矢代文化財保護委員渡欧
1956年05月文化財保護委員矢代幸雄は、中亜極東協会から招請され、日伊文化協定にもとずく初の文化使節として、三日出発した。日程の中には、美術講演、ヴェニス日本館開館への参列、来年開催予定の欧洲に於ける日本古美術展の折衝、及びルネッサンス展日本開催の下相談等が含まれている。
文化財保護委員矢代幸雄は、中亜極東協会から招請され、日伊文化協定にもとずく初の文化使節として、三日出発した。日程の中には、美術講演、ヴェニス日本館開館への参列、来年開催予定の欧洲に於ける日本古美術展の折衝、及びルネッサンス展日本開催の下相談等が含まれている。
慶長一四年(一六○九)池田氏の構築になる姫路城は、昭和一六年以来改修工事をつづけて来たが、今年度より天守に着手することとなり、三日朝起工式を行つた。白鷺城の名で親しまれてきた秀麗な姿も、解体修理のため約一○年間姿をかくすことになる。
奈良国立文化財研究所では飛鳥平城宮跡長期発掘計画の一環として、一日飛鳥寺跡の発掘を開始、同二六日終了した。今次の調査で塔の東西に金堂と同一規模の建物を配しているらしいことが判明し、興福寺に似た伽藍配置が推定されることとなつた。なお、我国最古のものとみられる白色大理石の石灯籠の台石が発掘された。
中部日本新聞社の主催により名古屋松坂屋に於て二九日から五月二三日まで、平安鎌倉国宝展が開かれた。特に彫刻に限つての出品ながら名品揃いであつた。
雪舟歿後四五○年を記念して、東京国立博物館では、二八日から五月二七日まで雪舟展を開催した。雪舟の代表作を網羅した上、彼の画作に影響を及ぼした中国の画人及び、彼のあとをついだ拙宗、周耕、雪村、牧松の作品も併せ出品され、雪舟研究の新しい資料と研究の成果がいろいろの形で表わされた。
イタリアフローレンスで二八日から五月一八日まで開かれる第二○回フローレンス国際手工芸展に、日本でも初めて参加し、各工芸作家作品、工芸試験所作品、及び市販のものが集めて送られた。
ブリヂストン・タイヤ社長石橋正二郎が、久留米市に新設した「石橋文化センター」の開園式及び久留米市への寄贈式が二六日行われたが、その一環として美術館が含まれ、開館の記念展として、東京で開催中の安井曽太郎展に関連し、所蔵品一二○点の展観があつた。
昨春バンドンで開かれたアジア諸国会議の決定にもとづき、各国にアジア連帯委員会が設けられたが、印度、ソ聯、中国等の招請により日本文化使節団の民間代表二○数名が、二四日羽田を出発した。一行は谷川徹三を団長とし、芸術を通じ相互理解と交流を推進することを目的とし、印度、エジプト、ソ聯、中国、ベトナム、北鮮の各国を訪問した。美術関係団員では、本郷新、福田豊四郎、加藤唐九郎、菊池一雄、渡辺義雄、今泉篤男がいる。
日本陶磁協会では、前年の宋磁に引続き、二四日から五月六日まで、高島屋に於て元明の陶磁展を開催し、元明の名品約三○○点が展観された。
館内の改装修理を終えた奈良国立博物館では、二○日から五月二〇日まで、浄土教美術の中心課題というべき来迎美術展を開催した。出品は絵画に限り、高野山の二五菩薩来迎図以下、来迎美術の代表的作品約一二○点を陳列した。
藤島武二の胸像が、門弟、友人等有志により、東京芸術大学内の正木記念館中庭に建立された。製作は新制作協会会員本郷新があたり、二○日関係者参列の下に盛な除幕式が行われた。
日本建築学会は、九日で創立七○周年を迎えたので、当日の記念式典を皮切りに、論文の懸賞募集、写真コンクール作品募集等秋までに各種の記念事業を行つた。
根津美術館では八日から五月六日まで、全国に散在する仁清の作品を集めて仁清名作展を開催した。
ユネスコ本部の諮問機関である国際記念物委員会に、日本から初めて建造物の関野克博士が派遣された。四月三日から七日までパリ、ユネスコ本部で開かれた委員会に出席し、各国専門家と遺跡、発掘物の保存、保護及び復旧について研究討議を重ねた。
文化財保護委員会では、第三次重要無形文化財の指定を行い、各個指定、芸能関係五件六名、工芸技術部門六件六名、総合指定工芸技術部門一件六名を三一日決定した。
昭和九年以来金堂講堂五重塔等二一棟の修理を行つた法隆寺国宝保存委員会は三一日解散、寺内にあつた保存工事事務所も閉鎖された。
文化財保護委員会では二九日、国宝第九回、紫式部日記絵詞、地獄草紙、法隆寺五重塔塑像等四四件、重要文化財第八回、一四九件の新指定を発表した。
二九日より七月一○日まで、スイス、ルガーノに開催される第四回国際版画展に、今年もまた参加し、木版畦地梅太郎、川西英、吉田政次、銅版浜田知明の四名が各四点の作品を出品した。
ニュヨークのソロモン・R・グッゲンハイム財団基金により、隔年毎に世界各国から最も優秀と認められる美術品に対し、賞金(一万弗)を贈る国際美術賞及び国内賞、大陸部賞が、国際造型芸術連盟により設定され、二四日日本美術家連盟に通達があつた。
日本と中国との文化交流を積極的に推進するため、片山哲、中島健蔵、大野幸一等が中心となり、それに各新聞社が協力して、日中文化交流協会が創立され、二三日創立総会が開かれた。発起人に美術関係では梅原竜三郎が名を連ねている。