三谷吾一

没年月日:2017/07/12
分野:, (工)
読み:みたにごいち

 漆芸家の三谷吾一は7月12日、肺炎のため死去した。享年98。
 1919(大正8)年2月13日、塗師であった父・忠作の五男として石川県輪島町(現、輪島市)に生まれる。本名・伍市。1930(昭和5)年、輪島男児尋常高等小学校尋常科在学中、赤十字社が募集したポスター展に応募し、パリで開催された世界展に展示される日本代表6名のうちの一人に選ばれる。三谷の家の近くには、後に重要無形文化財「沈金」保持者、いわゆる人間国宝に認定される前大峰が住んでいた。この頃帝展で特選を受賞した前が、三谷の通っていた小学校で講演を行い、その話に感銘を受けたことから三谷は沈金作家を志すようになる。33年、同校高等科卒業後、前大峰の兄弟子であった沈金師の蕨舞洲の下で5年間修行を積む。38年、年季明けの後、さらに2年間前大峰に師事し、41年に独立。翌42年、「沈金漆筥」で第5回新文展に初入選。戦時中の徴用のため、輪島航空工業株式会社に部品検査官として勤務しながらの制作であった。45年、第1回現代美術展に出品し、以後2014年まで毎年出品を重ねる。49年、デンマーク船エルセメルクス号など豪華客船の壁面装飾を制作。戦後は、自身で「スランプ状態」と語るように連続して展覧会に落選するなど、長い試行錯誤の時期を乗り越え、62年に第1回日本現代工芸美術展に初入選。65年、沈金パネル「飛翔」で第4回日本現代工芸美術展で現代工芸大賞・読売新聞社賞を受賞。66年、第9回日展で「集」が特選北斗賞受賞。60年代半ばの作品は、複数の色漆の塗り重ねと沈金の線彫り・点彫りの技法を高度に組み合わせたもので、沈金の技を駆使した抽象的な自然の風景を特徴とした。70年、第2回改組日展で特選北斗賞を受賞。78年、石川県美術文化協会理事となる。83年、日本現代工芸美術家協会理事となる。84年、北國文化賞を受賞。87年、石川県輪島漆芸技術研修所講師となる。88年、第44回日本芸術院賞を受賞。1989(平成元)年、日展理事となる。90年、紺綬褒章受章(以降、5回にわたって受章)。91年、石川県文化功労賞を受賞。93年、勲四等旭日小綬章受章。94年、中日文化賞を受賞。99年、日本現代工芸美術家協会顧問、輪島塗技術保存会会長、日展参事となる。2002年、日本芸術院会員、03年、日展顧問、輪島市名誉市民となる。04年、第60回現代美術展に出品し、第1回展より60回連続出品を果たす。
 三谷はとりわけパウル・クレーの抽象的かつ詩情豊かな色彩に影響を受け、色粉の研究に基づく新しい沈金表現を確立したことで高く評価された。黒、朱などの限られた色数の漆に顔料や金銀粉を組み合わせた従来の伝統的な沈金は、色の多彩さという点においては他の漆芸技法に比べて制約が大きい。三谷は繊細な諧調表現を可能にするプラチナ箔、アルミの粉に着色を施したエルジー粉、酸化チタンや酸化鉄を用いて雲母を着色したパール粉など、ややもすると人工的で俗っぽい印象を与えかねない新素材の金属粉を、沈金の絵画的表現に大胆に取り入れた。十数年の研究のうちに、金属粉同士の組み合わせや、線彫りと点彫りを重ねる工程を工夫することで、豊かな中間色による明るく柔らかな表現を行うことが可能となり、油彩とも版画ともまったく異なる、沈金ならではの独自の世界を展開した。そのモチーフには、幼い頃の記憶にある身近な動植物や草花、貝、魚、鳥などが一貫して多く用いられるが、80年代の作品を中心に見られる黒漆による地と着色金属粉による発光するような明るい色彩のコントラストを強調した幻想的な作風は、90年代半ば以降はさらに一つの色面の中でも複雑な色の重なりが彫りによって表され、2000年代後半には切り箔や堆漆板による効果を組み合わせるなど、常に沈金の可能性を拡げ続けた。15年、文化功労者顕彰。没後の17年末、彫刻家である長男の三谷慎の編集により『GOICHI MITANI-三谷吾一作品集』が刊行される。

出 典:『日本美術年鑑』平成30年版(448-449頁)
登録日:2020年12月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「三谷吾一」『日本美術年鑑』平成30年版(448-449頁)
例)「三谷吾一 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/824286.html(閲覧日 2024-10-16)

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