本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,013 件)





上田浩司

没年月日:2016/06/25

読み:うえだこうじ  MORIOKA第一画廊主上田浩司は6月25日、岩手県盛岡市内で老衰のため死去した。享年83。 1932(昭和7)年9月16日盛岡市に生まれる。岩手高等学校卒業。盛岡画廊は64年医師の高橋又郎によって開廊されたが、66年建物改築のため閉廊になる予定だった。上田は閉廊を惜しみ69年から本格的に運営にあたり、71年にはMORIOKA第一画廊として市内第一書店3階(60坪)へ、88年から1990(平成2)年はMORIOKA第壱画廊画廊と名をかえ中央通りへ、90年から2012年はテレビ岩手の1階に移転し再びMORIOKA第一画廊名で活動した。上田と美術との出会いは、45年盛岡市内の百貨店で松本峻介と舟越保武の2人展を見たことだった。敗戦によって価値観がすべて変わった世の中で美術の普遍性をみた。後に舟越は画廊に併設された喫茶店「舷」の看板文字を描いている。画廊で扱った作家は、東京で初個展を見て作品を購入した相笠昌義、開廊して初めて売れたオノサト・トシノブ、地元出身の小野隆夫や百瀬寿、杉本みゆき、数十年にわたり発表を支援した松田松雄などがいる。吹田文明、木村利三郎、関根伸夫、靉嘔、野田哲也、瑛九らの版画展、舟越保武、桂、直木親子の個展も開催している。若手を育てることを第一として、長い付き合いをする方針をもち、70年代は年間30近い展覧会を行なっていたが、2000年代は年数回になり、2017年8月宇田義久展が最後となった。記録集に『MORIOKA第一画廊 記録1964―2014』(2017年 MORIOKA第一画廊・舷)がある。

小嶋悠司

没年月日:2016/06/07

読み:こじまゆうじ、 Kojima, Yuji*  創画会副理事長で日本画家の小嶋悠司は6月7日、脳幹出血のため死去した。享年72。 1944(昭和19)年3月12日、京都市に生まれる。御所や寺社の造営に関わる石工であった祖父の影響で幼い頃より彫刻に関心を示し、また自宅近くの教王護国寺(東寺)で平安期の密教美術に親しんだ。中学・高校時代にはピカソや須田国太郎を知り、63年4月京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)日本画科に入学。秋野不矩や石本正に指導を受ける。父親が友禅の図案家という環境で育つも、はんなりとした花鳥画などは保守的だとし、人物画を志す。66年4月新制作日本画部春季展(京都)に「人体」「風景」が入選。翌67年9月には第31回新制作協会展に「群像―詩II」で初入選を果たす。さらに翌年9月の第32回展では「群像K」「群像L」にて新作家賞受賞(34、35、36回でも受賞)。60年代には人間をテーマに造形力のある空間構成を目指し、ロダンやセザンヌ、レオナルド・ダ・ヴィンチにジョット、あるいは村上華岳や松本竣介等から表現や構成を学ぶ。69年3月京都市立美術大学専攻科日本画専攻修了。同年11月石本正らとヨーロッパへ旅行、約2ヶ月間の行程でオランダ、イギリス、フランス、スペイン、イタリアなどをめぐった。70年9月第34回新制作展に「群像3-A」を出品。アッシジのサン・フランチェスカ聖堂にあるチマブーエの「キリストの磔刑」のような絵を、平安仏画のような色彩で表現したいとして描いた作品で、フレスコ画のような厚みを出すため支持体に麻布を用い、卵テンペラの技法(デトランプ)を併用した。またこの頃より、人間性という意識やそれを支える理性をじっと凝視する存在を、画面内に表すようになる。72年6月彩壺堂にて個展開催。73年1月第2回山種美術館賞展で「群像」が優秀賞を受賞する。同年9月第37回新制作協会展へ「群像’73―凝視」を出品、同会日本画部会員に推挙された。70年頃より画面には頭や手足の無いトルソや、骨をむき出しにした人体が表されるようになるが、そこには人間のもつ理性の根源を問いたいという意識があったという。74年5月新制作協会日本画部全会員が同協会を退会し、新に創画会を設立。小嶋も会員として参加し、同年9月の第1回展へ「群像―’74」を出品した。75年11月より1年間、文化庁在外研修員としてフィレンツェに滞在。古代エトルリアの彫刻や墓石彫像を精力的に写生する。帰国後はそれらの写生をもとにした作品を制作、79年10月の第6回創画会展へ出品した「大地―穢土’79」は、エトルリアの柱頭をもとにした人物や母子像で構成され、当時世間で頻発していた幼児置き去りに対する衝撃から、人間本来の愛情の回復を祈って描かれた。一方で小嶋は、イタリアでみた古代文明の明るさから、人類の未来に明るい自信を持って帰国したといい、ロマネスク彫刻の写生をもとに、無垢な子供を抱く理性的な人間を描いた「人間」(第6回京都春季創画展、1980年)などを描いている。以後、現実や現世、穢れた世界という意味をもつ「穢土」という言葉をタイトルにした作品や、「愛」や「人間」といったタイトルを持つ作品を制作、地獄にも似た現世をありのままに見つめながらも、そこに希望を見出そうとする意識の見られる絵を描きつづけた。85年4月それまで講師を務めていた京都市立芸術大学日本画科の助教授となる(1995年教授、09年名誉教授)。同月、池田幹雄、上野泰郎、大森運夫、毛利武彦、滝沢具幸、渡辺学、小野具定と結成した地の会の第1回展を資生堂ギャラリーにて開催(10回まで出品)。88年6月第10回日本秀作美術展に「凝視」(個展出品作、1987年)が選抜される(11~13、15回にも選抜)。同年10月の第15回創画会展へは、動物と人間、母子像で構成された画面に光を表し、救いのある空間を描いた「地(習作)」(のちに「地」と改題)を出品。同作ではそれまでと異なるテンペラ風の技法が用いられた。またこの頃より、モチーフがそれまで以上に抽象化されるようになり、90年代には高尾曼荼羅のような深く力強いマチエールの色価(バルール)に惹かれ、ものの形を借りずに色によって自らの思想を語ることを目指す。1990(平成2)年1月第1回京都新聞日本画賞展で「穢土」が大賞受賞。97年2月京都府文化賞功労賞受賞。99年5月第12回京都美術文化賞受賞。2000年7月には京都市美術館で回顧展「京都の美術 昨日・きょう・明日28 小嶋悠司―凝視される大地―展」が開かれる。01年3月平成12年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。翌月には練馬区立美術館にて「時代と人間への凝視―小嶋悠司の創造展」開催。00年代にはモチーフが再び具象的な姿をとるようになり、画面も次第に明るくなっていった。17年4月豊田市美術館の常設特別展として、「追悼 小嶋悠司」が開催された。

杉原たく哉

没年月日:2016/05/31

読み:すぎはらたくや、 Sugihara, Takuya*  美術史家の杉原たく哉は5月31日、癌のため死去した。享年61。 1954(昭和29)年12月20日、東京都渋谷区に生まれる。東京都立小石川高等学校から早稲田大学第一文学部へ進学し、79年に同大学同学部美術史専攻を卒業、同大学大学院文学研究科修士課程・博士課程(芸術学・美術史)を経て88年から同大学第一文学部助手を務めた。その後、早稲田大学、群馬県立女子大学、和光大学、お茶の水女子大学、多摩美術大学、跡見学園女子大学、大東文化大学、北海道大学、愛知県教育大学、フェリス女学院大学、沖縄県立芸術大学、岡山就実大学、女子美術大学、放送大学などで講師を務め、東洋美術史などの講義を担当した。 杉原は若い頃から古代オリエントに関心を持っており、大学時代に古代中国の画像石の研究で知られる土居淑子の薫陶を受け、中国古代美術史研究に東西交渉史、比較芸術学、図像学など学際的な視点を用いて、独創的な研究を展開した。82年度に早稲田大学に提出した修士論文「七星剣について」に基づき、「七星剣の図様とその思想―法隆寺・四天王寺・正倉院所蔵の三剣をめぐって」『美術史研究』21(1984年)を発表した。この論文では従来一括りにみなされていた七星剣について、刀身に刻まれた天体文様の考察によって、二系統があることと、その思想的背景の差異を明らかにした。「銅雀硯考」『美術史研究』24(1986年)では、魏の曹操が建立した銅雀台の遺構の瓦をもって硯とした銅雀硯が、実際は300年ほど後の北斉の城の遺瓦を用いた可能性が高いことを提示し、その硯が文房の至宝とみなされ、宋・元・明・清の各時代の文人たちによって賞玩され、さらに室町時代の交易によって日本にもたらされていたことに言及し、瓦の硯が文学的・歴史的イメージの乗り物となって時空を超えて伝えられていったことを明らかにした。杉原の研究手法は、美術作品の形や文様・図様などを徹底的に観察し、幅広い文献史料を渉猟してその源泉を探り、中国から日本、古代から中世・近世、そして近現代へと伝播し、変遷する様相をダイナミックに描き出すところに最大の特徴がある。 杉原の研究は広範な地域・時代をフィールドとするが、その根本には中国古代美術があった。1991(平成3)年9月には土居淑子らとともに中国山東省の仏教史蹟調査を行っており、その内容は土居淑子・杉原たく哉・北進一「山東省仏跡調査概報」(『象徴図像研究』7・8、1993・94年)にまとめられている。主要な論文には「漢代画像石に見られる胡人の諸相―胡漢交戦図を中心に」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 別冊(文学・芸術学編)』14、1987年)、「不動明王の利剣と中国の宝剣思想」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 別冊(文学・芸術学編)』15、1988年)、「神農図の成立と展開」(『斯文』101、1992年)、「狩野山雪筆歴聖大儒像について」(『美術史研究』30、1992年)、「張騫図と乗槎伝説」(『象徴図像研究』8、1994年)、「聖賢図の系譜 背を向けた肖像をめぐって」(『美術史研究』36、1998年)、「始皇帝像の諸相」(『東洋美術史論叢』吉村怜博士古稀記念会編、雄山閣、1999年)、「道教と絵画」(『道教と中国思想』(講座 道教 第4巻)雄山閣出版、2000年)、「揺銭樹を支える羊―「スキタイの子羊」への射程」(『神話・象徴・イメージ:Hommage a Kosaku Maeda』、原書房、2003年)などがある。「蠣崎波響筆「夷酋列像」の図像学的考察」(『てら ゆき めぐれ―大橋一章博士古稀記念美術史論集』中央公論美術出版、2013年)は杉原の最後の論文となった。また妻の杉原篤子との共著「柳橋図屏風と橋姫伝承」は『古美術』100号記念研究論文の佳作賞を受賞し、『古美術』104(1992年)に掲載されている。 杉原は時代・地域を大局的に捉え、図像学的考察によって独創性豊かな研究を進める一方、そうした専門的な研究を、一般向けにわかりやすく紹介した著作も多い。単著には『中華図像遊覧』(大修館書店、2000年)、『いま見ても新しい古代中国の造形』(小学館、2001年)、『しあわせ絵あわせ音あわせ―中国ハッピー図像入門』(日本放送協会、2006年)、『天狗はどこから来たか』(大修館書店、2007年)などがある。ギャラリー繭において行われた漢代画像石・拓本展に関連して刊行された『乾坤を生きた人々―漢代徐州画像石の世界』(まゆ企画、2001年)は、豊富な図版とともに杉原による解説、画像石の概説がまとめられている。共著には『カラー版 東洋美術史』(美術出版社、2000年)、『中国文化55のキーワード』(ミネルヴァ書房、2016年)などがある。 杉原は、東京友禅の作家であった杉原聰(1922―2006)の長男として生まれたこともあり、父の生涯にわたる作品をまとめた『杉原聰きもの作品選 昭和・平成の女性美を彩った友禅作家 回顧展開催記念』(文京シビックセンター)図録(2012年)を編集・刊行している。

朝倉響子

没年月日:2016/05/30

読み:あさくらきょうこ、 Asakura, Kyoko*  彫刻家の朝倉響子(本名、朝倉矜子)は5月30日、腸閉塞で死去した。享年90。 1925(大正14)年12月9日、彫刻家・朝倉文夫の次女として東京に生まれる。姉は日本画家、舞台美術家として活躍した朝倉摂(本名、富沢摂)。父文夫の方針により学校へは通わず、義務教育の内容は家庭教師より教わった。はじめは姉摂とともに絵を描いていたが、彫刻を制作するようになり、1939(昭和14)年には9月に東京府美術館にて開催された第12回朝倉彫塑塾展覧会へ、「習作(第一)」「習作(第二)」「手習作」「手習作(イ)」「手習作(ロ)」の5点を出品している。42年10月第5回新文展に「望」で初入選を果たし、翌43年の第6回展には「あゆみ」を、46年3月の第1回日展には「慈」を出品。同年10月の第2回日展へ出品した「晨」にて特選を受賞した。以後も「萌」(第3回展、1947年)、「作品S」(第6回展、1950年)、「Mlle S.」(第7回展、1951年)で特選受賞。52年の第8回展、57年の第13回展では審査員を務めるも、以後同展への出品はしていない。新文展や日展への出品作はいずれも女性を題材にしたもので、多くは裸体の立像であった。また47年の第3回展までは、本名の矜子で出品していた。54年5月第1回現代日本美術展へ「首」を出品、以後も8回展(1968年)まで毎回出品をする。58年4月新聞を配る少年保護育成の会の依頼で約1年をかけて制作した新聞配達の少年像が完成、翌月麻布有栖川宮記念公園に設置された。この像がきっかけとなり、61年には神田錦町の製本業者からの依頼で製本工の像を制作している。59年5月第5回日本国際美術展へ「男の顔」を出品、以後9回展(1967年)まで毎回出品する。60年春、それまで父文夫のアトリエの一隅を仕切って制作を行っていたが、本郷千駄木町にアトリエを新設。61年10月文藝春秋画廊にて初の個展を開催する。この頃には形ではなく、対象の内奥と自身の精神とが混ざり合った「意味」を造形化しなくてはと考えていたという。65年1月朝日新聞社主催の第16回選抜秀作美術展に「ともえさん」(第6回現代日本美術展、1964年)が選抜出品、同作は翌月文部省買上となった。67年11月ギャラリー・キューブにて個展開催、石彫、ブロンズによる作品10余点を出品する。なかでも3点のトルソでは形態の単純化、抽象化が見られた。こうした傾向は70年4月の個展(ギャラリー・ユニバース)でも引き続き見られ、ブロンズによる具象的な人物像と石彫によるトルソという、彫塑と彫刻の両方が試みられた。また60年代後半頃よりブロンズによる女性像には着衣のものが多く見られるようになり、70年の個展では、「アヤ」「リサ」「ユミ」「マヤ」などの女性名をタイトルにした作品も発表された。71年7月第2回現代国際彫刻展に「女」を招待出品。73年9月にはギャラリー・ユニバースで個展を開催、椅子に腰掛け両足をまっすぐに伸ばした着衣の女性像である「WOMAN」をはじめとしたブロンズ作品18点を発表する。74年9月第2回現代彫刻20展に「WOMAN」「WOMAN」「FACE・S」を招待出品(第3回展、75年にも招待出品)。70年代後半頃より、それまでのデッサンにかわってモデルの写真を撮るようになり、その写真から対象のイメージを引き出し、造形化するという新しい方法での制作を行うようになる。78年10月の個展(ギャラリー・ユニバース)では、有名歌手やファッションモデルをモデルに制作した作品を発表。79年布施明をモデルにした「F(後に「憩う」と改題)」で第7回長野市野外彫刻賞を受賞する。80年1月写真家の奈良原一高が撮影を担当した写真集『光と波と 朝倉響子彫塑集』(PARCO出版)を刊行。82年、前年の個展で発表した「ニケ(NIKE)」で第13回中原悌二郎賞優秀賞を受賞する。85年9月には写真家安斎重男の撮影による写真集『KYOKO』(PARCO出版)の刊行を記念して、渋谷のパルコパート3内のスペースパート3にて個展を開催。会場には安斎の写真もともに展示された。同会場では88年9月、1993(平成5)年3月にも個展を開いている。2000年9月現代彫刻センターにて個展開催。同年11月には大分県の朝倉文夫記念文化ホールにて、70年代からの作品38点に野外設置作品の大型プリント9枚を加えた回顧展「愛の園生 朝倉文夫記念公園開園10周年記念 朝倉響子展」が開催された。03年12月北九州市立美術館にて回顧展「朝倉響子展―ときの中で―」開催。10年1月上野の森美術館ギャラリーにて個展を開催。歿後の16年9月には、初の父娘三人展である「朝倉文夫 摂 響子 三人展」が朝倉彫塑館にて開催された。 野外設置の作品も多く、主なものに「WOMAN」(町田駅北口)、「ふたり」(仙台市・西公園)、「約束の像」(小田急線新宿駅(後に小田急百貨店新宿店内に移設))、「フィオーナとアリアン」(東京・教育の森公園)、「マリとシェリー」(東京芸術劇場)などがある。

小川光三

没年月日:2016/05/30

読み:おがわこうぞう、 Ogawa, Kozo*  写真家の小川光三は5月30日、特発性血小板減少症のため死去した。享年88。 1928(昭和3)年3月6日、仏像を専門とした写真家で飛鳥園(奈良市)を設立した小川晴暘の三男として奈良県奈良市に生まれる。兄・光暘は同志社大学教授で美術史家。旧制郡山中学校に在学中、兵役を志願し通信兵となる。画家を志し、47年、大阪市立美術館付設美術研究所で日本画と洋画を学ぶ。48年に晴暘から飛鳥園の経営と撮影を引き継いだ。50年、文化財保護法の施行に伴って、文化財保護委員会(現:文化庁)の委嘱で全国各地の仏像撮影に5年間従事する。57年、初の個展を大阪・阪急百貨店で開催する。 父・晴暘の時代のモノクロ写真とは異なり、カラー写真に求められた正しい発色、そしてインパクトのあるライティングを追求した光三は、試行錯誤の末、鏡を用いて堂内に自然光を巡らせて仏像を撮影する手法にたどり着いた。一冊で一体の仏像を取り上げた『魅惑の仏像』シリーズでは、アングルやライティングの変化によって仏像の多様な表情を引き出している。なかでも興福寺・阿修羅立像の、少年らしい柔和さではなく戦闘神としての厳しい表情を切り取った写真には、造像の歴史的背景や当初の安置方法までも踏まえて仏像を撮影するという、光三独自の視点が反映されている。 主な写真集・著作に『飛鳥園仏像写真百選』(学生社、1980年)、『やまとしうるはし』(小学館、1982年)、『魅惑の仏像』(全28巻、毎日新聞社、1986~96年)、『ほとけの顔』(全4巻、毎日新聞社、1989年)、『あをによし』(小学館、1996年)、『興福寺』(新潮社、1997年)、『奈良 世界遺産散歩』(新潮社、2006年)、『山渓カラー名鑑 仏像』(山と渓谷社、2006年)など。生涯にわたって奈良の風景と仏像の写真を撮り続けた一方で、若い頃から仏像が造られた背景でもある古代史の研究に没頭し、『大和の原像』(大和書房、1973年)や『ヤマト古代祭祀の謎』(学生社、2008年)を刊行する。『大和の原像』では、奈良の桧原神社を基点とした同緯度線上に、祭祀跡や社寺が一直線に位置するという「太陽の道」を提唱した。日本環太平洋学会理事を務めたほか、愛知県立芸術大学や白鳳女子短期大学の講師を歴任。2010(平成22)年、奈良県立万葉文化館で「写真展 小川晴暘と奈良飛鳥園のあゆみ―小川光三・金井杜道・若松保広―」開催。2011年、朝日新聞大阪本社で東日本大震災チャリティー「奈良の仏像」展開催。また、海外でも多数の個展が開催された。

佐藤晃一

没年月日:2016/05/24

読み:さとうこういち、 Sato, Koichi*  グラフィックデザイナーで多摩美術大学名誉教授の佐藤晃一は5月24日、肺炎のため死去した。享年71。 1944(昭和19)年8月9日、群馬県高崎市に生まれる。高校在学中にグラフィックデザイナーになることを決意し、65年東京藝術大学工芸科に入学。69年同大学工芸科ビジュアルデザイン専攻を卒業し、資生堂宣伝部に入社。劇団青年座のポスターを手がけるようになり、横尾忠則の影響を受けたサイケデリックな表現が注目される。71年に資生堂を退社し、佐藤晃一デザイン室を設立。当時流行のポップアートの影響を受けながらも、その日本的な表現の可能性を探り、73年にギャラリーフジエにて初個展「アブラアゲからアツアゲまで」を開催、克明に描いた油揚げの連作を発表する。74年には蛍光色を用いてグラデーションの効果を取り入れ、箱の中の光に浮かぶ鯉をあらわした「ニュー・ミュージック・メディア」のポスターで独自の境地を開拓。その後も日本的な形態を巧みに用いながら、画面全体が光り輝くような印象を与える作品を発表する。77年第1回日米グラフィックデザイン大賞のポスター部門とエディトリアル部門で金賞受賞。翌年、劇団青年座「死のう団」等のポスター3点がニューヨーク近代美術館の永久保存となる。82年より母校の東京藝術大学デザイン科で87年まで非常勤講師を務める。88年にはニューヨーク近代美術館での「THE MODERN POSTER」展のために依頼されて制作したポスターが国際指名コンペ1席となる。1990(平成2)年には六耀社より作品集『KOICHI SATO』刊行。91年に毎日デザイン賞、98年には「武満徹―響きの海へ」告知ポスター等で平成9年度芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。一方で95年多摩美術大学美術学部デザイン科グラフィックデザイン専攻(現、グラフィックデザイン学科)教授に就任し、2015年に定年退職、同大学名誉教授となるまで、主に日本的な表現の分析を柱に学生を指導する。この間、99年には高崎市美術館で「超東洋・佐藤晃一ポスターの世界展」が開催。08年にはイラストレーターの安西水丸、若尾真一郎とクリエイションギャラリーG8で「絵とコトバ 三人展」を開催、自ら詠んだ俳句とグラフィックを融合させた“俳グラ”を発表する。没後の17年に高崎市美術館で「グラフィックデザイナー 佐藤晃一展」が開催された。アメリカ文学研究者で東京大学名誉教授の佐藤良明は実弟。

金澤弘

没年月日:2016/05/07

読み:かなざわひろし  京都国立博物館名誉館員、および元京都造形芸術大学教授の金澤弘は、5月7日に死去した。享年81。 金澤は1935(昭和10)年、大阪市に生まれた。61年、慶応義塾大学大学院修士課程史学科を修了し、同年より、京都国立博物館に勤務。87年から同館学芸課長を務めた。1995(平成7)年に同館を退官し、京都造形芸術大学芸術学科教授となり、2005年まで教鞭をとった。また、島根県文化財保護委員、仏教美術研究記念上野財団理事、頴川美術館理事、茶の湯文化学会理事をつとめた。 京都国立博物館では、「室町時代美術」展(1968年)、「中世障屏画」展(1970年)において、15世紀水墨画の画題、画派、画風、受容について多角的調査を行い、その成果を展観した。「日本の肖像」展(1978年)では頂相について、「禅の美術」展(1981年)では禅余画と詩画軸について論じ、「花鳥の美」展(1982年)では水墨花鳥画の作画理念を、「写意から装飾への変化」として展観した。また、至文堂より刊行の『日本の美術』シリーズでは、『初期水墨画』『室町絵画』『水墨画―如拙・周文・宗湛』(1972、1983、1994年)を著し、初期水墨画の成立と展開を詳述した。その業績は、室町絵画についての幅広い作品調査にもとづく優れた分析によるものであった。なかでも、『雪舟』(ブック・オブ・ブックス14、小学館、1976年)において、雪舟の生涯と作品を丹念に追求し、拙宗等楊と雪舟の同人説を否定した。 その他、共著に、『華厳宗祖師絵巻』(中央公論社、1978年)、Zen―Meister der Meditation in Bildern und Schriften (Museum Rietberg, Zurich, 1993)、『雪舟の芸術・水墨画論集』(秀作社出版、2002年)などがあり、単著に、『日本美術絵画全集 可翁・明兆』(集英社、1977年)、『日本美術全集 金閣・銀閣』(学習研究社、1979年)、『花鳥画の世界 水墨の花と鳥』(学習研究社、1982年)などがある。 また、室町水墨画を中心に、「長福寺蔵・清信筆 瀟湘八景図について」(『MUSEUM』146、1963年)、「旧養徳院襖絵について」(『美術史』55、1964年)、「相阿弥筆 瀟湘八景図(大仙院)」(『國華』886、1966年)、「雪舟筆天橋立図とその周辺」(『哲学』53、1968年)、「如拙・周文とさまざまの画派と画風」(『水墨美術大系』6、講談社、1974年)、「明兆とその周辺」(『水墨美術大系』5、講談社、1975年)、「琴棋書画図の展開」(『屏風絵集成』2、講談社、1980年)、「白衣観音図の展開」(『大和文華』68、1981年)、「瀟湘八景図の展開」(『茶道聚錦』9、小学館、1984年)、「慕帰絵の画風と構成」(『続日本絵巻大成』4、中央公論社、1985年)、「富岡鉄斎筆 蓬莱仙境図・武陵桃源図屏風」(『國華』1250、1999年)など、多数の論考をのこした。

坪井清足

没年月日:2016/05/07

読み:つぼいきよたり、 Tsuboi, Kiyotari*  考古学者で元奈良国立文化財研究所所長の坪井清足は5月7日、急性心不全のため死去した。享年94。 1921(大正10)年11月26日、大阪府大阪市に生まれ、その後は東京都で育つ。父は実業家の傍ら在野の考古学者として梵鐘研究を開拓した坪井良平。41年に京都大学文学部に入学。43年に学徒動員により兵役に従事し、台湾に送られた。台湾では台北帝国大学医学部の人類学者である金関丈夫と交流を持った他、鳳鼻頭遺跡近くの陣地に派遣された折には、壕の壁面の上層に黒陶(新石器時代後半期)、下層に彩陶(新石器時代前半期)が包含されていることを確認し、戦陣にあっても考古学研究から離れることはなかった。 46年に京都大学復学。49年に京都大学大学院進学。平安中学校・平安高等学校教諭などを経て、55年に京都国立博物館に採用。同年、奈良国立文化財研究所に転出。それ以降、65~67年に文化財保護委員会(現、文化庁)への出向、75~77年に文化庁文化財保護部文化財鑑査官の任を務めた時期を除くと、77年の奈良国立文化財研究所所長就任を経て、86年の所長任期満了退職に至るまで、奈良国立文化財研究所を拠点として考古学研究の推進と埋蔵文化財行政の確立に邁進した。退職後は、86年に財団法人大阪文化財センター理事長就任、2000(平成12)年に財団法人元興寺文化財研究所所長就任を経て、13年以降は公益財団法人元興寺文化財研究所顧問を務めた。 役職としては、文化財保護審議会第三専門調査会長、学術審議会専門委員、宮内庁陵墓管理委員、日本ユネスコ国内委員会委員などを歴任した。叙勲等は、91年に勲三等旭日中綬章、99年に文化功労者に叙せられ、死後、従四位に叙位された。受賞歴としては、83年に日本放送協会放送文化賞、90年に大阪文化賞、91年に朝日賞を受賞している。 坪井は奈良国立文化財研究所および文化財保護委員会・文化庁での職務に従事する中で、現在に至る埋蔵文化財行政の枠組みを構築するために尽力した。当時、高度経済成長期の我が国においては、高速道路網計画や住宅団地建設などの大型開発が各地で進み始めていた。それらの工事にともなう事前の発掘調査体制や、発掘経費の捻出方法など、埋蔵文化財行政の課題が山積していた。坪井は、事前の発掘調査を義務付け、発掘調査費用は開発者側が負担する「原因者負担」の原則を確立する上で中心的な役割を果たした。この原則は、埋蔵文化財行政を進展させる礎となり、その後、地方自治体の文化財担当者の増強を促すきっかけとなった。 坪井は文化庁文化財鑑査官、奈良国立文化財研究所所長を歴任して辣腕をふるったことから、多くの人から畏怖される存在であったが、実際に口が悪いことは有名で、「清足(きよたり)」ではなく「悪足(あくたれ)」と呼ばれることもあった。このあだ名は、本人もまんざらではなかったようで、「飽多禮(あくたれ)」という雅号を自ら用いることもあったという。 主な著書は以下の通り。『古代追跡―ある考古学徒の回想』(草風館、1986年)『埋蔵文化財と考古学』(平凡社、1986年)『東と西の考古学』(草風館、2000年)『考古学今昔物語』(金関恕・佐原真との共著、文化財サービス、2003年) またインタビュー記事「戦後埋文保護行政の羅針盤」(2009年8月17日収録)が、日本遺跡学会編『遺跡学の宇宙―戦後黎明期を築いた十三人の記録』(六一書房、2014年)に所収されている。

田中光常

没年月日:2016/05/06

読み:たなかこうじょう、 Tanaka, Kojo*  動物写真家の田中光常は5月6日、肺炎のため死去した。享年91。 1924(大正13)年5月11日、静岡県庵原郡蒲原町(現、静岡市清水区蒲原)に生まれる。本名・光常(みつつね)。祖父は土佐藩出身の明治の政治家田中光顕。第一東京市立中学校(現、千代田区立九段中等教育学校)を経て、1944(昭和19)年函館高等水産学校養殖学科(現、北海道大学水産学部)を卒業。海軍航海学校を経て海軍に任官、終戦により除隊する。戦後すぐの時期には小田原で漁業に従事するが体をこわし、その療養中に写真に興味を持つ。写真家松島進が主宰する研究会などで技術を習得し、53年頃からフリーランスの写真家として仕事を始めた。 初期は科学雑誌や園芸雑誌などのための撮影に従事、しだいに動物写真を専門とするようになり、63年より2年にわたって『アサヒカメラ』誌に「日本野生動物記」を連載。これにより64年第14回日本写真協会賞新人賞、第8回日本写真批評家協会賞特別賞を受賞するなど、動物写真家としての評価を確立した。66年からは「続・日本野生動物記」を同誌に連載、これらは68年『日本野生動物記』(朝日新聞社)としてまとめられる。以後、国内だけでなく65年のアフリカ取材をはじめとした世界各地での動物の撮影にとりくみ、その仕事は数多くの著書にまとめられた。その主なものに、『カラー 日本の野生動物』(山と渓谷社、1968年)、第21回日本写真協会賞年度賞の受賞作となった『世界動物記』(全5巻、朝日新聞社、1970-72年)、『日本野生動物誌』、『ガラパゴス』、『オーストラリア』、『アフリカ』、『野生の家族』(いずれも教養カラー文庫、社会思想社、1976年)、『野生の世界』(ぎょうせい、1984年)、『狼:シベリアの牙王』(潮出版社、1990年)など。また動物や自身の撮影をめぐる文章をまとめた『世界の動物を追う:動物撮影ノート三十年』(講談社、1979年)、『動物への愛限りなく:世界の野生動物紀行』(世界文化社、1991年)などがある。 科学雑誌の仕事をきっかけに家畜などの飼育されている動物から始まり、試行錯誤を重ねながら野生動物の自然な姿や表情をとらえる生態写真へと発展していった田中の仕事は、機材や情報の限られた時代にあって、まさにこの分野のパイオニアワークであり、同時期の岩合徳光とともに日本の動物写真家の先駆的存在として、後進にも大きな影響を与えた。 日本パンダ保護協会会長、(財)世界自然保護基金(WWF)日本委員会評議員などを歴任し、自然保護活動にも尽力した。長年の功績に対し、1989(平成元)年には紫綬褒章、95年には第45回日本写真協会賞功労賞、2000年には旭日小綬章を受けた。

吉野朔実

没年月日:2016/04/20

読み:よしのさくみ、 Yoshino, Sakumi*  漫画家の吉野朔実は4月20日、東京都内で病のため死去した。享年57。 1959(昭和34)年2月19日大阪府生まれ。熊本県、千葉県で過ごす。短期大学卒業。80年「ウツよりソウがよろしいの!」(『ぶ~け』、集英社)でデビュー。83年大学生の群像を描いた「月下の一群」(同上)、85年「少年は荒野をめざす」(同上)が本格的連載となり、目元の描き方も繊細になりタッチも変化する。同作は、中学生で小説家女子が理想の男子像を高校の先輩にみるキャンパス青春物で、吉野が繰り返し描いていく人物の鏡像関係や心理的な作術がすでに見られる。88年美大を舞台にした双子の物語「ジュリエットの卵」(同上)、1991(平成3)年毎月50頁のオムニバス的連載「いたいけな瞳」(同上)、93年心理カウンセラーの女性と双子の男性を軸にした「エキセントリックス」(同上)などで人気を不動とする。以後、小学館のメディアに発表を続け、2001年大学卒業後就職しない女性1名、男性2名の関係を描いた「瞳子」(『週刊ビッグコミックスピリッツ』)、03年現代の家族をテーマにした「period」(『月刊IKKI』)は、14年までの長期連載。16年「いつも緑の花束に」(『月刊フラワーズ』)が最後の作品となった。また、エッセイも手掛け、『本の雑誌』で本に関するエッセイを連載。『お父さんは時代小説(チャンバラ)が大好き』(本の雑誌社、1996年)などにまとめられている。映画について『こんな映画が、吉野朔実のシネマガイド』(パルコ出版、2001年)がある。

橋本明夫

没年月日:2016/04/20

読み:はしもとあきお、 Hashimoto, Akio*  鋳金家の橋本明夫は4月23日、食道がんにより死去した。享年66。 1949(昭和24)年12月25日、東京都品川区に生まれる。70年、東京藝術大学工芸科に入学、鋳金を専攻し、西大由、原正樹に師事する。74年同大学を卒業し、その卒業制作がサロン・ド・プランタン賞を受賞する。さらに同校の大学院修士課程に進学し、76年その修了制作である「LANDSCAPE」が大学買上となる。大学院修了後、現在のさいたま市見沼区宮ヶ谷塔に大学院時代に設立した「蜂の巣工房」で作家活動をはじめ、79年、東京赤坂の日枝神社の依頼を受け、鎮座五百年記念の大形の天水桶を制作する。 1991(平成3)年、東京藝術大学の常勤助手に採用され、99年助教授、2005年に教授となる。85年、日本橋三越で開催された、「現代鋳金工芸展」で「高村豊周記念賞」、同年の天理市で開催された第5回「天展」で奨励賞を受賞した。 大学教員になってからは、日本古来の真土型、セラミックシェルモード、フルモールド技法などの鋳造法によって制作を行い、その材質も鉄、ブロンズ、ステンレス、アルミニウムと多種の金属を使用するようになる。あらゆる技法を駆使し、材質の特徴を効果的に引き出して表現した作品には、はなやかさとは対照的に、情緒的で静謐な印象を与えるものが多い。「天と地」、「星月夜」など鉄による気流シリーズの山や雲には気韻が醸成され、「香りの樹」、「VAPOR VASE」のステンレスによる作品には独特の存在感を示すものとなっている。 そうした自身の制作活動以外に力を注いだのが、文化財の修復と復元であった。09年から13年まで、伊勢神宮第62回式年遷宮御神宝の白銅鏡31面を制作するが、それも古代から伝わる惣型と箆押しによる徹底的な在来工法によるものであった。一方、東京国立博物館蔵の荻原碌山の「女」の石膏像からの復元鋳造では、三次元デジタル撮影による原型造を行い、在来と新たな技法の実践的研究に取り組んだ。修復では12年、杉野服飾学園の銅造大形宝塔(江戸時代)に従事した。また港区から受託制作による「品川駅港南2丁目道路アートワーク」では鋳金科の学生とともに、「〓〓の塔」、「ボラード人」、「街路灯」、「方位プレート」などを制作し、公共物に芸術性を取り込んだ町作りを行った。

郷倉和子

没年月日:2016/04/12

読み:ごうくらかずこ、 Gokura, Kazuko*  日本画家の郷倉和子は4月12日、心不全のため死去した。享年101。 1914(大正3)年11月16日、日本画家の郷倉千靱とその妻蔦子の長女として東京市谷中に生まれる。幼い頃は千靱の写生のため各地を転々とし、21年三軒茶屋に転居。1927(昭和2)年3月駒沢尋常高等小学校(現、世田谷区立駒沢小学校)卒業。同年4月三輪田高等女学校(現、三輪田学園)に入学。在学中竹を描いた作品が皇太后の献上画に推薦され、図画担当の赤堀千代子より女子美術専門学校(現、女子美術大学)への進学を勧められる。32年4月同校日本画高等科へ入学。この頃の作品は「高原の秋」のように、花鳥を写実的に描いた繊細な画風を示すものであった。35年3月同校を首席で卒業。翌36年9月第23回院展に「八仙花」で初入選を果たす。この頃安田靫彦に入門。39年9月第26回院展へ「庭の春」を出品、日本美術院院友に推挙される。42年倉光博と結婚。44年戦局悪化にともない、新潟県妙高市の赤倉へ疎開、出産や育児のため48年まで院展出品を見合わせる。49年9月第34回院展へ「庭つゝじ」を6年ぶりに出品。52年頃よりマチスやピカソへの憧れから半具象的作風を模索しはじめる。また千靱の門下生であった馬場不二の新しい感覚に惹かれ、写実から半具象への省略や形態の方法を学ぶ。55年9月の第40回院展へ出品した「春」では、きわめて単純化された桜花や強い色調による画面構成を見せ奨励賞受賞(41、44回展でも受賞)。以後60年まで毎回受賞し、同年9月の第45回院展へ出品した「花苑」で2度目の日本美術院賞受賞、日本美術院同人に推挙された。この間、56年10月馬場不二が亡くなり、岩橋英遠に指導を受けるようになる。また59年1月朝日新聞社主催の第10回選抜秀作美術展に「夕陽」(第43回院展、58年)を招待出品する(翌年も出品)。61年には4月から5月にかけて父千靱と連れ立ちインドへ旅行、帰国後「熱国の幻想」(第46回院展、61年)などを制作、この頃より作品が幻想的な傾向を帯びはじめる。63年4月上野松坂屋で初の個展開催。69年片岡球子、三岸節子、荘司福、雨宮敬子らと日本画、洋画、彫刻、工芸にわたる女流総合展「潮」を結成、3月に第1回展(銀座三越)を開催する(以後毎回出品)。70年9月第55回院展へ「榕樹」を出品し、文部大臣賞受賞。この頃、幻想を突き詰めると抽象になってしまうとし、半具象へと戻すために現実と幻想の組み合わせを模索するものの、70年代後半にはそれにも行き詰まりを感じはじめ、ひたすら自然を観察し、写生と素描を繰り返す。80年第1回現代女流美術展へ出品(以降毎回出品)。同年紺綬褒章受章。81年5月日本美術院評議員に推挙される。84年9月の第69回院展には、悩みに悩んで何度も描きなおしたという「閑庭」を出品、内閣総理大臣賞を受賞。翌85年4月の第40回春の院展へは湯島天神の梅を描いた「古木に出た紅梅の芽」を、9月の第70回院展には寒中のつめたさを表現しようと胡粉と墨を主とした「暮色白梅」をそれぞれ出品、この年より梅の連作に取り組む。86、87年には「気」(第71回院展)などモノトーンの作品を発表するが、88年の「窓辺」(第43回春の院展)では一転して明るい画面が試みられる。1989(平成元)年の「春望」(第44回春の院展)では瓦屋根と梅が描かれ、以後も連作として展開された。90年6月前年の「静日」(第74回院展)で平成元年度日本芸術院恩賜賞受賞。翌91年5月日本美術院監事となる。同年6月第13回日本秀作美術展に「陽だまり」(第75回院展、90年)が選抜された(24回にも選抜)。92年4月勲四等宝冠章受章。9月の第77回院展には松島瑞巌寺の紅白梅を描いた「縹渺」を出品、遠近感のある空間に梅樹を配す画面構成がとられ、以後の作品でも試みられた。94年6月日本美術院理事。97年世田谷区文化功労賞。同年12月日本芸術院会員に任命される。2000年1月「郷倉和子展 梅花の調べ」(日本橋高島屋ほか)開催。02年11月文化功労者。同年父千靱の故郷である富山県小杉町(現、射水市)の名誉町民となる。03年10月女子美術大学名誉博士。09年10月「感謝をこめて 郷倉和子日本画展」(日本橋三越ほか)開催。13年9月「白寿記念 郷倉和子展―心の調べ」(富山県立近代美術館)開催。00年以降も梅をテーマに作品を描き続け、「春日蜿々(紅梅)」(第85回院展、2000年)など画面を梅の枝で埋め尽くした作品、「水辺の春光」(第91回院展、2006年)などの雀や鴛鴦、鯉、うさぎなどと梅を組み合わせた作品、「献花(白梅)」(第62回春の院展、2007年)など仏像に梅を取り合わせた作品と展開。最晩年には空を意識した青い画面に、瓦屋根や鴛鴦、鯉などと梅を添景のように配した連作を発表、16年3月の第71回春の院展へは青い空にかかる虹と白梅を描いた「宙のかがやき」を出品した。歿後正四位に叙され、旭日重光章を授与された。

中部義隆

没年月日:2016/04/05

読み:なかべよしたか、 Nakabe, Yoshitaka*  日本絵画史研究者の中部義隆は、4月5日、膵臓がんのため、大阪市の湯川胃腸病院で死去した。享年56。 1960(昭和35)年1月29日、大阪府大阪市大正区に生まれる。78年3月に大阪府立市岡高等学校を卒業し、同年神戸大学文学部へ入学。その後、85年3月に同大学を卒業し、同年4月神戸大学大学院へ進学、87年3月に同大学院文学研究科修士課程を修了した。同年4月からは同大学院文学研究科博士課程へ進学、同年12月に同課程を中途退学し、翌88年1月に神戸大学文学部の助手となるが、同年4月に財団法人大和文華館学芸部員として採用される。以後28年間、同館での勤務を続け、2000(平成12)年6月に同館学芸部課長、06年4月に学芸部次長、12年に学芸部長となり、常に同館の展覧会を主導していった。 専門分野は、広く江戸時代の絵画全般に及んだが、とくに俵屋宗達や本阿弥光悦、尾形光琳など琳派に関する多くの展覧会や研究は、ライフワークとして最も重要な業績である。研究面では、琳派の装飾技法における版木の活用を指摘するなど、きわめて実証的な手法を用いたが、同時に、琳派の工芸品等の持つ造形感覚への鋭い理解は、直感的でもあり、その冴え渡る大胆な直感を、緻密な作品観察によって、実証的に裏付けていく研究スタイルにこそ真骨頂がある。また、展覧会を通して、従来あまり注目されてこなかった画家を取り上げることにも意欲的で、大和文華館で企画した松花堂昭乗、渡辺始興、冷泉為恭の展覧会や図録は、美術史の研究上でも、とりわけ高い評価を受けた。 一方、後進の指導や育成にも積極的にあたり、02年4月からは神戸大学大学院客員助教授、05年4月からは同大学院客員教授を務めたほか、奈良大学、京都造形芸術大学、佛教大学、大阪大学、大阪府立大学などでも非常勤講師として教鞭をとったが、むしろ、大和文華館のみならず、関西を代表する学芸員として各方面から慕われた点も見逃せない。繊細でありながらユーモアにあふれた作品への語り口は独特で、ギャラリートークは鑑賞者から常に好評だった。また、厳しくもあたたかい人柄に惹かれ、その薫陶を受けた学芸諸氏も多い。一流の研究者でありながら、作品と鑑賞者に親しく寄り添う学芸員らしい姿が、後進に与えた影響は絶大である。 なお、企画に関わった主要な展覧会としては、「俵屋宗達―料紙装飾と扇面画を中心に―」(大和文華館、1990年)、「松花堂昭乗―茶の湯の心と筆墨」(大和文華館、1993年)、「東洋美術1000年の軌跡 福岡市美術館«松永コレクション»«黒田資料»の名宝を中心に」(大和文華館、1997年)、「渡辺始興―京雅の復興―」(大和文華館、2000年)、「松花堂昭乗の眼差し 絵画に見る美意識」(八幡市立松花堂美術館、2005年)、「復古大和絵師 為恭―幕末王朝恋慕―」(大和文華館、2005年)、「大倉集古館所蔵 江戸の狩野派―武家の典雅」(大和文華館、2007年)、「茶の藝術」(岡崎市美術博物館、2007年)、「大和文華館所蔵 富岡鉄斎展」(大和文華館、2007年)、「松花堂昭乗 没後370年 先人たちへの憧憬」(八幡市立松花堂美術館、2009年)、「女性像の系譜―松浦屏風から歌麿まで」(大和文華館、2011年)、「乾山と木米―陶磁と絵画―」(大和文華館、2011年)、「琳派 京を彩る」(京都国立博物館、2015年)などが挙げられる。 また、主要な論文としては、「木版金銀泥刷料紙装飾について―版木とその活用法を中心に―」(『大和文華』81、1989年)、「伝宗達筆 草花図扇面散貼付屏風をめぐって」(『大和文華』87、1992年)、「新出の伝宗達下絵光悦書四季草花下絵三十六歌仙和歌色紙について」(『国華』1219、1997年)、「渡辺始興展望」(『大和文華』110、2003年)、「「舞楽図屏風」と「風神雷神図屏風」の画面構成について」(『美術史論集』5、2005年)、「新収品紹介 春秋鷹狩茸狩図屏風」(『大和文華』122、2010年)、「松花堂昭乗作品の木版雲母刷料紙」(百橋明穂先生退職記念献呈論文集刊行委員会編『美術史歴参 百橋明穂先生退職記念献呈論文集』中央公論美術出版、2013年)、「沃懸地青貝金貝蒔絵群鹿門笛筒の意匠構成」(『大和文華』126、2014年)、「光琳と乾山―町衆文化の精華―」(河野元昭監修『年譜でたどる琳派400年』淡交社、2015年)、「藤田美術館所蔵の光琳乾山合作銹絵角皿をめぐって」(『陶説』749、2015年)などがあり、江戸時代の絵画のみならず、漆工、陶芸など多様な分野の造形表現に精通していたこともうかがえよう。

望月三起也

没年月日:2016/04/03

読み:もちづきみきや、 Mochizuki, Mikiya*  漫画家の望月三起也は4月3日、肺腺がんで死去した。享年77。別名牧英三郎、M・ハスラーで活動。 1938(昭和13)年12月16日、神奈川県横浜市生まれ。57年神奈川県立神奈川工業高校卒業。建築会社に就職するも、漫画家へなるべく、1年余りで退社する。出版社に持ち込み原稿をするなかで、60年「特ダネを追え」が『少年クラブ』に掲載されデビューとなる。その後堀江卓、吉田竜夫(タツノコプロダクション)のアシスタントを勤める。62年「ムサシ」(『少年画報』)、63年「隼」(『少年キング』)、64年「秘密探偵J」(同上)、「ケネディ騎士団」(『少年ブック』)などで、60年代のマンガシーンにヒット作を送る。「秘密探偵JA」と「ケネディ騎士団」 は、当時の映画007シリーズの人気もあり、国際色豊かな物語とアクションシーンに見られるダイナミックな構図などで人気を得た。また望月は、65年「適中突破」(『少年ブック』)67年「タイガー陸戦隊」(『少年キング』)など戦記漫画での資料を駆使する力量やメカニックの描写の精巧さをもって、読者を魅了していった。60年代後半は最も連載が多い時期だが、69年の「ワイルド7」は代表作となった。かつて犯罪を犯した者たちが警察組織の一部となり、「眼には眼を」にならって悪党たちに刑を実行していく。やがて権力抗争に巻き込まれ、非情な抗争劇が展開する。約10年に渡る連載中、72年テレビ版、2011映画版も製作されるなど長い人気をもつ作品であり、87年に「新ワイルド7」、1995(平成7)年に「続・新ワイルド7」を発表している。73年「ダンダラ新撰組」(『週刊少年ジャンプ』)で、第1回愛読賞を受賞。以降は女性誌や一般週刊誌にも活動をひろげ、73年「バラのイブ」(『女性セブン』)、81年「サムライ教師ボギー」(『週刊プレイボーイ』)などを連載、2000年代初頭まで活躍した。没後の2016年、第45回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。熱狂的なサッカーファンとしても知られた。

米坂ヒデノリ

没年月日:2016/04/01

読み:よねさかひでのり、 Yonesaka, Hidenori*  思索的な彫刻を制作し続けた米坂ヒデノリは4月1日、肺炎のため死去した。享年82。 1934(昭和9)年釧路市の母の実家で生まれる。本名英範。北海道立釧路江南高等学校在学中の48年第5回全道展に油彩画「追憶」で入選。翌年の第6回同展に油彩画「思惟の軌跡」で入選。52年江南高等学校を卒業して上京し、蕨研究所を経て阿佐ケ谷美術研究所に学ぶ。53年4月東京藝術大学彫刻科に入学。菊池一雄研究室で学ぶ。56年第11回全道展に「トルス」(彫刻)で入選、また第20回自由美術展に「箝」で初入選。57年3月東京藝術大学彫刻科を卒業。卒業制作は等身大の「裸婦立像」であった。同年、母の死去により釧路市に戻り、北海道在住の彫刻家床ヌプリから木を贈られて木彫を手がけるようになる。全道展に「トルソ」「臥」、第21回自由美術展に「立」を出品。58年第13回全道展に東京藝術大学卒業制作「裸婦立像」を出品して北海道知事賞を受賞して北海道の若手作家として注目される。翌年全道美術協会会員に推挙され、81年に退会するまで同展に出品を続ける。61年第25回自由美術展に「開拓者」「呼ぶ」「妻」を出品して同会会員に推挙される。両手を口に当て、上半身をやや前かがみにした立像「呼ぶ」は峠三吉の詩「人間をかえせ」に触発された作品で、現代社会への批判が込められている。71年第35回自由美術展に一枚の板の上に横たわる抽象化された人体像を表した「北の柩」を出品して自由美術賞受賞。77年釧路短期大学教授となる。同年北海道文化奨励賞受賞。82年第5回北海道現代美術展に「海の詩」を出品して北海道立近代美術館賞を受賞。同年9月釧路市民文化会館で個展を開催し、12月には北海道生活文化・スポーツ海外交流事業により1ヶ月半ほどイタリアに学ぶ。86年北海道立旭川美術館で個展を開催。87年北海道空知管内栗山町に芸術文化推進員として移住し、アトリエ兼美術館「忘筌庵」を開設。晩年は釧路市に戻った。88年栗山町開基100年記念モニュメント「呼ぶ」を設置。1990(平成2)年4月札幌芸術の森美術館にて「米坂ヒデノリ 漂泊する魂の軌跡」展を開催。2005年10月には釧路市立美術館で「art spirit くしろの造形4 米坂ヒデノリ」展が開催され、同展図録に詳細な年譜が掲載されている。同年北海道文化賞受賞。09年道功労賞を受賞し、同年釧路芸術館で「米坂ヒデノリ オーケストラ展」が、14年釧路市民文化会館で個展が開催された。生涯を通じて殉難者や先住者への鎮魂が造形の背景にあり、1970年代前半までの作品には思索的主題を込めた人物全身像が多く、70年代後半からは抽象的な形体への模索がうかがえる。80年代には複数の個体を組み合わせた作品も造られるようになった。初期から野外彫刻も制作し、東京の最高裁判所大ホール「神の国への道」、釧路市民文化会館前の「凍原」、オーケストラの大作「ミュージアム(頌韻)」などで知られる。文章もよくし、新聞等にも連載をしており、著書『彫刻とエッセイ集―間道を行け』(北海道新聞社、1982年)も刊行されている。

河原由雄

没年月日:2016/03/23

読み:かわはらよしお、 Kawahara, Yoshio*  美術史家・河原由雄は3月23日、急性大動脈解離のため死去した。享年80。 河原は1936(昭和11)年1月30日、京都市に生まれた。京都大学大学院文学研究科美学美術史学専修において修士論文「平安初期彫刻の作風展開―和様への成立過程―」を執筆・提出し、65年3月修士課程を修了。同年4月1日付で奈良国立博物館に文部技官として採用・着任。以来、75年4月1日付で学芸課資料室長に昇任、80年4月1日付で仏教美術資料センター資料管理研究室長に配置換え、82年4月6日付で同センター仏教美術研究室長、87年4月1日付で学芸課美術室長、1993(平成5)年4月1日付で学芸課長に昇任し、97年3月末に定年を迎える。同年4月より愛知県立大学教授に就任(2002年3月まで)。この間、特筆されるのは82年に創設された密教図像学会において、当初より常任委員にとして運営にあたり、以来、2000年まで編集委員として会誌『密教図像』の刊行に尽力するとともに、95年より同学会副会長(2000年まで)、01年より会長をつとめた(2003年まで)。専門は仏教絵画史、とくに浄土教絵画の研究を中心に行う。09年には『当麻曼荼羅の研究』をまとめ、京都大学において学位申請し、10年3月23日付で博士の学位を取得する。主な論文に「たけ高き女性―平安時代」(『国文学 解釈と鑑賞』367、1965年)、「〓州会本尊像」(『大和文化研究』93、1966年)、「敦煌浄土変相の成立と展開」(『仏教芸術』68、1968年)、「勧進の美術」(『日本美術工芸』381、1970年)、「新資料紹介 当麻曼荼羅」(『古美術』42、1973年)、「敦煌画地蔵図資料」(『仏教芸術』97、1974年)、「西域・中国の浄土教絵画」(『浄土教美術の展開 仏教美術研究上野記念財団助成研究会報告書第1冊』1974年)、「観経曼荼羅図」(『國華』1013、1978年)、「祐全と琳賢」(『南都仏教』43・44、1980年)、「当麻曼荼羅下縁部九品来迎図像の形成」(『密教図像』1、1982年)「変相図の源流」(『図説 日本の仏教 第3巻 浄土教』新潮社、1988年)、「浄土曼荼羅礼賛」(『日本美術工芸』642、1992年)、「肖像を奉祀する時代以前―栄山寺八角堂の追善堂的性格」(『大和文華』96、1996年)、「牙をなくした阿修羅」(『阿修羅を極める』小学館、2001年)、「招福の神と仏」(『仏教図像聚成 六角堂能満院仏画粉本』法藏館、2004年)などがある。単著に『浄土図(日本の美術272)』(至文堂、1989年)、共著に『日本の仏画 第二期』第二巻(学習研究社、1977年)、『粉河寺縁起 (日本絵巻大成5)』(中央公論社、1977年)、『当麻曼荼羅縁起・稚児観音縁起(日本絵巻大成 24)』(同、1979年)、『西山派寺院の寺宝調査―とくに證空系観経図の形成と発展に関する図像学的研究(報告書)』(奈良国立博物館、1980年)、『薬師寺 白鳳再建への道』(薬師寺、1986年)、『奈良県史』第15巻(名著出版、1986年)、『当麻寺(日本の古寺美術11)』(保育社、1988年)、『我が国における請来系文物の基礎的資料の集成とその研究―古代中世の仏教美術を中心にして(報告書)』(奈良国立博物館、1993年)、『法隆寺再現壁画』(朝日新聞社、1995年)、『帯解寺』(同寺、1998年)などがある。このほか監修に『大和の名刹 信貴山の秘宝信貴山縁起と毘沙門天像』(ニューカラー印刷、1998年)、『仏像の見方 見分け方―正しい仏像鑑賞入門』(主婦と生活社、2002年)がある。

白岡順

没年月日:2016/03/17

読み:しらおかじゅん、 Shiraoka, Jun*  写真家の白岡順は3月17日、肝細胞がんのため死去した。享年71。 1944(昭和19)年3月28日、愛媛県新居浜市に生まれる。67年信州大学文理学部自然科学科物理学専攻を卒業。同年より関東学院大学工学部で実験助手を務める。勤務のかたわら、東京綜合写真専門学校に学び、72年同校研究科を卒業した。 写真学校卒業を機に、勤めを辞め、シベリア鉄道経由でヨーロッパを放浪する旅に出る。73年アメリカに渡航。以後、ニューヨークを拠点に79年まで滞在する。同地ではコロンビア大学の語学プログラムで英語を学び、ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ、インターナショナル・センター・オブ・フォトグラフィー、スクール・オブ・ヴィジュアル・アーツなどで写真を学ぶ。リゼット・モデル、ネーサン・ライオンズ、フィリップ・ハルスマン、ジョージ・タイスらに師事。79年からはパリに拠点を移し、同地で写真家として活動する。2000(平成12)年帰国。01年に東京造形大学デザイン学科教授に就任、写真を教える(2009年に退任)。08年には新宿区市ヶ谷に、レンタル暗室・ワークショップ・ギャラリーの機能を持つ複合施設「カロタイプ」を開設し、後進の指導・育成にとりくんだ。 作家活動はニューヨーク時代から始まり、80年の初個展「野分のあと」(銀座ニコンサロン、東京)以後、ヨーロッパを中心に国内外で数多くの個展を開催。また89年の「ある芸術の発明」展(写真発明150周年記念、フランス国立近代美術館・パリ国立図書館共同開催、ポンピドゥー・センター、パリ)に出品するなど、グループ展にも多く参加した。 90年パリ写真月間参加企画として開催された「午後の終りの微風」(ギャラリー・ジャン=ピエール・ランベール、パリ)により、ヨーロッパ写真館グランプリを受賞。パリから帰国した2000年には、川崎市市民ミュージアムで個展「秋の日」が開催された。この際に同館で同時開催された「陰翳礼讃」展でもその作品が展示された。同展はフランス国立図書館の写真キュレーターを長く務め、早くから白岡の作品を評価したジャン・クロード=ルマニーの企画によるもので、谷崎潤一郎の同題の随筆に着想を得て、「陰翳」をテーマに企画されたこの写真展に選ばれたことにも現れているように、白岡の作品は暗く深みのあるモノクロプリントを特徴とする。ほぼ一貫して35mmフィルムによるモノクロ作品にとりくんだ白岡の仕事は、いわゆるスナップショットの方法で撮影されながら、独特の静謐さと密度をあわせ持つ作風で知られる。そのクオリティの高いプリントワークによって完成される作品世界の故か、白岡は写真集というかたちで仕事をまとめることがなかったが、一方でその作品は、国内外の主要美術館にコレクションされるなど、国際的に高い評価を受けた。

石原悦郎

没年月日:2016/02/27

読み:いしはらえつろう、 Ishihara, Etsuro*  ツァイト・フォト・サロン創設者の石原悦郎は2月27日、肝不全のため死去した。享年74。 1941(昭和16)年11月15日、東京市王子区(現、東京都北区)に生まれる。立教大学法学部卒業。研究生として大学に残り法律の勉強を続けるとともに、少年期より芸術への志向を持ち続け、68年頃にはギャルリー・ムカイに出入りするようになった。70年には同画廊、ついで自由が丘画廊で働きはじめる。71年に語学習得を目的にパリに留学。この時は短期で帰国するが、以後、渡欧を重ね画商としての経験を積む。のちミュンヘンにも語学留学。 70年代半ば、写真家で日本大学芸術学部教授の金丸重嶺らの示唆を得て、写真を専門とするギャラリーの設立を決意。パリに渡り写真家ロベール・ドアノーやアンリ・カルティエ=ブレッソン、写真プリント制作の第一人者ピエール・ガスマンらの知遇を得、作品を購入するなどして準備を進め、78年4月にツァイト・フォト・サロンを日本橋室町に開業した。 日本で初の、写真のオリジナル・プリントの展示・販売を専門とするギャラリーとして、ツァイト・フォトは海外作品の紹介とともに国内の写真家の展示にも力を入れた。植田正治、桑原甲子雄など戦前から活動歴のある作家の展示の他、同時代の一線で活動していた森山大道、荒木経惟、北井一夫らを作品の売買を通じて支え、また80年代以降は新進作家の発掘にもとりくむようになった。そうした写真家には、いずれも後に木村伊兵衛賞を受賞する柴田敏雄、畠山直哉、オノデラユキ、松江泰治、鷹野隆大らがいる。1990(平成2)年には夫人の石原和子をオーナーとするギャラリー「イル・テンポ」が高円寺に開設され、ツァイト・フォトと役割を分担しつつより幅広い写真家の紹介を展開する(イル・テンポは2004年閉廊)。2002年、京橋にギャラリーを移転、展示スペースが拡大したことを機に、写真に加え現代美術作家も手がけるようになった。14年ビルの建替えにともないギャラリーは京橋の別の場所に再移転、16年の石原の死去をうけ、追悼展を開催したのち同年末に展示活動を終了した。 日本において美術館など公的機関による写真作品の評価が確立しない状況下、石原は早くから写真美術館設立を構想し、82年には自身のコレクションで構成した「フォトグラフィ・ド・ラ・ベルエポック:花のパリの写真家たち 1842―1968」を神奈川県立近代美術館で開催した。ついで85年筑波科学博覧会の会期に合わせ、つくば写真美術館’85を開設し「パリ・ニューヨーク・東京」展を開催(採算が合わず会期終了後閉館)。写真史上の主要作を概観する450点で構成された意欲的な内容で、同館のキュレーターチームに参加した飯沢耕太郎、伊藤俊治、金子隆一、谷口雅、平木収、横江文憲はその後、研究者・評論家・学芸員等として日本の写真界を支えることとなった。89年には「オリエンタリズムの絵画と写真」(世界デザイン博覧会、ホワイト・ミュージアム、名古屋、のちひろしま美術館、滋賀県立近代美術館他に巡回)を企画する。仏文学者阿部良雄の助言を得つつ、石原所蔵の19世紀のヨーロッパ絵画や写真におけるオリエンタリズムの傾向を示す作品と、現代の日本の写真家が中東やアラブアフリカで撮影した新作から構成された展覧会で、西洋美術における異文化表象への批評的な視点を提示しただけでなく、石原のサポートにより現地の撮影に赴いた写真家たちの中には、その際の制作が作家活動の転機となるものが出るなど、ユニークな成果を残した。 90年代末以降、石原はたびたび中国に渡航、写真展の開催に協力するなど現地の写真・美術関係者と親交を深めていく。07年には上海美術館でツァイト・フォトのコレクションによる「Japan Caught by Camera」を開催、この機に約400点の写真作品を同館に寄贈した。また幼少期よりクラシック音楽に親しみ、第二次大戦前のSPレコードのコレクターでもあった石原は、06年には上海でレコードコンサート「1930 BERLIN」(ZEIT-FOTO上海事務所・heshan arts)を開催するなど、晩年まで多方面にわたり精力的な活動を展開した。 一連の活動による写真界への貢献に対し、03年日本写真協会賞文化振興賞を受賞。2000年代に入ると、石原自身が日本写真界に果たした役割への評価・検証が進められるようになり、「85/05―写真史:幻のつくば写真美術館からの20年」(せんだいメディアテーク、2005年)展が開催され、粟生田弓・小林杏編『1985/写真がアートになったとき』(青弓社、2014年)が出版された。評伝に粟生田弓『写真をアートにした男 石原悦郎とツァイト・フォト・サロン』(小学館、2016年)がある。

宮本忠長

没年月日:2016/02/25

読み:みやもとただなが、 Miyamoto, Tadanaga*  建築家の宮本忠長は2月25日、胆管腫瘍のため死去した。享年88。 1927(昭和2)年10月1日、長野県須坂市に生まれる。45年早稲田大学専門部建築学科に入学、48年同理工学部建築学科を卒業後、佐藤武夫建築事務所に入所。64年に宮本忠長建築設計事務所を設立し、信州を中心に数多くの建築を手がけた。 宮本の業績のうち最も知られているのは、やはり小布施の町並みにかかる一連の業績(1987年吉田五十八賞、91年毎日芸術賞)であろう。76年の北斎館の設計及び町並修景計画の策定に始まり、今日まで続く息の長い取り組みは、優れた個々の建築デザインのみならず、地域の人々との丁寧な対話、信頼関係に裏打ちされた総合的な作業である。その成果は、現在の魅力溢れる小布施の姿を見れば一目瞭然であろう。 その他にも、長野市立博物館(1981年、82年日本建築学会賞)、信州高遠美術館(1992年)、ケアポートみまき(1995年)、水野美術館(2002年)といった大屋根が印象的な作品を数多く設計しており、現代における和風表現の系譜に位置づけることができる。 小布施の他でも、その作品のほとんどが地域に根ざし、その風土を織り込んだ作風であることが宮本の特徴の一つであるが、同時にその影響力は地域に留まらず、いわば全国区の建築家として活躍したことも特筆すべきである。森鴎外記念館(1995年、島根県津和野町)、北九州市立松本清張記念館(1998年、2000年BCS賞)、キトラ古墳体験学習館(2016年、奈良県明日香村)などがその代表的なものと言えよう。 また、モダニズムの良き継承者としての側面もあり、例えば独立後初期の作品であるあづみ農協会館(1967年)には、当時の時代相を色濃く見ることができる。御代田町立御代田中学校(2011年)や、しなの鉄道中軽井沢駅くつかけテラス(2013年)などに見られる静謐なガラスのファサードと勾配屋根との組み合わせは、単なる和風表現に留まらない宮本の作風の奥深さを示す。そうした系統の集大成が、松本市美術館(2002年、03年建築業協会賞、03年BCS賞、04年日本芸術院賞)であろう。 一方で、THE FUJIYA GOHONJIN(2006年)、蛭川公民館(2008年)など、既存の歴史的建造物の改修、増築も手がけている。 2002年から08年にかけては日本建築士会連合会の会長をつとめ、我が国における建築家を巡る社会情勢が大きく揺らぐ中、建築家・建築士のあるべき職能、地位の向上等についても尽力した。 主な著書に、『住まいの十二か月』(彰国社、1992年)、『森の美術館』(共著、中央公論事業出版、2003年)などがある。

合田佐和子

没年月日:2016/02/19

読み:ごうださわこ、 Goda, Sawako*  美術家の合田佐和子は2月19日、心不全のため死去した。享年75。 1940(昭和15)年10月11日高知県高知市にて、父正夫、母善子の間に五人兄弟の長女として生まれる。戦争中は呉市に住むが、戦後高知市へ戻り、焼け跡でがらくたを拾いはじめる。私立土佐中学校・高等学校時代には手芸に親しみ、編みぐるみ人形などを制作、卒業後は武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)本科商業デザイン科に入学。在学中は学校になじめず、道端のガラスや金属片を集めてオブジェを制作するかたわら、宝石デザインやジュニア向け雑誌のカットを描くアルバイトなどに勤しんだ。同校卒業後の64年瀧口修造を訪問、作りためたオブジェを見せ、個展開催を勧められる。また同年11月には同郷の美術家・志賀健蔵と結婚する。65年6月初の個展を銀座・銀芳堂にて開催。針金や釘、ビーズなどによるオブジェを多数発表する。66年1月長女玉青誕生。6月志賀健蔵と離婚する。また同年には作品集『Fun with Junk』(N. Y. Crown社)を欧米にて刊行。67年4月銀座・ルミナ画廊にて個展開催、69年まで同画廊にて毎年展示を行う。作品は毎回大きな変化を見せ、布や紙粘土でつくられた蛇、模様の描かれた卵型、義眼をはめ込んだ手足、子供のトルソや頭部、さらには等身大の頭のない人体など、怪奇な様相を呈するオブジェを次々に発表する。この間、69年12月唐十郎主催の劇団・状況劇場の「少女都市」で小道具を担当、以後も宣伝美術や舞台美術をしばしば担当した。71年1月美術家・三木富雄と結婚。三木のロックフェラー財団によるアメリカ招聘に同行、8月までニューヨークに滞在する。その間、路上でたまたま銀板写真を拾い、また古雑誌や古写真などを収集、日本へ持ち帰る。帰国後、写真をそのままキャンバスに写せば三次元の人物を二次元に置き換えられると気づき、独学で油彩画を描きはじめる。72年3月村松画廊にて鉛筆画と油彩画による初めての個展を開催。以後も村松画廊(1974年)、西村画廊(75年)、渋谷パルコ館ノスタルジアハウス(1976年)、青画廊(1977、78年)などで個展を開く。はじめは見知らぬ人物の写った写真をもとに制作していたが、次第に映画俳優や女優のブロマイドなどを素材とし、グレーを基調に、光と影の強烈なコントラストで人物を描くようになる。この間、72年には状況劇場「鐵假面」のポスターを制作。同年3月三木富雄と離婚。12月次女信代が誕生する。74年5月第11回日本国際美術展(東京都美術館)に「女優(後に「寝台」と改称)」を招待出品。77年2月には寺山修司が主宰する演劇実験室・天上桟敷の「中国の不思議な役人」で舞台美術と宣伝美術を担当、以後も手がけた。この頃より油彩画制作に対する生理的苦痛を感じるようになり、次第にそれ以外の表現を試みるようになる。77年にはポラロイド写真を撮りはじめ、同年暮れには16ミリフィルム作品「ナイトクラビング」を制作。78年娘ふたりとともに訪れたエジプトに魅了され、以後も数度にわたり訪れる。81年4月初めてのポラロイド写真展をアートセンターevent-spaceで開催。83年12月オブジェや絵画、写真などを集めた総合的な回顧展「Pandra 合田佐和子展」(STUDIO PARCO Gallery View)を開催する。85年4月娘ふたりとともに永住を決意してエジプトへ渡り、アスワン近辺のジャバルタゴークに住む。エジプトでは大量の写真を撮影、接写レンズをとおして見ることで、「物には全て眼がある」との気づきを得る。86年4月に帰国した後は、眼などの対象をクローズアップで捉えた作品を制作、色調も明るくなり、まばゆいばかりの光が溢れる画面となる。88年7月エジプトで撮り溜めた写真による作品集『眼玉のハーレム』(PARCO出版)刊行。同年9月突如霊的なインスピレーションを受け、オートマティックなドローイングを多数制作するも、その反動から翌1989(平成元)年1月入院。92年1月には足で描いた「足の指のセンセーション」などを個展(GALLERY HOUSE MAYA)で発表する。同年6月次女信代との写真展をポラロイドギャラリーにて開催。94年3月それまでの作品を数百点規模で集めた回顧展「現代のアーティストシリーズVOL.4 合田佐和子展」(富山市民プラザ アートギャラリー)を開催する。2000年眼の網膜を病み、一時右目が見えなくなるが快復。この間には眼を閉じたままノートにペンを走らせるブラインド・デッサンをひたすらつづけた。01年2月森村泰昌との二人展を高知県立美術館にて開催。03年10月新作6点を含む総合的な回顧展「合田佐和子 影像―絵画・オブジェ・写真―」(渋谷区立松濤美術館)を開催する。10年3月ギャラリー椿にて個展開催、やっと思う世界を描き始めているという手ごたえを感じたという。13年6月みうらじろうギャラリーでの個展へ、「今、私は新しい世界の入り口に立っています」との文章を寄せ、明確なモチーフのない初めての作品「色えんぴつのラインダンス」などを発表した。

to page top