術の森の散歩道-マイ・ギャラリートーク』(小学館ライブラリー、1994年)『マイ・ギャラリートーク 美楽極楽のこころ』(小学館ライブラリー、1998年)『フランス美術鑑賞紀行パリ編(美術の旅ガイド)』(美術出版社、1998年)『フランス美術鑑賞紀行パリ近郊と南仏編(美術の旅ガイド)』(美術出版社、1998年)『世界の博物館 謎の収集』(プレイブックス・インテリジェンス)(青春出版社、2005年)『カラー版 聖書の名画を楽しく読む』(中経出版、2007年)『カラー版 ギリシャ神話の名画を楽しく読む』(中経出版、2007年)『絵画の見方・楽しみ方-巨匠の代表作でわかる』(日本文芸社、2008年)『聖書の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2010年)『ギリシャ神話の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2010年)『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2011年)『印象派の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2012年)『ルネサンスの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2013年)『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2014年)『「農民画家」ミレーの真実』(NHK出版新書、2014年)アルフレッド・サンスィエ著、井出洋一郎監訳『ミレーの生涯』(角川ソフィア文庫、2014年)『名画のネコはなんでも知っている』(エクスナレッジ、2015年)『知れば知るほど面白い聖書の“名画”』(KADOKAWA、2016年)

後藤純男

没年月日:2016/10/18

読み:ごとうすみお、 Goto, Sumio*  日本画家の後藤純男は10月18日、敗血症のため死去した。享年86。 1930(昭和5)年1月21日、千葉県東葛飾郡関宿町木間ヶ瀬(現、野田市木間ヶ瀬)の無量寿院に、真言宗住職であった父幸男、母喜代の間に8人兄弟の次男として生まれる。32年12月埼玉県北葛飾郡金杉村(現、松伏町)へ転居。36年金杉尋常高等小学校(現、松伏町立金杉小学校)へ入学、小学校時代より絵を描くことを好み、休み時間には校庭で白墨や〓石で絵を描いていたという。42年真言宗豊山派の豊山中学校(現、日本大学豊山中学校)へ入学。同校在学中に真言宗僧としての修業を開始する傍ら、画家になることを考え始める。45年埼玉県立粕壁中学校(現、埼玉県立春日部高等学校)へ転入。美術部に入り、美術教師の松田、長坂、また近所に住んでいた日本画家、伊藤青郊に絵の手ほどきを受ける。46年3月同校卒業後、東京美術学校を受験するも失敗。青郊の師、川崎小虎の紹介で山本丘人に師事し、本格的に絵の勉強をはじめる。47年再び東京美術学校を受験するも失敗、学制変更により受験資格を失い進学を断念する。4月には埼玉県川辺小学校の教員となり、翌年より3年間埼玉県葛飾中学校教師を務めた。その傍ら、49年師である丘人の紹介で日本美術院同人の田中青坪に師事。翌50年4月第5回日本美術院小品展に「田園風景」で初入選を果たす。しかし秋の院展では落選がつづき、52年9月第37回院展に「風景」で初入選を果たした。この間、埼玉県北葛飾郡宝珠花村立宝珠花中学校、千葉県川間村立川間中学校(現、野田市立川間中学校)などで教鞭を執ったが、院展入選を機に画家として身を立てる決意をし、教師生活を終える。54年3月第9回小品展出品の「残る雪」で奨励賞受賞(10、18、21、24~27回でも受賞)。9月の第39回院展へは「灯ともし頃」を出品し院友に推挙される。この頃の作品は田園や村落など、身近な風景が題材とされた。55年頃からは関西や四国の真言宗寺院などへ繰り返し写生旅行に出かけ、入念なスケッチを積み重ねる。また60年頃からは北海道各地へ写生旅行に出かけ、約10年にわたり同地へ通い続けた。60年11月田中恂子と結婚。62年9月第47回院展出品の「懸崖」で奨励賞受賞(51~53、55、57、58回でも受賞)。63年4月第18回春季展へ「宵」を出品、この頃より北海道の層雲峡を中心とした渓谷や滝の連作が開始される。色数を抑え、ゴツゴツとした岩や鋭く刺々しい樹木など、やや抽象化されたモチーフで画面が構成され、神秘性や峻厳さの感じられる作風を示した。65年9月第50回院展へ「寂韻」を出品、日本美術院賞受賞(54回でも受賞)。特待に推挙される。69年4月第24回春季展へ「閑影」を出品。以後奈良や京都の古寺を題材に、大気や光の変化によって見せる表情を捉えた作品を発表する。70年9月第4回現代美術選抜展に「淙想」(第54回院展、1969年)が選抜される(以後も7、11、21回に選抜)。74年2月日本美術院同人推挙。76年9月第61回院展へ出品した「仲秋」で文部大臣賞を受賞。10月にはギャラリーヤエスにて初の個展を開催。79年7月中国へ巡回した「現代日本絵画展」の代表団のひとりとして初めて訪中、以後毎年のように中国へ出かける。80年2月日本美術院評議員に推挙。3月第2回日本秀作美術展に「晩鐘室生」(第64回院展、1979年)が選抜される(以後4~15、18、20、22回にも選抜)。82年9月第67回院展へ北京の天壇祈年殿を描いた「雷鳴」を出品、以後中国の広大な自然や田園、民家などをモチーフにした作品を発表する。同年中国・西安美術学院名誉教授となる。86年9月第71回院展へ出品した「江南水路の朝」で内閣総理大臣賞受賞。87年12月福岡教育大学(美術学科)の非常勤講師となる(12月~1988年3月、同年10月~89年3月まで)。88年4月高野山真言宗東京別院の落慶を記念し、襖絵24面を制作、奉納する。また1993(平成5)年には奈良・長谷寺、99年には東京・高幡不動尊金剛寺の襖絵も揮毫した。88年10月東京藝術大学美術学部の教授となり、97年3月退官、2016年名誉教授となる。91年6月日本美術院監事。92年3月第47回春の院展へ「斑鳩立秋」を出品、この頃より再び日本の風景を題材とした作品が多くなる。とりわけ2000年代以降は大和の古寺が見せる四季折々の表情を多く描いた。95年5月フランス・パリにて個展(三越エトワール)開催。97年9月北海道空知郡上富良野町に後藤純男美術館を開館。00年4月日本美術院理事となる。また同年3月には埼玉県北葛飾郡松伏町より名誉町民の称号が、11月には北海道空知郡上富良野町より社会貢献賞が贈られる。01年1月中国・西安美術学院に後藤純男工作室落成。06年旭日小綬章綬章。16年6月「大和の雪」(第97回院展、12年)で第72回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。また同年には北海道空知郡上富良野町特別名誉町民、千葉県流山市名誉市民となった。

富山治夫

没年月日:2016/10/15

読み:とみやまはるお、 Tomiyama, Haruo*  写真家の富山治夫は10月15日、肺がんのため死去した。享年81。 1935(昭和10)年2月25日、東京市神田区(現、東京都千代田区)に生まれる。中学卒業後すぐに働き始め、のち都立小石川高校定時制に学ぶが57年に中退。独学で写真技術を習得し、60年『女性自身』誌の嘱託写真家となる。その後朝日新聞出版写真部に移り、嘱託としてさまざまな撮影に従事。64年から『朝日ジャーナル』誌上で連載の始まった「現代語感」の写真を担当。世相を反映した新聞等の記事の見出しから選ばれた漢字二文字の言葉をテーマに、大江健三郎や安倍公房らが担当したエッセーと写真とによる社会時評で、富山はこの連載に発表した写真により評価を高め、65年第9回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞した。また66年「現代写真の10人」展(国立近代美術館、東京)にも同作を出品。この年にフリーランスとなり、以後、国内外でさまざまな取材撮影を行う。それらの成果は主に雑誌、新聞等に発表された他、写真集としてまとめられたものも多い。その主なものに、『現代語感』(中央公論社、1971年)、『人間革命の記録』(写真評論社、1973年、石元泰博との共著)、『佐渡島』(朝日新聞社、1979年)、『京劇』(全2巻、平凡社、1980年、杉浦康平他との共著)、『禅修行』(曹洞宗宗務庁、2002年)、『現代語感 OUR DAY』(講談社、2004年)などがある。 同時代の社会への批評的な視点にもとづく「現代語感」シリーズはライフワークとして続けられ、78年には個展「JAPAN TODAY 現代語感」(インターナショナル・センター・オブ・フォトグラフィー、ニューヨーク)を開催、90年代には『月刊現代』(講談社)に「新・現代語感」を連載、2008(平成20)年には個展「現代語感OUR DAY:1960―2008」(JCIIフォトサロン、東京)が開催された。その一方で、地方の風土や伝統文化を主題にとりくまれた作品への評価も高く、第9回講談社出版文化賞(1978年、『日本カメラ』連載の「佐渡」に対し)、第30回日本写真協会賞年度賞(1980年、写真集『佐渡島』に対し)、芸術選奨文部大臣新人賞(1981年、写真集『京劇』に対し)などの受賞がある。佐渡の長期取材を通して同地で昭和初期に活動した写真家近藤福男のガラス乾板に出会い、それらをもとに編纂した写真集『近藤福雄写真集:佐渡万華鏡:1917―1945』(郷土出版社、1994年)を出版、同書により第45回日本写真協会賞文化振興賞(1995年、財団法人佐渡博物館と共同受賞)を受賞した。また一連の功績に対し、03年に紫綬褒章、12年に旭日小綬章を受章した。

吾妻兼治郎

没年月日:2016/10/14

読み:あづまけんじろう、 Azuma, Kenjiro*  彫刻家の吾妻兼治郎は10月14日、イタリア、ミラノの自宅で死去した。享年90。 1926(大正15)年3月12日、山形県山形市銅町に生まれる。生家は代々青銅鋳造業を営んでいた。兼治郎は少年期から祖父や父の仕事をみながら粘土で動物などをつくっていた。1943(昭和18)年海軍予科練に入り、鹿児島県鹿屋海軍航空隊で訓練を受けていたが敗戦、45年9月故郷に戻る。47年山形東高等学校の定時制で学びながら、彫刻家をめざすようになる。当時、山形美術館学芸員の木村重道の指導があった。49年東京藝術大学美術学部彫刻家の第1期生として入学。木村の紹介で在学中は美術評論家の今泉篤男宅に書生として住み込む。53年第2回日本国際美術展で展示されたイタリア現代彫刻、特にマリノ・マリーニに魅了される。53年新制作展に「オランダの水夫」など3点が初入選する。54年東京藝大に新設された専攻科へ進み、56年同大副手となる。 吾妻は今泉の薦めもあり、マリーニに彫刻を学ぶことをめざす。そのためにはイタリア政府奨学金を獲得することが必要で、語学に励み、56年9月念願のミラノにわたる。国立ブレラ美術学校彫刻科マリノ・マリーニ教室には世界各国から学生17名が在籍していた。マリーニは助手を務める実力をもつ吾妻に「日本の優れた伝統」を大切にするよう説く。58年山形市の丸久百貨展で初個展。4年間マリーニ風の造形を手掛けていた吾妻は、師の影響から脱するべく苦闘し、60年冬、薪棚からくずれた木っ端の形から代表作となる「無(MU)」のシリーズが誕生する。61年4月ミラノのミニマ画廊で個展を開催(ブロンズ5点、石膏3点、油彩画8点)。個展は好評で、以後ローマやベルギー、スペイン、スイスなどの展覧会に招待され、吾妻のイタリアでの制作は活発になる。64年ドクメンタ3に出品。65年イタリアのビエラをはじめとして4カ所で個展を開催する。68年国際ジュエリー展(チェコスロバキア)で金賞受賞。69年第19回国際彫刻ビエンナーレ(フィレンツェ)で金賞受賞。71年サンタ・マルガレーテン国際彫刻シンポジウム(オーストリア)に参加。74年現代彫刻センター(東京)他で個展。同年毎日芸術賞受賞。83年個展(ドルドレヒト美術館、オランダ)、立体55点、リトグラフ8点などを展示。84年4月、山形市庁舎前に«MU1000»(高さ4m)を設置。以後、スランプに陥り、翌年「有(YU)」シリーズを手掛け始める。88年7月、吾妻兼治郎展が西武美術館(池袋)を皮切りに国内5館を巡回、彫刻85点をはじめ総165点が展示。1990(平成2)年ロレンツェリ・アート(ミラノ)で個展、42点を展示。95年紫綬褒章受章。 96年ミラノ市からアンブロジーノ文化功労銀賞授与。99年から東京藝大客員教授(2002年まで)。同年「YU847」で第30回中原悌二郎受賞。2010年吾妻兼治郎1948―2010展(マテーラ市、南イタリア)が市内の石窟や美術館で開催、彫刻102点、デッサン50点などからなる大回顧展となる。晩年はマリーニ夫人から譲られた師のアトリエで制作をした。イタリアでの活動については、村山鎮雄著『彫刻家吾妻兼治郎の歩み』(私家版、2017年)が詳しい。

小嶋一浩

没年月日:2016/10/13

読み:こじまかずひろ、 Kojima, Kazuhiro*  建築家の小嶋一浩は10月13日食道癌のため死去した。享年57。 1958(昭和33)年12月1日、大阪に生まれる。82年に京都大学工学部建築学科を卒業後、東京大学大学院修士課程にて原広司研究室で学ぶ。86年、同大学博士課程在学中に、研究室の同級生と建築家集団「シーラカンス」を共同設立(1998年に「シーラカンスアンドアソシエイツ」に改組、2005年に「CAt(シーラカンスアンドアソシエイツトウキョウ)」と「CAn(シーラカンスアンドアソシエイツナゴヤ)」へ更に改組)。個人が設計を指揮するのではなく、集団で議論を重ねながら設計を進めるという「コラボレイション」の方法を取る。 特に学校建築の分野で活躍し、代表作に千葉市立打瀬小学校(1995年)、千葉市立美浜打瀬小学校(2006年)、宇土市立宇土小学校(2011年)、流山市立おおたかの森小・中学校・おおたかの森センター・こども図書館(2015年)などがある。 千葉市立打瀬小学校では、児童が自発的な行為を展開できる空間を生み出すことを試み、教室・ワークスペース・中庭・アルコーブ・パスをひとまとめにした単位を校舎敷地に散りばめ、その間に多様な使い方ができる外部空間を設計した。オープンスクール(個々の生徒の興味・適性・能力に応じた教育制度)の概念を具体化した先鋭的な設計が評価され、1997(平成9)年に日本建築学会賞(作品)を受賞した。 その10年後、同じ幕張新都心地区に計画した千葉市立美浜打瀬小学校では、この概念をさらに発展させ、児童の経路の在り方、音・温熱環境、多様な学習形態、将来の施設転用を重視した設計が行われた。建物は2枚の厚いスラブから構成され、その上に教室・プール・アリーナ・ウッドデッキなどを配置し、流動的で多様な居場所を許容する空間を作り上げた。 熊本県宇土市立宇土小学校では長いスラブにL形の壁を配置することによって開放的な空間を作り上げ、温暖な立地に配慮して、全開可能な開口部を設置するなど、風通しを考慮した設計が行われている。この校舎は2013年に村野藤吾賞、14年に日本建築家協会賞を受賞している。 L形の壁によって作り上げられた流動的な空間構成と開放的な空間を実現する全開可能な開口部という要素は、地域施設との複合である「流山市立おおたかの森小・中学校・おおたかの森センター・こども図書館」で引き続き設計の要点となった。さらに、校舎と隣接する街と森との関係性に配慮した設計が行われ、「建物のどの場所からも、この森や周辺の街並みが感じられるような開放的な空間が実現されていることは、この規模を思えば驚くべきことである」と評価され、16年に日本建築学会賞(作品)を受賞した。 この他、人間の行為と動線を手掛かりにして、多様な使われ方ができる空間を生み出すことを中核の概念として、ビッグハート出雲(1999年)などの公共施設、スペースブロック上新庄(1998年)などの集合住宅の設計を手掛けた。 大学での教育にも尽力し、2005~11年に東京理科大学教授、11年から横浜国立大学大学院Y-GSA教授を務めた。

大森運夫

没年月日:2016/09/29

読み:おおもりかずお、 Oomori, Kazuo*  日本画家で創画会会員の大森運夫は9月29日、老衰のため死去した。享年99。 1917(大正6)年9月23日、愛知県八名郡三上村(現、豊川市三上町)に農家の長男として生まれる。1937(昭和12)年愛知県立岡崎師範学校(現、愛知教育大学)を首席で卒業し、小学校教員となる。その後、40年広島高等師範学校(現、広島大学)に進むが、翌年肺結核のため中退。帰郷して療養生活を送った後、再び郷里で教鞭をとるようになるが、50年、当時新進作家として脚光を浴びていた中村正義と出会い、その影響で日本画を描き始める。翌年中村正義、平川敏夫、星野眞吾、高畑郁子らと画塾・中日美術教室を開設。51年第15回新制作展に「校庭」が初入選、また同年第7回日展に「稲荷前」が初入選するも、以後は新制作展で入選を重ね、骨太な筆致で風景や人物を描く。58年中部日本画総合展で最高賞を受賞。61年には教員を退職、翌年神奈川県川崎市に移り住んでいた中村正義の宅地内に転居し、画業に専念。同年第26回新制作展で、東京の山谷周辺を根城にする日雇労務者や浮浪者を題材とした「ふきだまり」三連作が新作家賞を受賞。66年第1回神奈川県展で、“オッペシ”と呼ばれる漁婦を主題とした「九十九里」が大賞を受賞、その賞金でフランス、スペイン、モロッコ、スイス、イタリア、ユーゴスラビアの6カ国を巡り、ロマネスク美術に啓発されて人物表現のデフォルメを押し進める。66年第30回新制作展「九十九里浜」二連作、67年第31回「モロッコ」三連作、70年第34回展では山形県庄内地方に伝わる黒川能に取材した「灯翳」「爾宴」が新作家賞を受賞し、71年新制作協会会員となった。以後も同展に「能登神雷譜」二連作(第36回展)、「佐渡冥界の譜」(第37回展)等、土俗的な郷愁を宿した作品を発表する。75年第3回山種美術館賞展で「山の夜神楽」が大賞を受賞。74年新制作協会日本画部会員による創画会結成に参加し、以後会員として活動。土俗祭儀、東北地方の“おばこ”、人形浄瑠璃、ロマネスク美術等、そのモティーフは変遷を辿るが、一貫して人間の根底にひそむ強い生命力や祈りをテーマとし続けた。85年には当時の創画会中堅作家であった池田幹雄、上野泰郎、小野具定、小嶋悠司、滝沢具幸、毛利武彦、渡辺學とともに地の会を結成、その第1回展から最終回の第12回展(1996年)まで毎回出品する。1992(平成4)年豊橋市美術博物館で初の回顧展を開催。96年には求龍堂より『大森運夫画集』が刊行。晩年には作品を豊川市桜ヶ丘ミュージアムに寄贈し、2010年に同館にて受贈記念展が開催される。亡くなる年の春には百寿を記念し、豊橋市のほの国百貨店で新作を中心とした個展が開催されたばかりであった。

塗師祥一郎

没年月日:2016/09/21

読み:ぬししょういちろう、 Nushi, Shoichiro*  雪深い北国を描いた風景画で知られる日本芸術院会員、日展顧問の洋画家塗師祥一郎は9月21日、病気のため死去した。享年84。 1932(昭和7)年4月24日、石川県小松市に陶芸家塗師淡斉の長男として生まれる。誕生間も無く父の仕事のため埼玉県大宮に転居するが、戦況悪化により小松に疎開。47年北国現代美術展に「静物」を出品して吉川賞を受賞し、画家を志す。50年金沢美術短期大学に入学。同学に集中講義に来ていた小絲源太郎に出会う。52年に第8回日展に「展望」で初入選。同年第38回光風会展に「構内」「いこい」で初入選。同年、大学を卒業し、大宮に転居して小絲源太郎に師事する。62年第48回光風会展に瀬戸の採土場に取材した「土」を出品しクサカベ賞受賞。63年光風会会友となる。64年から約10年間、ほぼ毎年丸善画廊で個展を開催。60年代後半から北国の集落や雪景を描くようになり、66年第52回光風会展に「北の町」を出品して光風会会友賞を受賞、同年同会会員となる。同年第9回日展に「雪景」を出品し特選受賞。67年フランス、スペイン、イタリアを2ヶ月間かけて巡遊。それまで憧憬を持って見ていた西洋の風景画に描かれているのが日常的風景であったことを知り、日本の風景を描くことの意義を確認する。同年光風会を退会し、翔陽会を結成して、第1回展から10回展まで出品を続ける。71年第3回日展に越後の集落を描いた「村」を出品して特選受賞。翌年から日展出品依嘱となり、77年日展会員となる。同年、岡田又三郎らを中心に設立された日洋展に参加し、87年同会常任委員となる。82年第14回日展に「待春の水辺」を出品して日展会員賞受賞。1990(平成2)年日展評議員となる。97年第29回日展に雪深い山間の集落を描いた「山村」を出品して文部大臣賞受賞。2003年、前年の第34回日展出品作「春を待つ山間」で日本芸術院賞を受賞し、日本芸術院会員となる。05年フランス国民美術協会の招待によりルーブル美術館のカルーゼル・ド・ルーブルで作品を展示。2007年より埼玉県美術家協会会長を務めた。74年からほぼ毎年上野松坂屋で「塗師祥一郎洋画展」を開催し、82年、89年、09年には三越で展覧会を開催している。また、没後間もない16年10月4日から16日まで、埼玉県立近代美術館で同館所蔵品による「塗師祥一郎追悼展」が開催された。『塗師祥一郎画集1947―2006』(求龍堂、2006年)が刊行されている。

加藤九祚

没年月日:2016/09/11

読み:かとうきゅうぞう  国立民族学博物館名誉教授で人類学者の加藤九祚は、仏教遺跡の発掘調査で滞在していたウズベキスタンの病院で9月11日(日本時間9月12日)死去した。享年94。シルクロードに憧れ、シルクロードを遊歴し、ついに生涯発掘の場をアムダリヤ河畔に見いだし、その現場で生涯を終えた学究の歩みは、波瀾の歴史を背負う苦難の道そのものであった。 1922(大正11)年5月18日、韓国、慶尚北道漆谷(テルコク)郡若木面(ヤンモクミヨン)に生まれる。1932(昭和7)年、宇部で働く兄をたよって来日。山口県宇部市立宇部小学校に入学、韓国姓李を加藤に改称。その後、乙種長門工業学校を経て39年に宇部鉄工所に入社する。太平洋戦争が始まった41年に横浜に移住、横浜第一中学校で高等学校入学者検定試験を受け合格。42年、上智大学予科に入学し、ドイツ語を学び、翌43年に予科を仮卒業する。44年、仙台の工兵第二連隊に志願入隊し、陸軍工兵学校(松戸)を経て工兵見習士官となり、関東軍の第101連隊に配属され、ついで第139師団の工兵連隊に転属する。45年、満州東南部敦化飛行場で武装解除を受け、ソ連軍の捕虜としてシベリアの収容所を転々とする。50年に明優丸で舞鶴に上陸、帰国をはたす。翌51年に上智大学文学部ドイツ文学科に復学し、『リルケ詩論』を学ぶ。53年、卒論『ロシアにおけるゲーテ像』(ドイツ語)を書き上げ卒業。恩師で神学者の小林珍雄の紹介によって平凡社に入社し、『世界百科辞典』などの編集に関わる一方で『シベリアの歴史』(紀伊國屋新書、1963年)や訳書『西域の秘宝を求めて』(新時代社、1969年)を出版した。71年に平凡社を退職するが、その直前に出版された岡正雄の編になるネフスキーの論集『月と不死』(東洋文庫・185)の末尾に「ニコライ・ネフスキーの生涯」という長大な解説を付した。この解説が5年後熟成し、『天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯』(河出書房、1976年)として結実し、大佛次郎賞に輝いた。退職したあと念願のシルクロードの旅にでる。旅の模様は『ユーラシア文明の旅』(新潮選書、1974年)に記された。この旅の途次に出合った梅棹忠夫に招かれて75年に国立民俗博物館教授に就任し、ソ連とモンゴルの民俗学標本収集と研究に従事する。83年に論考「北東アジア民族学史の研究―江戸時代日本人の観察記録を中心として」によって大阪大学学術博士号を取得する。86年、国立民族博物館を定年退職した後、相愛大学人文学部教授に就任し、ついで88年、創価大学文学部教授となり、創価大学シルクロード学術調査団を組織し、同学シルクロード研究センター長に就任する。その間にウズベキスタンとキルギスで発掘調査をおこない、日本の中央アジアにおける発掘調査活動の基盤をつくる。1995(平成7)年に『中央アジア歴史群像』(岩波新書)を上梓。98年に創価大学を退職すると、自費でウズベキスタン科学アカデミー考古学研究所と共同でテルメズ郊外のカラテパの仏教遺跡の発掘に着手する。意気に賛同した奈良薬師寺が「テルメズ仏教跡発掘基金」を創設して支援をした。この支援は逝去の日を迎えるまでつづけられた。 99年、南方熊楠賞を受賞。2001年、加藤九祚が一人で編み上げる年報『アイハヌム』(東海大学出版)を創刊する。ロシアや中央アジアに関する発掘活動の成果や活躍する考古学者の自伝、希少な論文・書籍を自在に翻訳紹介するこの活動は編集者の退職によって幕を下ろす12年までつづいた。その間09年に、この活動は「アカデミズムの外で達成された学問的業績」として高く評価されパピルス賞が贈られた。加藤九祚が古曳正夫・前田耕作とともに「オクサス学会」を創設したのもこの年である。「自由な発想と囚われない言葉、憶見や仮説の交錯からこれまでにはないなにものかが泡立ち始める思考の活動の場を生みだす」ことが狙いであった。10年、国際シンポジウム「ウズベキスタンの古代文明及び仏教―日本文化の源流を尋ねて」を東洋大学と奈良大学の協力をえて東京と奈良で開催する。同年、「ウズベキスタンにおける考古学を通じた学術交流の促進」によって外務大臣表彰を受けた。11年にはエドヴァルド・ルトヴェラゼの雄作『考古学が語るシルクロード史』(原題:中央アジアの文明・国家・文化)を翻訳出版(平凡社)、同年、瑞宝小綬章を受ける。書き下ろし『シルクロードの古代都市―アムダリヤ遺跡の旅』(岩波新書、2013年)が最後の著作となった。 16年9月3日、立正大学ウズベキスタン学術調査隊とともに終生愛してやまなかったカラテパへ入ったのが最後の旅となった。「オクサス学会紀要」3号(2017年6月)はその冒頭に、「労働者であり、学究であり、思索の人であり、行動の人であり、夢見る人であり、文筆の人であり、大地を掘り下げる人であり、人間をこよなく愛する人であり、酒盃に詩の言葉を浮かべた人であり、ひたすら人びとに愛された人」加藤九祚に追悼の言葉を捧げている。

朝日晃

没年月日:2016/08/31

読み:あさひあきら、 Asahi, Akira*  佐伯祐三、松本竣介研究で知られた美術評論家で、広島市現代美術館副館長だった朝日晃は、8月31日に肺炎のため、東京都内の病院で死去した。享年88。 1928(昭和3)年2月11日に広島市に生まれる。広島市の旧制修道中学校を卒業後、広島県立師範学校に進学して49年3月に卒業。翌年、早稲田大学文学部芸術専修美術科に学び、52年3月に同大学を卒業。54年に神奈川県立近代美術館嘱託に採用される。61年に同美術館学芸員となり、69年に主任学芸員となる。75年より新築された東京都美術館の事業課長に転ずる。同美術館では、「戦前の前衛 二科賞、樗牛賞の作家とその周辺」(1976年)、「靉光・松本竣介そして戦後美術の出発展」(77年)、「写真と絵画 その相似と相異」(1978年)など、日本の近現代美術に関して問題提起するような意欲的な自主企画展を指導する一方、「描かれたニューヨーク展 20世紀のアメリカ美術」(1981年)、「今日のイギリス美術展」(1982年)などの国際展も率先して開催した。85年、広島市現代美術館開設準備事務局長となり、88年より同美術館開設準備室長となる。1989(平成元)年5月開館の同美術館の副館長に就任、翌年3月に退職した。以後、美術評論家として活動した。 監修にあたった佐伯祐三、松本竣介に関する画集等が多くあるが、他に主要な編著作は下記の通りである。『松本竣介』(日動出版部、1977年)『永遠の画家 佐伯祐三』(講談社、1978年)中島理寿共編『佐伯祐三 近代画家資料1』(東出版、1979年)中島理寿共編『佐伯祐三 近代画家資料2』(東出版、1980年)中島理寿共編『佐伯祐三 近代画家資料3』(東出版、1980年)『佐伯祐三-パリに燃えた青春』(NHKブックス、1980年)編集解説松本竣介文集『人間風景』(中央公論美術出版、1982年)『絵を読む 人間風景の画家たち』(大日本絵画、1989年)『佐伯祐三のパリ』(大日本絵画、1994年)野見山暁治共著『佐伯祐三のパリ』(新潮社、1998年)『そして、佐伯祐三のパリ』(大日本絵画、2001年)

林紀一郎

没年月日:2016/08/25

読み:はやしきいちろう  美術評論家で、新潟市美術館長、池田20世紀美術館長を歴任した林紀一郎は、心不全のため8月25日死去した。享年86。 1930(昭和5)年4月23日、鹿児島県出水群三笠村(現、阿久根市)に生まれる(本名林喜一郎)。幼少年期を中国北東部(当時の満州国)に過すごし、44年、牡丹江中学校2年時に帰国。53年、上智大学文学部英文科を卒業。57年から60年まで、なびす画廊(中央区銀座1丁目)にて個展を開催、また58年から60年までモダンアート展に出品。60年代から美術評論などの執筆活動をはじめ、雑誌等に幅広く寄稿をつづけた。84年4月、新潟市美術館準備室長に就任。翌年4月、同美術館開館に伴い館長に就任。1995(平成7)年3月まで在任し、同年4月から2009年3月まで同美術館顧問、また95年4月から05年3月まで、同美術館資料選定委員を務めた。同美術館在任中は、初代館長として国内外の近現代美術、郷土出身美術家の作品収集につとめ、コレクションの形成に尽力し、また後進の育成につとめた。92年から05年まで、公益財団法人池田20世紀美術館(静岡県伊東市)の館長を務め、在任中52回にのぼる企画展を開催した。幅広い美術家との日常的な交友をもとに、各作家の人柄や個性を視野に入れ、さらに創作をめぐる作品論を展開するなど、平易に論評する軽妙なスタイルで、晩年まで評論活動をつづけた。監修、解説等にあたった主要な著作は下記の通りである。分担執筆『加山又造 装飾の世界』(京都書院、1979年)共著『世界版画美術全集 第8巻 エルンスト/ミロ』(講談社、1981年)共著『現代美術入門』(美術出版社、1986年)瀧口修造共訳『アラカワ/マドリン・H・ギンズ 「意味のメカニズム」』(1979年に国立国際美術館で開催された「荒川修作の世界・意味のメカニズム」展カタログに掲載)『もの書き・恥かき・半世紀 -美の領分・交友録-』(自家出版、2014年)『続 もの書き・恥かき・半世紀 -海外作家編-』(林幸子発行出版、2017年)

吉井長三

没年月日:2016/08/23

読み:よしいちょうぞう、 Yoshii, Chozo*  吉井画廊会長、清春白樺美術館理事の吉井長三は8月23日、肺炎のため死去した。享年86。 1930(昭和5)年4月29日、広島県尾道市に生まれる。本名長蔵(ちょうぞう)。旧制尾道中学在学中、洋画家小林和作に絵を学ぶ。画家を志して東京美術学校入学を目指すが、父親の反対により、48年中央大学法学部に入学。同年、同校予科在学中、絵画修学の夢を捨てきれず、東京美術学校の授業に参加し、伊藤廉にデッサンを、西田正明に人体美学を学ぶ。53年に東京国立博物館で開催された「ルオー展」を見て深い感銘を受ける。同年中央大学法学部を卒業し三井鉱山に入社するが、2年目に退社して弥生画廊に勤める。海外作品を扱う画廊が少なかった当時、フランス絵画を日本にもたらすことに意義を見出し、64年、小説家田村泰次郎の支援を得てパリに渡り、博物館や画廊を巡る。翌年、株式会社吉井画廊を東京銀座に設立。開廊記念展は「テレスコビッチ展」であった。その後、ジャン・プニー、ベルナール・カトラン、アンドレ・ドラン、アントニ・クラーベ、サルバドール・ダリらの展覧会を開催する一方、青山義雄、中川一政、原精一、梅原龍三郎ら日本の現代洋画の展覧会を開催。71年、ルオーの54点の連作「パッシオン」を購入して、同年ルオー生誕百年記念展に出品し、国内外で注目される。73年パリ支店を開設して富岡鉄斎、浦上玉堂ら文人画を紹介し、75年には現代作家展として東山魁夷展を開催。フランスではまだ良く知られていなかった日本美術を紹介して話題を呼んだ。日仏相互の芸術紹介のみならず、芸術家の国際交流の場としての芸術村を構想し、80年山梨県北杜市に清春芸術村を開設して、エコール・ド・パリの画家たちが住んだラ・リューシュを模したアトリエを建てて国内外の芸術家の制作の場とした。また、79年に武者小路実篤から1917(大正6)年に計画した白樺美術館の構想について聞いたのを契機として、83年清春白樺美術館を設立し、白樺派旧蔵の「ロダン夫人胸像」のほか、白樺派の作家たちの作品、原稿、書簡等を所蔵・公開した。1990(平成2)年ニューヨーク支店を開設。99年、郷里尾道の景観を守る目的で尾道白樺美術館を開設。同館は2007年に閉館となったが、翌年、尾道大学美術館として再び開館して現在に至っている。11年清春芸術村に安藤忠雄設計による「光の美術館クラーベ・ギャラリー」を開館。画商である一方で、小林秀雄、井伏鱒二、谷川徹三、今日出海、梅原龍三郎、奥村土牛らとの交遊でも知られる文化人でもあった。フランス現代美術を日本に紹介する一方、日本美術をフランスに紹介する画廊経営者として先駆的な存在であり、99年レジオン・ドヌール・オフィシエ勲章を、07年にはコマンドゥール勲章を受章。著書に『銀座画廊物語―日本一の画商人生』(角川書店、2008年)がある。

菊池智

没年月日:2016/08/20

読み:きくちとも  公益財団法人菊池美術財団理事長であり現代陶芸のコレクターであった菊池智は8月20日、肺炎のため死去した。享年93。 1923(大正12)年1月18日、東京築地明石町に生まれ、同地の外国人租借地で幼少期を過ごす。聖心女子大学の前身である聖心女子高等専門学校に進み、国文科を卒業する。陶芸作品との出会いは、第二次世界大戦中、実業家であった父・菊池寛実所有の炭鉱があった茨城県高萩市に疎開した折りであった。寛実は、徴用で来ていた瀬戸の陶工のために登り窯をつくる。智は陶器誕生の現場を見て「土はすべての始まるところであり、また、いつか帰っていくところである。」と語り、土からつくり出される陶器に感銘を受け、1950(昭和25)年代後半より陶芸作品の収集を始める。茶道を学び、古美術や古陶磁の収集から始めたが、次第に現代の作品へと移行していく。 74年よりホテル・ニューオータニのロビー階に内にギャラリー『現代陶芸寛土里(かんどり)』をオープンさせた。東京藝術大学教授であった藤本能道の個展で幕を開けたギャラリーは、その後東京藝術大学をはじめとする若い陶芸作家の発表の場となった。79年、ニューヨークにある百貨店ブルーミング・デールスに寛土里が出店したことをきっかけに、83年2月10日から2ヶ月間、スミソニアン自然史博物館トーマス・M・エバンス・ギャラリーで、菊池智コレクションによる「Japanese Ceramics Today」展を開催する。日本各地の作家を訪ね作品を購入するなど、若手作家を多数紹介し、出品作家100人、作品数およそ300点に及ぶ展覧会となり、好評を博した。また、スミソニアン自然史博物館の展示デザイナーであった、リチャード・モリナロリと出会い、展示デザインが作品鑑賞に与える影響に着眼する。美術館の前身となる菊池ゲストハウスで、85年鈴木藏個展「流旅転生」、1990(平成2)年楽吉左衞門個展「天問」、92年藤本能道個展「陶火窯焔」を開催した際もモリナロリに展示デザインを依頼した。その後、「Japanese Ceramics Today」展はヴィクトリア・アンド・アルバート博物館にも巡回し、日本の現代陶芸を欧米に広く紹介した。 2003年には、現代陶芸の紹介を目的として、東京都虎ノ門に「菊池寛実記念 智美術館」を開館。公益財団法人菊池美術財団の理事長を務めた。敷地内には、西久保ビル(2003年竣工)と大正時代に建てられた西洋館(国の登録文化財)、父・寛実のための持仏堂と和風の蔵がある。隔年で開催する陶芸の公募展「菊池ビエンナーレ」を主幹事業と位置づけ、陶芸作家の育成にも力をいれる。95年からは京葉ガス株式会社代表取締役会長も務めた。

坂本五郎

没年月日:2016/08/15

読み:さかもとごろう、 Sakamoto, Goro*  古美術店「不言堂」創設者であり、古美術品の蒐集家としても著名な坂本五郎は、8月15日、脳梗塞により死去した。享年92。 1923(大正12)年8月31日、横浜市磯子区根岸に生まれた。父久蔵は横浜港の税関吏。十人兄弟の五番目なので五郎と名付けられた。生まれた翌日9月1日に関東大震災が発生、母キクは産後の身体にもかかわらず五郎を抱きかかえ、崩壊する家の中から子供たちと怪我を負った夫を引出し助けたという。五郎7歳の頃に父が他界し、坂本一家は八王子に移った。1931(昭和6)年、八王子市立第二尋常小学校に入学、学業のかたわら母の行商を手伝い、商いの心得をも学んだ。小学校卒業後は横浜の乾物問屋に奉公、第二次大戦をはさみ復員後は家族を養うため、古着商をはじめ様々な商売に奔走した。古美術・骨董の世界にも興味を持ち八王子で端師(仲間から買い、仲間に売る商売)を始めるが、やがて知り合いを通じて東京美術倶楽部へ出入りするようになり、本格的に古美術の道に進むようになった。 47年、浜松町に自宅兼店舗を構え、結婚。屋号「不言堂」は、「桃李不言 下自成蹊」(桃や李〔すもも〕は何も言わないが、花や果実を求めて人が集い、その木の下には自然と蹊〔こみち〕ができる)という『史記』の言葉から採ったという。坂本の商売は度胸と行動力に富んだもので、失敗を繰り返しながらもくじけずに勉強を重ね、良いものを求めて全国を回り、茶道具から陶磁器、西洋骨董まで幅広く手がけている。「私は気持ちだけでも、日本一、世界一のものを手がけてみたいといつも念じてきた。朝から晩まで、天下の名品を見つけたい、良いものは欲しい、の一念で生きてきた」(『ひと声千両』)とは本人の述懐である。51年には一流の古美術商が並ぶ京橋・中通りに店を出し、有名コレクターや研究者とも深く付き合い事業を拡大して行く。例えば、当時まだ評価の低かった中国の古代青銅器を手に入れては京都大学の水野清一教授(中国考古学)のもとを訪ね、真贋や時代性の教えを請い学んだ。研究室通いは月に1~2度、幾十年にも及び、ついには日本屈指の中国古代青銅器コレクションを築いている(現在の奈良国立博物館「坂本コレクション」)。60年には日本橋に移転。海外旅行が珍しい当時、早くも海外から古美術を仕入れている。大英博物館収蔵品に連なる古代アッシリア宮殿の有翼聖霊レリーフをロンドンで見出し日本に将来したのは、坂本の眼識と度胸、そして努力による快挙といえよう(現在、岡山市立オリエント美術館蔵)。また、68年には、坂本本人も惚れ込んだ中国・唐時代の加彩陶馬を、台湾の故宮博物院に寄贈して「里帰り」させるなど、商売を超えた「ものへの愛情」もうかがえる。 72年、ロンドンのオークション・クリスティーズで中国・元時代の青花釉裏紅大壺を1億8千万円の中国陶磁史上最高値(当時)で落札。国内外でニュースとなり、坂本は世界的な美術商として評価を高めた。それは資産家の冒険などではなく、すべてを売り払う覚悟でこの壺の獲得に一世一代の勝負をかけた坂本の度胸の勝利であり、また、中国陶磁が国際美術市場でもっと高く評価されるべきとの信念に基づく行動でもあった。その後も中国陶磁の優品を多く獲得するが、中でも元時代の染付魚藻文大壺(現在、大阪東洋陶磁美術館蔵。重要文化財)を高額落札した直後は、大名器を手にした嬉しさから、壺と一緒に風呂に入って汚れを洗い、夜半には幾度も目を覚ましてひとりでそっと壺を見たと懐古しており(『ひと声千両』)、蒐集家の純心さもうかがわれる。 80年に後進に道を譲り業界から引退、2005(平成17)年に小田原に移って隠居生活を送っていたが、2016年8月に突然に亡くなった。小柄で細身の体にスーツと蝶ネクタイ姿が業界のトレードマークだった。古美術商として、弟子には礼儀を厳しく仕込み、優秀な業界関係者を多く世に送り出した。また、多くのコレクションを各地に遺したことも大きな功績である。68年の東京国立博物館東洋館の新設に際し、饕餮文など中国古代青銅器10点を母キク名義で寄贈。02年には奈良国立博物館に約380点の中国古代青銅器を寄贈、さらに没後、九州国立博物館に「古今和歌集・伝藤原公任筆」や〓飾北斎筆「日新除魔図」をはじめ陶磁器や茶釜など約260件を寄贈、幕末の思想家佐久間象山の書画類157点を象山出身地の長野市松代に寄贈するなど、坂本の蒐集品が各地の公共機関に収蔵、活用されている。 著書に『ひと声千両―おどろ木 桃の木「私の履歴書」』(日本経済新聞社、1998年)がある。

松尾敏男

没年月日:2016/08/04

読み:まつおとしお、 Matsuo, Toshio*  日本画家の松尾敏男は8月4日、肺炎のため死去した。享年90。 1926(大正15)年3月9日、長崎県長崎市今籠町(現、鍛冶屋町)にて、石鹸会社を経営する父稲吉と母スエの間に、9人兄弟の末っ子として生まれた。1929(昭和4)年に父親の会社倒産のため一家そろって上京、淀橋区(現、新宿区)大久保に居住する。32年東京市大久保尋常高等小学校(現、新宿区立大久保小学校)入学。在学中には東京市の図画コンクールで学校代表となった。38年東京府立第六中学校(現、東京都立新宿高等学校)へ入学、体操に熱中し大会でも活躍するが、病気を機に画家を志すようになる。43年3月に同校卒業後は、技法書をたよりにしばらく独学で学ぶ。そのかたわら、美術雑誌に掲載されていた堅山南風の«雨後»(第2回新文展、1938年)に感銘を受け弟子入りを決意、隣家の美術ジャーナリスト垣見泰山の紹介で同年10月その門に入った。自由な方針の南風塾では古画の模写をとおして運筆を学び、また写生にも勤しんだ。47年3月第2回日本美術院小品展に「春容」が初入選するも、秋の本展では落選が続き、49年9月第34回院展へ出品した「埴輪」で初入選を果たす。なお47年より52年までは「泉華」と号した。50年第5回小品展の「牡丹」で奨励賞受賞(12回でも受賞)。51年9月第36回院展へ「森の自画像」を出品し、日本美術院院友に推挙された。58年12月斎藤愛と結婚。60年9月第45回院展へ同年1月に生まれた長女由佳にちなんだ「森の母子像」を出品。この頃までは花や鳥、人物を主題に構成的な画面をつくり上げていたが、以降はモチーフが単純化、抽象化され、幻想的な画面が展開された。また、自らが人間的にもっている不安感、あるいは生と死といったイメージを画面に描き出すようになる。62年9月第47回院展の「陶土に立つ」で奨励賞受賞、以後4年連続で受賞し、65年日本美術院特待推挙。この間、63年11月に次女麻里誕生。また64年11月に師南風が依頼を受けた日光・輪王寺本地堂(薬師堂)の鳴龍復元にあたり助手を務めた(1966年7月完成)。師の制作を間近で観察し、絵の具は塗るのではなく描かなければと考えを改め制作した「廃船」を66年9月の第51回院展へ出品、日本美術院賞を受賞する(68年、70年にも受賞)。67年6月北海道の積丹半島へ取材旅行、68、71年にも北海道を訪れる。この頃より各地へ旅行し、そこでの体験や感動をもとにした制作が行われるようになる。69年には「北限」(第54回院展)で奨励賞受賞。70年9月第55回院展へ「樹海」を出品して3度目の日本美術院賞受賞、作品は文化庁買上となり、翌71年2月日本美術院同人に推挙された。同年1月「今日の日本画―第1回山種美術館賞展―」へ「翔」を出品、優秀賞受賞。10月初の個展を彩壺堂サロンで開く。72年3月には「海峡」(第56回院展、1971年)で昭和46年度芸術選奨新人賞受賞。73年5月日本橋三越にて個展開催。穏やかな色彩による花鳥画にて新境地を見せた。75年1月初めてインド・パキスタン旅行へ出かけ、4月の第30回春の院展へ「デカン高原」を出品する。以後78年まで毎年インドへ旅行し、「サルナート想」(第63回院展、1978年、文部大臣賞、昭和53年度日本芸術院賞)などを制作。この間、75年9月の第60回院展では「燿」で文部大臣賞受賞、78年4月日本美術院評議員に任命される。79年秋には初めて中国を訪れ、翌80年3月第35回春の院展へ「出土」を出品。82年以降毎年中国を訪れ、「連山流水譜」(第67回院展、1982年)をはじめ数々の作品を制作した。80年3月第2回日本画秀作美術展に「篝火」が選抜される(以後25回まで16、20回を除き毎回選抜)。82年6月日本美術院監事。85年3月イタリアへ取材旅行に出かける。同年7月高山辰雄、稗田一穂らと結成した日本画研究会「草々会」の第1回展を資生堂ギャラリーにて開き、「ヴェネチアの聖堂」など3点を出品。86年3月ギリシャ・トルコへ取材旅行に出かけ、9月の第71回院展へギリシャのミコノス島で出会った神父を描いた「ミコノスの聖堂」を出品する。87年多摩美術大学美術学部絵画科日本画専攻教授となり、96年3月退官。その後客員教授となり、99年4月名誉教授となる。87年11月回顧展「花のいのちを描く―松尾敏男展」(伊勢丹美術館ほか)を開催。1994(平成6)年12月日本芸術院会員となる。95年湯島天神天井画に白龍を揮毫。翌96年パリの三越エトワールにて個展を開く。98年4月勲三等瑞宝章受章。2000年9月第85回院展へ「月光のサンマルコ」を出品、以後もイタリアに取材した作品を多数描いた。同年10月文化功労者。09年12月日本美術院理事長就任。10年2月には「画業60年松尾敏男回顧展」(日本橋三越ほか)が開催される。12年11月文化勲章受章。13年4月には長崎市特別栄誉表彰を受け、同年10月長崎名誉県民の称号が贈られた。歿後、従三位に叙せられた。

石田尚豊

没年月日:2016/07/29

読み:いしだひさとよ、 Ishida, Hisatoyo*  美術史家である石田尚豊は、7月29日死去した。享年93。 1922(大正11)年8月9日東京都上根岸に生まれる。1929(昭和4)年4月東京都世田谷区深沢尋常小学校入学、35年4月京華中学校入学、41年4月都立高等学校文科乙類入学。45年4月東京大学文学部国史学科に入学し、50年3月卒業した。同年4月に東京大学大学院に進み、52年3月に満期修了して、同年4月、東京国立博物館の資料課資料室員となった。64年7月東京国立博物館に法隆寺宝物館が開館し、資料課内に置かれた法隆寺宝物掛の主任となった。67年5月資料課資料室長兼法隆寺宝物掛主任となり、法隆寺宝物室の新設を目指した。70年4月資料課内に法隆寺宝物室が新設されたが、彼は、70年4月に国立歴史民俗博物館(1983年開館)の設立準備のため文化庁に出向し、文化庁美術工芸課文化財調査官(絵画部門)兼管理課長補佐となった。この間、71年に基本構想委員会が設置され、72年に基本構想案がまとめられた。それに基づいて、展示準備委員会及び展示計画委員会が設置され、資料調査と資料収集が開始された。 72年11月、再び東京国立博物館に戻り、普及課主任調査官、74年4月資料課資料調査室長。76年7月資料課長となった。この頃に、資料館(1984年2月開館)設立準備に携わった。75年11月『曼陀羅の研究』(東京美術)を刊行し、78年1月、同著によって、東京大学から文学博士を授与され、また、78年3月、同著により、日本学士院賞を受賞した。81年3月東京国立博物館を退職し、同年4月青山学院大学文学部史学科教授となった。88年2月『日本美術史論集―その構造的把握―』(中央公論美術出版)を刊行、同年11月、同著により、青山学院学術褒賞を受賞した。1991(平成3)年3月青山学院大学文学部史学科教授を退職し、同年4月聖徳大学人文学部日本文化学科教授となり、2001年4月に同職を退職した。92年11月勲三等瑞宝章を授与されている。常勤職以外に、明治大学、中央大学、東京大学、学習院大学、東京女子大学、聖徳大学にて非常勤講師をつとめ、弘前大学、東北大学、九州大学、高野山大学にて集中講義を行った。 彼の研究対象は、玉虫厨子、華厳経美術、密教美術、浄土教美術、重源、洛中洛外図屏風、職人絵と多岐にわたり、どれを対象としても、膨大な史料を読み込み、深く思考して、緻密に論理を構成する点が共通する。また、未解決の問題があると、先学や専門家に面謁し、その教えを真摯に乞うことが少なからずあったことは、彼の『日本美術史論集』の「あとがき」などに明らかである。 彼の経歴と業績については、「石田尚豊先生年譜と業績」(『青山史学』12 今野國雄教授・石田尚豊教授退任記念号、1991年)に詳しい。それ以降の著作、論文、講演等は、以下の通りである。【著作・監修・編著】『日本史写真集 続(文化編)』(土田直鎮と共同監修、山川出版社、1995年)、『聖徳太子と玉虫厨子―現代に問う飛鳥仏教―』(東京美術、1998年)、『聖徳太子事典』(編集代表、柏書房、1997年)、『ブッダ―大いなる旅路 救いの思想・大乗仏教(NHKスペシャル)』(NHK「ブッダ」プロジェクトと共著、NHK出版、1998年)、『空海の帰結―現象学的史学―』(中央公論美術出版、2004年)。【論文・講演記録・随筆】「ともしび」(『青山史学』13、1992年)、「『MUSEUM』の回想」(『MUSEUM』500、1992年)、「曼荼羅研究の現代的意義」(講演、『愛知学院大学人間文化研究所紀要』8、1993年)、「『絵仏師の時代―研究篇・資料篇(全2)』平田寛」(『日本歴史』566、1995年)、「玉虫厨子は語る」(公開講演、『鶴見大学佛教文化研究所紀要』2、1997年)、「玉虫厨子をめぐって―『文献の学』と『物の学』」(『史学雑誌』107―12、1998年)、「飛鳥の曙―小墾田新宮殿」(『学燈』95―5、1998年)、「聖徳太子の実像を求めて―アジア的視野で考察する」(『大法輪』(上)68―9、(下)68―10、2001年)、「聖徳太子とその時代―太子を貫く思想 含 聖徳太子略年表」(『大法輪』68―12、2001年)、「新しい歴史学を求めて―現象学的史学」(『文化史学』59、2003年)。

阪田誠造

没年月日:2016/07/21

読み:さかたせいぞう、 Sakata, Seizo*  建築家の阪田誠造は7月21日、心不全のため死去した。享年87。 1928(昭和3)年12月27日、大阪市に生まれる。大戦末期の45年に早稲田大学専門部工科建築科に入学、48年早稲田大学理工学部建築学科に編入学。51年同卒業後、坂倉準三建築研究所に入所。坂倉のもとで羽島市庁舎(1959年竣工、60年日本建築学会賞(作品)、2003年日本におけるDOCOMOMO100選)、新宿西口駅本屋ビル(1967年)、日本万国博覧会電力館(1969年)などの設計・監理を担当した。69年に坂倉が没した後、西澤文隆らとともに株式会社坂倉建築研究所を設立して同東京事務所長に就任、85~99年同社代表取締役、その後は同社最高顧問を務めた。 主宰アーキテクトの作家性よりも担当スタッフの発想を活かしながら共同作業で設計を練り上げていくことを尊重する姿勢を一貫し、大規模な組織事務所ともいわゆるアトリエ事務所とも一線を画しつつ、洗練されたデザインの良質な建築をコンスタントに生んできた。また、そのもとから独立して活躍する建築家も数多く輩出してきた。 ビラ・セレーナ(1971年)、東京都立夢の島総合体育館(1976年、77年日本建築学会賞(作品))、新宿ワシントンホテル(1983年)、横浜人形の家(1986年)、北沢タウンホール(1990年)、小田急サザンタワー・新宿サザンテラス(1998年、99年建築業協会賞特別賞、都市景観大賞)、聖イグナチオ教会(1999年)など、個人住宅から公共施設、オフィスビルまでを幅広く手掛けた。モダニズムの系譜に連なる一方で、理論よりも個別の敷地の場所性や設計者自らの感性に立脚して建築を作ることを坂倉や西澤から受け継いだと自ら語っている。その意味でも、特に阪田の代表的作品として位置づけられるのが東京サレジオ学園の一連の建築(1990年IV期竣工、89年村野藤吾賞、2014年日本建築家協会25年賞)であろう。スケールを抑えた打放しコンクリートと瓦屋根の園舎群が聖堂を焦点に一つの集落のような小世界を形作る。シャープな造形の外観と静謐な内部空間を併せ持つドンボスコ記念聖堂及び小聖堂は、建築家と施主のみならず彫刻やガラス工芸、家具、テキスタイルなどの芸術作家たちとの類まれな協働の成果でもあり、1989(平成元)年に吉田五十八賞および日本芸術院賞を受賞した。 90~91年新日本建築家協会副会長、93~99年明治大学理工学部建築学科教授を務めるなど、建築界の発展や教育にも貢献した。 共著に、『建築家の誠実-阪田誠造 未来へ手渡す』(建築ジャーナル、2015年)、『阪田誠造:坂倉準三の精神を受けついだ建築家』(建築画報社、2015年)がある。

灘本唯人

没年月日:2016/07/19

読み:なだもとただひと  物憂げで都会的な女性像から情感溢れる時代小説の挿絵まで幅広く手がけたイラストレーターの灘本唯人は7月19日、心不全のため死去した。享年90。 1926(大正15)年2月12日、神戸市に生まれる。本名整(ただし)。少年時代は実家の銭湯で下足番の手伝いをしながら、客の着物や履物を観察して色彩感覚を身に着けたという。1944(昭和19)年、高知市浦戸の予科練に入隊、翌年鹿児島県鹿屋の特攻隊出撃基地で終戦を迎える。終戦後しばらくは様々な職業を転々とし、ヤミ屋等も経験する。一時は歌手を目指すが、52年大野図案事務所に勤務。56年に山陽電鉄宣伝部に嘱託として入社し、同電鉄の宣伝ポスターを手がけて頭角を表す。57年頃には同郷の横尾忠則らとデザイングループ「NON」を結成。60年、新人デザイナーの登竜門であった日本宣伝美術会(日宣美)展覧会に60年入賞、翌年会員に推挙される。61年に関西グラフィックデザイン界の雄であった早川良雄のデザイン事務所に入所。翌年、早川事務所の東京進出に伴い上京し、東京事務所の番頭役として中心的役割を担う。64年横尾忠則、和田誠らと東京イラストレーターズ・クラブを結成。66年、大胆なデフォルメと奔放な線で女性の肉体美とエロティシズムを表現した私家本『Women』を刊行。67年よりフリーとなり本格的に活動を開始、書籍・雑誌の表紙や挿絵、広告ポスター等で活躍する。とくに田辺聖子や佐藤愛子といった女流作家との仕事が多く、その挿絵や装丁に登場する、デフォルメを効かせながら軽妙で洗練された都会的な女性像は評判を呼んだ。また時代小説の挿絵も多く手がけ、江戸の諧謔味を感じさせる作風は人々を魅了した。69年、永六輔や小沢昭一らの発案で雑誌『話の特集』が始めた句会に参加し、句会を通して多くの作家や芸能人と知遇を得るようになる。『週刊朝日』に連載された森繁久弥「にんげん望艶鏡」ほかで79年に講談社出版文化賞さしえ賞を受賞。81年ニューヨーク・ジャパン・グラフィックデザイン大賞受賞。83年、作品集『人間模様』を講談社より刊行。同年フジサンケイグループ雑誌広告賞。88年東京イラストレーターズ・ソサエティー(TIS)を結成、翌年初代会長に就任し、2009(平成21)年に退任するまで長らく務めて業界の発展に尽す。93年イラストレーターとしては初めて紫綬褒章を受章。08年桑沢特別賞受賞。没後の16年9月に玄光社より雑誌『イラストレーション』別冊として作品集『灘本唯人 にんげんもよう』が刊行された。

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