岩橋英遠

没年月日:1999/07/12
分野:, (日)
読み:いわはしえいえん

 日本画家で、東京芸術大学名誉教授・日本美術院常務理事の岩橋英遠は7月12日午前7時31分、肺炎のため神奈川県相模原市の病院で死去した。享年96。1903 (明治36)年1月12日、北海道空知郡江部乙村(現滝川市)の屯田兵の家に生まれる。本名英遠(ひでとお)。初め農業に従事しながら油絵を描くが、24(大正13)年上京し、山内多門に師事する。塾展の若葉会に毎回出品し、32 (昭和7)年多門没後は、青龍展や34年吉岡堅二福田豊四郎らの結成になる新日本画研究会に出品する。34年第21回院展に「新宿うら」が初入選、36年再び入選し、37年日本美術院院友となる。36年日本美術院も参加しておこなわれた改組帝展にも「店頭囀声」を出品している。38年新日本画研究会が新美術人協会として発展的解消をとげたのを機に同会を離れ、馬場和夫、船田玉樹らと歴程美術協会を結成、抽象的傾向を示して新たな日本画の可能性を模索した。一方37年安田靫彦を訪ねて以後しばしばその指導を受け、45年終戦後、正式に入門する。49年第34回院展で「砂丘」が奨励賞を受賞し、続いて50年第35回「明治」、51年第36回「眠」が連続して日本美術院賞を受賞、53年に同人に推挙された。また53年第38回院展に、それぞれ異なる石に雪と雨、月、水を配した四部作「庭石」を出品、機知的な着想で称賛を集め、翌年同作品により芸術選奨文部大臣賞を受賞する。59年第44回院展「蝕」は文部大臣賞を受賞、61年日本美術院評議員となった。この間、58年東京芸術大学講師、65年同助教授、68年教授となり、70年の退官まで後進の指導にあたる。一方、67年法隆寺金堂壁画再現模写事業に参加し、72年には前年の第56回院展出品作「鳴門」により日本芸術院賞を受賞した。79年には前年の「岩橋英遠展」(北海道立近代美術館)により毎日芸術賞を受賞、また78年日本美術院理事、81年日本芸術院会員となる。北海道の四季を描いた絵巻「道産子追憶之巻」(78年)や79年第64回院展「彩雲」、80年第65回院展「北の海(陽)(氷)」など、大自然に正面から取り組んだ雄大かつ神秘的な作風を展開した。86年に東京芸術大学名誉教授、89(平成元)年に文化功労者となり、94年に文化勲章を受章。回顧展は90年「岩橋英遠展J(Bunkamuraザ・ミュージアム)、93年「画業70年岩橋英遠」(日本橋三越)等が開催されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成12年版(259頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「岩橋英遠」『日本美術年鑑』平成12年版(259頁)
例)「岩橋英遠 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28156.html(閲覧日 2024-03-29)

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