畦地梅太郎

没年月日:1999/04/13
分野:, (版)
読み:あぜちうめたろう

 日本版画協会名誉会員の版画家畦地梅太郎は12日午前3時38分、肺炎のため町田市の多摩丘陵病院で死去した。享年96。1902 (明治35)年12月28日、愛媛県北宇和郡二名村金銅(ふたなむらかなどう、現在の北宇和郡三間町)に生まれる。18(大正7)年、村役場の給仕試験を受けるが不合格となり、村を出る決心をし、長兄を頼って大阪へ向かう。長兄は中国航路の船員をしており、梅太郎も2年あまり船員となった。その後、新聞配達、配送などの仕事をするが、その問、美術学校の生徒が写生をしているのを見かけ、画家に憧れ、日本美術学院の通信教育を受ける。その受講仲間で「七星会」を結成し、グループ展も開催。しかし、23年9月の関東大震災により帰郷を余儀なくされ、1年あまり宇和島で石版印刷や看板屋につとめる。25年、再度上京。七星会会員の山田辰造の紹介で内閣印刷局に勤務する。職場で手近にある鉛板を用いて版画を制作し、下宿の近くに居住していた平塚運一に作品を見せて激励される。また、同郷の知人の紹介でデッサンを学びに行っていた小林万吾にも版画制作を勧められる。27(昭和2)年第7回日本創作版画協会展に初入選。恩地孝四郎前川千帆らの仕事を手伝うようになり、同年、内閣印刷局を退職。初期には鉛板に細い線で都市風景を描いたプリミティフな作品を制作したが、これ以降木版画を制作するようになる。都市を主要なモティーフに、再現的な描写が行われている。しかし、36年『伊予風景』全10点を刊行するころから都市風景を離れ、自然な山河を描くようになる。そして、37年、草木屋軽井沢店で木活字本の仕事をすることとなり、浅間山を初めて見たのがきっかけとなり、畦地の生涯を貫くこととなった山をモティーフとする制作が始まる。自ら山に登り、山中を歩いて取材している。40年第15回国画会展で二度目の図画奨励賞受賞。43年、版画家旭正秀の紹介で、東北アジア文化振興会勤務のため満州へ渡り、翌年帰国。戦後一時四国の御荘に居住するが、46年に上京し、同年第1回日展に「伐木」を出品。日本版画協会展には9点を出品したほか、国画会展にも出品する。52年国画会展に畦地自身が初めての「山男」を描いた作品と語る「登攀の前」を出品。53の第2回サンパウロビエンナーレ、56年ルガーノ国際版画ビエンナーレ、57年スイスでの第2回国際木版画ビエンナーレに出品し、いずれも好評を得る。この頃から、人物像を簡略化し独自のデフォルメを加えた山男像で広く知られるようになる。50年代に美術界に吹き荒れた抽象の嵐の中、すでに山の版画で地位を築いていた畦地も、画面を単純な幾何学的形態と明快な色面で構成する抽象表現を試みる。しかし、50年代の国際展によって日本の美術界における版画の位置が急上昇するのに伴い、池田満寿夫の登場などこの世界での動きがめまぐるしくなるなかで、60年代前半に畦地は自らの制作に疑問を抱くようになり、画壇での地位を築き社会的にも広く知られて随筆、挿絵の仕事も増えたことも一因となって、66年の日本版画協会展、国画会展以降、公募展に出品しなくなる。67年から3年間続けて新作展を開催し、制作に専念するが、70年7月電気のこぎりで版木を切断中に右親指を負傷。その後1年あまり制作から離れる。72年2月東京京橋のギャラリープリントアートで個展を開催。73年『畦地梅太郎 人と作品』(南海放送)が刊行され、同年9月郷里の愛媛県立美術館で「とぼとぼ五十年展」が開催される。74年2月ストーブのヤカンを倒し全身に火傷を負う。この事故による精神的ショックからしばらく制作を離れる。自ら山歩きをできなくなったため、山男から家族へとモティーフを変え、85年に「石鎚山」「みどり、さわやか」まで制作を続ける。92(平成4)年、画業を回顧する大規模展が町田市立国際版画美術館で「山の詩人・畦地梅太郎展」と題して開催され、同年『畦地梅太郎全版画集』(南海放送、町田市立国際版画美術館)が刊行された。年譜、文献目録は同書に詳しい。また、2001年9月町田市立国際版画美術館で「生誕百年記念 畦地梅太郎展 山のよろこび」が開催されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成12年版(255頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「畦地梅太郎」『日本美術年鑑』平成12年版(255頁)
例)「畦地梅太郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28149.html(閲覧日 2024-04-26)

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