法隆寺金堂落慶式
1954年11月二〇年の歳月と八億円の国費を費した法隆寺昭和大修理の完了を祝う金堂の落慶式が三日盛大に行われた。再建金堂の従前との相違点は、(一)裳階板ぶきの形式が横段ぶきとなる、(二)補強材をとり払われる、(三)軒を古い形式に復原、(四)高欄がつまり屋だるみが深くなる、(五)棟の瓦積が低くなり鬼瓦が小形となる、(六)妻飾が簡単となる等の諸点である。
二〇年の歳月と八億円の国費を費した法隆寺昭和大修理の完了を祝う金堂の落慶式が三日盛大に行われた。再建金堂の従前との相違点は、(一)裳階板ぶきの形式が横段ぶきとなる、(二)補強材をとり払われる、(三)軒を古い形式に復原、(四)高欄がつまり屋だるみが深くなる、(五)棟の瓦積が低くなり鬼瓦が小形となる、(六)妻飾が簡単となる等の諸点である。
東京都教育委員会では二九年度指定の都文化財一一件を決定、一一月三日附で指定した。
第八回を迎えた一九五四年度(昭和二九年度)毎日出版文化賞が一日発表された。美術書関係では西村貞著「民家の庭」(美術出版社)が選ばれた。授賞式は三日東京毎日新聞社で行われたが、西村貞には四日大阪本社で贈呈式を行つた(出版社に賞牌、著者に賞金五万円)。
東京国立博物館、朝日新聞社共催の「フランス美術展」は、ルーヴル博物館蔵品を中心に、フランス各地の美術館から集められた、中世から近代に至る油絵、素描、水彩、版画、彫刻、工芸品等、約三六〇余点を展示して行われた。東京に於ける会期は一〇月一五日から一一月二五日迄で、会場には国立博物館本館二階陳列室があてられた。会場設備、展示法は、すべてフランス側の意向によつた。従来の各陳列室の内部に、更に壁面をつくり、新な一室を構成、時代の雰囲気を出すことにつとめるなど、かつてない大規模な設備が行われた。フランス美術の古典が、これ程、纏つて紹介されたことも、今迄になく貴重な展覧会であつた。東京展に次で、福岡でも一二月一〇日から二九日迄開催され、いずれも非常な人気を呼び、正倉院展以来の入場者をみた。(尚、昭和三〇年一月には京都で開催、東京展以来の入場者総数は一四二万五〇〇名に及んだ。)
昭和二九年度、第一三回目の文化勲章受領者五名が決定し、二六日発表された。美術関係者では鏑木清方がこの栄誉をうけた。尚本年度から文化勲章受領者は文化功労年金(五〇万円)も授与されることになつた。授賞式は一一月三日文化の日に行われた。
二四年一〇月非公開で行われた法隆寺五重塔空洞下の秘宝舎利容器調査の結果が、金堂落慶式を前に二二日同寺本坊で佐伯管長立会のもとに発表された。この調査報告書は限定五〇〇部印刷され、また調査当時作られた秘宝のコピーも同時に初公開された。
藤原基衡夫人が建立したと伝えられる観自在王院は、奥州藤原氏の滅亡後び打捨てられていたがそれだけに藤原末期の様式をその侭遺していると考えられていた。この遺跡を東大藤島教授の手で発掘することとなり、一一日着手、舞鶴池跡を中心に約八〇〇〇坪の範囲を掘り、多くの成果をあげて三一日終了した。
大津市石山寺の重要文化財鐘楼の解体復元工事が昨春以来進められていたが漸く完成、落慶法要を行つた。
朝日新聞社の主催により一一日から二五日まで日本橋白木屋で開催。国宝、重要文化財を含む七〇余点の出品があつた。
大阪市立美術館では一日から一一月一四日まで中国古代の美術と題して、中国明器泥像展を開催し、全国から二〇一点が出陳された。
岩手県東磐井郡松川村の二五菩薩堂に、阿弥陀如来座像と歌舞奏楽する群像彫刻のあることが東北大学教授亀田孜により紹介された。相当破損がひどいが平安時代の阿弥陀二五菩薩来迎像と考えられ、一組の群像としては平泉文化圏初の発見である。
創立総会を兼ねた第一回国際造型芸術家会議が二八日から一週間ヴエニスで開かれた。我国からは日本美術家連盟が主体となつてこれに参加したが、費用の都合で、在パリの作家が出席した。代表団は、パリ滞在中の佐藤敬、関口俊吾、建畠覚造にオブザーバーとして柳原義達、向井良吉、更に日本から直接会場に向った清水多嘉示の六名であった。議題は美術品の関税撤廃、著作権の擁護、その他数多く、清水多嘉示は副議長として活躍した。
「武力紛争時に於ける文化財保護条約」案は一九五二年夏、パリで各国専門家により起草され、同年末、ユネスコ総会で成案を決定した。次で本年四月二一日から、オランダのヘーグで開かれた総会で審議の上採択され、協定案の署名式が行われた。我国からは岡本オランダ大使、神田京都国立博物館長、岡田文化財保護委員会事務局次長等が出席した。日本側提案の、名勝及天然記念物を保護の対象とする事、奈良、京都を文化財中心地として全面的な特別保護の対象に入れる事、の二項目は否決されたが、九月六日パリのユネスコ本部で、岡本オランダ大使によつて調印した。
清朝末期に、書、画、篆刻の第一人者であつた趙之謙の没後七〇年を記念して、四日から三〇日まで、東京国立博物館ではその遺作を特別陳列した。
今回は東南アジアを中心とした会議で、三〇日から四週間に亘り東京で開かれた。中国、印度、タイ、英、米、仏等一五ケ国代表が集り、美術教育方法、美術工芸の理解、工芸の発達等の諸問題について、各国の現状を報告、研究討議が行われた。会議での結論は、ユネスコを通じて、各国政府に勧告される。
加賀の藩主前田家に伝わる名品希宝が、前田育徳会と毎日新聞社の主催により、一七日から二二日まで日本橋三越に於て公開された。古代錦繍類数百種、工芸の標本である「百工比照」、名物の刀剣と装剣具、越中瀬戸の陶芸、古九谷焼等、前田家歴代の芸術に対する理解によつて保護育成された名工の作品や、振興された領内の工芸の全貌を物語るみごとな展観であつた。
一六日夜京都御所内の小御所が、花火大会の火のために焼失した。小御所は紫宸殿の東北にあって檜皮葺、寝殿造、安政二年に再建されたものである。戦時中長廊下を疎開したのが幸して、他の御殿への類焼は免れた。
鳳凰堂壁画の模写が一五日から平等院境内の私設模写室で開始され、二年間継続して行われる。監督指導には菊池契月があたり、担当の画家九人のうち半数は法隆寺壁画の模写に従つたベテランである。尚これと併行して建築装飾文様の模写が小場恒吉の指導で行われる。
故阿部房次郎の収集になる中国絵画一六〇点は、戦争中大阪市立美術館に寄贈されたが、今回朝日新聞社の主催により、一〇日から一五日まで日本橋三越に於て東京に於ける初公開を行い七八点を陳列した。
元東大講師多田等観が、チベット滞在一〇年間に蒐集した仏画、経典類を保存する蔵脩館が花巻市光徳寺境内に完成、五日から公開された。