本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,013 件)





森田稔

没年月日:2017/02/13

読み:もりたみのる、 Morita, Minoru*  九州国立博物館名誉館員で一般財団法人環境文化創造研究所理事の森田稔は消化器疾患のため2月13日に急逝した。享年62。 1954(昭和29)年6月14日に岐阜県岐阜市に生まれ、73年に岐阜県立岐阜北高等学校を卒業し、広島大学文学部史学科(考古学専攻)に入学した。広島大学卒業後、名古屋大学大学院文学研究科に進学し、80年に史学地理学専攻考古学専門博士課程(前期)を修了した。同年4月1日に神戸市教育委員会事務局文化課学芸員に採用され、同市の埋蔵文化財調査担当を経て、85年4月1日に神戸市立博物館学芸課に学芸員として配置された。在職中、1995(平成7)年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)に遭遇し、地元の博物館職員として被災した文化財のレスキュー事業にかかわり、その後96年12月1日に文化庁文化財保護部美術工芸課文化財調査官(考古部門)として採用された。翌97年4月1日から文化財管理指導官を併任し、全国の博物館・美術館の指導に当たった。 文化庁在籍時代の森田は、阪神・淡路大震災の経験を活かして文化財の災害対策に積極的に取り組んだ。また国内で広く行われていた臭化メチルによる燻蒸処理を、国際的な流れに沿った新しい生物被害防止方法に切り替えるために、担当官として大きな働きをした。当時は97年9月にカナダのモントリオールで開催されたモントリオール締約国会議で、オゾン層保護のため臭化メチルの国際的な全廃が前倒しされて2004年末に繰り上がることが決まり、カビや虫の被害が多い日本としてどの様に対処するかが喫緊の課題となっていた時期であった。臭化メチルの代替法については東京国立文化財研究所保存科学部(当時)が調査・研究を行っていたが、森田は行政の立場から博物館、美術館、社寺、各地の教育委員会などの現場が抱える不安の解消にあたり、文化庁に調査研究協力者会議を立ち上げ「文化財の生物被害防止に関する日常管理の手引き」(2001年3月)を取りまとめ、総合的有害生物管理(IPM)による文化財の生物被害防止への道を作った。 その後、森田は01年4月1日に美術学芸課主任文化財調査官となり、04年4月1日に独立行政法人国立博物館(当時)京都国立博物館に学芸課長として転出した。さらに08年4月1日には独立行政法人国立文化財機構九州国立博物館の学芸部長として異動し、その2年半前に開館した九州国立博物館の運営に当たった。森田は09年8月1日に副館長に昇任し、11年4月には放送大学の客員教授にも就任して「博物館資料保存論」を同館学芸部博物館科学課長の本田光子と共に担当し、博物館におけるIPMの普及に努めた。その後、森田は体調不良から定年一年前の14年3月に退職し、同年4月1日に九州国立博物館の名誉館員となった。同日、一般財団法人環境文化創造研究所の理事(文化財担当)、同年10月1日には福岡県田川市文化財アドバイザーに就任した。 阪神・淡路大震災を神戸市立博物館の学芸員として体験した森田は生涯、文化財の防災対策に大きな関心を持ち文化庁においてだけでなく、一般社団法人文化財保存修復学会でも理事として学会内に災害対策調査部会を設置するなど尽力し、それらの功績により16年6月に第10回学会賞を受賞した。救済の対象を指定文化財だけに限らない文化財レスキューが、災害発生後に迅速に開始されるようになったことには、生涯、文化財の防災対策の必要性を訴え続けた森田の功績が大きい。

谷口ジロー

没年月日:2017/02/11

読み:たにぐちじろー、 Taniguchi, Jiro*  漫画家の谷口ジローは2月11日、多臓器不全で死去した。享年69。 1947(昭和22)年8月14日、鳥取県に生まれる。本名治郎。66年鳥取県立鳥取商業高校卒業後、会社務めの傍ら漫画を描き続ける。67年上京、石川球太のアシスタントになる。70年「声にならない鳥のうた」(『デイリープログラム』)でデビュー。72年絵本『ぐじゃ ままにたら』(文・桂里歩、自費出版)を発表。74年から集英社の学習漫画「シートン動物記」の作画を4巻分担当。79年、初期の代表作で探偵ものの「事件屋稼業」(原作・関川夏央、『漫画ギャング』)が連載開始、掲載誌休刊後82年『漫画ゴラク』にて再び連載される。80年、ボクシング漫画の傑作「青の戦士」(原作・狩撫麻礼、『ビッグコミックスピリッツ』)を発表。84年の「超戦闘犬ブランカ」は、谷口の動物ものとアクションものの描写力を併せ持つ作品となった。描線を多用する画風からはなれ、中期の傑作となったのが、関川夏央との共作「坊ちゃんの時代」で、87年から『漫画アクション』に連載(単行本全5巻、双葉社)、夏目漱石、森鴎外、石川啄木ら明治の群像が描かれる。同作は国内外で多くの漫画賞を受賞。1994(平成6)年からは後にTV番組にもなった「孤独のグルメ」(原作・久住昌之、『月刊PANjA』)の連載がはじまり、谷口の名は一般にも知られるようになる。さらに「歩く人」(1990年)、「犬を飼う」(1991年)など日常生活の機微を丁寧かつ静謐に描く作品も多くなる。さらに故郷を舞台にした「父の暦」(1994年)、「遥かな町へ」(1998年)などでモチーフを広げていく。2000年発表の「神々の山嶺」(原作・夢枕獏、単行本全5巻、集英社)は、谷口の独断場といっていい山岳もの傑作で、後期の代表作といえよう。90年代半ばからフランス、スペイン、ドイツなど海外での受賞が続き、10年ベルギーで「遥かな町へ」が映画化、12年フランスでインタビュー集が刊行され、14年ルーヴル美術館からの依頼で蔵品の絵画をモチーフにした「千年の翼、百年の夢」を手掛けるなど、谷口の漫画は一挙に国際的になる。16年初の画集『谷口ジロー画集』(小学館)を刊行。17年から18年にかけて、日仏会館ギャラリーと鳥取県立博物館で回顧展が開催された。参考文献として『谷口ジロー 描くよろこび』(〓凡社、2018年)がある。

吉田大朋

没年月日:2017/02/10

読み:よしだだいほう  写真家の吉田大朋は2月10日、心不全のため東京都内の自宅で死去した。享年82。 1934(昭和9)年5月5日東京に生まれる。53年東京都立石神井高等学校卒業。写真家土方健一に師事。59年準朝日広告賞を受賞し、コマーシャル写真家として頭角を現す。61年『ハイファッション』誌でデビュー、新進のファッション写真家として注目され、多くのファッション誌、女性誌に寄稿するようになる。 文化出版局で『ハイファッション』などを担当した編集者今井田勲の勧めで65年に渡仏、パリに二年間滞在し、日本人の写真家として初めてフランスのファッション誌『ELLE』と専属契約を結ぶ。また欧米の先端的モードを日本に紹介する窓口としても大きな役割を果たした。71年には渡米、ニューヨークに一年間滞在。75年には再びパリに拠点を移し、約三年半の滞在中、『VOGUE』誌などに寄稿するとともに、パリをはじめヨーロッパ各地の土地や人々の撮影にもとりくんだ。この間、70年に『an・an』誌が創刊された際に、エディトリアルデザインを担当した堀内誠一に請われて参画、海外ロケのファッション写真を寄稿するなど、日本におけるファッション写真の第一人者として、長く一線で活躍した。 ファッションの他に著名人のポートレイトをはじめ幅広い撮影をてがけ、とくにパリの都市風景をめぐる写真集『巴里』(文化出版局、1979年)は、モードの最先端に並走するファッション写真の仕事とは対照的に、繊細かつ洒脱な感覚で、都市パリの日常に堆積する歴史や文化を丹念にすくいとった仕事として評価された。79年同題の個展を開催(ミキモト・ホール、東京)。その他の写真集にフランスのファッション・デザイナー、マダム・グレ(ジェルメーヌ・エミリ・クレブ)の作品世界をとらえた『グレの世界』(文化出版局、1980年)や、『地中海夏の記憶』(キヤノン販売キヤノンクラブ、1981年)、『古都京の四季』(朝日新聞社、1982年)などがある。また87年から2001(平成13)年にかけ、東京綜合写真専門学校で講師を務め、後進の指導にあたった。 急逝する直前まで精力的に仕事を続けており、準備中であった箱根写真美術館での個展は、死去後、17年4月から5月にかけて「レクイエム吉田大朋写真展 軽妙洒脱」として開催された。

上原和

没年月日:2017/02/09

読み:うえはらかず、 Uehara, Kazu*  日本美術史研究者の上原和は2月9日、心不全のため死去した。享年92。 1924(大正13)年12月30日、台湾台中市において父・繁秀、母・登美子の次男として生まれる。1944(昭和19)年9月台北帝国大学予科文科三年を修了し、台北帝国大学文政学部に入学するが、学徒出陣として同年同月茨城県土浦海軍航空隊に入隊。45年8月の終戦にともない鹿児島県桜島海軍第五水上特攻戦隊司令部より復員。翌年1月に九州帝国大学法文学部に転入学して哲学科美学美術史学を専攻する。48年3月、九州大学法文学部を卒業し、4月よりは同大学大学院文学研究科特別研究生前期課程美学及美術史専攻に進学。矢崎美盛に師事し、ドイツ古典主義美学及び美術様式論を研究する。50年3月同前期過程を修了。4月より55年10月まで宮崎大学学芸学部講師として美学を担当。11月には相良徳三の招請により成城大学文芸学部の芸術コース(のちの芸術学科)の設立のため専任講師として着任。美学・美術史を担当する。56年10月成城大学文芸学部助教授に昇任。64年10月同大学同学部教授に昇任。学科の発展に尽くし、75年には同大学大学院文学研究科に美学美術史専攻を開設。同年には『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』(朝日新聞社)で亀井勝一郎賞を受賞(なお、同書は1978年には朝日選書として、84年には朝日文庫として、また、92年には講談社学術文庫の一冊として再刊を重ねた)。86年4月より同大学文芸学部長を併任(1990年3月まで)、1992(平成4)年10月には『玉虫厨子 飛鳥・白鳳美術史様式史論』(吉川弘文館、1991年)で九州大学より博士(文学)の学位を受ける。翌年4月、成城大学大学院文学研究科長を併任し、95年3月に退任。大学より名誉教授の称号を受ける。この間、成城大学内の役職として学園評議員、学園理事、大学評議員を務め、学外にあっては美学会、美術史学会、民族藝術学会、日本文芸家協会、日本ペンクラブに所属して、美学会委員、民族藝術学会評議員、日本キリスト教芸術センター幹事を務めた。 上原の学問的業績の全貌は『上原和博士古稀記念美術史論集』(同刊行会、1995年)に付された著作等目録に示される通りであるが、日本古代仏教史を専門とし、その視野はギリシアから西アジアをへて印度・中央アジア・中国・朝鮮・日本に及ぶ広汎なものであり、現地踏査のうえでの緻密かつ実証的であった点に特色がある。研究の中心は、法隆寺の遺構および遺物を中心とする日本古典美術と朝鮮・中国美術との様式的比較研究にあり、ことに法隆寺と玉虫厨子、聖徳太子研究の第一人者として斯界の研究を長く牽引した。また、研究の過程で培い、親交のあった中国・敦煌研究院との交流は、本務の成城大学に留まらず、97年から行われた朝日新聞社の「敦煌研究員派遣制度」へと結実。その初回より選考委員長に就任し、多くの若手研究者を現地研修に送り出すとともに、研究者の育成と輩出に尽力したことは彼の大きな業績として特筆されなければならないであろう。

内田啓一

没年月日:2017/02/08

読み:うちだけいいち  美術史家・早稲田大学文学学術院教授の内田啓一は、癌のため2月8日に死去した。享年56。 1960(昭和35)年11月1日、神奈川県横浜市鶴見区に生まれる。79年3月、神奈川県立横浜翠嵐高校卒業。83年3月、早稲田大学第二文学部を卒業し、同年4月、同大大学院文学研究科に入学。1989(平成元)年10月、同研究科博士後期課程を満期退学、町田市立国際版画美術館に学芸員として採用される。2000年4月に昭和女子大学に専任講師として着任し、04年4月、同大助教授、05年4月、同大教授。11年4月より早稲田大学文学学術院准教授、13年4月、同大教授。女子美術大学、早稲田大学、東北芸術工科大学、拓殖大学、青山学院大学、成城短期大学、昭和女子大学で非常勤講師として教鞭を執ったほか、奈良国立博物館調査員、世田谷区文化財保護審議会委員を務めた。 早稲田大学で日本美術史家・星山晋也の指導を仰ぐ。大学院在学時から鎌倉時代に西大寺を復興させた僧・叡尊に関わる仏教絵画に関心を寄せ、修士論文「八字文殊画像について―叡尊を中心とした西大寺本・旧東寺本の考察―」を提出した。国際版画美術館に勤務してからは、「仏教版画入門」(1990年)、「奈良・元興寺仏教版画」(1992年)、「大和路の仏教版画」(1994年)、「版になった絵・絵になった版―中世日本の版画と絵画―」(1995年)、「名品でたどる―版と型の日本美術」(1997年)など、とりわけ仏教版画に関する展覧会を数多く担当する。従来、研究対象としては等閑視されがちだった摺仏・印仏の作例を展覧会・学術論文を通じて数多く紹介し、その受容や制作背景を丹念に解き明かすことで仏教版画研究を大きく進展させた。他方、修士論文以来の関心テーマであった西大寺流に関する研究にも精力的に取り組み、02年には博士論文「中世律宗諸流派における造像とその特徴―西大寺流を中心に―」を早稲田大学大学院文学研究科に提出し、03年6月に博士号を取得した。 大学に籍を移して以降は後進の指導と育成に努めながら、作品調査と論文の執筆を続けた。作品の深い鑑識から出発し、その制作を巡る時代背景や関与した人物を生き生きと浮かび上がらせ、一見結びつきのなかった作品同士の関連性を示すことで、研究成果を体系的に積み重ねていった。自らが真摯に作品と向き合い、図様の分析と制作背景に関する鋭い考察を第一とするその研究姿勢は、指導を受けた学生に少なからず影響を与えた。美術史研究に対する情熱的な態度、そして何よりも大らかで明るく、衒いのない人柄は多くの同業者・学生に慕われていた。 主要な著書に、共著『中世・勧進・結縁・供養 大和路の仏教版画』(東京美術、1994年)、『文観房弘真と美術』(法藏館、2006年)、『江戸の出版事情』(青幻舎、2007年)、『後醍醐天皇と密教』(法藏館、2010年)、『日本仏教版画史論考』(法藏館、2011年)があるほか、没後、『美しき日本の仏教版画 すりうつしまいらせるほとけ』(東京美術、2018年)が刊行された。 主要な論文は次の通り。「八字文殊画像の図像学的考察」(『南都仏教』58、1987年)、「宋請来版画と密教図像―応現観音図と清凉寺釈〓像納入版画を中心に―」(『佛教藝術』254、2001年)、「サンフランシスコ・アジア美術館所蔵文殊菩薩図像について―宋本図像と形式の踏襲―」(『佛教藝術』310、2010年)、「個人蔵清凉寺式釈〓如来画像について―西大寺像との関わりを中心に―」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』61第3分冊、2016年)ほか多数。業績は『内田啓一教授 著作目録』(「内田啓一さんを偲ぶ会実行委員会」編集、2017年)に詳しい。また、20年5月に『内田啓一中世仏教美術論集(仮)』(法藏館)が刊行予定である。

木村重信

没年月日:2017/01/30

読み:きむらしげのぶ、 Kimura, Shigenobu*  美術史家の木村重信は1月30日、肺炎のため大阪府吹田市内の病院で死去した。享年91。 1925(大正14)年8月10日、京都府綴喜郡青谷村(現、城陽市)にて、享保年間から続く宇治茶問屋(屋号山城園)に、6人兄弟の次男として生まれる。小学校時代には肋膜炎を患い、通算で3年間通っただけであったという。卒業後は商業学校へ進学し、その後祖父が名古屋で茶問屋を開業していたことから名古屋高等商業学校(現、名古屋大学経済学部)へ進学。2年生の折に学徒動員で繰り上げ卒業となり、1944(昭和19)年徴兵。豊橋陸軍予備士官学校に特別甲種幹部候補生伍長として入学する。45年6月に同校を卒業すると広島師団に配属されるが、本籍が京都であったことから京都師団へ転属、さらに旗手要員として志摩半島の442聯隊本部へと移った。終戦後の46年には京都大学文学部へ入学。文芸を学び、卒業論文では「文芸における表現の問題」をテーマに取り上げた。49年に同大を卒業後は大学院に通いつつ、大阪成蹊女子短期大学などに非常勤講師として勤務。53年京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)の講師となり、現代美術の講義を担当した。ほぼ同じ頃、自身のテーマとして「美術の始原」を意識し始める。56年より翌年にかけてフランス・パリ大学付属の民族学研究所に留学。アンドレ・ルロワ=グーランに教えを受け、洞窟壁画の実地研究などに従事した。また、近・現代美術への見識を深め、同地で交友を深めた堂本尚郎や今井俊満らをとおしてアンフォルメル運動に触れ、帰国後には前衛芸術運動についての評論を盛んに行うとともに、パンリアル美術協会やケラ美術協会、具体美術協会などの作家らと交流し、美術史家としての立場から前衛芸術運動に深くかかわる活動を行った。その後京都市立美術大学助教授を経て、69年10月京都市立芸術大学美術学部教授となる。この間、65年には南アフリカのカラハリ砂漠へ調査に行き、翌66年には『カラハリ砂漠 アフリカ最古の種族ブッシュマン探検記』(講談社)で第20回毎日出版文化賞を受賞。また67年11月から翌68年4月まで、山下孝介率いる大サハラ学術探検隊に参加。サハラ砂漠の先史岩壁画やマリ共和国のドゴン族の美術、エチオピアにおけるキリスト教美術や先史遺物などの調査を行った。74年大阪大学文学部教授となり、翌75年「美術の始原」で同大文学博士を取得。先史美術に関する木村の研究の集大成とされた同論文は、フランスへの留学以来、世界各地で行ったフィールドワークによる成果をとおして、人類の美的活動の根元を問おうとしたもので、美学と美術史学両方の視点からの考察を行った点が評価された。またこの頃、木村は芸術とはそれ自身で完結するものではなく、外的要因によって規定されるものであるとし、80年代後半以降の研究動向を先取りする発言を残している。76年国立民族学博物館併任教授に就任。同館では「民族芸術学の基礎的研究」(1980~82年)、「民族芸術学的世界の構築」(1982~84年)などの課題で共同研究を主宰した。84年4月には既存の研究領域や専門の枠を超え、芸術現象を広く議論できる場として民族藝術学会を創設、初代会長となる(のち名誉会長)。1989(平成元)年大阪大学を定年退官、同大名誉教授となった。また同年には当時の大阪府知事岸昌の要請により大阪府顧問となり、国際現代造形コンクール・大阪トリエンナーレや関西系現代作家展の開催、それら事業による美術作品の収集など行政的手腕を発揮する。91年には民族芸術学という新しい学問分野の開拓や、欧米や日本の近代美術に一種の社会芸術学的方法により新たな光をあてた業績が評価され、大阪文化賞を受賞。92年には国立国際美術館館長に就任。98年同館長を退任し、同年4月兵庫県立近代美術館(現、兵庫県立美術館)の館長に就任、2002年に同館が兵庫県立美術館に新築移転すると初代館長となった。木村は持ち前の美術史学的教養と行政的手腕を発揮し、同館中興の祖とも称された。館長時代には神戸市内で毎年、若手作家との懇親会を開くなど、後進の育成にも尽力し、01年兵庫県文化賞を受賞している。また、98年には勲三等旭日中綬章を受章、翌99年には評論の分野での功績を評価され、京都市文化功労者に選ばれた。同年12月には『木村重信著作集 第1巻 美術の始源』(思文閣出版)が刊行され、04年7月までに全8巻を刊行。06年4月には兵庫県立美術館長を退き名誉館長となる。同年にはまた、京都にて設立された染・清流館の初代館長に就任。日本の現代染色アートを世界へ発信することに尽力した。晩年にはあらゆる役職を辞任した木村であったが、同館の館長だけは最期まで続け、ギャラリー・トークなどにも積極的に参加していたという。

菊地貞夫

没年月日:2017/01/27

読み:きくちさだお、 Kikuchi, Sadao*  浮世絵研究者の菊地貞夫は1月27日、死去した。享年92。 1924(大正13)年2月18日、東京・八丁堀に生まれる。立正大学で〓崎宗重に師事し、浮世絵の研究をはじめた。大学卒業後、東京国立博物館に就職し、同館の近藤市太郎のもとで、浮世絵関連の仕事に従事した。『東京国立博物館図版目録 浮世絵版画〓』上巻(1960年)、中巻(1962年)、下巻(1963年)は、編著者名が記載されていないため不明ではあるが、時期的にみて菊地が編集に関わった刊行物であると考えられ、同館所蔵の3926点の浮世絵版画の総目録となっている。1968(昭和43)年主任研究官、79年絵画室長となる。東京国立博物館の展覧会「浮世絵―旧松方コレクションを中心として―」(1984年10月16日~11月25日)はその年度末に退官を控えた菊地が中心となって開催された浮世絵の体系的な展観で、近世初期風俗画をはじめ江戸時代から明治時代までの肉筆画46点、版画663点の合計698点の作品が出陳された。展覧会図録のほか翌年度に豪華本の特別展図録『浮世絵』(東京国立博物館、1986年)も刊行されている。この展覧会で浮世絵の文化的価値を一層高めた功績により、85年に第4回内山晋米寿記念浮世絵奨励賞特別賞を受賞した。東京国立博物館に38年間勤続し、85年に定年退官した後、那須ロイヤル美術館副館長を7年間勤めたほか、85年から6年間国際浮世絵学会の前身、日本浮世絵協会で理事長を務めた。「ボストンで見つかった北斎展―ボストン美術館の版木新発見」(たばこと塩の博物館、1987年1月15日~2月8日ほか6カ所を巡回)ではボストン美術館に所蔵されていたビゲローが購入した版木など527点の調査と展覧会の開催に関わり、同展図録に菊地の論文「ボストン美術館で新発見された北斎の板木について」が掲載されている。著書に『カラーブックス21 浮世絵』(保育社、1963年)、『原色日本の美術17 浮世絵』(小学館、1968年)『日本の美術74 北斎』(至文堂、1972年)、『浮世絵大系5 歌麿』(集英社、1973年)、などがある。また全集類などへの執筆や解説も数多く手がけ、「浮世絵師の〓風」(『日本〓風絵集成14 風俗画―遊楽 誰ヵ袖』講談社、1977年)、「歌麿・栄之の浮世絵」(『在外日本の至宝7 浮世絵』毎日新聞社、1980年)などがある。

廣瀬賢治

没年月日:2017/01/26

読み:ひろせけんじ  西陣織・廣信織物の代表取締役で、表具用古代裂(金襴等)製作の選定保存技術保持者の廣瀬賢治は1月26日、膵臓がんのため死去した。享年73。 1943(昭和18)年8月4日、京都・西陣で代々続く織元の家に生まれ、23歳で家業の世界に入り、同じく選定保存技術保持者であった父の敏雄(故人)のもとで研鑽を積み、半世紀にわたり掛幅や〓風の表装に用いる古代裂の製作に取り組み、数多くの国宝や重要文化財などの修理に貢献した。古来、東洋の書画は掛幅や〓風などの形式に仕立てることが、鑑賞や保存において必要不可欠であり、特に掛幅は裂地の印象が作品鑑賞に大きく影響するため、裂の選択には特別な注意が払われてきた伝統がある。現代においても古美術作品の修理には、その作品の品質や格にふさわしく、より豊かな鑑賞をもたらすために、古い時代の裂(古代裂)を復元することが求められることが多い。古い時代とは様々な材料や道具、織機などが異なる状況において、廣瀬は常に古代裂の文様や組織、糸の状態などを綿密に調査した上で復元的に表装裂を織り上げることに精魂を傾けた。初めて中心的に裂の調製を担当した国宝修理は、85~87年に行った京都国立博物館所蔵の「釈〓金棺出現図」(11世紀)で、同館職員や修理担当者などと協議を重ね、聖護院所蔵の平安時代の錦を参照して復元的に表装裂を製作し、修理に用いた。そのほか「山越阿弥陀図」(永観堂禅林寺)、尾形光琳筆「燕子花図屏風」(根津美術館)など、数多くの重要な作品の修理に、廣瀬による手織りの金襴や錦、緞子が用いられている。図版などでは表装部分をのぞく本紙のみを切り抜いて掲載されることがほとんどであるが、寺院や美術館などで作品が展示される際、観覧者はその作品を裂とともに鑑賞している。古書画を物理的に保護し、その作品のもつ魅力を最大限に引き出しつつ、決して作品よりも目立たないのがよい表装であると言える。廣瀬は実際の作品や古い裂を丹念に観察し、より質の高い裂を作り上げる努力を常に惜しまなかった。こうした功績などにより、2007(平成19)年に表具用古代裂(金襴等)の選定保存技術保持者の認定を受けた。社会環境の変化などで着物産業が著しく衰退し、西陣織の織元や生産量、売上高が減少する厳しい状況下においても、「できないとは言わない。必ず挑戦する。」が廣瀬の信条で、数々の古代裂の復元に取り組み、16年には文化財の保存・修復に大きな功績のあった個人や団体を顕彰する第10回「読売あをによし賞」の本賞を受賞した。また国宝修理装〓師連盟による定期研修会において廣瀬が行った講演「織(羅)について」の内容が、『平成24年度 国宝修理装〓師連盟 第18回定期研修会』報告書に収載されている。

村木明

没年月日:2017/01/17

読み:むらきあきら  美術評論家の村木明は、1月17日に没した。享年88。 1929(昭和4)年1月11日、岐阜県に生まれる。51年、名古屋外国語専門学校(現、南山大学)フランス語科を卒業。54年、早稲田大学政治経済学部を卒業。71年頃から74年まで、『読売新聞』に美術批評、美術に関する記事を寄稿。また、『みづゑ』に「海外短信」として海外の最新の美術動向を伝える記事を連載し、同時に各美術雑誌に展覧会評などを寄稿した。執筆活動の他、70年代から80年代には「ヴュイヤール展」(西武美術館、1977年)、「ヘンリー・ムーア 素描と彫刻展」(西武美術館、1978年)、「アンドリュー・ワイエス展」(三越、日本橋、1978年)、「ルノワール展」(伊勢丹美術館、1979年)などをはじめとして、東京都内のデパートなどを会場とした美術展の監修にもあたり、カタログへ寄稿した。また、読売新聞社主催の「日本秀作美術展」では、79年の第1回展から2003(平成15)年の第25回展まで、監修、審査にもあたった。 主な編著作、翻訳は下記の通りである。(翻訳)『アメリカン・ノスタルジア2 マックスフィールド・パリッシュ』(PARCO出版局、1975年)(翻訳)『アメリカン・ノスタルジア4 ハワード・パイル』(同前、1976年)(翻訳)『アメリカン・ノスタルジア6 トーマス・ハート・ベントン』(同前、1976年)座右宝刊行会編『現代日本の美術8 国吉康雄・三岸好太郎』(国吉康雄を担当)(集英社、1976年)(翻訳)マドレーヌ・ウール著『名画の秘密 ルーヴル美術館 絵画の科学的探究』(求龍堂、1976年)『アメリカ近代美術の展開 コマーシャル・アートの黄金時代を築いた作家たち』(美術公論社(芸術叢書)、1978年)『現代日本画全集 第10巻 橋本明治』(集英社、1982年)(解説)『中山忠彦画集』(求龍堂、1983年)『展覧会への招待 絵の百科事典』(読売新聞社、1984年)(解説)『平山郁夫 私のスケッチ技法』(実業之日本社、2007年) なお、美術評論家としての活動の傍ら、『おわら囃子が風に乗る』(近代文芸社、1995年)をはじめ、『雪割草』(同前、2006年)、『季節風』(同前、2009年)など小説集も刊行している。

北村由雄

没年月日:2017/01/07

読み:きたむらよしお、 Kitamura, Yoshio*  評論家で茅ヶ崎市美術館館長を務めた北村由雄は1月7日、死去した。享年81。奥英了のペンネームもあり。 1935(昭和10)年5月27日東京都生まれ。59年東京芸術大学美術学部芸術学科卒業。在学中の56年『美術批評』の読者欄に「現代日本美術展寸感」(55号)、「美術界と戦争責任の問題」(56号)が掲載される。59年「次代美術会」に参加、『次代美術』1号に「フォートリエ論」、2号に「ピーター・ブリューゲル覚書」を執筆。同会は鶴岡弘康、藤枝晃雄ら7人の同人で、60年には「20代作家集団」に発展、25名の会員からなり、高松次郎、若林奮、村田哲朗らも参加している。北村は同会評論誌『CRIT』1号に「ものと感覚と信念について」を寄稿、アンデパンダン展の在り方から河原温、池田龍雄、利根山光人にふれている。卒業後、59年共同通信社文化部記者となり、美術界の出来事を含め展覧会評を執筆。さらに美術雑誌にも原稿を寄せる機会が多くなる。64年『美術手帖』に「アトリエでの対話」を12回連載、桂川寛や平山郁夫らを扱い領域を広げていく。一方、『日本美術』87号(1972年)の「私の時代を劃した作家たち」では、戦後美術を自分なりに考えて行く契機となった作家として河原温、池田満寿夫、磯辺行久、工藤哲巳、流政之、小畠広志、多田美波、柳原睦夫をあげ、記者としての体験型志向が示されている。81年に上梓された『現代画壇・美術記者の眼1960〓1980』(現代企画室、1983年に増補改訂版)は、60年代初期の前衛的傾向から70年の大阪万博をへて、幅広く画壇の動向などにふれ、一ジャーナリストの視点として記録性が高い。81年にはぺりかん社の「なるにはシリーズ」の内『美術家になるには』を執筆する。1997(平成9)年に茅ヶ崎市美術館初代館長に就任、退任後も茅ヶ崎美術家協会展での講演や2016年の第1回茅ヶ崎市美術品審査委員会委員長を務めるなど、市の美術界に尽力した。教育歴としては96年から多摩美術大学の客員教授を務めた。

深沢幸雄

没年月日:2017/01/02

読み:ふかざわゆきお、 Fukazawa, Yukio*  版画家で、多摩美術大学名誉教授の深沢幸雄は1月2日、老衰のため死去した。享年92。 1924(大正13)年7月1日、山梨県南巨摩群増穂町(現、富士川町平林)に生まれる。父は朝鮮総督府官吏であり、生後すぐに家族で旧朝鮮堤川(現、大韓民国忠清北道堤川市)へ渡る。中学校時代には、〓凡社の『世界美術全集』で油彩画を知り、画家を志す。18歳まで堤川で過ごし、1942(昭和17)年に東京美術学校(現、東京藝術大学)工芸科を受験。彫金部予科に入学する。彫金部への進学は、父からの要望であったという。同校在学中、岡田三郎助と藤島武二が主宰した本郷絵画研究所に通いデッサンを学ぶ。同所で女子美術専門学校(現、女子美術大学)の学生であった小島咲子と出会い、47年に結婚。49年に同校工芸科彫金部を卒業した後に、妻方の実家がある千葉県市原群鶴舞町に移り住み、50年から78年まで県立市原高等学校の美術教師として勤務。生涯、市原を制作の拠点とし、画業を展開させた。 深沢の画業は、油彩画から出発している。53年には、自由美術家協会展に200号の大作「からたちと裸像」が入選を果たすなど、当初は大型の作品制作に取り組んでいたことがうかがえる。 銅版画の道へ進んだのは、54年からである。深沢は、45年の東京大空襲で右足に打撲傷を負い、その影響で大画面の制作が困難となっていた。そこで、小規模で制作が可能であり、彫金部での経験を生かすことができる銅版画に移行する。独学での技術習得であったが、57年には、ダンテの『神曲』を主題にした「ウゴリーノ」「チェルベロ」などで第25回日本版画協会賞を受賞。また、同年の第1回東京国際版画ビエンナーレでは、「病める詩魂」「汚〓の陽の下に」が入選し、新進作家として頭角を現す。つづけて、58年には、第35回春陽会展で春陽会賞、59年には、第3回シェル美術賞を受賞。60年には、第4回同賞において「愛憎」など10点で神奈川県立近代美術館版画賞を受賞した。 62年に第5回現代日本美術展において「生1」「生2」で優秀賞を受賞するが、これをきっかけにメキシコ国際文化振興会より現地での版画技法の指導の依頼を受け、翌年、メキシコシティに3ヶ月間滞在する。メキシコの人々にあらゆる版画技法の講習を行い、現地の版画界に大きな影響を与えた。そして、深沢自身もメキシコの文化に触れたことで、作品に鮮やかな色彩を取り込むようになる。それらの作品は、65年の第8回サンパウロ・ビエンナーレ展(ブラジル)といった数々の国際的な展覧会に出品された。 そして、最初のメキシコ訪問から11年後の74年と、76年、79年に再び同地を訪問し、メキシコの歴史や世界の人類史から触発された「新大陸のモンゴロイド」シリーズを7年半の歳月をかけて36点発表した。75年には、第43回日本版画協会展に同シリーズの「影(メヒコ)A」「影(メヒコ)B」を出品。また、78年の第46回日本版画協会展に出品した「凍れる歩廊(ベーリング海峡)」は深沢の代表作として知られる。 その一方で、文学作品からインスピレーションを受けた作品を数多く発表している。70年には、詩版画集『春と修羅』を刊行(詩、宮沢賢治。86年にも刊行)。73年には、ポール・ゴーギャン著『ノアノア』を題材とした銅版画集『黒い花』を制作した(1975年に刊行)。82年には、アルチュール・ランボーの詩集『酔いどれ船』に着想を得た詩画集も刊行している。80年代になると、深沢自身と、それを取り巻く周囲の人間をテーマとして「人間劇場」シリーズを発表。生涯に渡り、作風をさまざまに展開し、新たな表現を追及しつづけた。 作家活動の一方で、75年には日本版画協会理事に就任するとともに、現代日本美術展や多くの地方美術展で審査員として関わり版画界の中核を担った。そして、86年から多摩美術大学教授に就任、若手作家の育成などにも尽力した。その功績が認められ、87年に紫綬褒賞、1995(平成7)年に勲四等旭日小綬章を受章している。また、90年には、メキシコ国立版画美術館にて「日本の版画 深沢幸雄展」が行われ、94年にはメキシコ国文化勲章アギラ・アステカを受章。メキシコと日本の版画界の架け橋として、世界的にも認められた。 2007年には、出身地の山梨県立美術館において「深沢幸雄展―いのちの根源を謳う―」が開催。そして、14年には、市原湖畔美術館から『深沢幸雄 市原市所蔵作品集』が発行され、深沢の画業が顕彰された。没後、18年には再び山梨県立美術館において「銅版画の詩人 追悼 深沢幸雄展」が開催。同展カタログは、深沢直筆のノート等の資料が収録され、深沢の画業の全貌を明らかにした。

不動茂弥

没年月日:2016/12/15

読み:ふどうしげや  日本画家の不動茂弥は12月15日、呼吸不全のため死去した。享年88。 1928(昭和3)年1月11日、昭和3年1月11日兵庫県三原郡賀集福井(現、南あわじ市)に生まれる。父、栗林寅市、母、この。父方の叔父は日本画家の栗林太然。生後間もなく母方の叔父で、当時京都画壇で活躍していた淡路島出身の日本画家、不動立山の養嗣子として迎えられ、以後京都で育つ。44年、京都市立絵画専門学校(45年に京都市立美術専門学校と改称。現、京都市立芸術大学)に入学。戦時中、東京近辺の陸軍の諸学校へ教材用掛図の作成に学生の勤労動員として派遣される。敗戦後の47年、学内で行なわれた作品展への出品をきっかけに三上誠や山崎隆、星野眞吾らと新たな絵画運動を唱えるグループ結成に向けて話しあうようになる。48年同校日本画科を卒業。同年3月には三上、山崎、星野、不動、田中進(竜児)、日本画に席を置きながら洋画を描いていた青山政吉、陶芸の八木一夫と鈴木治を含めた8名によるグループのパンリアルを結成し、同年5月に京都の丸善画廊でパンリアル展を開催(この時には不動と田中は作品未完のため不出品)。7月には八木と鈴木が陶芸の前衛グループ走泥社を結成するため脱退。メンバーを日本画に絞り、新たに大野秀隆(俶嵩)や下村良之介らを交え、翌年、日本画壇の旧弊打破と膠彩表現の可能性追求を掲げてパンリアル美術協会を結成、5月に京都の藤井大丸で第1回展を開催する。不動は第1回展から74年の同会退会まで出品を続けた。戦後の混乱した社会状況を捉えた「物語」(1949年)や「机上の対話」(1950年)等の人物情景にはじまり、50年代後半から布、セメント、砂、焼板等を取り入れたアッサンブラージュによる作品「自潰作用」(1957年)や「焚刑」(1962年)、古い浄瑠璃本を曼荼羅のようにコラージュした「籠城」(1966年)等を発表。67年作の「落ちる文字」以降は、日本画の特質は描線・色面・記号性にあるとする自論に基づき、エアブラシやアクリルも積極的に取り入れる。パンリアル美術協会退会後は中村正義の呼びかけに応じて75年の東京展、また星野眞吾の从展に非会員として出品する以外は、無所属で個展による発表を続ける。日本を擬人化して変容する文明の渦中にある都市をモティーフとした「極地」(1985年)、「望郷」(1987年)、「何処へ」(1987年)、記号の象徴として専ら“→”を採用し、20世紀末の世界の混迷をテーマとした「情報化時代」(1991年)、「都大路の菩薩様」(1994年)、「落ちた偶像」(1995年)を制作、一貫して日本画の現代性を追究した。 制作の一方で72年に三上誠が結核で没した直後より、星野眞吾、批評家の木村重信、中村正義と4人で編集委員会を立ち上げ『三上誠画集』(三彩社、1974年)刊行に奔走。また晩年の三上の遺志を受け、80年代には福井県立美術館学芸員の八百山登らの協力も仰ぎながら、パンリアル美術協会設立時の記録を編集、88年に『彼者誰時の肖像 パンリアル美術協会結成への胎動』を自費出版し、同協会創成期の証言者としての役割を果たした。 没した翌年の2017(平成29)年には、京都国立近代美術館で追悼展示が行なわれている。

金守世士夫

没年月日:2016/12/07

読み:かなもりよしお  郷里富山で木版画制作を続けた国画会会員、日本版画協会名誉会員の金守世士夫は、12月7日に死去した。享年94。 1922(大正11)年1月24日、富山県高岡市伏木新島に生まれる。生家は船具などを製作する鉄工場を営んでいた。東京で鉄鋼場を営む叔父を頼り上京し、帝国美術学校図案科に入学してデッサン等を学ぶ。在学中、永瀬義郎著『版画を作る人へ』を読み、版画に興味を抱くが、父の急逝により帝国美術学校を中退。1942(昭和17)年に招集されて半年間、富山連隊に属した後、中国大陸に渡る。46年、南京から復員。同年、当時富山市福光町に疎開していた棟方志功を訪ね、指導を乞うて「私の生活をみること」と言われ、しばしば棟方宅に自作の版画を持参して教えを仰ぐようになる。47年正月、折本形式の作品「版画菩薩曼荼羅」を棟方宅に持参して高い評価を得、棟方の推薦によって同年の国画会工芸部に初出品。翌年同会展に木版本「鶏合」「七福神仙」「分陀利華」「十三仏木印」を出品。その後も同会に出品を続ける。50年、棟方、畦地梅太郎、笹島喜平らと『越中版画』を創刊。同誌は第2号から『日本板画』と改題し、51年に棟方が東京に移住するのを契機に7,8合併号を刊行して休刊。以後、金守が『富山版画』として50年代半ばまで刊行を続けた。50年代に入ると作品の主題を聖書に求めるようになり、50年第24回国画会展に「物語約拿(ヨナ)」「物語我を見る活る者の井戸」を出品し褒状受賞。53年第27回国画会展に「物語イサクの犠牲」「物語エホデ・エグロン王を倒す」「物語アブラハムと三天使」を出品して国画奨学賞を受賞。57年国画会会友となる。58年ニューヨークのセント・ジェームズ教会展で「イサクの犠牲」により3等賞を受賞するが、聖書にある場面を描きながらも棟方の作風と類似しているという評を受け、物語主題から離れるべく、京都の庭を訪れて作風を模索。京都南禅寺の枯山水の庭が夕立の前後で表情を変える様子に「飽くことのない変幻自在の宇宙を発見し」、後に長くテーマとする「湖山」の着想を得た。65年国画会会員となる。68年、バンクーバーとロスアンゼルスでの技術指導のためカナダ、アメリカへ渡る。70年から翌年にかけてサンフランシスコ、ロスアンゼルス、ニューヨークでの個展のため渡米。70年、志茂太郎主宰の日本愛書会から大判で多版多色摺りの「湖山」を刊行。79年1月版画芸術院を設立する。80年、富山市文化功労賞を、81年富山県文化功労賞を受賞。また同年、スイス・バーゼルで個展を開催。82年オーストラリア美術協会の招聘により渡豪して版画指導。84年日中版画文化交流の一因として訪中。86年より88年12月和光ホールで「金守世士夫展」を開催。また、同年から毎年インドネシア・デンハサール市で版画・水墨画の指導に当たる。戦後間もない頃から棟方を介して、浜田庄司、河合寛次郎ら民芸運動に関わった人々の作品にも親しみ、日常生活を彩る版画も数多く制作。54年に畦地梅太郎の誘いによって制作を始め作り続けた蔵書票は人々に親しまれ、1994(平成6)年日本書票協会第4回志茂賞を受賞している。96年カナダ・バンクーバー市立美術学校に木版画指導のため招かれる。同年第43回富山新聞文化賞受賞。版本の作成に当たっては、河童に想を得て棟方が命名した河伯洞の号を用いた。また、棟方や柳宗悦の話を聞くうち民芸に興味を抱くようになって収集を始め、アメリカ先住民の人形やエスキモーの民芸品、アフリカの面や染織品、神像、インドネシアの染織品等のコレクターとしても知られ、「インドネシアの手仕事展」(1994年9月13日から10月31日)を富山市民芸館で開催したほか、自らの版画とアフリカの立体作品を並べた「金守世士夫とアフリカンアート展」(1994年10月15日から11月30日、黒部市美術館)などを開催した。江戸時代から続く越中売薬版画等の伝統を踏まえ、一貫して木版画を制作し、「湖山」の主題を得てからは、山と湖に蝶・花鳥ほかを配して幻想的な作風を示した。版画の複製性よりも木版ならではの表現を探求し、1枚の版木で彫りと摺りを繰り返しながら制作する「彫り進み」技法を多用するのを技法的特色とした。

宮野秋彦

没年月日:2016/12/07

読み:みやのあきひこ、 Miyano, Akihiko*  名古屋工業大学名誉教授で建築研究者の宮野秋彦は12月7日に死去した。享年93。 1923(大正12)年10月15日に名古屋で生まれ、1945(昭和22)年に東京工業大学工学部建築学科を卒業した。東京工業大学の助手、助教授をつとめた後、名古屋工業大学に異動し、助教授、教授をつとめた。この間、建築材料中の熱や湿気の移動に関する研究を行い、「建築物に於ける温度変動に関する研究」で62年2月12日に東京工業大学から工学博士の学位を受けた。また83年~84年には日本建築学会の副会長をつとめた。名古屋工業大学退官後は福山大学の教授となり、その後、名古屋工業大学名誉教授、日本建築学会名誉会員、中国文物学会名誉理事となる。 宮野は名古屋工業大学在職中に、多くの文化財が伝統的な倉の中で保存されてきたことに着目して、文化庁文化財保護部建造物課(当時)の文化財調査官であった半澤重信とともに全国の倉の環境調査を行い、成果を日本建築学会の大会などで長年発表し続けた。やがて研究対象を屋台蔵や遺構などにまで広げ、斉藤平蔵亡き後、建築環境工学の第一人者として、文化財における温湿度環境の整備に欠かせない専門家となった。特に86年から1990(平成2)年にかけて行われた中尊寺金色堂覆堂の改修工事では、金色堂が入るガラスケース内の新しい空調システム設計について中心的な役割を果たした。それまでの空調システムは、空調空気を金色堂のある室内に吹き出す方法であったが、風が表面の境界層を吹き飛ばして金色堂の表面を乾燥させることを避けるため、宮野は空気を強制的に動かさないで湿度を一定に保つことを提唱した。宮野の提言を受けて、改修工事ではガラスケース全体の断熱を高め、ガラス以外の壁面には調湿ボードを用い、湿度が一定値を越えた時だけ入り口に置いた除湿器が作動するシステムを採用した。除湿器だけを用いて加湿器を用いないことにしたのは、ガラスケース内で測定された長年の記録を宮野が解析して、中尊寺の環境ではガラスケース内の湿度が上がることはあっても、乾燥しすぎることはないことがわかったからである。修理委員会に於ける宮野の献身的な協力もあって、改修工事後は67%RH前後の相対湿度に、金色堂のあるガラスケース内は保たれている。 宮野はその後も、多くの文化財の保存について協力を続けた。岩手県立博物館におけるコンクリート屋根スラブ内の水分挙動を丹念に調べ、長期にわたり館内がアルカリ性性状になっていた原因を突き止め解決した。また木質系調湿材、石質系調湿材に加え土質系調湿材を対象に、調湿建材によって環境湿度の調節を図る取り組みは、博物館に加えて、対象を社寺(薬師寺玄奘三蔵院伽藍大唐西域壁画殿、静岡県指定文化財可睡斎護国塔ほか)、城郭(熊本城「細川家舟屋形」)、歴史的近代建造物(神山復生記念館)、整備事業の復原建物(富山市北代縄文広場)にも広げ、文化財の保存環境制御に多大な功績を残した。 主な著書として『建物の断熱と防湿』(学芸出版社、1981年)、『生きている地下住居』(彰国社、1988年、共著)、『屋根の知識』(日本屋根経済新聞社、1994年、共著・監修)、『屋根の物理学』(日本屋根経済新聞社、2000年)、『新版 屋根の知識』(日本屋根経済新聞社、2003年、共著・監修)がある。1972年日本建築学会賞(論文)「建築物における熱ならびに湿気伝播に関する一連の研究」、2001年勲三等瑞宝章。

島田章三

没年月日:2016/11/26

読み:しまだしょうぞう、 Shimada, Shozo*  日本芸術院会員の洋画家、島田章三は11月26日、すい臓がんのため死去した。享年83。 1933(昭和8)年7月24日、神奈川県三浦郡浦賀町に浦賀ドックのインテリアデザイナーであった父英之の三男として生まれる。40年大津尋常小学校(現、横須賀市立大津小学校)に入学するが43年に肋膜炎となり休学。同年、祖父の住む長野市に疎開。45年、横須賀に帰り、46年大津国民学校高等科に入学。在学中に佐々木雅人、金沢重治、熊谷九寿に絵を学び、神奈川県内の絵画コンクールで受賞を重ねる。49年横須賀高等学校に入学。52年に同校を卒業し東京藝術大学進学を志して川村伸雄のアトリエに通う。54年東京藝術大学油画科に入学。1年次は久保守、2年次は牛島憲之、3年次は山口薫、4年次は伊藤廉に師事。在学中の57年、柱時計を胸に抱き、顎に釣り合い人形を乗せた上向きの女性を描いた「ノイローゼ」で第31回国画会展に初入選。以後、同展に出品を続ける。同年10月サヱグサ画廊で「林敬二・島田章三二人展」を開催、12月には福島繁太郎の推薦によりフォルム画廊にて初個展を開催する。58年東京藝術大学油画科を卒業。同期生には後に前衛作家として活躍する高松次郎、中西夏之、工藤哲巳、具象画家の橋本博英、林敬二、油画修復家となった歌田眞介、山領まり、パルコのポスターで一世を風靡した山口はるみらがいる。同年、専攻科に進学し、第32回国画会展に「ひるさがり」を出品して同会会友となる。60年、同学専攻科を卒業。61年第35回国画会展に抽象化された形体と重厚なマチエールによる「うしかなし」「とりたのし」を出品して同会会員となる。同年第5回安井賞候補新人展に「うしかなし」「とりたのし」で入選。61年、大学の同級生であった田中鮎子と結婚。66年、新設された愛知県立芸術大学に恩師伊藤廉に請われて講師として赴任。67年第11回安井賞候補新人展に馬と母子を描いた「母と子のスペース」、牛に乗る女性を描いた「エウローペ」を出品して前者により安井賞を受賞。68年愛知県在外研究員として渡欧しパリを拠点にスペイン、イタリアにも巡遊。古典から現代まで広く西洋美術に接し、特にピカソ、ブラック、レジェなどキュビスムの作家らが「絵を思考している」ことを知り、「形態を再構成していく立体派を、日本人の言葉(造形)で翻訳してみたいものだ」と考え、色面・線・画肌を軸に再考。また、西洋の芸術運動がその地の生活に根ざしたものであることを知り、自らの身の回りの日常に取材してかたちを生み出す「かたちびと」のテーマへの契機を得る。69年9月に帰国し、愛知県立芸術大学助教授となる。79年藤田吉香、大沼映夫ら10名の洋画家で「明日への具象展」を設立して同人となり、同年の第1回展に「炎」「波」を出品する。同展には84年まで毎年出品。80年、「島田章三自選展」を丸栄スカイルおよび東京銀座の和光で開催。また同年、「炎」(1979年)などの作品により第3回東郷青児美術館大賞を受賞し、東郷青児美術館にて展覧会を開催する。同年アメリカへ、83年ブラジルへ旅行。また、同年池田20世紀美術館にて「島田章三の世界展」を開催。1990(平成2)年、前年の第63回国画会展出品作でブラックの名が記された鳥の絵を画面上部中央に配した室内人物画「鳥からの啓示」により第8回宮本三郎記念賞を受賞。同年愛知県立芸術大学芸術資料館館長に就任。92年同学教授を退任し、96年に名誉教授となり、2001年から07年3月までは同学学長を務める。99年、前年の第72回国画会展出品作「駅の人たち」により第55回日本芸術院賞を受賞し日本芸術院会員となる。04年文化功労者となる。07年4月から10年12月まで愛知芸術文化センター総長を務める一方、07年から11年3月まで郷里の横須賀美術館館長を務める。1950年代以降、前衛的な表現が次々と生み出される中で、島田は「表現とは形にならないものから形をつくるもの」(『島田章三』、芸術新聞社、1992年)と語り、古賀春江、香月泰男、山口薫らによる「形をリリシズムで扱う、日本に芽生えた、モダニズムの仕事」(同上)を引き継ごうと試みた。93年5月に郷里の横須賀市はまゆう会館で「島田章三展」、99年に三重県立美術館ほかで「島田章三展 かたちびと」、11年に愛知県美術館、横須賀美術館で「島田章三展」が開催されている。11年の展覧会図録には詳細な年譜と作家自身による作品解説が掲載されている。著書に『島田章三画集』(求龍堂、1980年)、『S. Shimada essays & pictures』(大日本絵画、1984年)、『島田章三 かたちびと』(美術出版社、1988年)、『島田章三画集』(ビジョン企画出版社、1992年)、『島田章三』(アートトップ叢書、芸術新聞社、1992年)、『島田章三:現代の洋画』(朝日新聞社、1996年)、『島田章三画集』(ビジョン企画出版社、1999年)、『ファイト:島田章三画文集』(求龍堂、2009年)がある。

原田治

没年月日:2016/11/24

読み:はらだおさむ、 Harada, Osamu*  イラストレーターの原田治は11月24日、死去した。享年70。 1946(昭和21)年4月27日、東京都築地で輸入食料品の卸売商を営む家に生まれる。小学生の頃より洋画家の川端実に師事。抽象画家を志すも、生計のための制作であってはならないという川端の助言で諦め、多摩美術大学のデザイン科に進学する。69年、同大学グラフィックデザイン科を卒業。卒業後渡米し、ニューヨークでプッシュピン・スタジオによるイラストレーションに刺激を受ける。帰国後の70年、アートディレクター堀内誠一の起用により雑誌『an・an』の創刊号でイラストレーターとしての活動を開始、以後、出版や広告の仕事が舞い込むようになる。70年代前半は雑誌や広告の内容に合わせて約10種類のスタイルを編み出し、様々な仕事の需要に応えるが、75年にコージー本舗の石井静夫が原田のイラストレーションを使った雑貨商品の製作販売を依頼したことにより、キャラクターグッズの“オサムグッズ”を開発、オリジナルのスタイルを確立する。欧米の絵本や50年代のアメリカ文化の要素を取り入れた“オサムグッズ”は、80年代にファンシーグッズ店の増加とともに全国的なブームとなった。79年、ペーター佐藤、安西水丸、新谷雅弘等とともにパレットクラブを結成。1997(平成9)年には築地にパレットクラブ・スクールを設立、エンターテインメントとしてのイラストレーションの心構えを講じる。著書に『EXTRAORDINARY LITTLE DOG』(PARCO出版、1981年)、『ぼくの美術帖』(PARCO出版、1982年)、『オサムグッズ・スタイル』(ピエ・ブックス、2005年)等。児童向け絵本の挿絵も手がけ、『かさ』(福音館書店、1992年)、『ももたろう』(小学館、1999年)、『ハイク犬』(学習研究社、2008年)等がある。没する直前の2016年7月1日から9月25日まで、弥生美術館で「オサムグッズの原田治展」が開催。また07年から10年まで『芸術新潮』に連載の美術エッセイを中心にまとめた『ぼくの美術ノート』は、没した翌年の17年2月に亜紀書房より刊行された。

内田繁

没年月日:2016/11/21

読み:うちだしげる、 Uchida, Shigeru*  インテリアデザイナーの内田繁は11月21日、膵臓がんのため死去した。享年73。 1943(昭和18)年2月27日、神奈川県横浜市に生まれる。66年桑沢デザイン研究所を卒業。69年に座り方によって椅子の形が自由に変化する「フリーフォームチェア」を制作、家具や室内空間の既成概念を問い直す姿勢を打ち出す。70年内田デザイン事務所を設立、大テーブルを採用して知らない者同士のコミュニケーションが生まれるようにした六本木のバー「バルコン」の設計(1973年)をはじめ、74年の「Uアトリエ」、77年のアパレルショールーム「吉野藤」、79年のバー「ジャレット」のインテリアを発表。「ジャレット」では、横尾忠則が描いたジャズミュージシャンのイラストレーションをタイル画にして床と腰壁に使用した。81年にパートナーの三橋いく代、西岡徹とスタジオ80を設立し、レストラン「ア タント」(1981年)、「操上スタジオ」(1983年)、バー「ル クラブ」(1985年)、季寄料理「ゆず亭」(1986年)、ショールーム「青山見本帖」(1989年)等を手がける。とくに70年代から80年代にかけて、世界的に注目を集める日本のファッションデザイナーとインテリアデザイナーが組む仕事が増える中で、内田は山本耀司のブティックを手がけ、雑多なものを排除したミニマルな空間を実現、その後の商業空間のデザインに多大な影響を与える。88年、抽象的なデザインによる椅子「セプテンバー」(1977年)がニューヨーク、メトロポリタン美術館の永久コレクションに収められる。同年毎日デザイン賞を受賞。1989(平成元)年には内田がアートディレクションを務めた博多のホテル「イル・パラッツォ」が完成、イタリアの建築家アルド・ロッシをはじめ世界各国のクリエイターが集結したことで話題を集める。またロッシとの出会いから、あらためて日本の固有文化を研究する必要性を感じ、その成果として89年に「閾 三つの二畳台目」、93年に「受庵、想庵、行庵」と題した茶室を発表、後者は95年のイタリアを皮切りに世界各地を巡回し、日本の“もてなし文化”の精神を引き継ぎながら現代の茶室をデザインしたとして高く評価された。2000年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。07年に紫綬褒章を受ける。著作も多く、主要なものとして以下の図書が挙げられる。『住まいのインテリア』(新潮社、1986年)『インテリア・ワークス 内田繁・三橋いく代とスタジオ80』(三橋いく代、スタジオ80と共著、六耀社、1987年)『椅子の時代』(光文社、1988年)『日本のインテリア』全4巻(沖健次と共著、六耀社、1994-95年)『門司港ホテル』(アルド・ロッシと共著、六耀社、1998年)『インテリアと日本人』(晶文社、2000年)『家具の本』(晶文社、2001年)『内田繁with 三橋いく代』(三橋いく代と共著、六耀社、2003年)『茶室とインテリア』(工作舎、2005年)『普通のデザイン』(工作舎、2007年)『デザインスケープ』(工作舎、2009年)『戦後日本デザイン史』(みすず書房、2011年)

高井研一郎

没年月日:2016/11/14

読み:たかいけんいちろう、 Takai, Ken’ichiro*  漫画家の高井研一郎は11月14日、東京都内で肺炎のため死去した。享年79。 1937(昭和12)年7月18日、長崎県佐世保市生まれ。幼少期を上海で過ごす。高校時代『漫画少年』への投稿漫画で、赤塚不二夫、石ノ森章太郎と知り合う。20歳のとき、手塚治虫の薦めで漫画家を目指し上京。56年「リコちゃん」(『少女』)でデビュー。手塚治虫、赤塚不二夫のアシスタントを務める。とくに60年代の赤塚の仕事への貢献度はたかく、キャラクターの造形化をはじめ、下書き線のきれいなことは評判だった。86年林律雄原作で「総務部総務課山口六平太」(『ビッグコミック』)の連載を開始、人気を獲得。大手自動車会社で繰り広げられるサラリーマンもので、主人公の山口は社内の様々な問題を飄々とこなしていく。彼の特技は高井の趣味である手品のようで、口にくわえた吸いかけの煙草を舌でくるっと口のなかへ巻き取る。サラリーマンの応援歌ともいわれた同作は、単行本で80巻(731話)に及んだ。また武田鉄矢原作で「プロゴルファー織部金次郎」(『ビッグコミックスペリオール』)は、17年間勝ちがないゴルファーの悲哀を、中原まこと原作で「ソーギ屋ケンちゃん」では、継ぐはずではなかった家業をもり立てていく男を描いた。映画「男はつらいよ」の漫画版を林律雄の脚色で描き、桂三枝原作「桂三枝の上方落語へいらっしゃ~い」(『コミックヨシモト』)や「百年食堂」(少年画報社)など様々なジャンルを手掛けた。

濱田幸雄

没年月日:2016/10/31

読み:はまださぢお  重要無形文化財「土佐典具帖」の保持者濱田幸雄は、10月31日、すい臓がんのため死去した。享年85。 濱田幸雄は、1931(昭和6)年2月17日高知県吾川郡いの町に生まれ、46年から父・濱田秋吾に師事して伝統的な土佐典具帖紙の製作技術を習得し49年に独立した。72年土佐典具帖紙保存会会員として他の5名の技術者とともに第8回キワニス文化賞を受賞。73年「土佐典具帖紙」が記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択され、濱田が所属する土佐典具帖紙保存会が関係技芸者の団体として指名される。77年経済産業大臣指定伝統的工芸品「土佐和紙」の伝統工芸士として認定される。80年「土佐和紙(土佐典具帖紙・土佐清張紙・須崎半紙・狩山障子紙・土佐薄葉雁皮紙)」が高知県保護無形文化財に指定され濱田が所属する土佐和紙技術保存会が保持団体に認定される。1991(平成3)年労働大臣表彰(卓越した技能者)93年勲六等瑞宝章を受ける。95~97年土佐和紙工芸村で研修生の指導に携わる。2001年7月12日付けで重要無形文化財「土佐典具帖」の保持者として認定される。 濱田が漉く土佐典具帖紙は、高知県仁淀川流域で生産される良質の楮を原料とし、消石灰で煮熟した後、極めて入念な除塵や小振洗浄をを行い、黄蜀葵の粘液を十分にきかせた流漉の工程では、渋引きの絹紗を張った竹簀とそれを支える檜製漆塗の桁を使用する。紙漉き動作では、簀桁を激しく揺り動かして素早く漉き、楮の繊維を薄く絡み合わせる。漉き上がった紙は「カゲロウの羽」と称されるほど薄く、繊維が均一に絡み合って美しく、かつ強靱なため、タイプライター原紙として大量に輸出され、比類のない極薄紙として知られていた。しかし、昭和30年代以降、機械漉の典具帖紙の普及に押され手漉の需要が減少したため技術者も激減した中で、濱田は土佐典具帖紙に拘り、他種の紙を漉くことを避けていた。現在、典具帖紙に代表される楮の極薄紙は、世界中の美術館博物館で文化財補修用資材として利用されている。なお97年以来製作技術の指導を受けていた孫・濱田洋直が工房を引き継いでいる。

堀越千秋

没年月日:2016/10/31

読み:ほりこしちあき、 Horikoshi, Chiaki*  スペインを拠点に活動した画家の堀越千秋は10月31日、多臓器不全のためマドリードで死去した。享年67。 1948(昭和23)年11月4日、東京都文京区駒込千駄木町に生まれる。祖父は日本画家滝和亭に師事した画家、父も小学校の図工の教師であった。69年東京藝術大学油画科に入学、田口安男のテンペラ画の授業を受ける。また在学中に解剖学者三木成夫による美術解剖学の講義に感銘を受け、その理論・思想は以後の堀越の画業のバックボーンとなる。73年大学院に進学、その年8ヶ月間にわたりヨーロッパを放浪、とくにスペインの地に魅せられる。プラド美術館ではロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「十字架降下」を模写した。75年東京藝術大学大学院油画専攻修了。翌年スペイン政府給費留学生として渡西、マドリードの国立応用美術学校で石版画を学ぶ傍ら、テンペラ画等の様々な技法に挑戦。80年最初の個展をマドリードのエストゥーディオ・ソト・メサで開催。82年に帰国し、日本で初めての個展(東京、セントラル絵画館)を開催。84年にニューヨークに約一ヶ月間滞在、ソーホーでニューペインティングに刺激を受け、制作上の転機となる。奔放な筆致と明るい色使いで、抽象と具象の入り混じった世界を描いた。1995(平成7)年頃より埼玉県児玉郡神泉村(現、神川町)に居を構え、スペインと日本を往来するようになる。03年からは同村に“千秋窯”を拵え、焼き物に興じた。03年、装丁画を担当した『武満徹全集』(全5巻、小学館)が経済産業大臣賞を受賞、ライプチヒの「世界で最も美しい本コンクール」に日本を代表して出品される。05年絵本『ドン・キ・ホーテ・デ・千秋』(木楽舎)刊行。07年から16年まで、ANAの機内誌『翼の王国』の表紙絵を連載。また07年以降、世界的なフラメンコの踊り手である小島章司の舞踊団のための舞台美術を手がけるようになる。14年スペイン国王よりエンコミエンダ文民功労章を受章。旺盛な文筆活動でも知られ、フラメンコ専門誌『パセオフラメンコ』への連載(1986~2012年)をはじめ新聞・雑誌にエッセイを多数執筆。『渋好み純粋正統フラメンコ狂日記』(主婦の友社、1991年)、『スペイン七千夜一夜』(集英社文庫、2005年)、『絵に描けないスペイン』(幻戯書房、2008年)、『赤土色のスペイン』(弦書房、2008年)等の著作がある。14年3月から16年11月に『週刊朝日』に連載された古今東西の名品をめぐるエッセイ「美を見て死ね」は、没後の17年にエイアンドエフより単行本として刊行された。フラメンコで歌われるカンテの名手としても著名で、逝去の際、スペインの新聞はカンテ歌手の死と報じられている。生前より企画されていた画集は18年に『堀越千秋画集 千秋千万』(大原哲夫編集室)として刊行された。

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